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2012年11月26日 (月)

境往来②

2012年11月9日

米子駅(JR境線)→弓ヶ浜駅・・・富益神社・・・富楽寺・・・旧道・・力士の墓①・・・力士の墓②・・・和田神社・・・雲泉寺(和田観音堂)・・・和田御崎神社・・雲龍寺・・・(境港市)・・米子空港迂回・・・中濱小学校跡・旧道・・・阿弥陀堂・才ノ木・・・日御碕神社・・龍泉寺・・・五輪塚跡・・・回国供養塔・・釜池川・・・小磯神社(乳母ケ池跡)・大同寺・・・境港総合技術高迂回・・才仏川・・・福定神社・・・地蔵の里・・・正福寺・・・上道神社・・・県道153号・・・瀬崎阿弥陀堂・・・境水道・・・境台場跡・・・水木しげるロード・・大港神社・・妖怪神社・・境港駅(境線)→米子空港駅

  【ル-ト地図】(16.7km)

 米子空港の所で境港市に入り境水道まで行く。「ゲゲゲ」一色の「水木しげるロード」を通り境港駅で今回の街道歩きを打ち上げた。

  *参考:『境港市観光ガイド

  写真をクリックすると拡大します。

Img_4832 境線で米子駅(ねずみ男駅)から弓ヶ浜駅(あずきあらい駅)へ

ねずみ男が出迎えてくれる。

Img_4838 電車もだ。

通学時間は過ぎていたが、思ったより乗客はいた。途中の駅から幼稚園児らが通園か遠足かで乗って来て満員状態となった。ねずみ男も満足だろう。

Img_4839 あずきあらい駅(弓ヶ浜駅)

Img_4844 富益神社(右) 《地図

真っ直ぐな道を行く。

和田町に入り右に旧道に入る。

Img_4850 力士の墓① 《地図

大坂相撲の大関で「和田の宝」そうだ。

Img_4852 住宅街の道を進む。

Img_4854 力士の墓②

Img_4856 和田神社

創建年代不詳、祭神は素盞鳴尊(スサノオのミコト)

Img_4860 芋代官碑(天保3年(1832)) 和田観音堂(雲泉寺?境内) 【ル-ト地図】の①

通称「いもづかさん」で、鳥取県内で一番古いもの芋代官碑。

Img_4864 和田地区の家並み

Img_4867 旧家

Img_4868 畑と民家の間の道を抜ける。

Img_4871 和田御崎神社 《地図

社殿裏の社叢「御崎の森」は今では森と呼べるほどではないようだが。

Img_4870 説明板

Img_4879 米子空港を右に迂回して行く。

それほどの遠回りにはならないが。ここから「ゲゲゲのふるさと」の境港市だ。
強い北風と雨で折り畳み傘が折れそうだ。

Img_4880 着陸機

どこから飛んで来たのか。今日はここから羽田空港へ帰るのだ。

Img_4883 中濱小学校跡 《地図

ここから再び旧道に入る。

Img_4888 阿弥陀堂(財ノ木町文化会館) 【ル-ト地図】の②

左に芋代官碑(境港市)

Img_4887 説明板

「境往来」・「外浜往来」の記載がある。

Img_4890ノ木

(さい)ノ神」、道祖神と同じだろう。

Img_4892日御碕神社 《地図

往古より小篠津、新屋、和田、富益四ヶ村の氏神。

雨脚が激しくなりここで雨宿りし、小降りになってから出発した。

Img_4901 五輪塚跡(左奥) 【ル-ト地図】の③

ここに大きな松があり、一里松(一里塚)跡だったようだ。

Img_4902 五輪塚碑

Img_4905 六十六部回国供養塔(文政5年(1822))

ここで行き倒れになった武州の回国行者の供養塔と伝え、このあたりを「ザット落」と呼ぶそうだ。

Img_4907 人家もなく寂しい昔ながらの道が少し続く。

Img_4920 小磯神社・大同寺 《地図

尼子と毛利の戦国秘話が伝わる。社殿(祠)の後ろが「乳母ケ池」跡、左が「若君の松」or「乳母の松」の五代目だろう。

Img_4913 戦国秘話①

読みづらい方は、『大同寺の五輪』で。話の内容は多少の異同はあるが。

Img_4914

Img_4915

Img_4922 境港総合技術高のグランドにぶつかり左に迂回する。

Img_4926 福定寺

このあたりは「曲松」という村名だったが安永9年(1780)に「福定」に改めた。

Img_4927 地蔵の里 《地図

古伝を基に再興されたという。説明板はあるのだが文字が消えかかっていて判読困難。様々の名前の地蔵が並ぶ中に、弘法大師像や千手観音像もある。

Img_4940_2 正福寺

榧(かや)の木は平成3年9月の台風で倒れ、(幹の一部は残る?)幼木も枯れ死した。

Img_4942 説明板

Img_4946 芭蕉句碑

市内唯一の芭蕉句碑。

Img_4944 説明板

Img_4951上道(あがりみち)神社 《地図

社殿の前の「おえびすさんの松」と呼ばれる大木を探したが見当たらない。この松も平成3年9月の台風で損傷し伐採されたしまったそうだ。

Img_4950 説明板

今は「おえびすさんの松」はない。書き換えるべきだろう。

Img_4957 境水道へと向かう。

Img_4961 瀬崎阿弥陀堂(左奥)・瀬崎稲荷神社・江崎八幡神社 《地図

Img_4963 説明板

Img_4966 境水道

海峡ではなく河川(斐伊川)だそうだ。向うは島根半島の美保関町。

Img_4974 境水道大橋(709m)

