美濃路①
2013年2月20日
金山駅(JR東海道線)・・・佐屋街道追分(金山新橋南交差点)・・・新橋(JR東海道線)・・・榊森白山社・・・古渡一里塚跡①あたり・・・古渡町交差点(都心環状線)・・・東別院・古渡城跡・・・橘町大木戸跡・・・栄国寺・切支丹塚・・・日置神社・・・西別院・・・仁王門通り・・大須観音・・・札の辻・伝馬会所跡(伝馬町通本町交差点)・・・伝馬橋(堀川)・・・浅間神社・四間道・・慶栄寺・・金刀比羅神社・・円頓寺・・五条橋(堀川)・・・御深地蔵尊・・・名古屋城西北隅櫓・・・江川一里塚跡②・稲生街道分岐地点・・・樽屋町大木戸跡・・・白山神社・・・庄内用水路・・尾州殿茶屋跡・・・八幡神社・・・清音寺・・(名鉄線)・・・黒體龍王大神・・・枇杷島橋(庄内川)・・岩倉街道分岐地点・・橋詰神社・・・(JR線)・・・旧青果問屋街(小田井の市場)・・高照寺・・六軒神社・・問屋記念館・・松原神社・・・瑞正寺・・・新川橋(新川)・・・須佐之男神社・・・名鉄津島線踏切・・・一里田橋(一里塚川)・須ケ口一里塚跡③・・・外町一里塚道標・正覚寺・今川塚供養碑・・・(名鉄名古屋本線)・・・日吉神社道標・・・五条橋(五条川)・・清洲古城趾道標・・・清洲公園・・・札の辻・清涼寺・・・上畠神社・・・清洲宿本陣跡・・・(JR線)・(名古屋環状2号線)・・・清洲駅(JR東海道線)
【ル-ト地図】
東海道の宮宿と中山道の垂井宿を結ぶ美濃路を、佐屋街道との追分から歩く。
名古屋宿(城下)→清洲(清須)宿→稲葉宿→萩原宿→起宿から木曽川を渡り岐阜県に入り→墨俣宿→大垣宿→垂井宿へと進む。
桶狭間の戦での信長、小田原征伐での秀吉、関ヶ原の戦での家康の戦勝・凱旋道で吉例街道とも呼ばれ、参勤交代の諸大名、朝鮮通信使、琉球使節、悪名高きお茶壺道中などが通行し、長良川で獲れた鮎を鮎鮨にして、将軍家に献上するため継ぎ送った道、広南国(ベトナム)から将軍吉宗に献上された象が通った道でもある。
2月も下旬となったが相変わらずの寒さだ。北西方向に進むので冷たい風をまともに受けながらの道中となる。
写真をクリックすると拡大します。
新川橋ポケットパークに設置のもの。
四ツ家追分から中山道の加納宿への岐阜街道(御鮨街道)も歩く予定。
東面に「右 なこや 木曽 海道」とあり、美濃路は直進して行く。
*東海道の宮宿の追分からここまでと佐屋街道は、『東海道(知立宿→宮宿・佐屋街道①』に記載。
熱田神宮へ榊を奉納していたため、榊森と呼ばれるようになり、北から熱田神宮へ参る時の祓い所だったそうだ。
古渡町交差点の手前の伝昌寺の東側あたりに、美濃路で最初の古渡(ふるわたり)一里塚跡①があり、塚上に榎がそびえていたというがむろん跡形もない。《地図》
美濃路には13か所に一里塚があったが、塚跡が残るのは冨田一里塚⑦と久徳一里塚⑫のみ。
古渡町交差点の先で右に入る。《地図》
ここに名古屋城下の南口の橘町大木戸があった。
信長はこの城で元服したという。
切支丹塚(正面右奥・栄国寺) 《地図》
このあたりは千本松原といわれた尾張藩の刑場だった。刑場は後に土器野(かわらけの)刑場に移された(後述)。
境内には切支丹遺蹟博物館もある。
信長が桶狭間へ出陣の時、戦勝を祈願し戦勝後の礼に松を千本を植えたという。
仏具店通りだ。
仁王門通り 《地図》
大須観音へ向かう。
「ういろう」の青柳
大須観音(宝生院)
平日でも参拝者が多い。
名古屋宿は尾張藩の城下町で宿高はなかった。本陣・脇本陣もなく、諸大名は宮宿から清洲宿まで通過させた。朝鮮通信使の場合には性高院を宿所とし、藩が接待に当たった。
