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2013年1月30日 (水)

中街道②

2013年1月20日

大和八木駅(近鉄大阪線)・・・半九旅館・・旧高取銀札引替所(河合家)・・河合源七郎家・・札の辻(横大路交差点)・東の平田家(八木札の辻交流館)・西の平田家・・谷三山生家・・高取藩下屋敷跡・・井戸の辻・八木町道路元標・・・八木街道踏切(JR桜井線)・・・おふさ観音・・・神道橋(飛鳥川)・小北稲荷・・・八幡神社・・・国道169号・・下ツ道跡碑・・・軽の衢(丈六交差点)・山田道(県道124号)・・・厩坂宮・厩坂寺跡伝承地・・・石川池(剣池)・孝元天皇陵・・・春日神社・応神天皇軽島豊明宮跡碑・・法輪寺(軽寺跡)・・・丸山古墳・・・旧道・・・欽明天皇陵・・・みみなほし地蔵・・・ほうねん橋碑・・・飛鳥第五号踏切(近鉄吉野線)・・・高取国際高校・・・高取中学校・・・橋本橋(吉備川)・県道120号・・・八幡神社・宮池・・・如来寺・・・市尾墓山古墳・・・天満池・・・念仏寺・天満神社・市尾宮塚古墳・・・(御所市)・・・古瀬大橋(曽我川)・・・巨勢寺塔跡・大日堂・・・(近鉄吉野線)・・・吉野口第三号踏切(近鉄吉野線)・・・卯神社石標・・・薬水駅(近鉄吉野線)・・・薬水橋(薬水川)・・・重阪第一踏切(JR和歌山線)・・・重阪第三踏切・・・(五條市)・・・テクノパークなら・・・旧道・・・北川・・・下街道合流地点(三在町北交差点)・国道24号・・・三在交差点・旧道・・・国道24号・・・今井町交差点・旧道・・・五条駅前・・・商栄会通り・・本陣交差点・・天誅組本陣跡(桜井寺)・・五條代官所跡(五條市役所)・・宝満寺・・一ツ橋(西川)・・新町通り(旧紀州街道)・・鉄屋橋(西川)・・赤根屋半七宅跡・・まちなみ伝承館・新町橋(東浄橋)・・栗山家住宅①・・中家住宅・・栗山家住宅②・・御霊神社・・・五条駅(JR和歌山線)

  【ル-ト地図】(29.4km)

 横大路と交差する八木町からひたすら南下する。途中古代の遺跡、伝承地にも寄り道しながら進む。飛鳥駅を過ぎたあたりで中街道は南西方向へ道筋を変える。田園地帯も広がり風景も一変する。
 市尾墓山古墳、市尾宮塚古墳、巨勢寺塔跡と進み、薬水駅を過ぎるとJR和歌山線沿いの道となる。和歌山線と別れ重阪地区を五條市との市境まで上り、下って下街道との合流地点に出る。
 国道24号を進み、今井町交差点から旧道に入って五条駅前に出た。さらに本陣交差点から昔風情の残る新町通り周辺を散策した。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_6892

半九旅館 《地図

八木「札の辻」を巡る』の周辺案内図を参考に歩く。

Img_6895 平井洋服店

Img_6899 札の辻手前の家並み

左が旧高取銀札引替所(河合家)、その隣が河合源七郎家。

Img_6902 旧高取銀札引替所(河合家)

Img_6905 河合源七郎家

Img_6908 芭蕉句碑

笈の小文」の旅での句。札の辻付近の宿に泊まったようだ。

Img_6907 説明板

Img_6910 札の辻(横大路との交差点) 【ル-ト地図】の①

Img_6913 説明板

Img_6914 往時の賑わい

Img_6915東の平田家(八木札の辻交流館)

Img_6916 西の平田家

Img_6926 谷三山生家(左)

Img_6928 高取藩下屋敷跡福島家

Img_6935 井戸の辻 《地図

左の民家前に「八木町道路元標」

Img_6938 岸の竹酒造

創業は天保8年(1837)の老舗。作曲家の山田耕筰もファンだったという清酒「岸の竹」は今は造っていないようだ。

Img_6942 こういう通りもいいね。

Img_6945 おふさ観音 《地図

慶安3年(1650)、付近にあった鯉ヶ淵という池の中から白い亀に乗った観音が現れ、それを見つけた近くに住む娘おふさが小さな堂を建立して観音を祀ったことが起源という。今日は恵比須尊社の「初えびす」で賑わっている。

Img_6955 下ツ道跡碑 《地図

丈六交差点から東へ山田道(県道124号)を石川池(剣池)へ向かう。

Img_6958 丈六交差点 

下ツ道と山田道が交差する交通の要衝で「軽の巷(衢・ちまた)」と呼ばれた。

Img_6959 厩坂宮跡・厩坂寺跡伝承地 《地図

舒明(じょめい)天皇の宮跡に建てられた、藤原氏の氏寺の興福寺の前身の寺というが、説明板などはない

Img_6962 剣池(石川池) 《地図

正面は孝元天皇陵。池の西方の本明寺が石川精舎跡という。

Img_6968 応神天皇軽島豊明宮跡碑(春日神社境内) 《地図

Img_6971 法輪寺(軽寺跡

Img_6972 説明板

Img_6979 丸山古墳

全長約310mの奈良県下で最大、日本全国で6位の前方後円墳。

Img_6977 説明板

Img_6983 欽明天皇陵

Img_6988 吉備姫王(きびひめのみこ)墓

皇極(斉明)天皇の母。そばには4体の猿石と呼ばれる石造物もある。

Img_6986

みみなほし地蔵 《地図

堂内には浮彫の石造地蔵立像がある。「耳なおし」の由来はどういうものか?

Img_6989 ほうねん橋碑・道標

道標には「こんかう山ミち」で金剛山。

Img_6995 高取川沿いを進む。《地図

飛鳥第五号踏切(近鉄吉野線)を渡り、田園地帯を行く。

Img_7002 高取中学校の先のT字路を左折して行く。《地図

右は束明神古墳岡宮天皇陵への道。このあたりには薩摩・兵庫・吉備・土佐・松山などの地名がある。

Img_7014 市尾墓山古墳 《地図

Img_7019 説明板

Img_7017 横穴石室

鍵が掛かっていて入れず、外からは内部は見えず。もう少し工夫しろよ。

Img_7032 天満神社前の旧家

Img_7024 天満神社

Img_7027 市尾宮塚古墳 【ル-ト地図】の②

被葬者はこの地一帯を本拠地としていた巨勢氏の一族か。

Img_7025 説明板

Img_7029 横穴石室・家形石棺

近づくと上からの照明が点灯して、よく見えるすぐれもの。市尾墓山古墳とは大違いだ。

Img_7048 巨勢寺塔跡・大日堂 【ル-ト地図】の③

Img_7045 説明板

Img_7049 塔の礎石

舎利納孔の周りに三重の溝が切ってあり、これらの溝を結ぶ排水溝が西方向へ掘られている。

Img_7055 道標

「右 かうや」・「左 大峯」

Img_7061 卯神社

ここは御所市奉膳(ぶんぜ)

Img_7063 薬水(くすりみず)駅(近鉄吉野線) 《地図

ここは大淀町で、この先で再び御所市となる。

Img_7067 薬水川

薬にはほど遠しか。

Img_7070 JR和歌山線と一緒に進む。

県道との間にガードレールはない。

Img_7073金剛葛城山下一周駅伝

練習中の中学生と高校生のチーム何組かとすれ違った。
一周というから100kmくらいあるかと思ったら25.7kmだった。拍子抜け。

Img_7078 重阪(へいさか)地区を五條市との境へ上って行く。

峠越えの感じだ。峠に名前はあるのか?

Img_7080 五條市に入り「テクノパーク・なら」の間を下って行く。《地図

Img_7085 金陽製薬の先で県道から離れ左に入る。《地図

Img_7088 下街道合流地点(三在町北交差点) 【ル-ト地図】の④

Img_7101駅前

「いずこもおなじ秋の夕暮れ」の駅前通り。

Img_7102会通り

栄えた時もあったろうに。

Img_7105 天誅組本陣跡(桜井寺) 【ル-ト地図】の⑤

「御政府」の看板を掲げたが、それも「一日天下」のつかの間の夢だった。
代官鈴木源内の首を洗ったとされる「首洗い鉢」、「三勝・半七の比翼塚」もあるようだ。

Img_7106 説明板

Img_7108 五條代官所跡(五條市役所) 《地図

天誅組は代官鈴木源内の首を刎ね、代官所に火を放って挙兵した。

Img_7107 説明板

新町周辺ガイドマップ』を頼りに新町通り(旧紀州街道)周辺を散策する。

Img_7110 宝満寺 《地図

Img_7116 新町通り・鉄屋橋

Img_7131左は蔵元山本本家

Img_7134 蔵元山本本家

宝永年間(1704~10)の創業。富有柿を使った柿ワイン、飲みたいねえ。

Img_7125 赤根屋半七宅

歌舞伎『三勝半七艶容女舞衣』のモデル。

Img_7121 新町橋・まちなみ伝承館

この橋の西側の神田橋(寿命川)を渡った西方寺に、島原の乱の引き金となった圧政者の松倉重政の頌徳碑がある。五條では名君として崇められ、「豊後さま」として称えられるほどだったというから、びっくりだ。

Img_7141 栗山家①(五條市指定文化財)

元禄9年(1696)の棟札が残る。五條の町屋の多くが中二階建てなのに対して、単層に見せる構造が珍しいそうだ。

Img_7142 中家(奈良県指定文化財)

宝永元年(1704)の建築。元禄の大火(元禄16年(1703))以降に建てられた防火策の厳重さが特徴という。

Img_7150 栗山家②(国重文)

棟札に慶長12年(1607)の銘があり、年代の判る民家では日本最古とか。

Img_7148 ナカコ醤油

創業130年以上の天然醸造醤油専門店。
国内産大豆100%と小麦、世界最高級の紅海産天然天日塩を使用しているそうだ。

Img_7159 商栄会通り近くの路地

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2013年1月29日 (火)