Img_4981境台場跡の境灯台 【ル-ト地図】の④

Img_4977 説明板

Img_4980 説明板

Img_4978海とくらしの史料館

古い酒蔵を改修した白壁の建物。

Img_4996 水木しげるロードに入る。《地図

Img_4997 何でもありのまさに妖しげで奇怪な通りだ。

Img_4998 水木しげる記念館前

鬼太郎もウロウロしている。

Img_5002 大港神社

Img_5000 説明板

Img_5006 ブロンズ像が歩道に並ぶ。

平日なのに観光客も多く商売繁盛。まさに鬼太郎さま、妖怪さまで神社に祀らねば。

Img_5015 妖怪神社 【ル-ト地図】の⑤

Img_5012体の目玉石

さすが「御体」とは書けないようだ。

Img_5011 説明板

Img_5017 豆腐小僧

Img_5023 境港駅(鬼太郎江駅)前で執筆中の水木しげる像

鬼太郎とねずみ男がちょっかいを出しているか。

Img_5024 旅の最後は猫娘電車で米子空港へ向かった。

これで5種類の妖怪列車の中、4種類に乗ったり、出会ったりしたが、なぜか鬼太郎電車には出会わなかった。

Img_5026 天井

Img_5027 座席も

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2012年11月20日 (火)

出雲街道⑫(溝口宿→米子城下)・境往来①

2012年11月7日

岸本駅(JR伯備線)・・・県道53号・・・日野川土手・・・金刀比羅大神宮・・道標・・・八幡神社・八幡の渡し跡・・・東千田神社・・十日市地区・・・古豊千地区・・・(国道9号)・・・(JR山陰本線)・・・山陰道合流地点・日野橋(日野川)・・・車尾地区・・深田氏庭園・・貴布禰神社・・梅翁寺・・鳥取藩御会所跡(車尾小学校)・祇園神社・・・車尾の道標・米川橋(米川)・・・刑場跡(住之江公園)・・・新土手(勝田の土手)跡・・・法城寺・・・勝田神社・・・了春寺・・博労町駅(境線)・・・枡形・一里塚跡・光西寺・米子城下・・旧加茂川・・・新出雲街道(新上方往来)合流地点あたり・・・愛宕橋(加茂川)・・・愛宕神社・・・やな井・桂住寺・・・総泉寺・・・祇園橋(加茂川)・・・米子城跡・・・湊山公園・清洞寺跡・・潮止め松・・・川口神社・・・後藤家・京橋(旧加茂川)・境往来起点・・寺町・・・糺坂・・鴨御祖神社・・(県道157号)・・・浜橋(米川)・常夜灯・旧道・・・井沢踏切(JR境線)・・・県道208号・・・夜見神社・・・迎接院・・・弓ヶ浜・・・弓ヶ浜駅(JR境線)

  【ル-ト地図】(29.7km)

 日野橋で山陰道と合流した出雲街道を米子城下まで行き、米子城跡の北の京橋から境港への境往来に入り、夕暮れ間近な弓ヶ浜を今日の終点とした。  

 参考:『鳥取県歴史の道調査報告書 第7集 境往来』

  写真をクリックすると拡大します。

Img_4364 日野川の土手を北上する。

Img_4369 大山方向

Img_4370 金刀比羅大神宮 《地図

川岸に木々に覆われてひっそりと鎮座。

Img_4375 社殿

Img_4376 境内から

Img_4372 道標(右)

金刀比羅大神宮前の土手から水浜の集落に下りる所。

Img_4373 道標(寛政元年(1789))

「右くけみち 左上方ミち 大山」

Img_4377 八幡神社・八幡橋

昔の「八幡(やわた)の渡し」跡あたり。渡し場の位置は一定していなかった。

Img_4380 八幡神社 《地図

「馬場の八幡さん」と親しまれている。「人形流し」は今でも行われているのだろうか?