直進が稲置街道(犬山街道)・善光寺街道(下街道)で、右折するのは岡崎街道(飯田街道)。美濃路は左折して西に向かう。
伝馬橋(堀川) 《地図》
「清洲(清須)越」で開削された堀川に架かる七橋の一つ。
橋を渡って右折し北上する。
橋の東側には材木商が多かった。
「四間道」の由来には別説もあり、①このあたりにあった4軒の寺社の「四軒道」から ②ぬかるみの道、「湿気道」からとも。
以前はもっと賑わっていたようだが。
商店街の途中にほっそりと祀られている。
五条橋(堀川) 《地図》
「清洲越」で橋まで引っ越して来た。
金鯱がまぶしい。
西北隅櫓 《地図》
清洲城から移築したものという。
美濃路に戻る。
このあたりで稲生街道が北に分岐する。
樽屋町大木戸跡 《地図》
名古屋城下の西口
白山神社 《地図》
信長が桶狭間へ出陣の時、戦勝を祈願し、戦勝後の礼に太刀を寄進したという。
この前には立場があり、旅人のための茶店があった。
庄内用水路を渡った左側。
清音寺 《地図》
治承3年(1179)、平清盛によって流罪に処せられた太政大臣藤原師長と村娘の悲恋話。赦免され都へ帰る師長は村娘に形見として琵琶を与えた。師長を追った村娘は庄内川に身を投げた。それが琵琶(枇杷)島の由来という。
平針街道の近くには師長の謫居跡と伝える所がある。
黒體龍王社前を通り、枇杷島橋を渡る。
名鉄線が走る。橋を渡った所から北に岩倉街道が分岐する。
橋詰神社 《地図》
この前で岩倉方面から農産物などを小田井の市場に運んだ岩倉街道が合流する。
問屋は小田井の市場、枇杷島市場ともいわれ、江戸千住や大阪天満と並び、日本三大市場に数えられたそうだ。青果に限らず乾物・魚鳥・薪炭・糸・煙草など広範囲だったという。
問屋記念館 《地図》
この先の瑞正寺の北方の北中野公園あたりに尾張藩の土器野刑場(千本松原から移された)があった。
宝塔(瑞正寺) 《地図》
処刑者の供養塔で、もとは刑場の前にあったもの。
高札場跡(新川橋ポケットパーク) 《地図》
津島道道標・新川橋親柱
左の民家前に「みの路 一里塚之跡」碑が立つ。手前は一里田橋(一里塚川)。
外町一里塚道標(正覚寺前) 《地図》
もとは一里塚跡あたりにあったもの。
これも手前の美濃路沿いの民家にあったもの。
「まげわっぱ」を商っている。
荷物などを置く折りたたみ式縁台。格子には「美濃路」の標示板が架かっている。
清洲城下の氏神
五条橋(五条川) 《地図》
これが元祖の清洲城下の五条橋
「是より弐丁」とある。対岸奥は現在の清洲城。
信長像(清須公園内) 《地図》
桶狭間へ出陣の姿という。傍らに濃姫の像が見守っている。清洲古城はJR線に分断されている。
清洲城(平成元年の建築の模擬天守)
手前を新幹線と東海道線がひっきりなしに通る。もう5時近くで天守へは上れないのでここからの眺めのみ。
「不浄除け」の塀が社殿を隠している。清須三社の一つで、ここ神明町の町名にもなっている。
林惣兵衛が勤めた。「本陣の松」といわれた2本の松があり、「松になりたや 本陣の松に 諸国大名を 下に見る」と歌われた。天保14年(1843)には本陣1・脇本陣3・問屋場1・旅籠21軒の宿場だった。脇本陣と問屋場は札の辻と本陣の間にあった。
「清洲」・「清須」の2つの表記があり、混用されている。市名は清須市だが、駅名はJR・名鉄とも清洲だ。「清須」が古いようだが、こちらも気にせず混用する。
本陣家の家柄だろう。
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