中街道①

2013年1月19日

近鉄奈良駅・・・(三条通り)・・延命地蔵堂・隼神社・・・竜田越奈良街道分岐地点・・・中街道踏切(JR桜井線)・・・京終橋(能登川)・・・大黒橋(岩井川)・・・県道754号・・・地蔵院川・・・(大和郡山市)・・・上三橋交差点・道標・中ツ道(県道51号)・・・地蔵祠・高橋(菩提仙川)・・・千束池・・・辻堂橋(楢川)・・・櫟本橋(高瀬川)・・・(西名阪自動車道)・・・業平姿見の井戸・地蔵寺・・・鉾立池・・・素盞鳴神社①・清照寺・・・素盞鳴神社②.・・・三十八神社・・・南六条交差点(国道24号)・・・嫁取橋碑・下ツ道・・・嫁取橋(珊瑚珠川)・・・菅田神社鳥居・・・(国道24号)・・・平端第六号踏切(近鉄天理線)・(天理市)・・・二階堂地蔵堂・・・菅田神社発祥地碑・北池・・・南池・・・地蔵堂・・・天神橋(大和川)・・・(田原本町)・・・唐古池・唐古・鍵遺跡・・・今里の浜(寺川)・・・杵築神社・正福寺・・・八尾大橋(寺川)・・安養寺・・・鏡作神社・・豊雛大明神・・・新町地区・竹村家・・道標・・田原本町役場・・平野氏陣屋跡・・田原本聖救主教会・・行幸橋(中川)・・背割下水・・浄照寺・・本誓寺・・津島神社・・楽田寺・・・多村道路元標・・・多池・・・(橿原市)・・・上品寺小池・稲荷神社・・・(国道24号)・・・大和八木駅(近鉄大阪線)

  【ル-ト地図】(25.6km)

 年末に上街道を歩いたら、中街道・下街道も歩きたくなった。ついでにそれらを東西に横切る横大路も歩くことにする。例年にない寒中の寒さを吹き飛ばして、今年の歩き初めとしよう。

 上街道は古代の上ツ道を、中街道は(中ツ道ではなく)下ツ道を踏襲する。下街道は中街道のさらに西側を通る近世の道だ。
 まずは中街道だ。奈良市→大和郡山市→天理市→田原本町→橿原市→明日香村→高取町→御所市→五條市で下街道と合流する。
 近鉄奈良駅の中筋町交差点から南下し、三条通り(暗越奈良街道)を横切って行く。

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Img_6691 延命地蔵堂・隼神社(左) 《地図

鳥居の前に中街道の説明板がある。鎌倉時代の作という木造地蔵菩薩半跏像は奈良市指定文化財。

Img_6693 説明板

Img_6697 古梅園

墨の製造販売の老舗。

竜田越奈良街道が西へ分岐して行く。

Img_6700 中街道踏切を渡る。 【ル-ト地図】の①

Img_6710 上三橋交差点・道標 《地図

ここで県道754号から離れ、左に県道51号の中ツ道の道筋に入る。
道標には「西 右 高野山 左 なら道」・「北 右 郡山 左すぐ帯解」・「南 右帯解 左郡山」

Img_6724 辻堂橋(楢川) 《地図

地蔵の辻堂が立つ。ここから右斜めに南西方向に進むのが中街道の道筋だが、直進して業平姿見の井戸に寄る。

Img_6733 業平姿見の井戸(左)・地蔵寺(右) 【ル-ト地図】の②

業平の邸跡ともいう上街道沿いの在原寺から高安の女の所へ通った「業平道」。

Img_6735 業平姿見の井戸

左横に、蕪村の「蟲泣くや河内通ひの小提灯」の句碑が建つ。

Img_6738 説明板

鉾立池の先で右折し中ツ道から離れ、西に向かう。

Img_6751 素盞鳴神社① 《地図

右に素盞鳴命 (すさのおのみこと)
左に高龗命 (たかおかみのみこと)を祀る。

Img_6756 新庄町の家並みを抜けて行く。

Img_6757 素盞鳴神社② 《地図

Img_6762 三十八神社

南六条交差点(国道24号)を横切り、嫁取橋碑の手前を左折し、下ツ道に入る。

Img_6764 嫁取橋碑

碑は立派だが。

Img_6765 嫁取橋 《地図

面白い伝説のある橋だが、今はお粗末だ。川も珊瑚珠川と名だけはきれいだが・・・。

Img_6770 菅田神社鳥居 《地図

近いのだがここから遥拝のみ。

Img_6781 二階堂地蔵堂(左) 【ル-ト地図】の③

横大路と中ツ道が交差するあたりにあった膳夫(かしわで)寺がここに移転し、堂が二階造りのようで二階堂と呼ばれた。それがここの地名にもなっている。

Img_6783 説明板

Img_6807 唐古・鍵遺跡 【ル-ト地図】の④

唐古池の向こうに復元楼閣

Img_6804 説明板

Img_6817 今里の浜(八尾大橋から)

寺川最上流の川船の港で、中街道が通り流通の重要地点だった。

Img_6810 説明板

今里橋のそばの土手にある。

Img_6812 杵築神社 《地図

蛇巻き」に使われた麦藁で作った蛇が木に巻きつけてある。

Img_6811 説明板

Img_6809 説明板

Img_6818 安養寺

木造阿弥陀如来立像」は国指定文化財

鏡作神社へ曲がる所に「下ツ道と中街道」の説明板がある。

Img_6822 説明板

Img_6821 道筋概略図

Img_6823 鏡作神社 《地図

Img_6824 説明板

Img_6829 説明板

これは三角縁神獣鏡の外縁が欠けたもので中国製。

Img_6833 田原本町新町の家並み

右が竹村家

Img_6831 説明板

Img_6832 写真(竹村家)

「保存対策」はまだなされていない。

Img_6843 道標(元治元年(1864)) 《地図

正面は田原本町役場。その南側が平野氏陣屋跡だが遺構は残らず。

田原本は楽田寺(天平年間の創建と伝える)の門前町→教行寺(田原本の支配権をめぐって領主と争い江戸初期に箸尾に移転)の寺内町→田原本藩平野氏の陣屋町、寺川の水運による問屋町として発展した。

Img_6841 説明板

Img_6851 田原本聖救主教会

Img_6849 説明板

Img_6854 道標(文化11年(1814))

すぐ 大峯山 よし野 かう野」
新しく復元されたものだろう。「すぐ」は「真っ直ぐ」という意味。

Img_6862 背割下水

Img_6861 説明板

Img_6863 浄照寺 《地図

この山門は、伏見桃山城の城門を移築したものと伝える。

Img_6865 説明板

Img_6866 旧家

Img_6869 津島神社

Img_6867 説明板

Img_6870 楽田寺

Img_6873 説明板

Img_6877 道標(天保4年(1833))

電柱の左脇。ここを右折して行く。

Img_6879 説明板

Img_6882 寺川沿いを南下する。

Img_6884 多村(おおむら)道路元標(右の電柱の下)

多地区は古事記の編纂者の太安万侶らをはじめとする古代氏族多氏の根拠地。中街道の西方に多神社がある。四柱の祭神のうち神八井耳命は多氏の祖とされる。

Img_6888 多池 【ル-ト地図】の⑤

Img_6891 稲荷神社・上品寺小池

ここから国道24号を横切り、近鉄大阪線沿いに大和八木駅に向かった。

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2013年1月13日 (日)

初瀬街道⑤

2012年12月28日

川合高岡駅(近鉄大阪線)・・・八太橋(波瀬川)・・八太宿・八太の七曲り・・斑光寺跡石柱・・・伊勢自動車道・・・(県道58号)・・・(県道24号)・・・忘れ井道標①・・・忘れ井道標②・・・忘れ井・・・常楽寺廃寺(宮古公会堂)・・・中村川土手・・・小川橋(中村川)・・・常念寺・・・小川神社・・・西方寺・五六橋・・・中原神社・・・伊勢中川第十三踏切(近鉄山田線)・・長官塚・・・巡見橋(三渡川)・・・三渡川踏切(JR紀勢本線)・・・三渡橋・道標・伊勢街道合流地点・・・六軒駅(JR紀勢本線)

  【ル-ト地図】(11.9km)

 時々、小雨がぱらつく中を昼前には伊勢街道との合流地点の三渡橋へ着いた。ここを今年の歩き納めとしよう。

 この先は伊勢神宮までは、『伊勢街道③・④・⑤』へ続く。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_6589 八太橋を渡る。《地図

本居宣長の『菅笠日記』の旅の時は、「八太といふ駅あり。八太川これも板橋也。雨なほやまずふる。かくてはよし野の花いかゞあらんと、ゆくゆく友どちいひかはして、春雨にほさぬ袖よりこのたびはしをれむ花の色をこそ思へ」で板橋だった。

Img_6592 八太宿 【ル-ト地図】の①

旅籠武蔵屋・朝日屋・まる屋などがあったというが宿の面影はない。

Img_6600 八太の七曲りを進む。

きっちり7回曲がって行く。斑光寺跡石柱と道標(川合小学校のグランドのネット前)。昭和56年頃までは斑光寺(ばんこうじ)の無住の堂があったようだ。

Img_6605 伊勢自動車道をくぐる。

このあたりは明治頃まで茶の産地で、遠くは江戸まで積み出されていたそうだ。

Img_6611 初瀬街道は斎王群行の道でもあった。

Img_6612 忘れ井道標①(正面の民家前)

「斎宮御道蹟 従是 右凡二丁 左参宮道」で、右折し忘れ井に寄る。

Img_6614 古い家並みの間を抜ける。

Img_6616 忘れ井道標②

「右 忘れ井道」

Img_6624 忘れ井 【ル-ト地図】の②

伊勢街道の市場庄にも「忘れ井」がある。『菅笠日記』で宣長は、「むかしいつきの宮の女房の、言の葉をのこせる忘井といふ清水は、【千載集旅に斎宮の甲斐 わかれゆく都の方のこひしきにいざむすび見んわすれ井の水】今その跡とて、かたをつくりて、石ぶみなど立たる所の、外にあなれど、そはあらぬ所にて、まことのは此里になんあると、近きころわがさと人の、たづねいでたる事あり。げにかの哥、千載集には、群行のときとしるされたれど、ふるき書を見るに、すべていつきのみこの京にかへりのぼらせ給ふとき、此わたりなる壹志の頓宮より、二道に別れてなん、御供の女房たちはのぼりければ、わかれ行みやこのかたとは、そのをり此里の名によせてこそはよめりけめ。なほさもと思ひよる事共おほかれば、年ごろゆかしくて、ふりはえても尋ね見まほしかりつるに、けふよきついでなれば、立よりてたづね見るに、まことに古き井あり。昔よりいみしきひでりにもかれずなどして、めでたきし水也とぞ。されどさせるふるき傳へごともなきよし、里人もいひ、又たしかにか、わすれ井なるべきさま共見えず。いとうたがはしくこそ、なほくはしくもとひきかまほしけれど、こたみはゆくさきのいそがるればさて過ぬ」と千載集の歌は伊勢へ群行の時ではなく、京に帰る時の歌ではないかと考証するが、実際に見るとこの井戸が「忘れ井」かどうかは大変疑わしいと言っている。宣長の頃にはまだ水は湧いていたようだ。

Img_6621 説明板

「伊勢へ群行の途中」としている。

Img_6627 常楽寺廃寺(宮古公会堂) 【ル-ト地図】の③

応永20年(1413)の建立で、明治4年に廃寺となったという。公民館に本尊の木造聖観音立像があるというが、説明板などはない。

Img_6633 中村川の土手に出る。以前は小川橋(前方)は、ここに架かっていた。

Img_6644 常念寺 《地図

真盛上人御旧蹟」碑が立つ。京都府木津川市加茂町の常念寺との関係は?