Img_4379 説明板

日野川土手の道から下り、十日市地区、古豊千(こほうち)地区へと進む。

Img_4387 東千田神社

土手を背にしている社殿。神社名は地元のおじさんに聞いた名。

Img_4389 十日市地区

Img_4400 古豊千地区 《地図

一里松(一里塚跡)があったそうだ。『一里松の妖怪』(米子の民話散歩)

Img_4402 山陰線をくぐる。

Img_4404 山陰道合流地点 【ル-ト地図】の①

日野橋の東詰。北(淀江方向)から来た山陰道と合流し、橋を渡って米子城下へ向かう。

Img_4405 日野橋

歩道はついていないが、車は北側の新日野橋を通るので歩き安い。
これが3度目の最後の日野川の渡し。渡れば米子城下は近い。

Img_4407 日野川を渡る伯備線

Img_4415 日野橋親柱

Img_4416 説明板

Img_4420 車尾(くずも)地区に入る。

Img_4421深田家 《地図

始祖は近江源氏佐々木源三秀義七代の孫、佐々木三郎兵衛信輝で、隠岐へ配流される後醍醐天皇の行在所にもなったと伝える旧家。
「車尾」の地名由来は、後醍醐天皇が当家へ立ち寄られた時、「春の日の めくるもやすき尾車の うしとおもはて くらすこの里」と詠んだのを逆に綴って改名したと言われる。(庭園のパンフによる) ちょっとこじつけ過ぎと思うが。
戦国期の合戦記「老翁物語」では「くづもう」と記されているそうだ。

Img_4431 庭園

池中の右がひなを羽の下に抱いた女性的な鶴島、左が亀頭を直立させている男性的な亀島。当主のお話では左端の岩が景観の目障りになっていると言われる。後からここに置かれた岩ではないかとのこと。確かに池の正面から見ると亀島の大部分は隠れてしまう。

Img_4422 説明板

Img_4438 貴布禰神社

Img_4439 説明板

Img_4446 鳥取藩御会所跡(車尾小学校)

大庄屋以下の在方役人が交代で勤務し、西伯耆三郡の行政に当たっていた。

Img_4449 車尾の道標(米川橋手前右の民家の敷地内) 《地図

「米子入口 八丁」・「東  尾高 大山□□□道」・「南 天万 法勝寺□り□□道 二部」などと刻むそうだが、何せ民家内でゆっくり見る余裕はなく早々に引き上げる。

Img_4454 刑場跡(住之江公園) 《地図

右のフェンス内に新しい「合葬の碑」が建つ。
刑場跡』(米子の民話散歩)

Img_4459 新土手(勝田の土手)跡 【ル-ト地図】の②

日野川方向からの洪水防止土手で南北に山陰線の線路あたりから出雲街道まで延びていた。

Img_4458 説明板

Img_4461 この先は山陰線の線路

Img_4462「連理根上りの松」名残りの根(法城寺)

昭和40年代に松喰い虫にやられた。『根上り連理松』(米子の民話散歩)

Img_4469 「連理水」の井戸

今でも使える?

Img_4466_2 説明板

Img_4473 勝田(かんだ)神社

米子城築城の際に北東の鬼門守護として勧請された。

Img_4474 説明板

Img_4478 了春寺

米子城代の鳥取藩家老の荒尾家の菩提寺。

Img_4477 説明板

Img_4479 博労町駅(愛称はコロポックル駅)に入るJR境線

妖怪電車の「目玉おやじ列車」だ。ほかに「鬼太郎」・「ねずみ男」・「ねこ娘」列車があり、「鬼太郎ファミリー列車」(後掲)も最近お目見えした。

Img_4483 枡形・一里塚(松)跡 《地図

この地は米子城下の出入口で、牛馬を扱う博労たちが居住していた。

博労町→糀町→道笑町→日野町→茶屋町→塩町→大工町→愛宕町へと南西方向に進む。

Img_4485 火事か?

Img_4486 旧家

Img_4487 旧家

Img_4490 博労町1交差点の旧家(名島本店?)

Img_4496 旧加茂川(米子城の外堀)を渡る。

正面は地蔵の小祠

Img_4499 「糀」(こうじ)の景山屋

ここは糀町で制札場があった。糀、綿、荒物、履き物、菓子、肥料、染物など多くの店があり、荷物船も糀町までは(旧)加茂川を遡って来たそうだ。

Img_4501 新上方往来(新出雲街道)合流地点 《地図

このあたりで左から来る、三部~天万経由の新出雲街道と合流するようだ。

Img_4502第二次米子映画事変」会場

「事変」には満州事変など暗いイメージしか浮かばないが。

「国際まんがサミット鳥取大会」も開催中だった。

Img_4506 愛宕橋(加茂川)を渡る。

Img_4509_2 愛宕神社 《地図

鳥居右の標柱に出雲街道の説明文。

Img_4510_2 旧出雲街道の説明

Img_4511 桂住寺

右の石垣下に「やな井」

Img_4513やな井」(民話)と「やな井戸地蔵」

往来の人々ののどを潤した水だが今は使用不可。

Img_4518 総泉寺

出雲国との境も近く、出雲からの敵襲に備えた砦の役目を持つ寺だった。民話「総泉寺のねずみ

Img_4519 説明板

ここを出雲街道歩きの打ち止めとし、米子城跡から境往来の起点の京橋へと向かう。

Img_4524 枡形 《地図

二の丸への上り口で、門があった。

Img_4526 長屋門(移築)

