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2013年3月 9日 (土)

岐阜街道(御鮨街道)②

2013年2月24日

笠松駅(名鉄名古屋本線)・・・名鉄竹鼻線踏切・・・真教寺・・・秋葉神社・・・笠松問屋跡・・善光寺(大臼塚跡の石碑)・・蓮国寺(むくげ塚)・・美濃郡代笠松陣屋跡・・法傳寺・・愛宕神社・・笠松町歴史民俗資料館・・杉山邸・・木戸跡・・笠松渡船場跡・・石畳道・・切支丹処刑場跡あたり・・木曽川橋・・・(一宮市)・・宝江の渡し跡・高橋源左衛門旧居跡・・・道標・・・・・県道14号・・・旧道・・・名鉄線踏切・・・岐阜街道踏切(東海道線)・・・法蓮寺・・・蔵ノ浦踏切(東海道線)・・・黒田城跡・・・旭橋(根府川)・・・善龍寺・・・西蓮寺・・・愛宕神社・・・(東海北陸自動車道)・・・石刀神社標柱・・・県道190号・・・彼岸縄手地蔵・・・野宮神明社・・・酒見神社・・・旧道・・・中町観音・・・和田橋(日光川)・・・真清田神社・・一宮宿・本町商店街・・市神堂跡・・一宮城跡・・・地蔵寺・・・富士神社・一宮一里塚跡・・真清田神社一の鳥居跡・・・浅間社・・多加木北交差点・県道190号・・・大江川・・・(名神高速道路)・・・(稲沢市)・・・赤池地蔵・赤池古蹟碑・・・旧道・・・赤池一里塚跡碑・・・下津城跡碑・・・頓乗寺・・・山神社・・・高札場跡・・・神明社・・・八幡神社・・・阿弥陀寺・・・井之口交差点・・・四ツ家追分・・・清洲駅(東海道線)

  【ル-ト地図】(24.4km)

 笠松宿に入ったらみぞれが降り出した。岐阜問屋から鮎鮨を引き継いだ笠松問屋跡から、善光寺に残る隠れ切支丹遺跡を見て、美濃郡代笠松陣屋跡を一苦労して探し、歴史民俗資料館を見学し、木戸跡から木曽川の河原の笠松湊跡に出た。笠松港公園として整備され気分のいい空間となっている。この頃にはみぞれも上がり青空が広がってきた。笠松渡船場の石畳を歩き、木曽川橋を渡れば尾張国側の宝江の渡船場だが、こちらは見所が少ない。
 名古屋道の道標に従い、一宮宿へと南下する。真清田神社の門前町で、三八市で賑わった一宮宿だが遺構は残っていない。一宮一里塚跡で宿を抜け、赤池一里塚跡を通り、碑のみぽつんと立つ下津城跡に寄り、美濃路と合流する四ツ家の追分を目指した。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_9010 笠松宿に入る。

Img_9018 笠松問屋跡 《地図

道標には「鮎鮓街道」・「名古屋街道 笠松道」

笠松では御鮨街道を「鮎鮓(あゆずし)街道」、御鮨所を「お鮓元」と呼んでいる。歌碑には、「鮎鮨の 桶かつぎ 受けわたし 人びとは 江戸への道を ひたに走りき」

Img_9015 説明板

Img_9025 大臼(デウス)塚跡の石碑(善光寺境内)

笠松湊に近い隠れ切支丹の処刑場の塚に立っていたもの。「大臼」はゼウスが訛った「デウス」だろう。

Img_9029 旧家

雪が舞っている。

Img_9030 八幡神社(正面奥)への古い家並み

八幡神社の「時の鐘

Img_9034むくげ塚(蓮国寺)

右の「芭蕉翁之墓」の裏に「みちのべの 木槿は馬に かまれけり」と刻むようだ。「野ざらし紀行」では「くはれけり」。
左は高橋清斗の句碑だそうだ。

Img_9041 美濃郡代笠松陣屋跡・笠松県庁跡 【ル-ト地図】の①

初代の美濃郡代は大久保長安だった。

Img_9042 説明板

Img_9047 笠松町歴史民俗資料館

館長さんからいろんな資料をいただき役立った。

Img_9053 杉山邸(国登録有形文化財)

明治24年の濃尾地震直後に再建された町家造りの建物。江戸時代の初め頃、笠松を拓いた「八人衆」の一人、杉山市右衛門家の15代目の銓二郎氏の別宅だった。

Img_9055 木戸跡・関所跡 【ル-ト地図】の②

名古屋道(御鮨街道)(左)、伊勢道(直進)、京道(右)の分岐地点で交通の要衝で関所が置かれ。分岐にあった道標(周辺図の道標2)が笠松湊の河原に復元されている。

Img_9067 周辺図

Img_9057 笠松渡船場跡

常夜灯の右が復元された道標(天保4年(1833))

Img_9058 説明板(道標)

Img_9061 説明板(笠松湊)