Img_6648 小川神社

村内31社を合祀。

Img_6651 西方寺・五六橋

五六橋の伝説:「平維盛の子六代(平高清日川に隠れ住んでいた。代が病になった時、家来の斎藤五、六兄弟は、清流寺(現在の西方寺)の大日如来に平癒祈願をした。その後、六代の病は完治した。そのお礼に、五六兄弟は橋を架け、寺に糸椿を植えた。その橋は五六橋と名付けられ、西方寺に残る欄干は五六橋の欄干であると伝えられている」 今は伝説の橋にはとても見えず、橋かどうかも分からない。欄干も境内には見当たらない。
神奈川県逗子市に「六代御前の墓」がある。田越川で処刑されずに、ここまで落ち延びて来た落人伝説ということか。
また、沼津市の東海道には六代の首塚と伝える「六代松の碑」がある。埼玉県川口市にも六代の伝説がある。(『六ヵ村用水・緑川を歩く』に記載)

Img_6664 中原神社 《地図

もとは雨乞いの龍王神社。大晦日には付近の神々が集まり、火の玉が舞うとか。旅人の休憩所にもなっていたそうだ。

Img_6663 説明板

Img_6688 長官塚(正面中央の小さな盛り土) 【ル-ト地図】の④

津屋城城主の別府九郎左衛門武綱の墓という。ここは津屋城町で、北畠氏の家臣の居城があったというが、調べても分からず。

Img_6669 ここを右折して三渡川へと進む。

前方の火の見の下に頭部の欠けた常夜灯が立つ。

Img_6682 三渡川(巡見橋から) 《地図

三か所の渡し場があった。

Img_6679_2 伊勢街道合流地点 【ル-ト地図】の⑤

道標は「いがごへ追分」・「右いせみち」・「やまとめぐりかうや道」で右折は松阪、伊勢方向。

松阪を出発した宣長一行はここで左折し初瀬街道に入る。「三渡りの橋のもとより、にわかれて、川のそひをやゝのぼりて板橋をわたる。此わたり迄は事にふれつゝ、をりをり物する所なれば、めづらしげもなきを、このわかれゆくかたは、阿保ごえとかやいひて、伊賀國をへてはつせにいづる道になん有ける」『菅笠日記』(行程表)の初瀬から吉野に向かう旅は始まったばかりだが、拙者の旅はここで終わった。

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2013年1月10日 (木)

初瀬街道④

2012年12月27日

伊賀上津駅(近鉄大阪線)・・・善福寺・・・菅笠日記碑・・伊勢路橋(青山川)・・伊勢地宿・・旅籠徳田屋跡・・・国道165号・・・(近鉄大阪線)・・・(西青山駅)・・・(近鉄大阪線)・・・旧道・・弘法大師講石仏・・国道165号・・・伊賀茶屋跡・乗馬クラブ・・・青山歩道橋・・・青山トンネル手前・県道512号・・・青山峠・・旧道・・・国道165号・・・旧道・・・国道165号・・・白山トンネル手前・・旧道・・・役行者像・・小峠・・・国道165号・・・旧道・八重坂・・・花山橋(垣内川)・・・垣内宿・・元標・・乗渓寺・・・国道165号・・・川久保橋・・旧道・・・(国道165号)・・・寺前橋(大村川)・・・成願寺・・・白山町郷土資料館・・・高樋橋(大村川)・・・白山比咩神社道標・・・称名寺・・・山の神塔群・・・道標・・・東明寺(二本木区会所)・二本木宿・・旅籠角屋・丁子屋・・・楠木橋(大堂川)・・・亀ケ広の桜堤・・・小川橋・・・笠着地蔵・さかさ地蔵・・・誕生寺道標・真盛上人誕生地道標・・・大仰橋(雲出川)・・県道15号・・旧道・・・県道15号・・谷戸坂・旧道・谷戸峠・・・県道15号・・・旧道・・・田尻交差点・・・川合高岡駅(近鉄大阪線)

  【ル-ト地図】(27.5km)

 伊勢地宿から時々風に雪が舞う青山峠(青越え・阿保越え・小倭越え)、小峠と越えて垣内宿へと下った。どちらも大した峠ではないが白山トンネルを越える小峠の方が悪路だった。その先の八重坂の長い下りも楽ではなかったが、後は気楽だ。大三駅までの予定だったが、明日は雨になるらしく、ひと踏ん張りして川合高岡駅まで足を延ばした。もう伊勢街道と合流する三渡橋までは10kmほどで、明日は雨でも雪でも楽勝だろう。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_6379 伊勢地宿の入口近く 《地図

昨夜の雪の名残だろう。
右に本居宣長の『菅笠日記』碑が立ち、「からうじて伊勢地の宿にゆきつきたる。うれしさも又いはんかたなし。そこに松本のなにがしといふものゝ家にやどりぬ」と刻む。住まいの松阪から歩き始めて伊勢地が1泊目の地。2泊目は萩原(榛原)

Img_6382 伊勢地宿

Img_6380_2 宿場図

Img_6388 伊勢橋を渡って宿の家並みへ。 【ル-ト地図】の①

Img_6389_2 旧家

Img_6390 旧家

Img_6394 旅籠徳田屋

明治末期まで営業していた。今でも玄関先に徳田屋の看板が掛かる。宣長一行が泊まった松本某の家は当家の斜め向かいにあった郷士松本五右衛門家だったというが、宿場図には載っていないので確かなことかは分からず。

Img_6396 国道165号に出て緩やかに上って行く。

Img_6399 西青山駅の下を通る。

Img_6402 旧道が残る。

Img_6404 弘法大師講の石仏

明治32年に地元の大師講が設けた四国八十八ケ所のミニチュア霊場らしい。

Img_6405 伊賀茶屋跡あたり

乗馬クラブの向い側。

Img_6407 ここも弘法大師講のミニチュア霊場だろう。青山地蔵(青山大師)がここか?

向い側に伊賀茶屋があった。

Img_6409 0度だ。

Img_6413 青山トンネル手前で右に入る。《地図

ここは分かりやすい。

Img_6414 ここも県道512号で舗装されている。

Img_6416 青山峠 【ル-ト地図】の②

伊賀国と伊勢国の境で、古くは阿保(あお)山といわれ、初瀬街道中の最大の難所だった。また伊勢と長谷の中間地点で、峠まではおよそ2日間の旅だった。峠の東西半里に伊勢茶屋、伊賀茶屋があった。
壬申の乱で大海人皇子は、吉野から榛原→名張→加太(かぶと)越え→伊勢へと進んだ。青山越えは全部開通してなかったか、援軍との合流のためだったか。

ここから右に下って行く。

Img_6417 うっすらと雪化粧した道を行く。

宣長の「菅笠日記」の旅では「阿保の山路にかゝるほど、又ふりいでゝいとわびし」だった。

途中右側に地蔵道標が立つというが見つからなかった。

Img_6419 国道に出る。

Img_6422 旧道が残る。

このあたりが伊勢茶屋跡

Img_6427 国道に出て右に入って上るのだが、入り口が分かりにくい。

少し手前の広い林道をかなり上ってしまい引き返し大きくロスタイムした。

Img_6428 国道からここ入って来るのだ。

Img_6429 道らしくなるが。《地図》(道の標示はない)

Img_6431 倒木が道を塞ぐ。

Img_6432 足場が悪くぬかるんでいる。この道でいいのかちょっと不安になるが、だめなら白山トンネルを抜ければいいさ。

Img_6434 役行者像(宝暦4年(1754))を見て一安心。

国道の入口からここまで大した距離ではないが疲れた。

Img_6435 振り返る。

左が街道の道筋。

Img_6436 この先で白山トンネル先の国道に下る。

Img_6439 ここから左に八重坂の下りとなる。

Img_6440 注意掲示板

Img_6441 この道も歩き安い道ではない。 【ル-ト地図】の③

二本杉峠(旧天城峠)を越えた時に比べれば何ということもないが。『下田街道③

Img_6443 日なたに出るとほっとする。

Img_6445 何度も大きくカーブして林道下って行く。

街道は直進して下っていたそうだ。

Img_6446_2 ここが終点で、花山橋を渡ればすぐ垣内宿の入口となる。

Img_6450 垣内(かいと)宿の井筒屋跡

ここは宿の西端あたり。

Img_6462 宿場図

Img_6463 説明板

Img_6456 宿の家並み

伊能忠敬も泊まった宿場だった。

Img_6457 道路元標(大正3年)・乗渓寺の石標。

Img_6459 乗渓寺

宿場内で行き倒れになる旅人が多かったのか、無縁仏が多いという。

Img_6458 暖簾にも「初瀬街道 垣内宿」

サンタの長靴には何が入っていたかな。

国道165号に出て川久保バス停の先で、右に旧道に入る。

Img_6469 右に進み、再び国道165号を渡る。

Img_6475_2 成願寺 《地図

本尊は木造阿弥陀如来(国重文)で通称は「こしかけ阿弥陀如来」。

Img_6477 説明板

Img_6485 旧白山町役場倭支所

Img_6489 白山町郷土資料館 《地図

Img_6492 説明板(垣内宿)

Img_6490 講札

Img_6495 旧道の名残り(右)

Img_6500 白山比咩神社道標

正面の三叉路。一の鳥居があったそうだ。神社は直進で、街道は左折して行く。

Img_6503畔道のような道を行く。

Img_6508 称名寺境内 《地図

Img_6517 道標(左の民家前)

「上 いせみち」?

