出雲街道⑩(新庄宿→根雨宿)
2012年11月5日
中国勝山駅(JR姫新線)真庭市コミュニティバス(40分)→新庄村役場・国道181号・・・大歳神社・・・大熊橋(戸島川)・・・力士塚・・・地神塔・・・後鳥羽上皇旧跡碑・・五人塚・・・杉並木・・・一里塚跡・後鳥羽公園・・・嵐ケ乢(730m)・・・二つ橋地区・・茶屋集落・・二つ橋(二つ橋川)・・六体地蔵・・里程標・・辻の地蔵・・・四十曲峠手前・・・四十曲トンネル・・(鳥取県)・国道181号・・・板井原橋(板井原川)・・・板井原トンネル・・・旧道・・板井原宿・・・国道181号・板井原小学校跡・・・金持景藤の墓・・・金持上橋(板井原川)・・・金持下橋・・・神明橋・・・金持神社・・・高尾交差点・・・旧道(根雨上橋手前)・・根雨宿・・大日如来塔・・鳥獣供養塔・地蔵群・・弘法大師像・・近藤家・・祇園橋・・根雨神社・・本陣門・・歴史民俗資料館・・本陣跡・・川舟の碑・・権現神社(跡)・・根雨駅(JR伯備線)
【ル-ト地図】
2年半ぶりに出雲街道の続きを、美作国から伯耆国に入り山陰道と合流して米子城下まで歩き、米子城跡の北の京橋を起点とする境往来を「ゲゲゲのふる里」の境港まで行く。
写真をクリックすると拡大します。
新庄村役場
新庄村は岡山県の北西部で、鳥取県と境を接する。2012年3月31日現在の世帯数は387、人口は1008人で、そのうち65才以上が400人で過疎化と高齢化が進んでいる。
標高500m以上はあるか。小雨が降っていて寒い。
道中の恙(つつが)なきを祈っていざ出発だ。
庄右衛門は新庄宿に泊まった時、宿代を軒先の2枚目の瓦の下に入れて出て行ったという逸話がある。
「後鳥羽上皇旧跡中山道」標柱(右)
ここから右に野呂川沿いを進むのだが、少し左に行くと五人塚がある。
後醍醐天皇の御水池もあるようだが足元が悪いので探さなかった。
後鳥羽上皇が歌を詠む時に、硯代わりにした岩ということか。
雨に濡れた草の道で、ここからの遠望のみ。
この古道の奥で休憩し歌を詠んだという。
「みやこ人 たれふみそめてかよひけん むかひの道のなつかしきかな」
もとは後鳥羽上皇が箸に使った栗の枝から芽生えたという伝承。弘法大師の伝承によくある話だ。
上りは八丁(約900m)、下りは七丁で、参勤交代の行列、大名・公家の姫の嫁入り道中籠、出雲大社、伊勢参りの庶民もこの峠を越えて行った。津山藩主も領地検分でここまで上って来たという。ここは標高730mで、旧道はこの少し上方右側を通っていたようだ。
「説明板はあるが姿は見えず。ほんにあなたは・・・のような」。
ずぶ濡れを覚悟で雑草をかき分ければ見つかるかも。
嵐ケ乢と四十曲峠の間で、吹雪の時など旅人のための休憩所として津山藩森家によって茶屋が設けられた。宿泊所にもなったという。元禄2年(1689)の戸数は5軒だった。
堂の右側に六体地蔵(六地蔵)がある。
左端は三界万霊塔(宝暦5年(1755))
「元標十五里」で津山からの距離標示で、明治初年に建てられたもの。
峠まで「1000メートルほど・・・」とあるが。
この先、500mほどで山道となる所で柵がしてあり行止りとなる。仕方なく四十曲トンネルを抜けた鳥取県側へ出る。道を間違えたとも思えないのだが。→(追記)田中様からコメント(下記)をいただきました。道を間違えた可能性が大のようです。残念で、再挑戦!と言いたいところですが、何せ東京からここまでのアプローチが大変です。機会があればということにします。
街道はここから左に峠へ上っているのだが、草木に覆われ道跡は失われている。以前はここに四十曲峠の説明板があったのだが。
少し上ってみたが・・・。乢根の地蔵も草叢に埋もれているのだろう。
下を旧道が通っているらしいが下り口が分からなかった。
どうせ草深く雨で歩きにくいだろうと言い聞かせる。
