« 美濃路① | トップページ | 美濃路③ »

2013年3月 4日 (月)

美濃路②

2013年2月21日

清洲駅(JR東海道線)・・・総見院・・・亀翁寺・・・北市場美濃路公園・・・浅野長勝邸跡・・・長光寺・・・県道136号・丹羽盤桓子誕生地碑・・四ツ家追分・四ツ家一里塚跡④・・大垣街道踏切(東海道線)・・・長束正家邸趾碑・・・長束梅公園・・・国府宮一の鳥居・・名鉄線踏切・・・曙橋(大江用水)・・・稲葉一里塚跡⑤・・・稲葉宿本陣跡碑・・稲沢町道路元標・・中問屋場跡・・津島道道標・・・禅源寺・・・魦の橋(三宅川)・・・(一の宮市)・・・中嶋宮鳥居・・・高木橋(光堂川)・・・高木一里塚跡⑥・・・高木神社・・・名鉄尾西線踏切・・・舟木一夫生家跡・・・萩原宿・・秋葉神社・・正端寺・高札場跡・・問屋場跡・・本陣跡・・稲荷神社・・・萩原橋(日光川)・・・市川房江生家跡・・・孝子佐吾平の碑・・・(名神高速)・・・天神神社・天神の渡し跡・・・冨田一里塚跡⑦・・・駒塚道道標・・・聖徳寺跡・・・地蔵寺・・・一宮市尾西歴史民俗資料館・・起宿脇本陣跡・・本陣問屋場跡・・・披本陣跡・・頓聴寺・・・船橋(河戸)跡・・・大明神社・宮河戸跡・・・旧湊屋主屋・・・起渡船場跡・金刀比羅神社①・人柱観音・・・濃尾大橋(木曽川)・・・(岐阜県羽島市)・・・起渡船場常夜灯・・・金刀比羅神社②・・・岩田橋・・・大浦の道標・・・地蔵堂・道標・・・不破一色・坂丸一里塚跡⑧(正木小学校)・・・法啓寺・・・及が橋石灯籠・・・須賀駅(名鉄竹鼻線)

  【ル-ト地図】(26.6km)

 清須宿を抜け、岐阜街道が分岐する四ツ家追分を過ぎ、大鏡餅奉納パレードで賑やかな稲葉宿を通り、萩原宿から美濃路で唯一両塚が残る冨田一里塚跡の間を通り、木曽川沿いの起宿へと進んだ。3か所にあった木曽川の渡し場跡を見て、濃尾大橋を渡り美濃国へと入った。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_8039 今日も晴れているが寒い。

Img_8044 総見院 《地図

もとは信長の菩提寺。

Img_8043 説明板

Img_8047 亀翁寺(きおうじ)

南北朝時代の寄木造の「木造虚空蔵菩薩坐像」は(国重文)は25年に1度の開帳。

Img_8052 北市場美濃路公園

Img_8050 周辺案内図

長光寺の東の役所橋を渡った所が清須代官所跡。

Img_8054 浅野長勝邸跡碑

浅野長政は長勝の婿養子、秀吉の妻ねねは養女だった。

Img_8061 長光寺楼門

Img_8058 六角堂(地蔵堂)

尾張六地蔵の一つの「鉄造地蔵菩薩立像」(国重文)を安置。別名を『汗かき地蔵

Img_8056 臥松水(がしょうすい)跡(本堂左手)

信長が愛飲したという井戸跡。清洲城や岐阜城からも取り寄せたと伝える。

Img_8063 道標(長光寺前・文政2年(1819))

「左京都道并大垣道」・「右ぎふ并浅井道」というが下部は見えない。この先の岐阜街道との四ツ家追分に立っていたもの。ダンプにぶつけられ折れてここに移されたそうだ。

Img_8064 「清酒 京屋伊助」総発売元。

Img_8066 丹羽盤桓子誕生地碑(正面の植込みの所) 《地図

安永2年(1773)に井之口四ツ家町に生まれた尾張藩の名筆家。

ここを左折すると四ツ家追分。

Img_8068 四ツ家追分・四ツ家一里塚跡④  【ル-ト地図】の①

右折が岐阜街道、直進し東海道線の踏切を渡って行くのが美濃路。

Img_8070 岐阜街道方向

Img_8075 長束正家邸趾碑

豊臣政権の五奉行の一人。

Img_8078 国府宮(こうのみや)一の鳥居 《地図

「はだか祭り」で有名な尾張大国霊神社(おわりおおくにたまじんじゃ)