Img_6522 東明寺(二本木区会所内) 《地図

今は木造薬師如来立像などの保管場所か。

Img_6521 説明板

Img_6525 二本木宿へ入る。《地図

Img_6526 角屋(左)・丁子屋(右)

Img_6530 旅籠角屋

建物の前に犬矢来(やらい)が残る。

Img_6528丁子屋

安政4年(1857)まで旅籠、それ以降は醤油屋で今でも商っているようだ。

Img_6533 気分のいい道を行く。

Img_6539 亀ケ広古墳群案内板

ここからの距離が表示されていないので行かなかったが、近鉄大阪線の手前に3基の古墳があるようだ。

Img_6544亀ケ広の桜堤 【ル-ト地図】の④

車も通らず静かないい道だ。桜が咲いていればなお結構なのだが。

Img_6546 説明板

Img_6548 雲出川

「波多の横山」と呼ばれた景観の地。『菅笠日記』には、「さて川辺をのぼりゆくあたりのけしきいとよし。大きなるいはほども、山にも道のほとりにも、川の中にもいとおほくて、所々に岩淵などのあるを、見くだしたる、いとおそろし。かの吹黄刀自がよめりし、波多の横山のいはほといふは、【萬葉一に 川上のゆつ岩村にこけむさずつねにもがもなとこをとめにて】此わたりならんと、あがた居のうしのいはれしは、げにさもあらんかし

伊勢街道はずっと下流の雲出橋で雲出川を渡る。

Img_6555 笠着地蔵(逆着地蔵)

真盛上人ゆかりの地蔵。このあたりには誕生寺など上人ゆかりの史跡が多い。

Img_6554 由来

Img_6558 さかさ(逆さ)地蔵(笠着地蔵の前の川岸の巨岩の左下面)

安政の大地震の時、地蔵が刻まれていた道脇の巨岩が川岸に転がり落ち、地蔵も逆さになったという。
「笠着」・「逆着」・「逆さ」地蔵でややこしい。

Img_6566 大仰(おおのき)橋から雲出川 《地図

明治以前は200mほど下流に橋が架かっていた。増水時には橋は引き上げ、舟渡しになった。大仰の宿では関西方面からの参拝者達が板橋を渡ると、藤屋など土地の女将や女中が迎えて、宿に誘ったものだという。

『菅笠日記』には、「谷戸大仰などいふ里を過ゆく。こゝまで道すがら、ところ々櫻の花ざかり也。立やすらひては見つゝゆく。 しばしとてたちとまりてもとまりにし友こひしのぶ花のこの本。大のき川大きなる川也。雲出川のかはかみとぞいふ」とある。

Img_6568 大仰橋を渡り県道から右斜めに入る。

今は往時の宿場の面影はない。

Img_6573 谷戸(たんど)坂を上る。

Img_6574 左に旧道に入る。 【ル-ト地図】の⑤

Img_6575 坂上の谷戸峠近く

府近でボタン石が出ることから「ボタン峠」ともいわれた。
明治頃までは沢蟹焼きの露店が並んでいたという。
谷戸峠からは下りとなる。

Img_6579 常夜灯の先で県道に出る。

井関交差点の先で右に旧道に入ると波瀬川沿いが田尻の宿だったが、JR名松線で分断されて旧道、宿場の雰囲気は残っていない。

Img_6587川合高岡駅

この桜の老木は倒折れるおそれがあるため、切り倒されるらしい。支柱などで生き延ばせないものか。乗降客も少ないようだし、邪魔にはならないだろう。

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2013年1月 8日 (火)

初瀬街道③

2012年12月26日

三本松駅(近鉄大阪線)・・・国道165号・・・旧道・・辻堂・室生寺道標・・・国道165号・・・(近鉄大阪線)・・・青葉寺道標・・・六宝地蔵・・(三重県名張市)・・・牛飼地蔵・・・名張動物霊園・・・唐崖修路碑・・・延命地蔵・・・旧道・権現坂・・秋葉大神・・・鹿高智護神社・・・庚申堂・・・兵頭の瀬・・・安部田村義民碑・・・鹿高神社鳥居・菅笠日記碑①・・・水神碑・・・(沈橋)・・・地蔵道標・・・旧道・・・観世音菩薩塔・・・町石(無動寺)・・・地蔵祠・道標・黒田橋(宇陀川)・・新町橋(名張川)・道標・・・名張宿・・愛宕神社・・酒造旭金時・・江戸川乱歩生誕地碑①・②・栄林寺・・酒屋木屋正・・蛭子神社・・清風亭・・丁子屋・・道標・・名張藤堂屋敷・・宇流富志禰神社鳥居・一本松・・・両社八幡宮・県道57号・・旧道・・・(近鉄大阪線)・・・延命地蔵・・・国道165号・・・小波田西交差点・旧道・・・波田橋(小波田川)・・・姥ケ池・・新田池・・(伊賀市)・・伊賀ゴルフコース・・馬場池・・八丁坂・・国道165号・・・三谷橋(三谷川)・・・新羽根橋手前・旧道・・・羽根橋(前深瀬川)・・・安楽寺・・・阿保宿・・安養寺・・旅籠たわらや清右衛門跡・・大村神社参道・・菅笠日記碑②・阿保橋(木津川)・・国道165号・・・道標・・・中山トンネル手前・旧道・・・菅笠日記碑③・・国道165号・・中山橋(木津川)・・・道標・・・伊賀上津駅(近鉄大阪線)

  【ル-ト地図】(24.3km)

 今日も寒い。六宝地蔵の先で伊賀国に入る。名張宿、阿保宿へと進み、伊勢地宿の手前まで来た。明日は初瀬街道の難所の「青(阿保)越え」の青山峠を越える。雪が降らなければよいが。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_6161 宇陀川沿いを行く。

Img_6165 道標(辻堂(右)の前)

「女人高野室生山道」で室生寺への町石。
辻堂の軒下に「室生山の絵図」が架けてある。ここで室生寺への参拝者に茶湯の接待をしていたという。

この先で国道165号に出る。

Img_6168 青葉寺石標

ここから近いとは知らずパスした。青葉の滝もあるのだが惜しい。

Img_6170 六宝地蔵

このすぐ先で三重県に入る。大和と伊賀の境だ。

Img_6172 三重県名張市に入った。《地図

Img_6174 牛飼地蔵(元文5年(1740))

地元では「ムカイ地蔵」と呼ぶそうだ。

さていさゝか山をのぼりて、くだらんとする所に、石の地蔵あり。伊賀と大和のさかひなり」『菅笠日記』で本居宣長が見たのはこの地蔵だろう。建立から32年でまだ新しかったろう。

Img_6176_2 唐崖修路碑(明治14年)

現在コンクリートで固められているこの崖は唐崖と呼ばれ、香取山から宇陀川へ大岩が張り出し、危険な場所だった。

本居宣長の『菅笠日記』の旅での、「又いと高く見あぐる、岩ぎしのひたひに、物よりはなれて、道のうへゝ一丈ばかりさし出たる岩あり。そのしたゆく程は、かしらのうえにもおちかゝりぬべくて、いといとあやふし。すこし行過て、つらつらかへりみれば、いとあやしき見物になん有ける。獅子舞岩とぞ、此わたりの人は言ける」の所か? 獅子舞岩と言っているが。

Img_6178 延命地蔵

Img_6180 権現坂の旧道(左)を上る。 【ル-ト地図】の①

Img_6181 坂上方向

川口屋という旅籠があったそうだ。

Img_6183 秋葉大神

素朴な造りだねえ。

国道へと下って行く。

Img_6187 鹿高智護神社(跡)

思兼神を祀っていた。「鹿高智護大神」の碑が立っている。鹿高小場の産土神で、鹿高権現とも呼ばれた。かつて、初瀬街道を通る人は、高貴な身分であっても、乗り物から降りて一礼したという。今は鹿高神社に合祀されている。

Img_6189 庚申堂(左)

元禄2年(1689)の庚申塔を安置するようだ。

Img_6197 兵頭の瀬(宇陀川)

川底が巨大が岩盤になっている。

Img_6201 安部田村義民碑

どんな騒動があってどんな義民だったのか? 調べても分からず。

Img_6203 鹿高(かたか)神社鳥居・菅笠日記碑①(左) 《地図

壬申の乱(672年)の際、このあたりを通りかかった大海人皇子が、折からの大水で宇陀川を渡れず困っていると、どこからともなく白鹿が現れ、皇子を乗せて川を渡ったという。皇子は乱ののち、勅使をもって白鹿を祀る神社を建てた。それが鹿高神社であり、鹿高の地名はこのことにちなむという。

『菅笠日記』碑には、「名張より又しも雨ふり出て、此わたりを物する程はことに雨衣もとほるばかりいみじくふる。かたかといふ所にて、きのふ今日 ふりみふらずみ 雲はるゝ ことはかたかの 春の雨かな  本居宣長」

この先街道は、宇陀川沿いを進む道筋と高橋を渡って丈六地区を通る道筋があり、新町橋の手前で合流する。宇陀川沿いの道を行く。

Img_6206 宇陀川

黒田荘の時代にはこの付近で東大寺用の用材が切り出され、筏に組まれて宇陀川から名張川を下って、木津川へと流されたという。

Img_6209 沈橋

猪尻橋で増水時は沈んでしまうのだろう。

Img_6213 地蔵道標

「右ならみち」で笠間峠を越えるこの道は、奈良時代には名張から奈良へ向かう重要な道であった。左の木柱に「東大寺二月堂お水取り 松明調達の道」とある。

Img_6221 南東方向の山

頂上部分が平坦だ。山の名は?

Img_6223 旧道に入り黒田橋へ向かう。《地図

Img_6224 観世音菩薩塔(右・宝暦5年(1755))

Img_6229 町石(大正5年)

「第五十三番黒田村弘法大師霊場 従是五丁 無動寺」・「国寶 不動明王 大正五年十月」、無動寺は北西にある。木造不動明王像は国の重文。

Img_6232 黒田橋を渡る。 《地図

左に地蔵の小祠と小さな道標。

法然寺への道標だそうだが、どこにあるのか、あったのか? 南町の西方寺のことか? よく分からず。

Img_6239 道標(天保15年(1844)黒田橋の南詰から東詰に移設されたもの。

「右はせならみち」・「左あめがたき」、「あめがたき」とは滝か?どこにあるのか?