城代荒尾氏の家臣の武家屋敷の門でここへ移築された。

Img_4528 説明板

Img_4529 御用井戸

米子にも「お菊さん」の登場する「皿屋敷」話がある。

姫路城の「お菊井戸」・落語『皿屋敷

Img_4531番所跡→鉄御門跡→本丸跡へと上る。

Img_4550 説明板

Img_4543 米子城本丸跡から(標高90mの湊山山頂)

中海方向、左は島根半島で右は米子港

Img_4545 米子港方向

Img_4541 米子市街・大山方向

Img_4552 内膳丸(ないぜんまる)へ

中村一忠の家老横田内膳正村詮が構築。二重櫓数棟と武器庫が設置された。

Img_4559 湊山公園から中海

Img_4567 清洞寺跡

昔は中海に浮かぶ亀島と呼ばれる小島だったが、今は埋め立てられ、大きな松と岩が残る。
地蔵信仰の「札打ち供養打止め」の地でもありお札がぎっしり。

Img_4566 説明板

Img_4573 潮止め松 《地図

豪雪で折れたがまだしっかりと生きている。

Img_4570 説明板

Img_4572 二世がすくすくか?

こちらは「打止め」・「潮止め」とはいかず、川口神社の前を通り、境往来の起点の京橋へ向かう。

Img_4576 後藤家(京橋の手前)

回船問屋だった。

Img_4579 説明板

Img_4585 判屋船越家

水運による商いを掌握していた町家。

Img_4587 京橋(旧加茂川) 【ル-ト地図】の③

「境往来」と標識が指す。

境往来に入る前に京橋・天神橋・寺町界隈を散策する。参考:『境往来』(周辺案内図もある)

Img_4590 本教寺

Img_4595 路地を抜けると東西に伸びる寺町の通りに出る。

Img_4594 寺町

通りの北側に9つの寺が並ぶ。ここも米子城築城の際、防衛のために伯耆各地から寺が集められた。

Img_4596 岡本一銭屋

一銭硬貨の看板は昭和25年に米子で博覧が開かれた時に造られた。
売っている菓子、玩具などは懐かしさを感じるほど古い物ではない。こちらが古過ぎるのか。

Img_4598 つなぎ地蔵

何をつないでいるのか? あちこちで地蔵さんに出会う。この地域は地蔵巡りのスポットにもなっているようだ。

Img_4604 白壁土蔵

ここから「加茂川・中海遊覧船」が出ている。

Img_4614 坂口家

隣のレトロなビルも坂口合名会社

Img_4626 川守地蔵

ちょうど旧加茂川が直角に曲がる所にあり「曲がりの地蔵」とも。

Img_4628 由来

Img_4633 猫がたむろしている。「猫地蔵」はなかったが。

Img_4636 咲い(わらい)地蔵

Img_4637 説明板

Img_4640 昭和を感じさせる家並み

Img_4642 出現地蔵

Img_4644 由来

ちょっと胡散臭い話だが、まあいいか。

Img_4645 持田金物店

Img_4646 枡形のような変則交差点

左に入れば笑い通り商店街

Img_4647 「第一モテル館」

ここで理髪すれば男前が上がり「もてる」か?

Img_4650 笑い通り商店街

笑えるような状態ではないようだが。

ここから境往来に戻る。

Img_4781 米子から境港に向かう境往来は①美保湾沿いの外浜往来と、②中海沿いの内浜往来があった。①の道筋をたどる。

右は寺町の西端の万福寺

Img_4787 糺坂(ただすざか) 【ル-ト地図】の④

鴨御祖神社(神社)の前を上り下りする坂で、今は坂と呼べるような起伏はないが、昔は民話にもあるように交通の難所の一つだったのだろう。
民話『糺坂の怪』の妖怪は「ゲゲゲの鬼太郎」の祖先だったか。いや妖怪に先祖も子孫もないか。

Img_4785鴨御祖(かもみおや)神社

「ただすさん」で親しまれている。

Img_4790 浜橋(米川)

ここは米川土手を通り、車尾から日野方面に通じる道の分岐点で交通の要衝であった。
ここから橋の右の常夜灯前の細い旧道に入る。分かりづらい地点だ。

Img_4793 植込みの手前の道に入る。

左に常夜灯(安政2年(1855))

Img_4795 住宅街を抜けて行く旧道 《地図

Img_4796車が少ないのはありがたいが、見所もない。

Img_4799 井沢踏切で境線を渡る。

右の大石は何か?

