出雲街道⑫(溝口宿→米子城下)・境往来①
2012年11月7日
岸本駅(JR伯備線)・・・県道53号・・・日野川土手・・・金刀比羅大神宮・・道標・・・八幡神社・八幡の渡し跡・・・東千田神社・・十日市地区・・・古豊千地区・・・(国道9号)・・・(JR山陰本線)・・・山陰道合流地点・日野橋(日野川)・・・車尾地区・・深田氏庭園・・貴布禰神社・・梅翁寺・・鳥取藩御会所跡(車尾小学校)・祇園神社・・・車尾の道標・米川橋(米川)・・・刑場跡(住之江公園)・・・新土手(勝田の土手)跡・・・法城寺・・・勝田神社・・・了春寺・・博労町駅(境線)・・・枡形・一里塚跡・光西寺・米子城下・・旧加茂川・・・新出雲街道(新上方往来)合流地点あたり・・・愛宕橋(加茂川)・・・愛宕神社・・・やな井・桂住寺・・・総泉寺・・・祇園橋(加茂川)・・・米子城跡・・・湊山公園・清洞寺跡・・潮止め松・・・川口神社・・・後藤家・京橋(旧加茂川)・境往来起点・・寺町・・・糺坂・・鴨御祖神社・・(県道157号)・・・浜橋(米川)・常夜灯・旧道・・・井沢踏切(JR境線)・・・県道208号・・・夜見神社・・・迎接院・・・弓ヶ浜・・・弓ヶ浜駅(JR境線)
日野橋で山陰道と合流した出雲街道を米子城下まで行き、米子城跡の北の京橋から境港への境往来に入り、夕暮れ間近な弓ヶ浜を今日の終点とした。
*参考:『鳥取県歴史の道調査報告書 第7集 境往来』
写真をクリックすると拡大します。
金刀比羅大神宮 《地図》
川岸に木々に覆われてひっそりと鎮座。
金刀比羅大神宮前の土手から水浜の集落に下りる所。
「右くけみち 左上方ミち 大山」
昔の「八幡(やわた)の渡し」跡あたり。渡し場の位置は一定していなかった。
八幡神社 《地図》
「馬場の八幡さん」と親しまれている。「人形流し」は今でも行われているのだろうか?
日野川土手の道から下り、十日市地区、古豊千(こほうち)地区へと進む。
土手を背にしている社殿。神社名は地元のおじさんに聞いた名。
古豊千地区 《地図》
一里松(一里塚跡)があったそうだ。『一里松の妖怪』(米子の民話散歩)
日野橋の東詰。北(淀江方向)から来た山陰道と合流し、橋を渡って米子城下へ向かう。
歩道はついていないが、車は北側の新日野橋を通るので歩き安い。
これが3度目の最後の日野川の渡し。渡れば米子城下は近い。
深田家 《地図》
始祖は近江源氏佐々木源三秀義七代の孫、佐々木三郎兵衛信輝で、隠岐へ配流される後醍醐天皇の行在所にもなったと伝える旧家。
「車尾」の地名由来は、後醍醐天皇が当家へ立ち寄られた時、「春の日の めくるもやすき尾車の うしとおもはて くらすこの里」と詠んだのを逆に綴って改名したと言われる。(庭園のパンフによる) ちょっとこじつけ過ぎと思うが。
戦国期の合戦記「老翁物語」では「くづもう」と記されているそうだ。
池中の右がひなを羽の下に抱いた女性的な鶴島、左が亀頭を直立させている男性的な亀島。当主のお話では左端の岩が景観の目障りになっていると言われる。後からここに置かれた岩ではないかとのこと。確かに池の正面から見ると亀島の大部分は隠れてしまう。
大庄屋以下の在方役人が交代で勤務し、西伯耆三郡の行政に当たっていた。
車尾の道標(米川橋手前右の民家の敷地内) 《地図》
「米子入口 八丁」・「東 尾高 大山□□□道」・「南 天万 法勝寺□り□□道 二部」などと刻むそうだが、何せ民家内でゆっくり見る余裕はなく早々に引き上げる。
刑場跡(住之江公園) 《地図》
右のフェンス内に新しい「合葬の碑」が建つ。
『刑場跡』(米子の民話散歩)
日野川方向からの洪水防止土手で南北に山陰線の線路あたりから出雲街道まで延びていた。
昭和40年代に松喰い虫にやられた。『根上り連理松』(米子の民話散歩)
今でも使える?