Img_9064 野ざらし芭蕉道

「時雨ふれ 笠松へ着く 日なりけり」・「春風や きせるくわへて 船頭殿」の句とも『野ざらし紀行』の句ではないようだ。

Img_9062 「野ざらし紀行」足跡図

Img_9072 笠松渡船場石畳

Img_9070 説明板

Img_9075 隠れ切支丹刑場跡あたり 《地図

大臼(デウス)塚の石碑はここにあった。

Img_9076 木曽川橋を渡る。

工事中で細い歩道で時々水滴が落ちてくる。自転車が来るとやだなと思っていたが幸い1台も通らなかった。

Img_9078 木曽川上流方向

右岸が笠松渡船場、左岸が宝江渡船場、左岸の東海道線の下あたりの堤防上に尾張藩の北方代官所(周辺図の北方陣屋)があった。

Img_9079 宝江の渡し跡 《地図

高橋源左衛門旧居跡

Img_9083 宝江渡跡碑

Img_9089 道標(文政12年(1829)) 《地図

「右津しま起道」・「左なこや道」で左に進む。「起」は美濃路の木曽川を渡った起(おこし)宿のこと。

県道14号に出る。見所は少ない。

Img_9091 左に旧道に入る。 《地図

名鉄線踏切、岐阜街道踏切(東海道線)を渡って行く。

Img_9112 旭橋(根府川)の手前で右折し、法蓮寺と黒田城跡に寄る。 《地図

Img_9111 法蓮寺

黒田城主山内家の菩提寺。

Img_9107 説明板

Img_9100 黒田城跡 【ル-ト地図】の③

山内一豊出生の城。

Img_9098 山内一豊立志像

Img_9096 説明板

旭橋に戻る。

Img_9115 枡形を左折し、すぐ右折する。

Img_9120 久能硝子店 《地図

Img_9123 善龍寺

明治11年の明治天皇東海北陸巡幸の際に、小休所となった寺。
黒田はかつては鎌倉街道の宿駅だった。江戸時代には黒田村地内で北方代官所へ通じる御陣屋道が分岐していた。(上掲の周辺図参照)

Img_9126 説明板

Img_9133 西蓮寺

「善光寺如来 葉栗郡出張所」の石柱が立つ。善光寺如来の本田善光にまつわる古跡で江戸時代には善光寺屋敷と呼ばれていたという。

Img_9139 石刀神社標柱

県道190号に出る。

Img_9141 彼岸縄手地蔵 《地図

説明板に「尾張六地蔵第一」とある。「尾張六地蔵」の第一番は美濃路にある長光寺六角堂の「汗かき地蔵」で紛らわしい。「尾張六地蔵」のあとの5つはどこにあるのか?

Img_9143説明板

Img_9142 細身の地蔵さんだ。

Img_9148 酒見神社

倭姫伝説の社

Img_9150 由緒

Img_9153 酒焼けしたような社殿がいいね。

Img_9156 左に旧道に入る。 《地図

すぐ左に中町観音がある。

Img_9162 真清田(ますみだ)神社

西側から尾張国一宮の境内を抜けて行こう。

Img_9164 拝殿

Img_9165 楼門

Img_9166 岐阜街道は本町商店街を通って行く。

Img_9168三八市の市神堂跡碑・真清田神社の二の鳥居跡碑(右の大和証券前) 《地図

天保13年(1842)には500以上もの店が真清田神社門前から地蔵寺あたりまで軒を連ねていた。綿に関連する店が多かったという。笠松問屋から搬送された鮎鮨は南側の伝馬町の一宮宿の問屋に引き継がれたが、問屋の場所が分からず。三八市は昭和まで続いたというが、このあたりは戦災で焦土となり宿場の名残りは全くない。

Img_9169

Img_9171 一宮城跡(三菱東京UFJ銀行前) 《地図

Img_9175 説明板

Img_9182 地蔵寺

東海三十六不動尊第三番札所。西門と樹齢400年以上のイチイガシ。

Img_9187 一宮一里塚跡 【ル-ト地図】の④

富士神社(真清田神社御旅所)境内の南西角に「岐阜街道 一宮一里塚跡」碑が立つ。ここと赤池一里塚のほかはどこに一里塚はあったのか?
正面の殿町温泉の脇に真清田神社一の鳥居跡碑。

Img_9188 真清田神社一の鳥居跡碑

Img_9209 赤池地蔵・赤池古蹟碑

古蹟碑は長文の漢文で読む気になれない。この地の伝承を記すようで、最初の方に「鎌倉街道」とあるのだが。後ろの水溜りのようなのが赤池跡か?

Img_9210 左に旧道に入る。

Img_9212 赤池一里塚跡(植込みの所) 《地図

Img_9218 振り返る

「御巡幸之跡」碑(左)と「赤池一里塚址」碑(右)

Img_9221 旧家

街道から離れ下津(おりつ)城跡に寄る。

Img_9229 下津城跡碑 《地図

下津小学校前に碑だけがぽつんと。
下津は鎌倉街道の宿駅で、阿仏尼の『十六夜日記』にも「又一宮といふやしろをすぐとて、一宮名さへなつかしふたつなく三なき法をまもる成べし  廿日、おはりの國おりど〔つ〕といふむまや(駅家)をゆく」とある。

Img_9232 旧家

Img_9235 山神社 《地図

この先を左折し、神明社の手前の高札場跡の所を右折するのだが、神明社・八幡神社・阿弥陀寺に寄りながら進む。

Img_9244 阿弥陀寺 《地図

Img_9242 説明板

 井之口交差点(県道62号)を横切って行く。

Img_9249 東海道線沿いの道となる。

左に常夜灯が立つ先で四ツ家の追分に突き当たる。

Img_9254 四ツ家追分 【ル-ト地図】の⑤

左折し美濃路を歩いた時とは逆に清須宿方向に進み、清洲駅に向かった。

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2013年3月 8日 (金)

美濃路④・岐阜街道(御鮨街道)①

2013年2月23日

大垣駅(JR東海道線)・・・新大橋(水門川)・・・名古屋口門跡(大垣城東総門跡)・・高札場跡・・大垣宿脇本陣跡・・大垣城大手門跡(広嶺神社)・・本町道標・・問屋場跡・・本陣跡・・飯沼慾斎邸跡・・京口門跡(大垣城西総門跡)・・船町道標・・住吉燈台・船町港跡・・住吉神社・・高橋(水門川)・・船町中組常夜灯・・奥の細道むすびの地・・無何有荘・・全昌寺・・・県道31号・・・常隆寺・・・大泉寺・・・愛宕神社・・芭蕉・木因遺跡・正覚寺・・・水神神社・・・近鉄養老線踏切・・・山王用水・・旧道・・・徳円寺・・・秋葉神社・・・旧塩田橋(杭瀬川)・・塩田常夜灯・・・長源寺・・・秋葉神社・・・法永寺・・・(県道31号)・・・瓊瓊杵神社・・久徳一里塚跡⑫・・・谷汲道道標・・・白髭神社・・・大谷川橋・・・林松院・・・平林荘跡あたり・・・龍松禅寺・・・慈応寺・・・国道21号・・・(垂井町)・・・綾戸口交差点・旧道・・・等運寺・・・光堂寺・・綾戸一里塚跡⑬あたり・六所神社・・・大垣街道踏切(東海道線)・・・綾戸古墳・熊坂長範物見の松・・・美濃路松並木・・・中山道合流地点(垂井追分)・・・相川橋・・・垂井駅(東海道線)

