上街道・初瀬街道①
2012年12月24日
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【ル-ト地図】
大阪から暗峠を越えて来た暗越奈良街道、京都からの伏見街道→大和街道(奈良街道)は、猿沢池から上街道となって南下する。古代の官道の上ツ道、初瀬から伊勢へ向かう伊勢本街道の道筋でもある。
寒さが一段と増してきた中を、初瀬街道との追分の朝倉を過ぎた長谷寺の参道まで行く。
写真をクリックすると拡大します。
このあたり一帯は奈良時代の元興寺の伽藍跡。
街灯の覆いに「上ツ道 伊勢街道」とある。上街道は古代の官道の上ツ道(かみつみち)であり、伊勢参宮街道の一つの伊勢本街道の道筋でもある。
町家を修復して作られた交流・情報館
正面突当りに地蔵の祠、その左が菊岡漢方薬局。藤原氏の家系で、創業は元暦元年(1184)というから恐れ入る。
ここは宝徳3年(1451)に戦火で焼失した旧元興寺本堂跡という。
奈良時代の元興寺の東塔(大塔)跡
南北は4町の規模で、(6)大塔が現在地。
なるほど怨霊にぴったしの人たちが祭神だ。北山の辺の道には早良親王(崇道天皇)を祀る嶋田神社、崇道天皇陵がある。
熱心に商品を見ているおじさんがいる。こちらは甘い物は素通りだ。
当麻曼荼羅の中将姫ゆかりの尼寺で、「中将姫修道霊場」碑が建つ。
「天照皇太神宮」(伊勢神宮)と刻む。文政の「おかげ参り」の年、文政13年(1830)の建立。この年には427万人が伊勢神宮に参ったそうだ。もとは道路の両側に建っていたのだろう。
山号が「子安山」の安産祈願の寺。世継ぎに恵まれなかった文徳天皇后の染殿皇后(藤原明子)が当寺にて祈願をしたところ、惟仁親王(後の清和天皇)が生まれたことから、天安2年(858)文徳天皇の勅願により伽藍が建立され、勅命により帯解寺と名乗るようになったという。
ここも「安産子授け」の寺で、「帯解子安地蔵尊」を本尊とする。帯解寺とは縁起の違い(この寺の方が古い)、宗派の違いだけなのか? 本家・元祖争いはあるのか? まあ、どうでもいいが。
このあたりと「和珥(わに)坂下伝承地」は『奈良(記紀の坂)』で歩いている。
「左 不動山大師道」の不動寺は近年廃寺になったとか? ミニ四国八十八ヶ所巡りの石仏があるようだ。
土橋の手前から振り返る。
「右 なら 左 たつた みち」・「右 ・・・ 左 はせミち」?
天理教教祖中山みきは、ここに明治19年2月18日から12日間拘留された。
馬つなぎ遺構(市場自治会館から東に高瀬街道に入った所) 《地図》
在原寺跡(在原神社) 【ル-ト地図】の3
ここに楼門があった。
謡曲井筒の舞台の井戸。ここから移されたという元の井筒?が金沢の卯辰山にある。『金沢市の坂⑥』
在原業平ゆかりの地は落語『千早振る』に記載。
「うぐひすを 魂(たま)にねむるか 嬌柳(たおやなぎ)」
浄土院の先の家並み 《地図》
この先を右折し、天理教の詰所の間を抜けて行く。
宮崎酒造 《地図》
「白堤」の醸造元
道の中央の水路が覆われている。ここは天理市丹波市町。
市場の守護神
文久3年(1863)9月25日、岡見留次郎ら5人(6人?)の天誅組の志士は、この社の裏手で津藤堂藩兵によって捕らえられ、文久4年(元治元年)2月16日、京都六角の獄で斬首されたという。
芭蕉句碑と藤棚 《地図》
このあたりは溜池が多い。
大和(おおやまと)神社参道 《地図》
今日はここから遥拝のみ。
墳丘は私有の果樹園になっているか。
長岳寺五智堂 【ル-ト地図】の5
長岳寺は離れた東方にある。
33面の三角縁神獣鏡が出土したことで一躍有名になった古墳。
雪がちらついてきた。南に向かっているので北からの追い風と思っていたが、冷たい南風も吹いて来て寒い寒い。
伊射奈岐神社参道
登ったのはもう7年前になる。
大兵主神社鳥居・石標
ここから1.6kmほど東方だ。
孝霊天皇の皇女、倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)の墓として管理されているが、卑弥呼の墓とする説もある。
大神(おおみわ)神社一の鳥居
近松門左衛門の「冥途の飛脚」の舞台だそうだ。三段目に奈良の旅籠屋三輪の茶屋が登場するようだ。二段目の「封印切り」の場面だけは知っている。
ここは民家の庭で、早々に引き上げる。
道標 《地図》
正面の塀の前。
「左 はせ いせ・・・・」で、ここを左折し、恵比須神社の角を右折して行く。
看板の文字は消えかかっていて店の名は分からず。今は営業していないか。
日本最初の市場、海石榴市(つばいち)の守護神。
白玉屋の看板
創業弘化元年(1844)という和菓子店。名物は最中の「みむろ」だが、甘い物はパスよ。
「三諸杉」・「鬼ごのみ」、これは俺ごのみだ。呑みたいねえ。でも先が長い我慢、我慢。
春日神社の先、出口橋(大和川)の手前で左折し、初瀬街道踏切(JR桜井線)を渡り、「山の辺の道」と合流し東に向かう。金屋の石仏・海柘榴市(つばいち)観音堂・仏教伝来地碑などがある。
金屋の家並み 《地図》
道標(正面) 《地図》
「左 はせ いせ」
河原に並ぶのは錺馬。
遣隋使小野妹子が、隋使裴世清(はいせいせい)を伴って帰国し飛鳥の京に入る時、錺馬75匹を遣わして海柘榴市の路上に迎え、額田部連比羅夫(ぬかたべのむらじひらふ)が挨拶の言葉をのべた。『日本書紀』
県道199号に出て西に長谷寺方向に向かう。慈恩寺北交差点を横切り、すぐ先の追分の辻を上街道の終点とし、初瀬街道の始点とした。
本居宣長は明和9年(1772)3月の『菅笠日記』(行程表)の旅で、住まいの松阪(三重県)から西へ初瀬街道をたどり、長谷寺に詣で、ここから吉野に向かった。
「此里の末を 追分とかいひて 三輪の方へも桜井のかたへもゆく道のちまた也。 今はそのすこしこなたより 左へわかれ 橋をわたりて 多武の峯へゆく細道にかゝる」
県道北側の東海自然歩道沿いには玉列神社・春日神社・白山神社などがあるが訪れたことがあるのでパスした。
白山神社参道
ここ黒崎には名物の饅頭があった。「此くろざき(黒崎)に家ごとにまんぢうといふ物をつくりてうるなれば、かのふりにし宮どもの事、たづねがてら、あるじの年おいたるがみゆる家見つけて、くひに立よる」『菅笠日記』
腰から下は地下に埋まっている。
十二柱(じゅうにはしら)神社 《地図》
出雲村の村社。力士4人が狛犬の台座を支えている。出雲の地名は出雲国出身の土師氏の祖、相撲の元祖の野見宿彌によるという。
野見宿彌の古墳と伝える塚上にあったものを、明治16年にここに移した。
長谷寺参道に入る。《地図》
途中で右折し、参急橋(大和川)を渡り、国道165号を横切り、坂を上って長谷寺駅に出た。
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