米子城築城の際に北東の鬼門守護として勧請された。
米子城代の鳥取藩家老の荒尾家の菩提寺。
博労町駅(愛称はコロポックル駅)に入るJR境線
妖怪電車の「目玉おやじ列車」だ。ほかに「鬼太郎」・「ねずみ男」・「ねこ娘」列車があり、「鬼太郎ファミリー列車」(後掲)も最近お目見えした。
枡形・一里塚(松)跡 《地図》
この地は米子城下の出入口で、牛馬を扱う博労たちが居住していた。
博労町→糀町→道笑町→日野町→茶屋町→塩町→大工町→愛宕町へと南西方向に進む。
正面は地蔵の小祠
ここは糀町で制札場があった。糀、綿、荒物、履き物、菓子、肥料、染物など多くの店があり、荷物船も糀町までは(旧)加茂川を遡って来たそうだ。
新上方往来(新出雲街道)合流地点 《地図》
このあたりで左から来る、三部~天万経由の新出雲街道と合流するようだ。
「第二次米子映画事変」会場
「事変」には満州事変など暗いイメージしか浮かばないが。
「国際まんがサミット鳥取大会」も開催中だった。
愛宕神社 《地図》
鳥居右の標柱に出雲街道の説明文。
右の石垣下に「やな井」
「やな井」(民話)と「やな井戸地蔵」
往来の人々ののどを潤した水だが今は使用不可。
出雲国との境も近く、出雲からの敵襲に備えた砦の役目を持つ寺だった。民話「総泉寺のねずみ」
ここを出雲街道歩きの打ち止めとし、米子城跡から境往来の起点の京橋へと向かう。
枡形 《地図》
二の丸への上り口で、門があった。
城代荒尾氏の家臣の武家屋敷の門でここへ移築された。
米子城本丸跡から(標高90mの湊山山頂) 【ル-ト地図】の71
中海方向、左は島根半島で右は米子港
中村一忠の家老横田内膳正村詮が構築。二重櫓数棟と武器庫が設置された。
昔は中海に浮かぶ亀島と呼ばれる小島だったが、今は埋め立てられ、大きな松と岩が残る。
地蔵信仰の「札打ち供養打止め」の地でもありお札がぎっしり。
潮止め松 《地図》
豪雪で折れたがまだしっかりと生きている。
こちらは「打止め」・「潮止め」とはいかず、川口神社の前を通り、境往来の起点の京橋へ向かう。
後藤家(京橋の手前)
回船問屋だった。
水運による商いを掌握していた町家。
「境往来」と標識が指す。
境往来に入る前に京橋・天神橋・寺町界隈を散策する。参考:『境往来』(周辺案内図もある)
通りの北側に9つの寺が並ぶ。ここも米子城築城の際、防衛のために伯耆各地から寺が集められた。
一銭硬貨の看板は昭和25年に米子で博覧が開かれた時に造られた。
売っている菓子、玩具などは懐かしさを感じるほど古い物ではない。こちらが古過ぎるのか。
何をつないでいるのか? あちこちで地蔵さんに出会う。この地域は地蔵巡りのスポットにもなっているようだ。
ここから「加茂川・中海遊覧船」が出ている。
隣のレトロなビルも坂口合名会社
ちょうど旧加茂川が直角に曲がる所にあり「曲がりの地蔵」とも。
ちょっと胡散臭い話だが、まあいいか。
左に入れば笑い通り商店街
ここで理髪すれば男前が上がり「もてる」か?
笑えるような状態ではないようだが。
ここから境往来に戻る。
米子から境港に向かう境往来は①美保湾沿いの外浜往来と、②中海沿いの内浜往来があった。①の道筋をたどる。
右は寺町の西端の万福寺
鴨御祖神社(糺神社)の前を上り下りする坂で、今は坂と呼べるような起伏はないが、昔は民話にもあるように交通の難所の一つだったのだろう。
民話『糺坂の怪』の妖怪は「ゲゲゲの鬼太郎」の祖先だったか。いや妖怪に先祖も子孫もないか。
「ただすさん」で親しまれている。
ここは米川土手を通り、車尾から日野方面に通じる道の分岐点で交通の要衝であった。
ここから橋の右の常夜灯前の細い旧道に入る。分かりづらい地点だ。
左に常夜灯(安政2年(1855))
住宅街を抜けて行く旧道 《地図》
右の大石は何か?
妖怪列車の新車輛で、「鬼太郎」・「ねずみ男」・「ねこ娘」・「目玉おやじ」・「こなきじじい」・「一反木綿」・「ぬりかべ」・「砂かけばばあ」・「やまび
夜見神社 《地図》
「芋侍」・「芋姉ちゃん」の蔑称と違い、山陰地方へ薩摩芋の恩恵をもたらした石見国大森銀山領の代官井戸平左衛門の遺徳を讃えた敬称だ。天保期の飢饉を契機として弓ヶ浜半島の村々では「芋代官碑」の建碑が相次いだという。
境往来から離れ北へ『出雲国風土記』の「国引き神話」に登場する弓ヶ浜へ向かう。
大山(国を引っ張った綱をつないだ杭)方向だが霞んでいる。
北陸地方の高志(こし)の国から引っ張ってきた国の三穂の埼。
おもちゃ箱のような駅舎で、電車待ちは学生ばかり。
確かに小豆洗い婆でも出そうな寂しい駅だ。
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