Img_4803 「鬼太郎ファミリー列車」が通る。

妖怪列車の新車輛で、「鬼太郎」・「ねずみ男」・「ねこ娘」・「目玉おやじ」・「こなきじじい」・「一反木綿」・「ぬりかべ」・「砂かけばばあ」・「やまび­こ」の人気キャラ9種類が描かれているそうだ。

Img_4812 夜見神社 《地図

Img_4813 芋代官碑(迎接院境内)

「芋侍」・「芋姉ちゃん」の蔑称と違い、山陰地方へ薩摩芋の恩恵をもたらした石見国大森銀山領の代官井戸平左衛門の遺徳を讃えた敬称だ。天保期の飢饉を契機として弓ヶ浜半島の村々では「芋代官碑」の建碑が相次いだという。

Img_4814 説明板

境往来から離れ北へ『出雲国風土記』の「国引き神話」に登場する弓ヶ浜へ向かう。

Img_4822 弓ヶ浜(国を引っ張った綱) 【ル-ト地図】の⑤

大山(国を引っ張った綱をつないだ杭)方向だが霞んでいる。

Img_4827 島根半島の美保関方向

北陸地方の高志(こし)の国から引っ張ってきた国の三穂の埼。

Img_4831 弓ヶ浜駅(あずきあらい駅・JR境線)

おもちゃ箱のような駅舎で、電車待ちは学生ばかり。

Img_4840 あずきあらい駅(愛称)

確かに小豆洗い婆でも出そうな寂しい駅だ。

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2012年11月16日 (金)

出雲街道⑪(根雨宿→溝口宿)

2012年11月6日

根雨駅(JR伯備線)・・・延暦寺・・・根雨道踏切(伯備線)・・船場橋(日野川)・・県道35号・・・間地トンネル手前・旧道・・・出雲街道碑①・・・間地峠(482m)・出茶屋旧跡碑・峠の地蔵・・・出雲街道碑②・県道35号・(伯耆町)・・宮華橋(間地川)・道標・・旧道・二部宿・・二部神社・・足羽家屋敷跡・・本陣跡足羽家・・傳燈寺・・県道46号・・・福島橋(野上川)・・福島地区・・野上荘神社・・三部地区・・地蔵道標・・長龍寺・・三部神社・・・県道46号・・・父原橋(野上川)・・・古市地区・・厳島神社・・・岩崎橋(野上川)・・県道46号・・・鬼守橋(日野川)・・・溝口宿・・溝口神社・・(伯耆溝口駅)・・・大山道分岐地点・道標・・国道181号・・・岸本駅(伯備線)

 根雨宿から日野川を渡り、出雲街道で最後の峠の間地峠を越え二部宿に下り、野上川沿いを北上し、日野川を渡り返し溝口宿に入る。
 さらに国道を北上し岸本駅まで行った。いよいよ明日は日野橋の手前で山陰道と合流し、車尾地区から米子城下へ入る。4年がかりの出雲街道歩きの終点が近づいた。

  【ル-ト地図】(22.4km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_4188 船場橋(日野川) 《地図

街道は根雨宿北端の二軒茶屋から「船場の渡し」で日野川を渡った。
今では右岸の船着場跡は、国道と伯備線を造成した盛り土の下になって何の痕跡も残っていない。一里松のあった三谷字一里塚もこの土の下になったようだ。

街道はここから3度、日野川を渡って行く。二部宿の先の三部から北西に進み、難所の日野川を渡らない新出雲街道(新上方往来)も開かれた。

Img_4190 説明板

Img_4192 間地峠(まぢだわ)への上りとなる。

Img_4202 間地トンネルの手前で右に旧道に入る。《地図

ここは標高371m

Img_4199 説明板

Img_4206 出雲街道碑①(左)

ここで左に山道に入り上る。事前に『奥日野ガイド倶楽部』さんからこの道筋を聞いていたので、すんなりとここまで来たが、この手前にも左に入る道があり知らないと間違えるかも。

Img_4207 道は熊笹などに覆われ、雨露で濡れている。

Img_4209 山道らしくなって峠へ

Img_4210 間地峠(482m) 【ル-ト地図】の①

「間地峠出茶屋旧跡」碑(左)と、すぐ先に峠の地蔵が立つ。
村人と茶屋のもめ事が前掲の説明板に記載されている。
思えば姫路から追分峠・相坂峠・万能峠・万の乢(旧万能峠)・杉坂峠・鶴坂峠・目木乢・杉が乢・首切峠・嵐ケ乢・四十曲峠・間地峠と越えて来た。これがマジで最後の峠だ。

Img_4213峠の地蔵

南無延命地蔵菩薩と刻む。

Img_4217 隠岐島方向の標識が立っているが、海は霞んでいる。

このあたりに清水場があったようだ。

Img_4218 倒木が道を塞ぐ。

Img_4222 間地トンネルの反対側(北側)の県道に出る。

Img_4225 出雲街道碑②の所へ出る。旧道はここから右に上っている。(振り返って見ている) 《地図

ここは標高400mほど。間地峠植松の一里塚跡はこのあたりか?