垂井駅→岐阜駅→長良橋(長良川)・鵜飼観覧船乗場・・・川原町・・・霞橋・・・御鮨所跡あたり(林稲荷神社)・・・正法寺・・・常在寺・・妙照寺・・・岐阜奉行所跡あたり・・・岐阜町本陣跡・・・御園の榎・・橿森神社・・・名鉄各務原線踏切・・・東海道線ガード・北番所跡あたり・・・名鉄名古屋本線踏切・・・道標・中山道合流地点・・(加納宿)・岐阜問屋跡・・専福寺・・善徳寺・・東番所跡・・道標・・・加納大橋(新荒田川)・・中山道分岐地点・道標・力士「鏡岩」の碑(ぶたれ坊)・・・順勝寺・・・馬頭観音祠・・・(岐大バイパス)・・・県道14号・・西川手8交差点・・・境川・・旧道・・・三つ目川・・・笠松駅(名鉄名古屋本線)

 【ル-ト地図】(美濃路④)・【ル-ト地図】(岐阜街道(御鮨街道①))

 城下町で「奥の細道の結びの地」でもある大垣宿を通り、ひたすら中山道との合流地点の垂井宿へと向う。まばらな松並木を抜けると見覚えある垂井の追分に着いた。
 ここを美濃路歩きの「結びの地」とし、東海道線で垂井駅から岐阜駅へ行き、長良橋へ出て岐阜街道(御鮨街道)を歩き始めた。

 岐阜街道は四ツ家追分で美濃路と分かれ、一宮宿を通り木曽川を渡り笠松宿から、中山道の加納宿に至りさらに北に進み、尾張藩領の岐阜町に至る街道で、岐阜の方からは尾張藩が長良川で獲れた鮎を鮎鮨にして江戸の将軍家へ献上するため継ぎ送った道で、「御鮨街道」と呼ばれた。長良川から御鮨所跡を通り、岐阜町→加納宿→笠松宿→笠松湊(木曽川)→一宮宿→四ツ家追分と歩くので、「御鮨街道」・「尾張街道」・「名古屋街道」といった方が適当だろう。

 美濃路は北西方向に歩いたので風の冷たさが身にしみたが、今度は南東方向へ向かうので寒さはかなり和らぐ道中となるだろう。 

 写真をクリックすると拡大します。

Img_8621 水門川

かつては大垣城の外堀で、川沿いの「四季の路」は「ミニ奥の細道」となっている。

Img_8620 「夏草や 兵共が 夢の跡」の句碑

Img_8699 説明板

Img_8623 名古屋口門跡(大垣城東総門跡) 《地図

ここを左折し10回の曲りで大垣宿を抜けて行く。(宿場図参照)

Img_8572宿場図

Img_8625 高札場跡 《地図

ここを左折する。

Img_8627 説明板

Img_8640 脇本陣跡 《地図

今は田中屋せんべい総本舗(創業安政6年(1859))が店を構えている。

Img_8630 説明板

Img_8634 広嶺神社(脇本陣跡の西側)

ここは大垣城大手門跡

Img_8633 説明板

Img_8636 大手門石垣跡と堀跡

Img_8641 本町道標(文政9年(1826)の複製・正面左) 《地図

「右 京道」・「左江戸道」、東に進むのは竹鼻街道で、揖斐川の平の渡し、長良川の本郷の渡し、木曽川の駒塚の渡しを越え、冨田の「駒塚道道標」の所で再び美濃路と出会う。『美濃路②』に記載。

ここを右折し、すぐ左折する

Img_8643 説明板

Img_8646 問屋場跡(右角)

Img_8648 説明板

ここを右折する。

Img_8651 本陣跡(右) 【ル-ト地図】の①

大垣宿は本陣1・脇本陣1・問屋場1・旅籠11軒の宿場だった。(天保14年(1843))

この先を左折しすぐ右折する。

Img_8658説明板

Img_8665 柿羊羹の槌谷

創業は宝暦6年(1756)の老舗。

飯沼慾斎邸跡碑のすぐ先を左折する。

Img_8675 京口門跡(大垣城西総門跡) 【ル-ト地図】の②

Img_8676 説明板

Img_8678 船町道標

Img_8679 説明板

Img_8686 住吉燈台・船町港跡

Img_8688 説明板

Img_8569 往時の船町港

Img_8690 現在の家並み

美濃路はこの先で右折し(10度目の曲り)、高橋(水門川)を渡り西進して行く。

Img_8692 船町常夜灯

Img_8695 説明板

Img_8702 奥の細道むすびの地 《地図

Img_8697 説明板

Img_8705 無何有荘(むかゆうそう)・鉄心門

Img_8703 説明板

Img_8709 全昌寺

朝鮮通信使が宿泊したそうだ。

Img_8711 奥の細道むすびの地記念館

Img_8712 常隆寺楼門

竜宮門で1階部分にも屋根があるのは珍しいか。

Img_8715 「カネマル 守屋孫八本家」

Img_8717 旧商店

Img_8727芭蕉・木因遺跡(正覚寺前)

