初瀬街道④
2012年12月27日
伊賀上津駅(近鉄大阪線)・・・善福寺・・・菅笠日記碑・・伊勢路橋(青山川)・・伊勢地宿・・旅籠徳田屋跡・・・国道165号・・・(近鉄大阪線)・・・(西青山駅)・・・(近鉄大阪線)・・・旧道・・弘法大師講石仏・・国道165号・・・伊賀茶屋跡・乗馬クラブ・・・青山歩道橋・・・青山トンネル手前・県道512号・・・青山峠・・旧道・・・国道165号・・・旧道・・・国道165号・・・白山トンネル手前・・旧道・・・役行者像・・小峠・・・国道165号・・・旧道・八重坂・・・花山橋(垣内川)・・・垣内宿・・元標・・乗渓寺・・・国道165号・・・川久保橋・・旧道・・・(国道165号)・・・寺前橋(大村川)・・・成願寺・・・白山町郷土資料館・・・高樋橋(大村川)・・・白山比咩神社道標・・・称名寺・・・山の神塔群・・・道標・・・東明寺(二本木区会所)・二本木宿・・旅籠角屋・丁子屋・・・楠木橋(大堂川)・・・亀ケ広の桜堤・・・小川橋・・・笠着地蔵・さかさ地蔵・・・誕生寺道標・真盛上人誕生地道標・・・大仰橋(雲出川)・・県道15号・・旧道・・・県道15号・・谷戸坂・旧道・谷戸峠・・・県道15号・・・旧道・・・田尻交差点・・・川合高岡駅(近鉄大阪線)
【ル-ト地図】
伊勢地宿から時々風に雪が舞う青山峠(青越え・阿保越え・小倭越え)、小峠と越えて垣内宿へと下った。どちらも大した峠ではないが白山トンネルを越える小峠の方が悪路だった。その先の八重坂の長い下りも楽ではなかったが、後は気楽だ。大三駅までの予定だったが、明日は雨になるらしく、ひと踏ん張りして川合高岡駅まで足を延ばした。もう伊勢街道と合流する三渡橋までは10kmほどで、明日は雨でも雪でも楽勝だろう。
写真をクリックすると拡大します。
伊勢地宿の入口近く 《地図》
昨夜の雪の名残だろう。
右に本居宣長の『菅笠日記』碑が立ち、「からうじて伊勢地の宿にゆきつきたる。うれしさも又いはんかたなし。そこに松本のなにがしといふものゝ家にやどりぬ」と刻む。住まいの松阪から歩き始めて伊勢地が1泊目の地。2泊目は萩原(榛原)
明治末期まで営業していた。今でも玄関先に徳田屋の看板が掛かる。宣長一行が泊まった松本某の家は当家の斜め向かいにあった郷士松本五右衛門家だったというが、宿場図には載っていないので確かなことかは分からず。
明治32年に地元の大師講が設けた四国八十八ケ所のミニチュア霊場らしい。
乗馬クラブの向い側。
ここも弘法大師講のミニチュア霊場だろう。青山地蔵(青山大師)がここか?