Img_6244 宇陀川(左)が名張川と合流する。

新町橋(名張川)を渡り名張宿に入る。

Img_6246 北村酒造(天保8年(1837)創業)

純米吟醸酒「旭金時」

Img_6250 名張宿の家並み 【ル-ト地図】の②

Img_6252 江戸川乱歩生誕地碑①

乱歩の祖父の代までは津藩の藤堂家の藩士だったそうだ。この先にも碑が立つ。
名張といえばどうしても『名張毒ぶどう酒事件』が思い浮かんでくる。

Img_6264 栄林寺

元和5年(1619)に鍛冶町で酒造業をはじめた初代辻源次郎が檀家となり、浄誉を中興開山として創建したという。

Img_6265 酒屋木屋正(文政元年(1818)創業)

伊賀の地酒「高砂」・「而今」

Img_6277 鍛冶町通り

「えびすの町」だが今は商売繁盛には見えない通りだ。

Img_6271 蛭子(えびす)神社 《地図

「隠市守宮」で、倭姫命が天照大神を奉じて伊勢へと向かう途中で、大神を祀った市守宮であるという伝承がある。

Img_6274 清風亭

鰻料理が名物の料理旅館。江戸川乱歩も通ったとか。

Img_6281 丁子屋 《地図

呉服屋で街道はここを左折するが直進し、名張藤堂屋敷に寄る。

Img_6282 道標(文政10年(1827))

「ひだり いせミち」・「右はせ  みち」
もとは丁子屋の辻にあったもの。

Img_6285名張藤堂屋敷 【ル-ト地図】の③

津藩藤堂家の一門の藤堂宮内家の屋敷跡。

Img_6290 宇流富志禰(うるふしね)神社の一の鳥居・一本松

鳥居の向うに社殿があると思ったが逆方向だった。(ここは参道の途中ということ)
おかげ参りの盛んな頃、鳥居の下で名物の焼き餅や茶などを出してもてなしたという。

Img_6291 一本松

何と読むのか?

Img_6292 森本造酢店

Img_6294 上八町の家並み 《地図

Img_6296 旧家

Img_6300 両社八幡宮(右) 《地図

ここで県道57号に出て200mほど進む。七見峠越えの道は伊賀ゴルフ場で遮られ通れないので、近鉄大阪線の右に出て、国道165号を上り、桔梗ケ丘を抜けて行く。小波田西交差点から波田橋(小波田川)を渡り伊賀ゴルフ場のそばを通り抜けて行く。

Img_6313 波田橋を渡り静かな道を行く。《地図

Img_6314 姥ケ池→新田池→馬場池沿いを進む。

この先で伊賀市に入る。

Img_6321 伊賀ゴルフ場 《地図

小雪がちらつくこの寒さではゴルファーの姿もなしか。
七見峠越えの街道はこのゴルフ場内を横断していた。峠というほどの高さではないが。

『菅笠日記』には「すこしゆきて、四五丁ばかり坂路をのぼる。この坂のたむけより、阿保の七村を見おろす故に、七見たうげといふよし、里人いへり。されどけふは雲霧ふかくて、よくも見わたされず

Img_6323_2 八丁坂を下って国道165号に出る。《地図

Img_6329 新羽根橋(前深瀬川)の手前

ここが左から来る七見峠越えの道との合流地点。

Img_6330新羽根橋を渡らず右に川沿いを進み、羽根橋を渡り阿保宿へ向かう。《地図

Img_6339 羽根地区の家並み

Img_6340 阿保(あお)宿 【ル-ト地図】の④

伊賀上野に通じる上野街道と津市美杉町に通じる八知街道が分岐する交通の要衝。上野・名張とともに藤堂藩から伊賀の地で3ヵ所だけ許された商業の町として栄え、宿場町としても賑わった。

Img_6345 常夜灯(安政7年(1860)

街道随一の大きさとか。右に八知街道が分岐する。

Img_6344 説明板

Img_6350 説明板

Img_6349 宿場図

常夜灯は左端。阿保頓宮は聖武天皇が伊勢への巡幸をした時に造営し、その後、斎王が伊勢へ往復する時の宿泊所として使用された。室町時代にはここに安保氏が阿保城を築いたそうだ。近くに陵墓に比定されている阿保親王の墓がある。

Img_6347 家並み

Img_6352 若戎の重藤酒造場 《地図

たわらや(俵屋)儀左衛門)の酒造場で銘酒「若戎」の醸造元。
向いの「旅籠たわらや清右衛門」は「初瀬街道交流館」になっていて、参宮講看板などを展示しているようだが見損なった。

Img_6354大村神社参道

日本三大奇鐘のひとつ「虫食鐘」、地震封じの「要石」があるそうだが、ここも寄らなかった。

Img_6357 旧家

Img_6359 菅笠日記碑②(左) 《地図

河づらの伊賀の中山なかなかに見れば過うき岸のいはむら。かくいふは、きのふこえしあほ山よりいづる。阿保川のほとり也。朝川わたりて、その河べをつたひゆく。岡田別府などいふ里を過て、左にちかく阿保の大森明神と申す神おはしますは、大村神社などをあやまりて、かくまうすにはあらじや。なほ川にそひつゝゆきゆきて、阿保の宿の入口にて又わたる。昨日の雨に水まさりて、橋もなければ衣かゝげてかちわたりす。水いと寒し」の部分か。

阿保橋を渡り、木津川沿いを進む。

Img_6361 道標(左下)

「右 いせ道 左 うゑの」

Img_6364 近鉄大阪線

Img_6365 中山トンネルの手前で右に迂回する。《地図

このあたりは伊賀の中山、天狗岩と呼ばれた。

Img_6367 菅笠日記碑③ 【ル-ト地図】の⑤

河づらの伊賀の中山なかなかに見れば過うき岸のいはむら」の歌。

Img_6371 道標 《地図

「右 いせ」で少し先を右斜めに入って行くのだが今日はここまでとし、伊賀上津駅に向かった。

Img_6374 気温は3℃。追い風なのが救いだ。

Img_6375 伊賀上津(いがこうづ)駅

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2013年1月 7日 (月)

初瀬街道②

2012年12月25日

長谷寺駅(近鉄大阪線)・・・参急橋(大和川)・・長谷寺参道・・・伊勢辻・・・伊勢辻橋(大和川)・・下化粧坂・・・愛宕神社・・・下化粧坂・・・與喜天満神社御旅所・・・法起院・・・長谷寺(雲居坂①・・二本の杉・・登廊・・天狗杉・・蔵王堂・紀貫之故里之梅・・雲居坂②・・本堂・・雲居坂③)・・・連歌橋(大和川)・・・素戔雄神社・・・玉鬘庵跡・・・與喜天満神社・・與喜寺跡・・上化粧坂・・・庚申の辻・下化粧坂合流地点・・・桜井浄水場・多羅尾瀧道標・・国道165号・・・吉隠バス停・旧道・・・道標・・国道165号・・(宇陀市)・・・春日宮御陵道標・・・西峠交差点・旧道・・・道標・・ムラサキ地蔵堂(西峠会所)・・・墨坂伝承地碑①・・道標・・萩原(榛原)宿・・墨坂伝承地碑②・・札の辻(伊勢本街道と初瀬街道の追分)・旅籠あぶらや・道標・・・宗祐寺・・・金平稲荷神社・・・椋下神社・・・孝心塔の辻・道標・・・(榛原バイパス)・・・観音寺道標・・・国道165号・・・榛原第八踏切(近鉄大阪線)・・・ぬれ地蔵・・・(近鉄線)・・・国道165号・・・緑の道標・・半焼橋(宇陀川)・・・(近鉄線)・・・(国道165号)・・(近鉄線)・・・道標・・・大野寺・磨崖仏・・・大野海神社・・・(室生口大野駅)・・・(近鉄線)・・・えび坂・・・北向地蔵・・・元三宿・・相馬醤油店・・上ぬしや(西澤家)・・元三の道標・・旅籠ますや・ぬしや・・・薬師橋(近鉄線)・・長命寺・琴弾峠跡碑・・・琴弾橋・・・国道165号・・・県道242号・・頓光寺・・藤堂藩本陣跡・・・三本松海神社常夜灯・・・三本松駅(近鉄大坂線)

  【ル-ト地図】(20.6km)

 今日からは起伏のある道筋となり、名のついた坂もある。相変わらずの寒さだが、天気もまあまあだし気分よく坂道散歩を楽しめるだろう。

 まずは長谷寺参道から下化粧坂を往復して長谷寺に参拝し、連歌橋から與喜天満神社へ上り、上化粧坂を上り下りし、下化粧坂と合流する庚申の辻から畔道を桜井浄水場へと進み、国道に出て東に西峠へと向う。所々に旧道が残っている。
 初瀬街道(青越え伊勢街道・伊勢表街道)は、萩原(榛原)宿の札の辻で伊勢本街道と分かれ東へ進む。室生ダムのぬれ地蔵や大野寺の磨崖仏などを見ながらえび坂を上り、元三宿から三本松駅まで進んだ。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_5879 長谷寺参道

Img_5883 伊勢辻の道標 《地図

「伊勢の辻」・「右 いせミち」で、ここで参道から右折し伊勢辻橋から下化粧坂を上るのが初瀬街道の新道。

Img_5884 伊勢辻橋(大和川)を渡り左へ上る。

右に行けば長谷山口神社に出る。

Img_5885 下化粧(しもけはい)坂を上る。【ル-ト地図】の①

坂名の由来は長谷寺に参詣する女人たちが急坂で汗をかき化粧を直したからともいう。

Img_5990 坂上方向

Img_5987 愛宕神社から長谷寺方向

絶好のビューポイントというが、冬枯れの今でも木々に遮られていまいちか。

 上化粧坂と合流する庚申の辻まで行き、長谷寺参道に引き返す。

Img_5891 與喜天満神社御旅所

Img_5889 由緒

Img_5893 中山酒店 《地図

長谷の地酒「こもりくの里」
こもりく(隠国(口))は、両側から迫る山に囲まれたような地形で、地名「泊瀬(はつせ)」にかかる枕詞とされる。
「こもりくの泊瀬の山に 照る月は 満ち欠けしけり 人の常なき」(万葉集)

Img_5908 長谷寺仁王門

境内案内

 雲居坂には3説あるそうだ。①二本の杉・俊成、定家の碑の前の坂。②第二回廊の上、蔵王堂から本堂への石段。③第一回廊から本堂への石段。

Img_5871 境内図

仁王門の北側に雲居庵がある。

Img_5913 雲居坂① 【ル-ト地図】の②

坂上を進むと雲居庵があるようで、この坂が本命か。途中に二本の杉。

Img_5914 二本(ふたもと)の杉

源氏物語の「玉鬘(たまかづら)の巻」、それに拠った謡曲「玉鬘」に登場する杉。
本居宣長は『菅笠日記』に、「二本の杉の跡とて、ちひさき杉あり。又すこしくだりて、定家の中納言の塔也といふ、五輪なる石たてり。此ごろやうの物にて、いとしもうけられず」と記す。あまり納得していない様子だ。

Img_5911 説明板

Img_5915 これが定家の五輪塔か?