Img_8725 説明板

正覚寺の隣には西から大垣宿を通行する諸侯などを迎えた「使者場」があった、

近鉄養老線踏切を渡り、山王用水の先で左に旧道に入る。

Img_8741 杭瀬川土手下の家並み

Img_8744 塩田橋・塩田常夜灯(対岸) 《地図

塩田港があった所で、赤坂港と桑名港の中継地として栄えた。

Img_8753 説明板

Img_8762 旧家

県道31号を横切って行く。

Img_8766 久徳一里塚跡⑫ 【ル-ト地図】の③

Img_8767 南塚だけが残る。

Img_8768 説明板

この先旧街道は太平洋工業内で消滅している。しばらく県道を歩き右に入る。

Img_8786 谷汲道道標(電柱下) 《地図

北に進めば荒尾を経て赤坂から谷汲巡礼道で谷汲山華厳寺に通じていた。後ろは江戸時代には「十里四方売薬御免」の屋号「とら屋」の薬草店。

Img_8793 伊吹山方向

Img_8800 ここが平林荘跡(飯沼慾斎の隠居所)と思っていたが、この西側のようだ。 《地図

Img_8803 慈応寺

Img_8805 大垣市指定文化財

この先で国道21号に出る。

Img_8816 綾戸口交差点で右に入る。 《地図

Img_8826 綾戸一里塚跡⑬あたり・六所神社 《地図

美濃路で最後の一里塚で六所神社の東側にあったという。

Img_8830 ここで右折して綾戸古墳・熊坂長範物見の松(跡)に寄る。

Img_8840 「武内宿祢公墳」の標柱が立つ。(左)

綾戸古墳は武内宿祢の墓という言い伝えがあるのようだ。

Img_8832_2 綾戸古墳 【ル-ト地図】の④

Img_8833 説明板

Img_8836 熊坂長範物見の松

何代目かの若い松は元気がなく倒れそうだ。別名を「幣掛松」(しでかけまつ)ともいい、南宮大社で平将門調伏祈願の時、この松に御幣を掛けたからという。
北国街道」の野尻坂峠の北方には長範山がある。右は「武内大神」碑

Img_8834 説明板

Img_8842 松並木

期待していたがまばらだった。

Img_8844 説明板

Img_8846 中山道合流地点(垂井の追分) 【ル-ト地図】の⑤

Img_8848 追分道標

Img_8849 説明板

Img_8851 振り返る。

左中山道・右が歩いて来た美濃路

Img_8856 垂井駅

東海道線で岐阜駅まで行き岐阜街道(御鮨街道)を歩き始める。

******ここからは岐阜街道(御鮨街道)******

Img_8864 長良川鵜飼観覧船乗場    《地図

Img_8861 鵜飼像(ポケットパーク鵜かがり)

Img_8869 川原町の家並み 《地図

Img_8868 説明板

Img_8873 風情ある町屋

Img_8871 レトロな吊り行燈

Img_8876 屋根神様も鎮座

Img_8879 電線もなく空が広い。車も少ない。

Img_8878 古い町屋

Img_8889 霞橋を渡ったあたりから川沿いの家並み

Img_9262 岐阜町図(愛知県歴史の道調査報告書より)

中央あたりに「御鮨所」がある。その南方の広い敷地の「御役所」は岐阜奉行所

Img_8894 御鮨所跡あたり 【ル-ト地図】の①

左の林稲荷神社の所。
鮎はここで「なれ鮨」(熟れ鮨)に加工されて江戸城まで継ぎ送りされた。

金華山の左上に岐阜城が小さく見える。
正面の正法寺で「岐阜大仏」を見る。拝観料200円也。

Img_8922_2 説明板①(御鮨街道)

Img_8929 鮎鮨の桶

4~5日で江戸に着く頃にはちょうど食べごろになったそうだ。将軍も「これは美味だ」といったとか。

Img_8900 常在寺

Img_8899 説明板

Img_8903 妙照寺

貞享5年(1688)6月、芭蕉は約1か月当寺に滞在した。鵜飼見物をしただろうか?

Img_8901 説明板

Img_8907 御鮨街道の立札が立つ。

Img_8927 説明板②

Img_8928鮎鮨の搬送行列

岐阜問屋→笠松問屋→一宮問屋→(美濃路)→名古屋→宮宿(熱田)→(東海道)→江戸へと継ぎ送られた。

Img_8914 料亭「水琴亭

元治元年(1864)創業

Img_8921_2 岐阜町本陣跡 【ル-ト地図】の②

本陣賀島家の跡地に日下部邸が建った。その洋館(右・石原美術)は残るが和館はビルになってしまった。(尾張藩主が岐阜を訪れる時の本陣で、中山道加納宿の本陣とは別物)

Img_8915 説明板

Img_8916 説明板

Img_8920日下部邸跡(和館)の写真

県外に移築されたようだ。

Img_8930 御鮨街道の新しい大きな看板。

小熊町2交差点

Img_8931 旧家

Img_8935 岡本太右衛門邸

前の釣鐘は西側にある「岐阜鋳物会館」への案内用のようだ。

Img_8942 御園の榎・橿森神社両部鳥居 《地図

当社は瑞竜寺との関わりが深く、両部鳥居も神仏習合の名残りという。

Img_8938 説明板

東海道線ガード下あたりが北番所跡だが説明板などは見当たらず。

Img_8954 中山道合流地点 《地図

右の太田薬局前に道標「右 ぎふ道」・「左 中山道」、「ぎふ道」が今通って来た岐阜街道・御鮨街道のこと。ここを左折してすぐ左側が加納宿の岐阜問屋場跡。

ここから中山道との分岐地点までは、いくつもの枡形を曲がって行く。このあたりは『中山道(太田宿→加納宿』でも歩いている。

Img_8956 岐阜問屋熊田家跡(左) 【ル-ト地図】の③

御鮨所で作られた「鮎鮨」はこの問屋を経て、笠松問屋へと継ぎ送りされた。
何の標示もないが、後で調べると民家の軒下に説明板があるそうだが?