Img_8082 稲葉(小沢)一里塚跡⑤ 《地図

東の小沢村と西の稲葉村で稲葉宿を構成し、現在の稲沢市となった。

Img_8083 説明板

Img_8087 旧家

Img_8090 稲葉宿本陣跡 《地図

植込みの間に碑が立つ。小沢村の原所次右衛門が勤めた。
天保14年(1843)には本陣1・脇本陣1・問屋場3・旅籠8軒の宿場だった。

ここを左折して行く。すぐ右側に「稲沢町道路元標」があり、その向い側あたりが脇本陣跡。

Img_8093 家並み

Img_8094 旧家

Img_8095 旧家

Img_8098 大鏡餅奉納パレード

まだ待機中、寒い中をかり出されご苦労さん。

Img_8102 藤市酒造(創業明治5年)

「瑞豊」は「みりん」のようだ。

Img_8108 中問屋場跡

東・西・中の3軒の問屋場の一つで、伊東家が勤めた。

Img_8109 ここにもパレードに参加の子どもたちが。《地図

Img_8111 津島道道標

「右つしま道 三里」で南へ津島方面に通じていた。

Img_8112 旧家

Img_8116 大人は車に乗ってか。

Img_8118 禅源寺 《地図

徳川家光の上洛の際の休息所となり、朝鮮通信使(本堂の額は随員の筆による)、琉球使節(享保3年(1718)江戸からの帰途、当寺の僧と誌の贈答)ともゆかりのある寺。

明治2年の農民一揆の稲葉騒動はこの寺の早鐘を合図に始まった。

Img_8123 勅使門

県指定文化財の「木造阿弥陀如来坐像」、
市指定文化財の「木造阿弥陀如来坐像」・「木造釈迦如来坐像

Img_8128 旧家

ポストが似合っている。

 稲葉宿を抜けて行く。

Img_8132 魦(はえ)の橋(三宅川)

魦(いさざ)が獲れたのか?

Img_8135 中嶋宮鳥居

Img_8150 高木一里塚跡⑥ 《地図

民家の庭のような所に「一里塚址」碑。明治初年までは両塚が残り、榎がそびえていたそうだ。

Img_8161 糊忠商店

「麩 製造・卸・販売」の店

名鉄尾西線踏切を渡って行く。

Img_8164 舟木一夫生家跡碑

今は空地になっている。

Img_8168 萩原宿に入る。

Img_8177 昔風な商店

Img_8178 レトロなビル

Img_8180 旧家

Img_8185 高札場跡 《地図

正端寺(左)の前。ここを右折する。

Img_8189家並み

Img_8193 馬頭観音(左)・地蔵(右)

馬頭観音は宝暦13年(1763)に萩原宿の馬持ち12名が建立した。

Img_8196 上問屋場跡(右に碑のみ)

下問屋は手前の下町にあった。

Img_8200 本陣跡

森権左衛門が世襲した。本陣1・脇本陣1・問屋場2・旅籠17軒の宿場だった。(天保14年)

この先を左折し、稲荷神社前を通り萩原宿を抜け、萩原橋(日光川)を渡って行く。

Img_8207 市川房江生家跡

Img_8205 説明板

Img_8208 この一隅に明石藩の大名行列の先駆の武士に無礼打にされた、孝行息子の「孝子佐吾平の碑」がある。《地図

Img_8210 由来

「佐吾平事件」のその後:尾張藩は自領内での事件で、明石藩に強く抗議したが、「無礼者打捨御免」と反論し開き直った。これを聞いた尾張藩主は、明石藩が領内を通行する際は白装束で提灯をつけ、夜間に限って通行を許可したという。その後、日中の通行が許されてからも、槍柄・旗竿の類は伏せて通過したともいう。

御三家筆頭の尾張藩だったからできた処置だろうが、少しは溜飲の下がる話ではある。

Img_8215 天神の渡し跡 《地図

川幅が狭められ、今はここから日光川の流れは見えない。左は天神神社。

Img_8217 説明板

Img_8227 冨田一里塚跡⑦ 【ル-ト地図】の②

右塚(東塚) 

Img_8235 説明板

Img_8231 左塚(西塚)

美濃路の13の一里塚跡で両塚が残るのはここだけ。

Img_8239 駒塚道道標(慶応3年(1867)) 《地図

「左駒塚道」で、美濃駒塚の殿様といわれた尾張藩の家老石河佐渡守が、名古屋城へ参勤するために開いた道という。西進すると駒塚から竹鼻を経て大垣に至る竹鼻街道の道筋で、ここが美濃路との追分。