Img_4227 二部宿へ長い下りとなる。

Img_4231 宮華橋(間地川)

二部宿の南端で橋を渡った民家の向い側に、道標と地蔵の小祠がある。

Img_4235 道標(嘉永2年(1849)に大坂の近江屋市次郎が造立)

「右 米子 左 黒坂」・「右びんご 左大さか道」で、米子と大さか道が出雲街道の道筋。

Img_4239 二部宿へ入る。

右は二部神社

Img_4242 二部神社

社殿を改修し昨年11月に遷宮した。

Img_4245 旧家

Img_4246 二部宿の家並み 【ル-ト地図】の②

日野郡の交通の要衝で、制札場、目安箱が置かれ、安政5年(1858)には口日野郡役所が設置された。

Img_4250 鉧(けら)

二部公民館前に展示。

Img_4249 説明板

Img_4254 本陣跡足羽家

家伝によれば永禄年間(1558~69)足羽将監重成が縁故をたどって二部に来て、要害山に砦(二部城跡)を構えて二部足羽家の初代となったという。

Img_4258 傳燈寺 《地図

伯耆三十三観音霊場の第8番札所。

この先で見所などを記載した行程表を落としたのに気がつき、今来た道を何度か往復し探すが見つからず。不審者と思われ住民が通報したのかパトカーがやって来た。職務質問を受けるかと覚悟したが、ゆっくりとすれ違って行った。ちょっと肩透かしの感じだ。歩いていると空き巣ねらい、栗(柿・梅)泥棒、誘拐犯などに間違われることもある。そんなことでめげていたら街道歩きは続かない。

Img_4264 根雨宿を抜けて県道46号に出る。

二部一里塚はどのあたりにあったのか?

Img_4268 福島橋(野上川)を渡って福島地区から福吉、三部地区へと進む。

Img_4271 福島地区

Img_4278 家並みを抜けて行く旧道

Img_4280 正面奥にうっすらと見えるのは(伯耆)大山(1729m)。

Img_4284 野上荘神社

祭神は「鳥取県神社誌」では、天照大神のほか20神で、「溝口町誌」では天照大神、誉田別尊、合祭神として素盞鳴尊ほか11神だそうだ。

Img_4289 地蔵などが並ぶのどかな道を行く。

Img_4291 金毘羅石灯籠

Img_4296 地蔵道標(長龍寺前)

振り返って見ている。正面の細い道が今来た道。

Img_4294 道標地蔵(天明6年(1786))

「左上がた道にぶへ十丁 右外構ふじや谷より法正寺

「上がた道」が出雲街道のこと。「法正寺道」は脇街道の「法勝寺往来」のことだろう。

Img_4295 長龍寺

Img_4297 三部神社(左)

Img_4300 絶壁のような石段を上る。

Img_4302 三部神社

祭神は日稚産霊尊・大山祇命・天穂日命のようだ。

Img_4307 新出雲街道(新上方往来)の分岐地点(県道46号に出る手前) 《地図

北西方向に池野→鶴田→宮前→天万→日原→宗像→長砂→米子城下へ通じていて距離的にも短い。
松江藩では自藩の負担でこの道筋を利用していたが、文久2年(1862)7月に、幕府の許可を得て参勤交代路の変更と天万新駅を決定した。これにより溝口宿は廃され、新たに天万に本陣と七里飛脚の継場が移された。本陣は奥脇家が勤めた。

県道に出て進み、右に父原橋(野上川)を渡り、古市地区に入る。

Img_4316 古市地区を行く。 《地図

Img_4324 家並みを抜けて坂を下る。

Img_4329 坂下に道標

Img_4328 道標

「右 古市 左 庄??」

ここから道を間違え東の方へ進んでしまった。北風に乗って冷たい雨が降り出し、道路沿いに設置されている周辺の案内図と手持ちの地図を見ても方向が分からず、頭の悪さ、固さ、鈍さを思い知らされた。なんとか楽楽福(ささふく)神社へ通じる楽楽福橋(日野川)近くまで行って引き返し県道46号に戻った。(旧道は県道46号と日野川の間の道なのだが)
どうせなら楽楽福神社へ寄ればよかったのだが、余裕なしで後の祭り。(【ル-ト地図】には間違えた道筋は記載していない)

Img_4334 鬼守(きもり)橋から日野川 【ル-ト地図】の③

右上は「おにっこランド」の鬼像。伯耆町は「鬼伝説の町」で、伯耆溝口駅の東方には鬼住山(きずみやま・329m)がある。

街道は溝口の渡し(日野川の2度目の渡し)で溝口宿に入っていた。

Img_4338 石灯籠などの石造物の所で左にカーブして溝口宿に入る。

Img_4341 溝口宿の家並み 【ル-ト地図】の④

七里飛脚の継場があり、本陣は篠原家が勤めた。
斜交いに家が建てられているのは他の街道沿いの宿場にも多く見られる。

Img_4343 旧家

Img_4344 溝口神社

「溝口荘 国司大明神」の扁額が架かっている。

Img_4349 家並み

Img_4350 伯耆溝口駅

Img_4352 旧家

Img_4361 旧家

Img_4357 大山(だいせん)道分岐地点・道標 【ル-ト地図】の⑤

右が大山道(県道45号)

Img_4356 「右大山道」

大山道というと関東人は相州大山(おおやま)への大山道(大山街道)を思い出してしまう。
ここを直進し国道181号に出て岸本駅に向かった。

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2012年11月11日 (日)