Img_8959 専福寺(右)

Img_8962 東番所跡 【ル-ト地図】の④

Img_8967 道標(明治18年) 《地図

「「右 岐阜 谷汲」「左 西京」で、明治時代に立てられたので「西京」か。「谷汲」は谷汲山華厳寺で、さっきの美濃路にもあった。

ここを右折する。

Img_8977 中山道分岐地点 【ル-ト地図】の⑤

中山道は直進、御鮨街道は右折。

Img_8978 道標・力士「鏡岩」の碑(ぶたれ坊)

道標は「江戸木曽路」・「東海道いせ路」

Img_8982 説明板

鏡岩は自分をぶたせたのではなく、木像をぶたせたようだ。身代わりとはちゃっかりしている。

この先は境川沿いの道となり、笠松宿まで見所も少ない。

Img_8987 境川沿いを進む。 《地図

街道は八丁畷と呼ばれる自然堤防上の松並木の道だったそうだが、今は何の風情もない。

Img_9002 笠松駅

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2013年3月 6日 (水)

美濃路③

2013年2月22日

須賀駅(名鉄竹鼻線)・・・及が橋(旧足近川)・・・間の宿南宿・・・道標・地蔵・境川土手・・(鎌倉街道)・・・西方寺・・・東小熊・西小熊一里塚跡⑨・・・秋葉神社・・・小熊の渡し跡・境川橋(境川)・・大江川橋(大江川)・・・長良大橋(長良川)・墨俣の渡し跡・墨俣橋(犀川)・・・犀川制水樋門・・太閤出世橋(犀川)・・墨俣一夜城・・墨俣宿札の辻・本陣跡碑・・脇本陣跡・・寺町界隈・・本正寺・・明台寺・・津島神社・・・正八幡宮・・・東結一里塚跡⑩・・・米の宮之跡碑・・・白山神社・・・町屋観音堂・・・結神社・・・佐渡の渡し跡・新揖斐川橋(揖斐川)・・(大垣市)・・・佐渡常夜灯・・・大師寺・・・宮脇酒造・・・小野の長橋・・・宝光寺・・・八幡神社・・・三塚一里塚跡⑪・・新規橋(新規川)・・・名古屋口御門跡(大垣城東総門跡)・・・大垣城・・・大垣駅(JR東海道線)

  【ル-ト地図】(19.9km)

 木曽川を渡った美濃路は輪中地帯を通って行く。境川の堤を西に進み、小熊の渡し跡で境川を渡り、すぐ大江川を渡る。
 墨俣の渡しの長良川を渡れば墨俣一夜城の墨俣宿だ。正八幡宮から先は輪中の堤上を行く。遠くに伊吹山の雪姿を眺めながらの道中となる。照手姫ゆかりの町屋観音堂の先で揖斐川の佐渡の渡しとなるが、今はかなり上流の新揖斐川橋へ迂回する。橋を渡って下流に進み佐渡常夜灯で土手を下り西に進み、大垣城下・大垣宿へと入った。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_8394 及が橋(旧足近川) 《地図

昨日見た「及が橋石灯籠」はこのあたりにあった輪中の堤防上の松並木の間に立っていたもの。

Img_8407 西方寺への道標 【ル-ト地図】の①

道標は「親鸞上人御舊跡 」で、傍らに地蔵が2体。ここは鎌倉街道と美濃路の合流地点で、土手上の鎌倉街道を東に進み西方寺に寄る。

Img_8403 西方寺

「聖徳太子 親鸞聖人遺跡」の標柱。

Img_8402 説明板

 道標の所まで戻る。

Img_8412 境川土手を西に進む。

Img_8410 丸々太った野ねずみ

猫より大きい。土手を散歩中の人の話によると川原の草むらで3で棲んでいるそうだ。(むろんネズミのこと)

Img_8415 川側にも民家が並び、この道が街道だったことが分かる。

Img_8424 東小熊・西小熊一里塚跡⑨ 《地図

Img_8425 一里塚跡碑

Img_8431 小熊の渡し跡(境川橋) 《地図

もとは尾張と美濃の堺川だった。

Img_8428 説明板

長良川にぶつかり長良大橋を渡る。

Img_8439 長良川(長良大橋から上流方向)

長良大橋の少し下流から上流方向に「墨俣の渡し」で渡っていた。ここも将軍や朝鮮通信使の通行の際には100艙ほどの船橋が架けられた。左前方に墨俣一夜城(復元)が見える。

阿仏尼の『十六夜日記』に、建治3年(1277)、長良川を船橋(浮橋)で渡った記述がある。「すのまたとかやいふ川には、舟をならべて、まさきのつなにやあらん、かけとゞめたるうきはしあり。いとあやうけれどわたる。・・・(中略)・・・假の世のゆきゝとみるもはかなしや身を浮舟を浮橋にして 」

Img_9260享保の象」は特別船で渡った。

象は対岸に着くと大勢の見物の群集に驚いたのか暴走し、竹藪に入り込み竹の葉を食べ始めたという。揖斐川と境川は少し沈みながらも歩いて渡ったそうだ。揖斐川はそんなに浅かったのか?