向い側に伊賀茶屋があった。
青山トンネル手前で右に入る。《地図》
ここは分かりやすい。
伊賀国と伊勢国の境で、古くは阿保(あお)山といわれ、初瀬街道中の最大の難所だった。また伊勢と長谷の中間地点で、峠まではおよそ2日間の旅だった。峠の東西半里に伊勢茶屋、伊賀茶屋があった。
壬申の乱で大海人皇子は、吉野から榛原→名張→加太(かぶと)越え→伊勢へと進んだ。青山越えは全部開通してなかったか、援軍との合流のためだったか。
ここから右に下って行く。
宣長の「菅笠日記」の旅では「阿保の山路にかゝるほど、又雨ふりいでゝいとわびし」だった。
途中右側に地蔵道標が立つというが見つからなかった。
このあたりが伊勢茶屋跡
国道に出て右に入って上るのだが、入り口が分かりにくい。前方は白山トンネル。
少し手前の広い林道をかなり上ってしまい引き返し大きくロスタイムした。
道らしくなるが。《地図》(道の標示はない)
足場が悪くぬかるんでいる。この道でいいのかちょっと不安になるが、だめなら白山トンネルを抜ければいいさ。
国道の入口からここまで大した距離ではないが疲れた。
左が街道の道筋。
二本杉峠(旧天城峠)を越えた時に比べれば何ということもないが。『下田街道③』
街道は直進して下っていたそうだ。
ここは宿の西端あたり。
伊能忠敬も泊まった宿場だった。
宿場内で行き倒れになる旅人が多かったのか、無縁仏が多いという。
サンタの長靴には何が入っていたかな。
国道165号に出て川久保バス停の先で、右に旧道に入る。
本尊は木造阿弥陀如来椅像(国重文)で通称は「こしかけ阿弥陀如来」。
白山比咩神社道標
正面の三叉路。一の鳥居があったそうだ。神社は直進で、街道は左折して行く。
称名寺境内 《地図》
「上 いせみち」?
東明寺(二本木区会所内) 《地図》
今は木造薬師如来立像などの保管場所か。
二本木宿へ入る。《地図》
建物の前に犬矢来(やらい)が残る。
安政4年(1857)まで旅籠、それ以降は醤油屋で今でも商っているようだ。
亀ケ広古墳群案内板
ここからの距離が表示されていないので行かなかったが、近鉄大阪線の手前に3基の古墳があるようだ。
亀ケ広の桜堤 【ル-ト地図】の16
車も通らず静かないい道だ。桜が咲いていればなお結構なのだが。
「波多の横山」と呼ばれた景観の地。『菅笠日記』には、「さて川辺をのぼりゆくあたりのけしきいとよし。大きなるいはほども、山にも道のほとりにも、川の中にもいとおほくて、所々に岩淵などのあるを、見くだしたる、いとおそろし。かの吹黄刀自がよめりし、波多の横山のいはほといふは、【萬葉一に 川上のゆつ岩村にこけむさずつねにもがもなとこをとめにて】此わたりならんと、あがた居のうしのいはれしは、げにさもあらんかし」
伊勢街道はずっと下流の雲出橋で雲出川を渡る。
真盛上人ゆかりの地蔵。このあたりには誕生寺など上人ゆかりの史跡が多い。
安政の大地震の時、地蔵が刻まれていた道脇の巨岩が川岸に転がり落ち、地蔵も逆さになったという。
「笠着」・「逆着」・「逆さ」地蔵でややこしい。
大仰(おおのき)橋から雲出川 《地図》
明治以前は200mほど下流に橋が架かっていた。増水時には橋は引き上げ、舟渡しになった。大仰の宿では関西方面からの参拝者達が板橋を渡ると、藤屋など土地の女将や女中が迎えて、宿に誘ったものだという。
『菅笠日記』には、「谷戸大仰などいふ里を過ゆく。こゝまで道すがら、ところ々櫻の花ざかり也。立やすらひては見つゝゆく。 しばしとてたちとまりてもとまりにし友こひしのぶ花のこの本。大のき川大きなる川也。雲出川のかはかみとぞいふ」とある。
今は往時の宿場の面影はない。
府近でボタン石が出ることから「ボタン峠」ともいわれた。
明治頃までは沢蟹焼きの露店が並んでいたという。
谷戸峠からは下りとなる。
井関交差点の先で右に旧道に入ると波瀬川沿いが田尻の宿だったが、JR名松線で分断されて旧道、宿場の雰囲気は残っていない。
この桜の老木は倒折れるおそれがあるため、切り倒されるらしい。支柱などで生き延ばせないものか。乗降客も少ないようだし、邪魔にはならないだろう。
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