出雲街道⑩(新庄宿→根雨宿)

2012年11月5日

中国勝山駅(JR姫新線)真庭市コミュニティバス(40分)→新庄村役場・国道181号・・・大歳神社・・・大熊橋(戸島川)・・・力士塚・・・地神塔・・・後鳥羽上皇旧跡碑・・五人塚・・・杉並木・・・一里塚跡・後鳥羽公園・・・嵐ケ乢(730m)・・・二つ橋地区・・茶屋集落・・二つ橋(二つ橋川)・・六体地蔵・・里程標・・辻の地蔵・・・四十曲峠手前・・・四十曲トンネル・・(鳥取県)・国道181号・・・板井原橋(板井原川)・・・板井原トンネル・・・旧道・・板井原宿・・・国道181号・板井原小学校跡・・・金持景藤の墓・・・金持上橋(板井原川)・・・金持下橋・・・神明橋・・・金持神社・・・高尾交差点・・・旧道(根雨上橋手前)・・根雨宿・・大日如来塔・・鳥獣供養塔・地蔵群・・弘法大師像・・近藤家・・祇園橋・・根雨神社・・本陣門・・歴史民俗資料館・・本陣跡・・川舟の碑・・権現神社(跡)・・根雨駅(JR伯備線)

  【ル-ト地図(1)】・【ル-ト地図(2)

 2年半ぶりに出雲街道の続きを、美作国から伯耆国に入り山陰道と合流して米子城下まで歩き、米子城跡の北の京橋を起点とする境往来を「ゲゲゲのふる里」の境港まで行く。

 出雲街道⑨(勝山宿→新庄宿)』からの続きです。

 写真をクリックすると拡大します。

Img_4109 新庄村役場

新庄村は岡山県の北西部で、鳥取県と境を接する。2012年3月31日現在の世帯数は387、人口は1008人で、そのうち65才以上が400人で過疎化と高齢化が進んでいる。

標高500m以上はあるか。小雨が降っていて寒い。

Img_4115 大歳神社 【ル-ト地図(1)】の①

道中の恙(つつが)なきを祈っていざ出発だ。

Img_4116 説明板①

Img_4117 説明板②

Img_4113 戸島川左岸に沿って戸島地区を進む。

Img_4122 力士塚(右)

Img_4124 説明板

Img_4123 稲妻雷五郎の門人の滝ノ音庄右衛門の塚

庄右衛門は新庄宿に泊まった時、宿代を軒先の2枚目の瓦の下に入れて出て行ったという逸話がある。

Img_4125 地神塔・題目塔(安政2年(1855))

Img_4126 説明板

Img_4128後鳥羽上皇旧跡中山道」標柱(右)

ここから右に野呂川沿いを進むのだが、少し左に行くと五人塚がある。

Img_4132 五人塚 【ル-ト地図(1)】の②

Img_4130 説明板

Img_4135 杉並木に入る。

Img_4136 一里塚跡・後鳥羽公園

【ル-ト地図(1)】の③

Img_4137 説明板

Img_4138 説明板

後醍醐天皇の御水池もあるようだが足元が悪いので探さなかった。

Img_4140硯岩

後鳥羽上皇が歌を詠む時に、硯代わりにした岩ということか。
雨に濡れた草の道で、ここからの遠望のみ。

Img_4145 後鳥羽上皇旧跡

この古道の奥で休憩し歌を詠んだという。
「みやこ人 たれふみそめてかよひけん むかひの道のなつかしきかな」

Img_4146 説明板

Img_4150 しだれ栗(岡山県指定天然記念物)

もとは後鳥羽上皇が箸に使った栗の枝から芽生えたという伝承。弘法大師の伝承によくある話だ。

Img_4151 説明板

Img_4157 嵐ケ乢(あらせがたわ) 【ル-ト地図(1)】の④

上りは八丁(約900m)、下りは七丁で、参勤交代の行列、大名・公家の姫の嫁入り道中籠、出雲大社、伊勢参りの庶民もこの峠を越えて行った。津山藩主も領地検分でここまで上って来たという。ここは標高730mで、旧道はこの少し上方右側を通っていたようだ。

Img_4156 峠の地蔵(文政4年(1821))

「説明板はあるが姿は見えず。ほんにあなたは・・・のような」。
ずぶ濡れを覚悟で雑草をかき分ければ見つかるかも。

Img_4161 二つ橋地区へ下って行く。

Img_4163 ここを左折して茶屋集落へ。

Img_4166 二つ橋地区の茶屋集落

嵐ケ乢と四十曲峠の間で、吹雪の時など旅人のための休憩所として津山藩森家によって茶屋が設けられた。宿泊所にもなったという。元禄2年(1689)の戸数は5軒だった。

堂の右側に六体地蔵(六地蔵)がある。

Img_4164 説明板

Img_4169 六体地蔵 【ル-ト地図(1)】の⑤

左端は三界万霊塔(宝暦5年(1755))