墨俣宿の札の辻跡を通り過ぎ墨俣城に向う。

Img_8452 墨俣一夜城(墨俣歴史資料館) 《地図

木下藤吉郎出世の城だ。

Img_8460 犀川制水樋門・長良川(天守から)

墨俣宿の札の辻跡に戻る。

Img_8444 墨俣宿札の辻・本陣跡碑 《地図

本陣は沢井家が勤めた。関ヶ原の戦の際に伊達正宗が泊まったと伝わるそうだ。
本陣1・脇本陣1・問屋場1・旅籠10軒の宿場だった。(天保14年(1843))

Img_8449 説明板

Img_8447 常夜灯説明板

平成25年3月6日」と先の日付が入っている。

Img_8465 中町の家並み

岐島屋百貨店の右隣が脇本陣跡。

Img_8468 脇本陣跡 【ル-ト地図】の②

Img_8467 説明板

Img_8471 寺町界隈

Img_8476 本正寺山門

脇本陣の門を移築。

Img_8485 明台寺(みょうだいじ)

小野篁が彫ったという「橋杭笑地蔵」の石柱が立つ。本堂内に安置されているようだ。逸話と伝説の多い小野篁はあちこちに神出鬼没だ。境内には南朝の忠臣?土岐悪五郎の墓もある。

Img_8480 宿場絵図(安永7年(1778)当時の宿場図)

左上の「城あと」は墨俣城、大川は長良川。昭和初期の河川改修で川端町から中町にかけての町並みは削られた。

Img_8479 説明板

Img_8488 琉球使節記念石灯籠(津島神社)

寛政3年(1791)、帰国する琉球国使節一行が墨俣宿を通過した際、天王講中の人達が当社に奉納する石燈篭に刻銘文を願い「琉球国儀衛生毛延柱書」の文字が刻まれた。

Img_8494 正八幡宮 《地図

太鼓橋は急傾斜で渡れない。

Img_8499 東結一里塚跡⑩ 《地図

右に「美濃路 一里塚跡」碑と地蔵の小祠。地蔵の台座には「右墨股 左大垣」と刻まれているそうだ。

Img_8501 説明板

Img_8504 輪中の堤上の道を行く。

「いがみしゃくれ」といわれた松並木があったのはこのあたりか? 前方にうっすらと雪化粧した山並みは伊吹山方向だろう。

米の宮之跡碑、白山神社を過ぎて行く。

Img_8512 町屋観音堂 【ル-ト地図】の③

各地に残る照手姫伝説の地の一つ。照手姫の守本尊の黄金仏を頭上に祀る十一面観音像を安置するそうだ。

Img_8513 説明板

Img_8515 町屋の由来

「待合」→「町屋」

Img_8516 美濃路は直進し、佐渡(さわたり)の渡しへで揖斐川を渡っていたが、今は右折しかなり上流の新揖斐川橋を渡る。

Img_8517 結(むすぶ)神社 《地図

Img_8524 社殿

若い女性が熱心に長い間手を合わせていた。縁結びを祈っていたのだろう。
阿仏尼の『十六夜日記』に、「ひるつかた、過ゆく道にめにたつ社あり。人にとへば、「むすぶの神とぞきこゆる。」といへば、 まもれたゞ契結ぶの神ならばとけぬ恨にわれまよはさで 」
信長はこの社に長篠の戦の戦勝を祈願したという。

Img_8527 佐渡の渡し跡方向(新揖斐川橋から)

橋を渡り下流方向に進む。

Img_8533 佐渡常夜灯(嘉永7年(1854)) 【ル-ト地図】の④

Img_8534 説明板

Img_8541宮脇酒造 《地図

Img_8543 樹齢200年以上というクスノキか?

Img_8546 専勝寺は関ヶ原の戦の時、教如上人をかくまい、西美濃触頭役を勤めたという。周辺が小野城跡のようだ。 《地図

Img_8547 「鎌倉街道 小野の長橋」碑 《地図

鎌倉街道が通り、長さ5町ほどの低湿地に板を掛けて渡ったという。
「各所方角抄」に「長橋は橋の長さ五町ばかりなり・・・此橋は蘆須なり」とあり、雅世卿の「富士紀行」や尭孝の「覧富士記」の中の歌に詠まれているというが未確認。古くから歌に詠まれた橋だったようだが、今は下を流れるのは「津排水路」で何の風情もない。

Img_8552 ここを左折して大垣市街地へ入って行く。《地図

このあたりは今宿という地名で、鎌倉街道の宿駅が置かれていたという。東海道線沿いに今宿城跡があり、真徳寺の西側あたりが三塚城跡という。

Img_8558 三塚一里塚跡⑪ 《地図

右に碑のみ。近くには美濃路を東から通行する諸侯を迎える使者場があった。

Img_8563 名古屋口御門跡(大垣城東総門跡) 【ル-ト地図】の⑤

ここから大垣宿(城下)を10の曲りで通り抜けて行くのだが、それは明日とし大垣城に向かった。

Img_8601 大垣城東門

Img_8585 大垣城 《地図

関ヶ原の戦では西軍石田光成の本拠地となった。右は大垣藩初代藩主の戸田氏鉄騎馬像。

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2013年3月 4日 (月)

美濃路②

2013年2月21日

清洲駅(JR東海道線)・・・総見院・・・亀翁寺・・・北市場美濃路公園・・・浅野長勝邸跡・・・長光寺・・・県道136号・丹羽盤桓子誕生地碑・・四ツ家追分・四ツ家一里塚跡④・・大垣街道踏切(東海道線)・・・長束正家邸趾碑・・・長束梅公園・・・国府宮一の鳥居・・名鉄線踏切・・・曙橋(大江用水)・・・稲葉一里塚跡⑤・・・稲葉宿本陣跡碑・・稲沢町道路元標・・中問屋場跡・・津島道道標・・・禅源寺・・・魦の橋(三宅川)・・・(一の宮市)・・・中嶋宮鳥居・・・高木橋(光堂川)・・・高木一里塚跡⑥・・・高木神社・・・名鉄尾西線踏切・・・舟木一夫生家跡・・・萩原宿・・秋葉神社・・正端寺・高札場跡・・問屋場跡・・本陣跡・・稲荷神社・・・萩原橋(日光川)・・・市川房江生家跡・・・孝子佐吾平の碑・・・(名神高速)・・・天神神社・天神の渡し跡・・・冨田一里塚跡⑦・・・駒塚道道標・・・聖徳寺跡・・・地蔵寺・・・一宮市尾西歴史民俗資料館・・起宿脇本陣跡・・本陣問屋場跡・・・披本陣跡・・頓聴寺・・・船橋(河戸)跡・・・大明神社・宮河戸跡・・・旧湊屋主屋・・・起渡船場跡・金刀比羅神社①・人柱観音・・・濃尾大橋(木曽川)・・・(岐阜県羽島市)・・・起渡船場常夜灯・・・金刀比羅神社②・・・岩田橋・・・大浦の道標・・・地蔵堂・道標・・・不破一色・坂丸一里塚跡⑧(正木小学校)・・・法啓寺・・・及が橋石灯籠・・・須賀駅(名鉄竹鼻線)

