東京坂道散歩(墨田区)
2012年11月29日
堀切駅(東武伊勢崎線)・・・墨田水門・・・多聞寺・・・墨堤通り・・・東白髭公園・・・木母寺・・・隅田川神社・・・(墨堤通り)・・・下稲荷神社・・・(東武伊勢崎線)・・・(鐘ヶ淵通り)・・・隅田稲荷神社・・・玉ノ井いろは通り・・・東清寺(玉の井稲荷)・・・鐘ヶ淵通り・・・国道6号(水戸街道)・・・宝蔵寺・・・(京成押上線)・・・八広庚申塔・・・八広中央通り・・・薬師道道標・・・三輪里稲荷神社(こんにゃく稲荷)・・正覚寺・・・(東武亀戸線)・・・(京成押上線)・・・円通寺・飛木稲荷神社・・・高木神社・・・京成橋(北十間川)・・・十間橋(北十間川)・・・柳島妙見(法性寺)・・・東京スカイツリー(ソラミ坂・・ハナミ坂)・・・東武橋(北十間川)・・・小梅銭座跡・・(なめくじ長屋跡あたり)・・・業平橋(大横川)・・・業平塚・南蔵院跡・・・法華寺・・・福厳寺・・・遍照院・・・桃青寺・藪の内・蛇山跡あたり・・・実相寺・・・篠塚地蔵・・・若宮公園・若宮牛島神社・・・栗本鋤雲住居跡・・・北斎通り・・円朝住居跡・・・羅漢寺跡・・・野見宿禰神社・・葛飾北斎生誕地・・・津軽藩上屋敷跡(緑町公園)・・江川太郎左衛門屋敷跡・・・(JR総武線)・・・(京葉道路)・・・時津風部屋・・・飯澄稲荷・・吉良邸跡(本所松坂町公園)・・岡場所跡あたり・・回向院・・・両国駅(JR総武線)
墨田区で名のある坂は地蔵坂だけと思いきや、東京スカイツリー内に新しい坂ができたと。あまり気乗りはしないが坂道散歩としては行かねばなるまい。堀切駅から南へ、墨田区を散歩しながら見に行くとしよう。
*参考:『墨田区史跡散歩』(学生社)
【地図】
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墨田水門近く 《地図》
荒川と隅田川を結ぶ旧綾瀬川の水路。上を首都高6号線が通る。
江戸中期に建てられた茅葺の山門は区内最古の建造物。
隅田川七福神の毘沙門天。
毘沙門天(子の善尼子童子とも)によって退治された妖怪狸を供養する塚。
実物のスカイツリーを見るのはこれが初めて。
背後に能の『隅田川』の旧跡、梅若塚がある。
かつては鬱蒼とした「水神の森」に覆われていて、「水神社」と呼ばれていたのだが、今は高速道路を背負わされて窮屈そうだ。
墨堤通りを渡り返して東へ向かう。
すぐ先にも隅田湯があり、下町風情の残る。
くねった道を行く。このあたりは道が入り組んでいて分かりづらい。
土地の開拓者、江川善左衛門の五代目が伊勢参詣の折、種々の厄災を八人の僧によって救われ、帰郷後、村人と合力して稲荷社を建てたのに始まると言われ「八僧稲荷」と称し、「善左衛門稲荷」とも呼ばれる。
玉ノ井いろは通り 《地図》
かつての「玉の井」(赤線地帯・銘酒屋・特飲街・私娼街)の面影は残らず。
「玉の井稲荷」だがビルにはなじめず、すぐ退散した。
八広庚申塔 《地図》
中央が庚申塔(元禄2年(1689))・左は地蔵(享保5年(1720))・右は観音像
かつて木根川橋のやや下流にあった浄光寺の木下川薬師堂への道標。浄光寺(木根川薬師)は荒川の開削で葛飾区東四つ木に移転した。《地図》
ピサの斜塔ほどではないか。
樹齢500~600年で、区内随一の大木。昭和20年3月の東京大空襲で我が身を焦がし、町への延焼を防いだという「焼けイチョウ」。
十間橋(北十間川)から
安いカメラなので両方は入らない。
柳島妙見堂(法性寺)