Img_4171 里程標

「元標十五里」で津山からの距離標示で、明治初年に建てられたもの。

Img_4175 辻の地蔵・四十曲峠説明板

Img_4173 説明板

峠まで「1000メートルほど・・・」とあるが。

この先、500mほどで山道となる所で柵がしてあり行止りとなる。仕方なく四十曲トンネルを抜けた鳥取県側へ出る。道を間違えたとも思えないのだが。→(追記)田中様からコメント(下記)をいただきました。道を間違えた可能性が大のようです。残念で、再挑戦!と言いたいところですが、何せ東京からここまでのアプローチが大変です。機会があればということにします。

Img_4659 四十曲トンネルの鳥取県側 【ル-ト地図(2)】の①

街道はここから左に峠へ上っているのだが、草木に覆われ道跡は失われている。以前はここに四十曲峠の説明板があったのだが。

Img_4661 少し上ってみたが・・・。乢根の地蔵も草叢に埋もれているのだろう。

Img_4660 これ以上先へは無理だ。

Img_4665 板井原宿へ国道181号を下る。

Img_4667 板井原橋

下を旧道が通っているらしいが下り口が分からなかった。

Img_4669 旧道か

どうせ草深く雨で歩きにくいだろうと言い聞かせる。

Img_4677 だいぶ下って来た。

Img_4681 左に板井原宿に入る。 【ル-ト地図(2)】の②

Img_4683 板井原の家並み

Img_4687 屋敷廻橋を渡る。

今はかなり名前負けしている橋だ。

Img_4691 旧家

特定郵便局、それ以前は宿業務を扱っていた家か。板井原は古くからの宿駅で、松江藩主の参勤交代の宿泊休憩所の御茶屋(桂藤家→吉岡家)が置かれ、木戸番所、制札場もあった。

板井原集落を抜けて国道に出る。

Img_4692 板井原小学校跡(国道に出た所)

こんな所に小学校があったとは。今は子どもの姿はまったくない。大人も見かけないが。一番近い根雨駅近くの根雨小学校まではここから8kmぐらいはある。

Img_4695 金持景藤(かもちかげふじ)の墓

出雲街道沿いのあちこちで出会った児島高徳と同じ、南朝方の忠臣。

Img_4697 鎧を埋めた宝篋印塔

Img_4698 碑文

神明橋を渡って金持神社へ。

Img_4727 金持(かもち)神社参道 【ル-ト地図(2)】の③

Img_4725 チャンチンの銘木(右) 

Img_4723 銘木の樹皮の間、狛犬の頭にも小銭がぎっしり。

他者の迷惑顧みず。自分さえ金持ちになればそれで良しか。
境内は思ったほど広くなく、社殿も小さい。金持ちグッズの売店もないが(参道入口にはあるが)、インターネットでの販売で儲けているようだ。金持ちになるのは金持ち祈願の参拝者ではなく、神社自身なのはどこの寺社でも同じことだが。

Img_4710 説明板

Img_4728 高尾(こお)交差点

明地峠越えの「備中道」(左・国道180号)との分岐地点で、「右備中道 左上方道」の道標(寛政5年(1793))があったそうだ。上方道が今来た出雲街道のこと。

Img_4730 根雨上橋の手前で右へ根雨宿へと進む。

Img_4733 鳥獣供養塔・題目塔・地蔵群

Img_4737 根雨(ねう)の家並み

Img_4738 弘法大師像

Img_4742 近藤家(江戸後期の建物)

江戸期に備後から根雨に移住し、たたら製鉄で財をなした大庄屋家。

Img_4750 日野往来に入って根雨神社に寄る。

Img_4751 祇園橋(昭和8年)

このあたりは平氏追討計画が発覚しこの地に流された、長谷部信連が京の文化を模して造ったと伝える。

Img_4753 根雨神社 【ル-ト地図(2)】の④

通称「祇園さん」

Img_4746 根雨宿本陣門 【ル-ト地図(2)】の⑤

150mほど北方の本陣梅林家跡から移築。

Img_4749日野町歴史民俗資料館

昭和15年建築の旧根雨公会堂

Img_4748 説明板

Img_4756 山陰合銀

昭和4年雲陽実業銀行として建築。今も現役の銀行で営業中。

Img_4760 旧家(富士印刷)

Img_4763 旧家

Img_4764 本陣梅林家跡(右)

Img_4766 説明板

Img_4768 往時の本陣跡梅林家

移築前の門はここにあった。

Img_4771川舟の碑(左)

「日野川の岩打つ瀬々の浪よりも砕くはひとの心なりけり」と刻むそうだ。
明治17年に根雨~車尾(くずも)間に川舟15隻で開業。この碑はもとは日野川の船場渡し場あたりにあったらしい。
この奥に権現神社(根雨神社に合祀)の小祠がある。

Img_4776 根雨駅(伯備線)

大正11年開業、岡山~米子間(伯備線)は昭和3年に全面開通。特急「やくも」も一部停車する。

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