  【ル-ト地図】(26.6km)

 清須宿を抜け、岐阜街道が分岐する四ツ家追分を過ぎ、大鏡餅奉納パレードで賑やかな稲葉宿を通り、萩原宿から美濃路で唯一両塚が残る冨田一里塚跡の間を通り、木曽川沿いの起宿へと進んだ。3か所にあった木曽川の渡し場跡を見て、濃尾大橋を渡り美濃国へと入った。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_8039 今日も晴れているが寒い。

Img_8044 総見院 《地図

もとは信長の菩提寺。

Img_8043 説明板

Img_8047 亀翁寺(きおうじ)

南北朝時代の寄木造の「木造虚空蔵菩薩坐像」は(国重文)は25年に1度の開帳。

Img_8052 北市場美濃路公園

Img_8050 周辺案内図

長光寺の東の役所橋を渡った所が清須代官所跡。

Img_8054 浅野長勝邸跡碑

浅野長政は長勝の婿養子、秀吉の妻ねねは養女だった。

Img_8061 長光寺楼門

Img_8058 六角堂(地蔵堂)

尾張六地蔵の一つの「鉄造地蔵菩薩立像」(国重文)を安置。別名を『汗かき地蔵

Img_8056 臥松水(がしょうすい)跡(本堂左手)

信長が愛飲したという井戸跡。清洲城や岐阜城からも取り寄せたと伝える。

Img_8063 道標(長光寺前・文政2年(1819))

「左京都道并大垣道」・「右ぎふ并浅井道」というが下部は見えない。この先の岐阜街道との四ツ家追分に立っていたもの。ダンプにぶつけられ折れてここに移されたそうだ。

Img_8064 「清酒 京屋伊助」総発売元。

Img_8066 丹羽盤桓子誕生地碑(正面の植込みの所) 《地図

安永2年(1773)に井之口四ツ家町に生まれた尾張藩の名筆家。

ここを左折すると四ツ家追分。

Img_8068 四ツ家追分・四ツ家一里塚跡④  【ル-ト地図】の①

右折が岐阜街道、直進し東海道線の踏切を渡って行くのが美濃路。

Img_8070 岐阜街道方向

Img_8075 長束正家邸趾碑

豊臣政権の五奉行の一人。

Img_8078 国府宮(こうのみや)一の鳥居 《地図

「はだか祭り」で有名な尾張大国霊神社(おわりおおくにたまじんじゃ)

Img_8082 稲葉(小沢)一里塚跡⑤ 《地図

東の小沢村と西の稲葉村で稲葉宿を構成し、現在の稲沢市となった。

Img_8083 説明板

Img_8087 旧家

Img_8090 稲葉宿本陣跡 《地図

植込みの間に碑が立つ。小沢村の原所次右衛門が勤めた。
天保14年(1843)には本陣1・脇本陣1・問屋場3・旅籠8軒の宿場だった。

ここを左折して行く。すぐ右側に「稲沢町道路元標」があり、その向い側あたりが脇本陣跡。

Img_8093 家並み

Img_8094 旧家

Img_8095 旧家

Img_8098 大鏡餅奉納パレード

まだ待機中、寒い中をかり出されご苦労さん。

Img_8102 藤市酒造(創業明治5年)

「瑞豊」は「みりん」のようだ。

Img_8108 中問屋場跡

東・西・中の3軒の問屋場の一つで、伊東家が勤めた。

Img_8109 ここにもパレードに参加の子どもたちが。《地図

Img_8111 津島道道標

「右つしま道 三里」で南へ津島方面に通じていた。

Img_8112 旧家

Img_8116 大人は車に乗ってか。

Img_8118 禅源寺 《地図

徳川家光の上洛の際の休息所となり、朝鮮通信使(本堂の額は随員の筆による)、琉球使節(享保3年(1718)江戸からの帰途、当寺の僧と誌の贈答)ともゆかりのある寺。

明治2年の農民一揆の稲葉騒動はこの寺の早鐘を合図に始まった。

Img_8123 勅使門

県指定文化財の「木造阿弥陀如来坐像」、
市指定文化財の「木造阿弥陀如来坐像」・「木造釈迦如来坐像

Img_8128 旧家

ポストが似合っている。

 稲葉宿を抜けて行く。

Img_8132 魦(はえ)の橋(三宅川)

魦(いさざ)が獲れたのか?

Img_8135 中嶋宮鳥居

Img_8150 高木一里塚跡⑥ 《地図

民家の庭のような所に「一里塚址」碑。明治初年までは両塚が残り、榎がそびえていたそうだ。

Img_8161 糊忠商店

「麩 製造・卸・販売」の店

名鉄尾西線踏切を渡って行く。

Img_8164 舟木一夫生家跡碑

今は空地になっている。

Img_8168 萩原宿に入る。

Img_8177 昔風な商店

Img_8178 レトロなビル

Img_8180 旧家

Img_8185 高札場跡 《地図

正端寺(左)の前。ここを右折する。

Img_8189家並み

Img_8193 馬頭観音(左)・地蔵(右)

馬頭観音は宝暦13年(1763)に萩原宿の馬持ち12名が建立した。

Img_8196 上問屋場跡(右に碑のみ)

下問屋は手前の下町にあった。

Img_8200 本陣跡

森権左衛門が世襲した。本陣1・脇本陣1・問屋場2・旅籠17軒の宿場だった。(天保14年)