Img_8245 中嶋家(旧庄屋家)の長い塀

起(おこし)宿に入る手前で左折し、聖徳寺跡に寄る。

Img_8246 聖徳寺跡 《地図

織田信長と斎藤道三の会見の地という。バス停も「聖徳寺跡」

Img_8250 説明板

Img_8252一宮市尾西歴史民俗資料館

「美濃路散策ルートマップ」を販売している。これがあれば美濃路は(だいたい)歩ける。  

Img_8254 起宿脇本陣跡 【ル-ト地図】の③

起宿は木曽川の渡し場のある宿で、本陣1・脇本陣1・問屋場2・旅籠22軒だった。(天保14年)

Img_8253 説明板

Img_8258

Img_8272 旧家

Img_8273 本陣・問屋場跡

加藤家が兼務していた。

Img_8274 説明板

Img_8277 家並み

Img_8282 披(ひらき)本陣跡吉田家 【ル-ト地図】の④

起宿の本陣、脇本陣跡に異変が生じた際の退避所として設置された。起宿の中心部からはかなり離れている。

Img_8291 説明板

Img_8285 天誅組の藤本鉄石の隠れ家だったという。

この間、ここが披本陣として使用されたことはなかったようだ。

Img_8300 頓聴寺山門

Img_8297 説明板

Img_8303 船橋跡碑 《地図

起宿の木曽川の渡し場は3か所(①船橋河戸・②宮河戸・③定渡船場)あった。ここは一番下流の渡し場で、将軍や朝鮮通行使などの通行時に船を並べた長さ850mもの船橋が架けられた。

Img_8305 説明板

Img_8307 船橋河戸跡あたりの木曽川

対岸まで270隻以上並んだ船橋は壮観だったろう。
船橋は尾張藩の船奉行の支配で架けられ、川原には船番所が置かれた。

少し上流の渡しが宮河戸、濃尾大橋の少し上流に起渡船場(定渡船場)があった。

 美濃路に戻る。

Img_8312 旧家

Img_8313 重厚な土蔵

Img_8320 宮河戸(みやごうど)跡碑 《地図

起宿の商家の物資の輸送、定渡船場だけでは渡船が困難な時などに使用された。

Img_8322 説明板

Img_8328 ここにも黒光りした土蔵

Img_8334旧湊屋主屋 《地図

幕末に建てられた商家で、明治24年の濃尾地震にも耐えて残った数少ない建物。

Img_8335 説明板

Img_8345 起渡船場(定渡船場)跡・金刀比羅神社①

尾張(愛知県)と美濃(岐阜県)を結ぶ重要な交通手段で、昭和32年まで運行していた。

Img_8344 説明板

Img_8349 人柱観音

Img_8348 縁起

Img_8352 濃尾大橋

車道から分離されているのはいいが、吹きさらしで寒い。

 岐阜県羽島市に入った。

Img_8359 起渡船場常夜灯(明和7年(1770))

川の面に「おこし川渡場」・こちらの面には彦根藩の儒者の龍公美の漢詩が刻まれている。濃尾大橋の開通時にここに移された。
江戸に向かう「享保の象」は用意された特別船で木曽川を渡った。

Img_8364 金刀比羅神社② 《地図

川の両岸にあった渡し守・川守社。

Img_8365 説明板

「史跡検証委員会」とはたいそうな名前をつけたものだ。

Img_8373 大浦の道標(寛延3年(1750)) 《地図

移設されたものだが、「右 いせみち」・「左 おこし舟渡」で方向はあっている。

Img_8372 説明板

Img_8377 地蔵堂

左前に道標があり「右 起道 左 笠松 墨俣道」だそうが、読み取りにくい。

Img_8383 不破一色・坂丸一里塚跡⑧ 【ル-ト地図】の⑤

右の正木小学校の校内に一里塚跡碑と説明板が立つ。

Img_8384 説明板

Img_8392 及が橋石灯籠(文政9年(1826))

この先の足近川堤の上にあったもの。この側面にも漢詩が刻まれている。

Img_8391 説明板

これで今日の予定はすべて終了し、後は須賀駅→笠松駅→名古屋駅に向かうだけ。安心したのか疲れのせいか注意力が欠けたようで、この先駅までの間で道を間違い、もとの地点に戻るのに一苦労した。

Img_8393 須賀駅(名鉄竹鼻線)

|

« 美濃路① | トップページ | 美濃路③ »

「旅行・地域」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック

この記事のトラックバックURL:
http://app.cocolog-nifty.com/t/trackback/161343/56885411

この記事へのトラックバック一覧です: 美濃路②:

« 美濃路① | トップページ | 美濃路③ »