江戸時代から柳島妙見と呼ばれて信仰する人の多かった寺だが、本堂はビルとなり空地の少ない暗い感じの境内で、「江戸名所図会」にも描かれた「影向(ようごう)の松」(絵の左端)も今はない。「柳島妙見堂」
ここから北十間川沿いに東京スカイツリーに向かう。
味気ない階段のことよ。隣にエスカレーターもついている。
「業平橋駅」はこんな陳腐な名前になってしまった。まさに「末法の世」というべきか。
さっと上って、さっと引き上げた。
小梅銭座跡 《地図》
元文元年(1736)から裏面の上部に小梅村の「小」の文字が入った「寛永通宝」を鋳造していた。
この裏手に志ん生が住んでいた「なめくじ長屋」(『落語の舞台を歩く』より)があった。
『伊勢物語』の主人公とみられている在原業平にちなんだ橋。橋を渡った右側の南蔵院に業平塚があった。大阪府の芦屋市の山陽道にも業平橋(芦屋川)がある。業平ゆかりの地は、落語『千早振る』で。
「しばられ地蔵」の大岡政談で有名な南蔵院はもとはここにあった。現在は葛飾区に移転。『岩槻慈恩寺道』に記載。南蔵院境内の業平天神に(伝)業平塚があり、『江戸名所記』に古老の話として、「都にのぼらんとして船に乗り給ひしが、この辺りの浦にて船損じて死に給ひしを塚につきたり」とあるそうだ。この塚については異説もある。業平がこの地に来たというのも伝承に過ぎないだろう。
赤門は将軍家光が、父秀忠の追福のため寄進したものだったが、関東大震災で焼失し、紀尾井町の旧紀州家中屋敷の門をもらい受け、これを朱塗りにして寺門とした。これも昭和20年の戦災で焼失し、現在はコンクリート製で復興された門。
子育駒形鬼子母神
「弘法のお灸」で知られた寺だが、今は遍照院ビル内になっている。
『東京名所図会』には「灸点に来る患者は、・・・・毎年4、5月の頃は最も繁昌し、一日平均千人を下らず・・・」とあるそうだ。
松尾芭蕉が数年間、当寺に寄宿していたといい、山号を「芭蕉山」。
「山門不幸」で取り込み中のようで境内には入らず。
桃青寺の西側はうっそうとした竹藪で藪の内と呼ばれ、竹藪続きの横丁には蛇が多く出て蛇山といった。鶴屋南北の「四谷怪談」の蛇山庵室の場として登場する。
むろんその面影は皆無だ。
篠塚地蔵尊 《地図》
各地を転々とした地蔵さん。民家に挟まれた狭いこの地が安住の地となるか。
一部しか読めない。向島の本社の牛島神社に問い合わせてみたが分からないとのこと。
安政二年 近藤富蔵とある。この年には富蔵は八丈島へ流人の身であった。縁のある者が建てたのか? 小さな穴は東京大空襲の弾痕か?
栗本鋤雲(じょうん)住居跡(石原3-18)から北斎通りに出て、円朝住居跡・羅漢寺跡(現在は下目黒の五百羅漢寺)から西に向かう。
相撲の神様として野見宿禰を祀る。
武蔵丸以降の4代はすべて外人とは。
北斎通りには南割下水が流れていた。『北斎ゆかりの地マップ』
津軽の太鼓は『本所七不思議』の一つ「双葉山相撲道場」
ここはもとは吉良邸内で屋敷神として祀られていたのか?
隣は「吉良まんじゅう」の大川屋。
義士祭・吉良祭・元禄市も近い
吉良邸跡(本所松坂町公園)
約8,400㎡あった吉良上野介の上屋敷の86分の1(約98㎡)
この井戸で吉良上野介の首を洗ったとか。
岡場所跡(吉原などの公許の遊廓に対し、私娼屋が集まった歓楽街)あたりから回向院の境内を通って両国駅に向かった。
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