この先を左折し、稲荷神社前を通り萩原宿を抜け、萩原橋(日光川)を渡って行く。

Img_8207 市川房江生家跡

Img_8205 説明板

Img_8208 この一隅に明石藩の大名行列の先駆の武士に無礼打にされた、孝行息子の「孝子佐吾平の碑」がある。《地図

Img_8210 由来

「佐吾平事件」のその後:尾張藩は自領内での事件で、明石藩に強く抗議したが、「無礼者打捨御免」と反論し開き直った。これを聞いた尾張藩主は、明石藩が領内を通行する際は白装束で提灯をつけ、夜間に限って通行を許可したという。その後、日中の通行が許されてからも、槍柄・旗竿の類は伏せて通過したともいう。

御三家筆頭の尾張藩だったからできた処置だろうが、少しは溜飲の下がる話ではある。

Img_8215 天神の渡し跡 《地図

川幅が狭められ、今はここから日光川の流れは見えない。左は天神神社。

Img_8217 説明板

Img_8227 冨田一里塚跡⑦ 【ル-ト地図】の②

右塚(東塚) 

Img_8235 説明板

Img_8231 左塚(西塚)

美濃路の13の一里塚跡で両塚が残るのはここだけ。

Img_8239 駒塚道道標(慶応3年(1867)) 《地図

「左駒塚道」で、美濃駒塚の殿様といわれた尾張藩の家老石河佐渡守が、名古屋城へ参勤するために開いた道という。西進すると駒塚から竹鼻を経て大垣に至る竹鼻街道の道筋で、ここが美濃路との追分。

Img_8245 中嶋家(旧庄屋家)の長い塀

起(おこし)宿に入る手前で左折し、聖徳寺跡に寄る。

Img_8246 聖徳寺跡 《地図

織田信長と斎藤道三の会見の地という。バス停も「聖徳寺跡」

Img_8250 説明板

Img_8252一宮市尾西歴史民俗資料館

「美濃路散策ルートマップ」を販売している。これがあれば美濃路は(だいたい)歩ける。  

Img_8254 起宿脇本陣跡 【ル-ト地図】の③

起宿は木曽川の渡し場のある宿で、本陣1・脇本陣1・問屋場2・旅籠22軒だった。(天保14年)

Img_8253 説明板

Img_8258

Img_8272 旧家

Img_8273 本陣・問屋場跡

加藤家が兼務していた。

Img_8274 説明板

Img_8277 家並み

Img_8282 披(ひらき)本陣跡吉田家 【ル-ト地図】の④

起宿の本陣、脇本陣跡に異変が生じた際の退避所として設置された。起宿の中心部からはかなり離れている。

Img_8291 説明板

Img_8285 天誅組の藤本鉄石の隠れ家だったという。

この間、ここが披本陣として使用されたことはなかったようだ。

Img_8300 頓聴寺山門

Img_8297 説明板

Img_8303 船橋跡碑 《地図

起宿の木曽川の渡し場は3か所(①船橋河戸・②宮河戸・③定渡船場)あった。ここは一番下流の渡し場で、将軍や朝鮮通行使などの通行時に船を並べた長さ850mもの船橋が架けられた。

Img_8305 説明板

Img_8307 船橋河戸跡あたりの木曽川

対岸まで270隻以上並んだ船橋は壮観だったろう。
船橋は尾張藩の船奉行の支配で架けられ、川原には船番所が置かれた。

少し上流の渡しが宮河戸、濃尾大橋の少し上流に起渡船場(定渡船場)があった。

 美濃路に戻る。

Img_8312 旧家

Img_8313 重厚な土蔵

Img_8320 宮河戸(みやごうど)跡碑 《地図

起宿の商家の物資の輸送、定渡船場だけでは渡船が困難な時などに使用された。

Img_8322 説明板

Img_8328 ここにも黒光りした土蔵

Img_8334旧湊屋主屋 《地図

幕末に建てられた商家で、明治24年の濃尾地震にも耐えて残った数少ない建物。

Img_8335 説明板

Img_8345 起渡船場(定渡船場)跡・金刀比羅神社①

尾張(愛知県)と美濃(岐阜県)を結ぶ重要な交通手段で、昭和32年まで運行していた。

Img_8344 説明板

Img_8349 人柱観音

Img_8348 縁起

Img_8352 濃尾大橋

車道から分離されているのはいいが、吹きさらしで寒い。

 岐阜県羽島市に入った。

Img_8359 起渡船場常夜灯(明和7年(1770))

川の面に「おこし川渡場」・こちらの面には彦根藩の儒者の龍公美の漢詩が刻まれている。濃尾大橋の開通時にここに移された。
江戸に向かう「享保の象」は用意された特別船で木曽川を渡った。

Img_8364 金刀比羅神社② 《地図

川の両岸にあった渡し守・川守社。

Img_8365 説明板

「史跡検証委員会」とはたいそうな名前をつけたものだ。

Img_8373 大浦の道標(寛延3年(1750)) 《地図

移設されたものだが、「右 いせみち」・「左 おこし舟渡」で方向はあっている。

Img_8372 説明板

Img_8377 地蔵堂

左前に道標があり「右 起道 左 笠松 墨俣道」だそうが、読み取りにくい。

Img_8383 不破一色・坂丸一里塚跡⑧ 【ル-ト地図】の⑤

右の正木小学校の校内に一里塚跡碑と説明板が立つ。

Img_8384 説明板

Img_8392 及が橋石灯籠(文政9年(1826))

この先の足近川堤の上にあったもの。この側面にも漢詩が刻まれている。

Img_8391 説明板

これで今日の予定はすべて終了し、後は須賀駅→笠松駅→名古屋駅に向かうだけ。安心したのか疲れのせいか注意力が欠けたようで、この先駅までの間で道を間違い、もとの地点に戻るのに一苦労した。

Img_8393 須賀駅(名鉄竹鼻線)

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