Img_5917 登廊の途中に出て登る。

Img_5936 蔵王堂(右)・紀貫之故里の梅(正面)

古今集の「初瀬に詣つることに宿りける人の家に久しく宿らて、程経て後に至れりけれは、かの家の主かく定かになむ宿りはあるといひい出して侍りけれは、そこに立てりける梅の花を折りてよめる」 「人はいさ心もしらす故里は花そ昔の香に匂ひける」 久しぶりに訪れた初瀬の宿の主人から「昔のままに宿はあるのに」と皮肉られたことに返答した一種の挨拶歌だそうだ。

Img_5923 雲居坂②

本居宣長はこの坂としている。「貫之の軒端の梅といふもあり、又蔵王堂産霊の神のほこらなど、ならびたてり。こゝより上を雲ゐ坂といふとかや」『菅笠日記』

Img_5927 本堂

Img_5928 五重塔

Img_5930 雲居坂③

上が本堂

Img_5932 坂下方向

登廊から仁王門へ下る。

Img_5935 天狗杉

Img_5940 連歌橋を渡る。《地図

Img_5941 説明板

Img_5943 素戔雄神社ら與喜天満神社へ上る。

Img_5946 素戔雄(スサノオ)神社

県下最大という大イチョウがそびえる。

Img_5948 由緒

Img_5949 玉鬘庵跡

本居宣長は『菅笠日記』で、「川辺にいで、橋をわたりて、あなたのきしに玉葛の君の跡とて庵あり。墓もありといへど、けふはあるじの尼物へまかりてなきほどなれば門さしたり。すべて此はつせに、そのあとかの跡とてあまたある。みなまことしからぬ中にも。この玉かづらこそ、いともいともをかしけれ。かの源氏物語は、なべてそらごとぞともわきまへで、まことに有けん人と思ひて、かゝる所をもかまへ出たるにや」と手厳しく、つれない。

Img_5955 與喜天満神社

表参道の石段を下る。

Img_5969 道標(左下)

「ひだり いせミち」とあるが、ここからだと右へ上化粧坂を上るのが古い道筋。ここへ移された道標か?

Img_5967 上化粧坂 【ル-ト地図】の③

Img_5972 長谷寺方向の眺め

『菅笠日記』では「けはひ坂とて、さがしき坂をすこしくだる。此坂路より、はつせの寺も里も目のまへにちかく、あざあざと見わたされるけしきえもいはず」だが、今はそれほどの景色でもないか。 

Img_5973 坂上方向

Img_5977 坂上近く

Img_5979 庚申の辻に出る。

左下に庚申塔と地蔵の祠。

Img_5980 庚申塔(左端)

Img_5981 庚申の辻

上化粧坂(右)・下化粧坂(左)の合流地点の道標。(振り返って見ている)

ここまで来るのに2時間近くを費やしてしまった。先を急ごう。

Img_5995 集落を抜けて行く。

Img_5997 畦道を桜井浄水場に向かって進む。《地図

Img_6000 道標(元文元年(1736))

「従是四丁 多羅尾瀧」、多羅尾不動堂への道標だそうだが、滝がどこにあるのか分からず。

国道165号に出て東に西峠へ向かう。部分的に旧道が残っている。

Img_6005 石屋根囲いの地蔵(左)

ちゃんとした祠が欲しそうだった。

Img_6008 近鉄大阪線が街道の南を通る。

Img_6010 吉隠(よなばり)バス停の先で右に旧道に入る。

「降る雪はあはには降りそ吉隠の猪養(いかい)の岡のさむからまくに」但馬皇女の死を悲しむ穂積皇子の歌。『万葉集

Img_6013 道標(文化4年(1807))

Img_6014 「右 いせ」

Img_6020 宇陀市に入り、西峠へと緩やかな上りが続く。

この先の廃パチンコ店から右へ入る旧道が残るようだ。

Img_6027 西峠交差点から旧道に入る。

西峠が古代の墨坂だろう。墨坂神社の旧社地も付近にあった。

Img_6029 旧道 《地図

Img_6030 道標(上のガードレールの所)

伊勢街道と戒場薬師(戒長寺)を示すというが読めず。この少し上に西峠会所がある。木造薬師如来坐像を安置し、永仁2年(1294)の石仏の断片(ムラサキ地蔵)が残るそうだ。

初瀬街道は直進する。

Img_6033 説明板

Img_6036 斜め右へ入って萩原(榛原)宿へ。

Img_6037 墨坂伝承地碑① 《地図

神武天皇が国中へ侵攻の途中、墨坂では八十梟師(やそたける)が「おこし炭」をおいて防御した。『日本書紀』

Img_6040 「伊勢本街道」の道標(平成2年)

ここを下って行くのだがうっかり見逃して、かなり進んでしまった。

Img_6042 前川家

萩原宿の北端の旧家

Img_6045 墨坂伝承地碑②

坂下から「伊勢本街道」のアーチの架かる道を進む。

Img_6047 坂上方向を振り返る。

墨坂①②とも日本書紀に出てくる坂にしては役不足といった感じだ。

Img_6049 札の辻(伊勢本街道(直進)と初瀬街道(左折)の追分)・旅籠あぶらや 【ル-ト地図】の④

旧南都銀行前に道標が立つ。

Img_6050 説明板

Img_6052あぶらや」(油屋)は「菅笠日記」の旅での本居宣長一行の2泊目の宿

松阪からここまで2日で歩いていまうのだから昔の人にはかなわない。それも長谷まで行く予定が2日間とも雨にたたられ、やむなくここに泊まったのだからなおさらだ。
こよひ雨いたくふり。風はげしきに、故郷のそらはさしおかれて、まづ花の梢やいかになるらんと、吉野の山のみ、よひとよやすからず思ひやられて、いとゞめもあはぬに、此やどのあるじにやあらん、よなかにおき出て、さもいみしき雨風かな、かくて明日はかならずはれなんとぞいふなる。きゝふせりて、いかでさもあらなんと、ねんじをり

宣長一行は吉野、飛鳥からの帰りにも、ここに泊まり(12泊目)、夜明け前に雨の中を伊勢本街道で松阪に向かっている。

Img_6051 道標

「右 いせ本かい道 左 あをこ江みち」で、「左 青(阿保)越え江みち」が初瀬街道(伊勢表街道)

Img_6054 宗祐寺

「聖徳太子殺生戒旧蹟」で、太子の創建とも伝える。

Img_6058 榛原の家並み

Img_6061 椋下神社 《地図

Img_6060 由緒

Img_6065 道標(正面)

左に「孝心塔」と小祠が立つ辻。

Img_6066 「右 いせ 左は 山 道」

Img_6070 観音寺道標

「是より二丁」とあるが、そんな近くに寺はあるのか?

国道165号に出て2kmほど進み、右に榛原第八踏切(近鉄大阪線)を渡る。《地図

Img_6076 通行止めか?

ちょっと不安になるが、だめなら戻って国道を行けばいいか。

Img_6082 ぬれ地蔵(正面中央) 《地図

室生ダムが増水時は水没するそうだ。

Img_6081 説明板

Img_6086 山辺三(やまべさん)の家並み

この先で近鉄線をくぐる。

Img_6088 えのきの大木

Img_6089 国道に出て上る。

旧道は左側の山手を通っていたそうだ。

Img_6092 緑の道標(左)

休憩所になっている。

Img_6093 説明板

すぐ先右の半焼橋を渡る。半分焼け落ちているのではないから心配ない。

Img_6096 近鉄線沿いを下り、近鉄線・・国道165号・・・近鉄線とくぐりを繰り返す。旧道は国道と近鉄線によって消滅してしまったのだろう。

Img_6097 車は通れないだろう。

Img_6106 道標(ミラーの下)

「右 室生山道」 ここを右折し大野寺に寄る。

Img_6108 大野寺の弥勒磨崖仏 《地図

薄れていて線刻画、壁画のようだ。宣長が訪れた時(明和9年(1772))も、「大野寺といふてらのほとりに、又あやしき岩あり。道より二三町左に見えたり。こは名高くて、旅ゆく人もおほく立よる所也といへば、ゆきて見るに、げにことさらに作りてたてたらんやうなるいはほのおもてに、みろくぼさちの御かたとてゑりつけたる、ほのかに見ゆ」で、すでにうっすらとしか見えなかったようだ。

Img_6111 説明板

Img_6112 大野海神社

奈良に海はなくとも海神社。祭神は海神の綿津見神の娘の豊玉姫命で、「山幸彦と海幸彦」神話に登場する。

室生口大野駅の先でまた近鉄線をくぐる。

Img_6115 えび坂を上る。 【ル-ト地図】の⑤

Img_6116 北向地蔵(右)

林の中の道となる。

Img_6119 坂上から

中央下は室生口大野駅

Img_6121 正面の民家の左側の、隣家との間の細い道を入って行く。

分かりにくい所だ。

Img_6123 少し地道を進み、元三の宿場に入る。舗装道路に出る手前の右側に赤い鳥居の社がある。

Img_6125 相馬醤油店の敷地内を抜ける。

Img_6129 上ぬしや

本陣を務めていた西澤家。

Img_6130 旅籠「ますや」・「ぬしや」が並ぶ。

元三の宿場は榛原の宿と名張の宿の中間地点。

Img_6134 ますや

Img_6139 ぬし(主)屋(西岡家)