今はかなり名前負けしている橋だ。
特定郵便局、それ以前は宿業務を扱っていた家か。板井原は古くからの宿駅で、松江藩主の参勤交代の宿泊休憩所の御茶屋(桂藤家→吉岡家)が置かれ、木戸番所、制札場もあった。
板井原集落を抜けて国道に出る。
こんな所に小学校があったとは。今は子どもの姿はまったくない。大人も見かけないが。一番近い根雨駅近くの根雨小学校まではここから8kmぐらいはある。
金持景藤(かもちかげふじ)の墓
出雲街道沿いのあちこちで出会った児島高徳と同じ、南朝方の忠臣。
神明橋を渡って金持神社へ。
金持(かもち)神社参道 【ル-ト地図】の61
チャンチンの銘木(右)
他者の迷惑顧みず。自分さえ金持ちになればそれで良しか。
境内は思ったほど広くなく、社殿も小さい。金持ちグッズの売店もないが(参道入口にはあるが)、インターネットでの販売で儲けているようだ。金持ちになるのは金持ち祈願の参拝者ではなく、神社自身なのはどこの寺社でも同じことだが。
明地峠越えの「備中道」(左・国道180号)との分岐地点で、「右備中道 左上方道」の道標(寛政5年(1793))があったそうだ。上方道が今来た出雲街道のこと。
江戸期に備後から根雨に移住し、たたら製鉄で財をなした大庄屋家。
このあたりは平氏追討計画が発覚しこの地に流された、長谷部信連が京の文化を模して造ったと伝える。
通称「祇園さん」
150mほど北方の本陣梅林家跡から移築。
昭和15年建築の旧根雨公会堂
昭和4年雲陽実業銀行として建築。今も現役の銀行で営業中。
移築前の門はここにあった。
川舟の碑(左)
「日野川の岩打つ瀬々の浪よりも砕くはひとの心なりけり」と刻むそうだ。
明治17年に根雨~車尾(くずも)間に川舟15隻で開業。この碑はもとは日野川の船場渡し場あたりにあったらしい。
この奥に権現神社(根雨神社に合祀)の小祠がある。
大正11年開業、岡山~米子間(伯備線)は昭和3年に全面開通。特急「やくも」も一部停車する。
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コメント
ご親切ありがとうございます。
方法としては、①メールで写真の画像を送付していただき、それを私のブログに載せればいいと思うのですが、ここにメールアドレスは書くのは控えたいと思います。
②貴殿がHPかブログを作成されていましたら、そこに写真を掲載していただき、それを私のブログで紹介する。
何せメカに弱いので他の方法は思いつきません。すみません。
投稿: 田中様へ(坂道散歩) | 2012年11月21日 (水) 06:18
東京から来られてたんですね。遠路はるばるお疲れ様でございます。私は兵庫県からですのでどおってことはないのですが、もし私が関東に行って道を間違えるとちょっと後悔が残ります。今後、他の皆様のためにと思い山道の手前の写真と、道なき道の写真も若干ですがあるのですが、参考になればご覧いただきたいのですがそういう方法はあるのでしょうか?
投稿: また田中です | 2012年11月20日 (火) 22:13
やはり道を間違えたようですね。残念です。
ブログに記事を追加しました。
間地峠越えの道は標高も距離もさほどでなく、多少草に覆われていますが、入口さえ間違えなければ大丈夫でしょう。
これからもよろしくお願いします。
投稿: 田中様へ(坂道散歩) | 2012年11月19日 (月) 06:21
いつも興味深く拝見しております。10月6日に四十曲峠を(新庄→根雨)越えましたが山道の手前には柵はなかったです。しかしそのあとは道なき道でしたが・・・私はまだ根雨までしか行っておらず、間地峠は参考になりました。ありがとうございました。
投稿: 田中です | 2012年11月18日 (日) 16:58