Img_6131 道標・三本松村道路元標

Img_6133 説明板

Img_6141 琴弾峠あたりか

①義経が静との逃避行の時に琴を弾いた。②全国行脚をした北条時頼が琴を弾いた。などの伝承があるそうだ。

ここは大和から伊賀への最初の峠で、伊賀国境への標石、制札場、茶屋、藤堂藩の郷倉屋敷もあったという。

薬師橋(近鉄線の跨線橋)を渡って長命寺へ

Img_6144 長命寺

左に「源義経公参籠伝承地」碑が立つ。義経が流浪の折り、如来に宿願し琴を弾いたとか。京で育った義経は琴も弾けたのか。武士らしくなく、頼朝から嫌われるのも当然か。

Img_6147 琴弾峠跡碑

もとは跨線橋の手前にあったそうだ。

Img_6148 碑文

芭蕉・宣長・義経の名が見える。

Img_6150 近鉄線沿いを下る。

三本松の宿場に入る。

Img_6157 藤堂藩本陣跡

向い側に庭園が残るそうだが見落とした。

Img_6158 三本松海神社常夜灯

Img_6160 三本松駅へ着く。三重県境は近い。

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2013年1月 5日 (土)

上街道・初瀬街道①

2012年12月24日

近鉄奈良駅・・・辷坂・・猿沢池・・奈良町通り(道祖神社・・住吉神社・・元興寺・・奈良町資料館・・庚申堂・・元興寺塔跡・・御霊神社・・格子の家・・高林寺)・・・岩井橋(岩井川)・・・青井神社・・・富池・・・地蔵院橋(地蔵院川)・・・帯解寺・・・龍象寺・・・(天理市)・・・蔵之庄大橋(菩堤仙川)・・稲荷神社・・八王子神社・・・楢神社・・・長林寺・・道標・・・道標・土橋・・・奈良警察署櫟本分署跡・・・市場自治会館・・馬つなぎ遺構・・・(西名阪道)・・・在原寺跡・・・花園寺・・・浄土院・・・天理教詰所群・・・宮崎酒造・・・市場遺構・・市座神社・・・南池・・・八坂権現・・・芭蕉句碑・・・(国道169号)・・・岡地蔵・・・朝日観音堂・・・東池・・・(国道169号)・・・大池・・・大和神社参道・・・矢矧塚古墳・・・長岳寺五智堂・・・黒塚古墳・・・伊射奈岐神社参道・・・(石名塚古墳)・・新池・・・(桜井市)・・・大兵主神社石標・・・(国道169号・JR桜井線跨線橋)・・・箸墓古墳・・・大神神社鳥居・・・纏向(まきむく)川・・・三輪の茶屋跡・・・道標・・・恵比須神社・・・心念寺・・・春日神社・・・初瀬街道踏切(JR桜井線)・・・道標・・・馬井出橋(大和川)・仏教伝来地碑・・・県道199号・・・慈恩寺北交差点・・追分・初瀬街道・・・脇本地蔵堂・・・朝倉村道路元標・・・白山神社参道・・・国道165号・・・流れ地蔵堂・・・旧道・・・十二柱神社・・・国道165号・・・長谷寺参道・・・参急橋(初瀬川)・・(国道165号)・・・長谷寺駅(近鉄大阪線)

  【ル-ト地図】(28.3km)

 大阪から暗峠を越えて来た暗越奈良街道、京都からの伏見街道大和街道(奈良街道)は、猿沢池から上街道となって南下する。古代の官道の上ツ道、初瀬から伊勢へ向かう伊勢本街道の道筋でもある。
 寒さが一段と増してきた中を、初瀬街道との追分の朝倉を過ぎた長谷寺の参道まで行く。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_5530 猿沢池から興福寺五重塔

Img_5532 奈良町通りに入る。 《地図

このあたり一帯は奈良時代の元興寺の伽藍跡。

Img_5537 道祖神社(猿田彦神社・左)

街灯の覆いに「上ツ道 伊勢街道」とある。上街道は古代の官道の上ツ道(かみつみち)であり、伊勢参宮街道の一つの伊勢本街道の道筋でもある。

Img_5545 旧家

Img_5548 住吉神社

Img_5558 奈良町物語館

町家を修復して作られた交流・情報館

Img_5560 旧家

Img_5561 ならまちの家並み

正面突当りに地蔵の祠、その左が菊岡漢方薬局。藤原氏の家系で、創業は元暦元年(1184)というから恐れ入る。

Img_5564奈良町資料館

ここは宝徳3年(1451)に戦火で焼失した旧元興寺本堂跡という。

Img_5565 庚申堂

Img_5566 由来

Img_5585 元興寺塔跡 【ル-ト地図】の①

奈良時代の元興寺の東塔(大塔)跡

Img_5580 説明板

Img_5577 伽藍配置図

南北は4町の規模で、(6)大塔が現在地。

Img_5591 御霊神社

Img_5592 祭神

なるほど怨霊にぴったしの人たちが祭神だ。北山の辺の道には早良親王(崇道天皇)を祀る嶋田神社、崇道天皇陵がある。

姫街道の本坂には橘逸勢の墓がある。

Img_5596 砂糖傳

熱心に商品を見ているおじさんがいる。こちらは甘い物は素通りだ。

Img_5600 格子の家 《地図

Img_5603 高林寺

当麻曼荼羅の中将姫ゆかりの尼寺で、「中将姫修道霊場」碑が建つ。

Img_5608 常夜灯

「天照皇太神宮」(伊勢神宮)と刻む。文政の「おかげ参り」の年、文政13年(1830)の建立。この年には427万人が伊勢神宮に参ったそうだ。もとは道路の両側に建っていたのだろう。

Img_5619 雅匠 奥林呉服店

Img_5624 若草山(左)・高円山(右)?

Img_5628 帯解寺(おびとけでら) 《地図

山号が「子安山」の安産祈願の寺。世継ぎに恵まれなかった文徳天皇后の染殿皇后(藤原明子)が当寺にて祈願をしたところ、惟仁親王(後の清和天皇)が生まれたことから、天安2年(858)文徳天皇の勅願により伽藍が建立され、勅命により帯解寺と名乗るようになったという。

Img_5633 龍象寺 《地図

ここも「安産子授け」の寺で、「帯解子安地蔵尊」を本尊とする。帯解寺とは縁起の違い(この寺の方が古い)、宗派の違いだけなのか? 本家・元祖争いはあるのか? まあ、どうでもいいが。

Img_5638 蔵之庄大橋(菩堤仙川)

Img_5648 楢(なら)神社の銅の鳥居 《地図

Img_5649 長林寺(左)正面分岐に道標が2基。

Img_5652 道標

このあたりと「和珥(わに)坂下伝承地」は『奈良(記紀の坂)』で歩いている。
「左 不動山大師道」の不動寺は近年廃寺になったとか? ミニ四国八十八ヶ所巡りの石仏があるようだ。

Img_5662_2 道標(享保?年・電柱右下)

土橋の手前から振り返る。

Img_5659 「右 なら 左 たつた みち」・「右 ・・・ 左 はせミち」?

Img_5665 奈良署櫟本分署跡

天理教教祖中山みきは、ここに明治19年2月18日から12日間拘留された。

Img_5670 馬つなぎ遺構(市場自治会館から東に高瀬街道に入った所) 《地図

Img_5668_2 説明板

Img_5673在原寺跡(在原神社) 【ル-ト地図】の②

ここに楼門があった。

Img_5684 説明板

Img_5677 井筒

謡曲井筒の舞台の井戸。井筒と伝える所は他にもあったのだが、どこだったか思い出せない。

Img_5676 説明板

Img_5678 芭蕉句碑

「うぐひすを 魂(たま)にねむるか 嬌柳(たおやなぎ)」

Img_5693 浄土院の先の家並み 《地図

この先を右折し、天理教の詰所の間を抜けて行く。

Img_5695 天理駅から天理教本部へのアーケード商店街を横切る。

Img_5697 宮崎酒造 《地図

「白堤」の醸造元

Img_5707 魚市場跡

道の中央の水路が覆われている。ここは天理市丹波町。

Img_5706_2この時点には水路は覆われていた。

Img_5708 市座神社 【ル-ト地図】の③

市場の守護神

Img_5715_2 八坂権現

文久3年(1863)9月25日、岡見留次郎ら5人(6人?)の天誅組の志士は、この社の裏手で津藤堂藩兵によって捕らえられ、文久4年(元治元年)2月16日、京都六角の獄で斬首されたという

Img_5716 芭蕉句碑と藤棚 《地図

Img_5717 説明板

Img_5720 岡地蔵

Img_5723 笑っているような地蔵さん。

Img_5724 東池

このあたりは溜池が多い。

Img_5728 大和(おおやまと)神社参道 《地図

今日はここから遥拝のみ。

Img_5730 矢矧塚(やはぎづか)古墳

墳丘は私有の果樹園になっているか。

Img_5731 説明板

Img_5734 営業しているのだろうか?

Img_5738 長岳寺五智堂 【ル-ト地図】の④

長岳寺は離れた東方にある。

Img_5737 説明板

Img_5746 黒塚古墳 (前方部北側から)《地図

33面の三角縁神獣鏡が出土したことで一躍有名になった古墳。

Img_5750 雪がちらついてきた。南に向かっているので北からの追い風と思っていたが、冷たい南風も吹いて来て寒い寒い。

Img_5751 伊射奈岐神社参道

Img_5752 二上山がうっすらと見える。

Img_5761 柳本町の家並み

Img_5753 三輪山

登ったのはもう7年前になる。

Img_5762_2 大兵主神社鳥居・石標

ここから1.6kmほど東方だ。

Img_5768 箸墓古墳(JR桜井線の跨線橋から) 《地図

孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の墓として管理されているが、卑弥呼の墓とする説もある。

Img_5774 大神(おおみわ)神社一の鳥居

Img_5775 三輪の茶屋跡(左へ)

近松門左衛門の「冥途の飛脚」の舞台だそうだ。三段目に奈良の旅籠屋三輪の茶屋が登場するようだ。二段目の「封印切り」の場面だけは知っている。

Img_5777 「忠兵衛 梅川之碑」と由緒碑

ここは民家の庭で、早々に引き上げる。

Img_5785 道標 《地図

正面の塀の前。

Img_5786 「左 はせ いせ・・・・」で、ここを左折し、恵比須神社の角を右折して行く。

Img_5789 小屋根看板

看板の文字は消えかかっていて店の名は分からず。今は営業していないか。

Img_5791 恵比須神社

日本最初の市場、海石榴市(つばいち)の守護神。

Img_5793 由緒

Img_5797 白玉屋の看板

創業弘化元年(1844)という和菓子店。名物は最中の「みむろ」だが、甘い物はパスよ。

Img_5802 今西酒造

「三諸杉」・「鬼ごのみ」、これは俺ごのみだ。呑みたいねえ。でも先が長い我慢、我慢。

春日神社の先、出口橋(大和川)の手前で左折し、初瀬街道踏切(JR桜井線)を渡り、「山の辺の道」と合流し東に向かう。金屋の石仏・海柘榴市(つばいち)観音堂・仏教伝来地碑などがある。

Img_5809 金屋の家並み 《地図

Img_5811 説明板

Img_5812 道標(正面) 《地図

「左 はせ いせ」

Img_5821 大和川の堤を行く。

河原に並ぶのは錺馬。

Img_5823 錺馬(かざりうま・飾馬)

遣隋使小野妹子が、隋使裴世清(はいせいせい)を伴って帰国し飛鳥の京に入る時、錺馬75匹を遣わして海柘榴市の路上に迎え、額田部連比羅夫(ぬかたべのむらじひらふ)が挨拶の言葉をのべた。『日本書紀』

県道199号に出て西に長谷寺方向に向かう。慈恩寺北交差点を横切り、すぐ先の追分の辻を上街道の終点とし、初瀬街道の始点とした。

Img_5827 追分の辻 【ル-ト地図】の⑤

本居宣長は明和9年(1772)3月の『菅笠日記』(行程表)の旅で、住まいの松阪(三重県)から西へ初瀬街道をたどり、長谷寺に詣で、ここから吉野に向かった。

「此里の末を 追分とかいひて 三輪の方へも桜井のかたへもゆく道のちまた也。 今はそのすこしこなたより 左へわかれ 橋をわたりて 多武の峯へゆく細道にかゝる」

Img_5832朝倉の家並み

Img_5834 脇本地蔵堂(左)

Img_5840 朝倉村道路元標

県道北側の東海自然歩道沿いには玉列神社・春日神社・白山神社などがあるが訪れたことがあるのでパスした。

Img_5846 白山神社参道

ここ黒崎には名物の饅頭があった。「此くろざき(黒崎)に家ごとにまんぢうといふ物をつくりてうるなれば、かのふりにし宮どもの事、たづねがてら、あるじの年おいたるがみゆる家見つけて、くひに立よる」菅笠日記

Img_5851 流れ地蔵堂

Img_5852 説明板

Img_5853 流れ地蔵

腰から下は地下に埋まっている。

Img_5858 十二柱(じゅうにはしら)神社 《地図

出雲村の村社。力士4人が狛犬の台座を支えている。出雲の地名は出雲国出身の土師氏の祖、相撲の元祖の野見宿彌によるという。

Img_5861 説明板

出雲人形

Img_5863 野見宿彌五輪塔

野見宿彌の古墳と伝える塚上にあったものを、明治16年にここに移した。

Img_5862 由来

Img_5872 長谷寺参道に入る。《地図

途中で右折し、参急橋(大和川)を渡り、国道165号を横切り、坂を上って長谷寺駅に出た。

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2013年1月 3日 (木)

大和街道(奈良街道)

2012年12月23日

観月橋駅(京阪宇治線)・・・旅館月見館・・国道24号・観月橋(宇治川)・・旧道・・小倉堤跡・・・向島駅(近鉄京都線)・・・二の丸橋・・・(京滋バイパス)・・・巨椋池の水路・・・0の通り~12の通り・・・槇島交差点・・・巨椋神社・・地蔵院・・観音寺・・・(井川)・・・小倉西山交差点・国道69号・・・(伊勢田駅(近鉄京都線))・・・旧道・・・宇治屋の辻・道標・・・(新田駅(JR奈良線))・・・皇大神宮社・・・円蔵院・・・(城陽市)・御拝茶屋八幡宮・・・芭蕉塚古墳・・・久津川車塚古墳・・・平川廃寺跡・・・久世神社・・・(城陽駅(JR奈良線))・・・玉池・・・府道69号・・・宮の谷川・・・国道24号・・・長池交差点・府道70号・・・長池の道標・・・(長池駅(JR奈良線))・・・山背古道分岐地点・・・南城陽中学校・・・仲谷橋(長谷川)・・・青谷橋(青谷川)・(井出町)・・・山城多賀駅・・・南谷川・・・石山街道踏切(JR奈良線)・・・玉水駅(JR奈良線)・・・上玉川橋(玉川)・・・玉川寺・・・川田道踏切(JR奈良線)・・・阿弥陀寺・・・棚倉小学校・旧道・・・(不動川)・・・第二平尾踏切(JR奈良線)・・・涌出宮・・棚倉駅(JR奈良線)

 【ル-ト地図】(21.3km)

 クリスマス寒波の中を京都→奈良→三重へ、大和街道(奈良街道)・上街道(上ツ道・伊勢本街道)・初瀬街道(青越え伊勢街道・伊勢表街道)を伊勢街道との合流地点の松阪手前の三渡橋まで歩く。
 部分的には歩いた所も多く、気楽に今年最後の街道歩きとしたい所だが、ちょうど初瀬街道の難所の青山峠を越えるあたりが寒波のピークになりそうで、今年1月の高野山町石道、3年前の四国遍路での66番雲辺寺と同様に雪中行軍になるかも。

 まずは伏見街道の終点の観月橋を渡り、京都市伏見区→宇治市→城陽市→井出町→木津川市へと大和街道を南下する。 

 写真をクリックすると拡大します。

Img_5302 観月橋(宇治川) 

桂橋(鎌倉時代)→豊後橋(桃山時代)→鳥羽伏見の戦で焼け落ち明治になって復旧され、月を観るのに格好の場所ということで、この橋名になったそうだ。

Img_5308 三十石船旅館月見館の玄関前) 《地図

宇治川を巡航していた木造船を引き上げて、当時の資料から復元したもの。

Img_5314 小倉堤(巨椋(おぐら)堤・太閤堤)跡を行く。【ル-ト地図】の①

巨椋池の中を縦断する秀吉が築いた堤で、伏見城下から向島に宇治川を渡る豊後橋(現観月橋)を架橋し、堤上を通り伏見と奈良の距離を縮める大和街道の道筋。道の左右は少し低くなっている。

Img_5330 向島(むかいじま)駅

向島地区には秀吉が築いた向島城があった。本丸町、二ノ丸町、二の丸小学校、二の丸橋などがその名残りだ。

Img_5338 落合地区 《地図

ここも小倉堤上だろう。正面は「えのきむくの木」(樹齢250年以上)

Img_5348 巨椋池跡の水路 【ル-ト地図】の②

ここはすり鉢状だった巨椋池の堤防近く。

Img_5351 ありし日の巨椋池

池というより湖のようだ。
昭和8年からの干拓事業で農地に生まれ変わった。

Img_5354 「0の通り~12の通り」まで進み、近鉄線京都線から離れ南東に入って行く。

Img_5363 巨椋神社 《地図

巨椋池のほとりに住んでいた巨椋氏一族が祖神を祀ったのが創始だが、今は子安神社として有名なようだ。巨椋氏(小椋氏)は、「ろくろ」を使って木材を削り、鉢や盆などの木製品を作る木地師(きぢし)の集団だったという。

Img_5369 山政小山園

このあたりには宇治茶の製茶問屋が多い。

Img_5383 宇治屋の辻 【ル-ト地図】の③

左角に道標「左 なら道」・「右 うぢミち」・「左 京道」で、ここは左から来る旧大和街道との合流地点。旧大和街道は巨椋池を避けて、深草大亀谷から六地蔵を経由していた。その一部は『伏見街道』で歩いている。

Img_5394 御拝茶屋八幡宮(右) 【ル-ト地図】の④

宇治市から城陽市に入る。

Img_5397 御拝茶屋八幡宮

このあたりは峠状になっていて、ここから旅人が西方の石清水八幡宮を遥拝したというが、今はとても無理。左はエノキの大木。

Img_5402 今はここが遥拝所のようだ。

この先、芭蕉塚古墳・平川廃寺・久世神社・久世の鷺坂などは、『城陽市の坂』に記載。

Img_5420 旧家

向い側に長池の道標が立つ。

Img_5421 長池の道標(昭和3年) 《地図

「南 奈良街道」を進む。

Img_5431 このあたりは『山背古道①』で歩いて見覚えがある。京都へ5里、奈良へ5里の中間地で、「五里五里の里」と呼ばれ、秀吉の時代には宿場が置かれ 賑わっていたという。

Img_5432 旧家

Img_5436 旧家

Img_5442_2 山背古道分岐(左) 《地図

大和街道は直進。

Img_5451 坂を下って行く。

Img_5452 青谷梅林

城陽市は、梅の実の生産量が京都府一で、梅干し工場も多いようだ。

Img_5456_2 青谷小学校のクスノキ 《地図

Img_5460 ここを左に入ればすぐに山背古道に出る。《地図

Img_5465 青谷橋 《地図

青谷川は天井川で、JR奈良線は川の下の青谷川トンネルを通る。

Img_5471 青谷橋から

川はすぐ下を流れているから、かなり高い位置にある。

山城多賀駅を過ぎ、JR奈良線の西側に出て南下する。玉水駅を過ぎ左折に玉川沿いを少し進み、上玉川橋を渡り南下する。

Img_5492 「井出の玉川」堤 【ル-ト地図】の⑤

日本六玉川の一つ。

Img_5495 玉川寺

Img_5514 不動川をくぐる。《地図

上を川が流れているようには見えないが。

Img_5521 旧家

以仁王墓・高倉神社・綺原(かんばら)神社・蟹満寺・涌出宮などは、『山城古道②』に記載。

この先でJR奈良線の踏切を渡り、線路沿いに棚倉駅に向かった。

Img_5524 棚倉駅

この先、奈良の猿沢池までは『山背古道②』・『奈良市の坂②』へ続く。

 

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