美濃路②
2013年2月21日
清洲駅(JR東海道線)・・・総見院・・・亀翁寺・・・北市場美濃路公園・・・浅野長勝邸跡・・・長光寺・・・県道136号・丹羽盤桓子誕生地碑・・四ツ家追分・四ツ家一里塚跡④・・大垣街道踏切(東海道線)・・・長束正家邸趾碑・・・長束梅公園・・・国府宮一の鳥居・・名鉄線踏切・・・曙橋(大江用水)・・・稲葉一里塚跡⑤・・・稲葉宿本陣跡碑・・稲沢町道路元標・・中問屋場跡・・津島道道標・・・禅源寺・・・魦の橋(三宅川)・・・(一の宮市)・・・中嶋宮鳥居・・・高木橋(光堂川)・・・高木一里塚跡⑥・・・高木神社・・・名鉄尾西線踏切・・・舟木一夫生家跡・・・萩原宿・・秋葉神社・・正端寺・高札場跡・・問屋場跡・・本陣跡・・稲荷神社・・・萩原橋(日光川)・・・市川房江生家跡・・・孝子佐吾平の碑・・・(名神高速)・・・天神神社・天神の渡し跡・・・冨田一里塚跡⑦・・・駒塚道道標・・・聖徳寺跡・・・地蔵寺・・・一宮市尾西歴史民俗資料館・・起宿脇本陣跡・・本陣問屋場跡・・・披本陣跡・・頓聴寺・・・船橋(河戸)跡・・・大明神社・宮河戸跡・・・旧湊屋主屋・・・起渡船場跡・金刀比羅神社①・人柱観音・・・濃尾大橋(木曽川)・・・(岐阜県羽島市)・・・起渡船場常夜灯・・・金刀比羅神社②・・・岩田橋・・・大浦の道標・・・地蔵堂・道標・・・不破一色・坂丸一里塚跡⑧(正木小学校)・・・法啓寺・・・及が橋石灯籠・・・須賀駅(名鉄竹鼻線)
【ル-ト地図】
清須宿を抜け、岐阜街道が分岐する四ツ家追分を過ぎ、大鏡餅奉納パレードで賑やかな稲葉宿を通り、萩原宿から美濃路で唯一両塚が残る冨田一里塚跡の間を通り、木曽川沿いの起宿へと進んだ。3か所にあった木曽川の渡し場跡を見て、濃尾大橋を渡り美濃国へと入った。
写真をクリックすると拡大します。
もとは信長の菩提寺。
南北朝時代の寄木造の「木造虚空蔵菩薩坐像」は(国重文)は25年に1度の開帳。
長光寺の東の役所橋を渡った所が清須代官所跡。
浅野長勝邸跡碑
浅野長政は長勝の婿養子、秀吉の妻ねねは養女だった。
尾張六地蔵の一つの「鉄造地蔵菩薩立像」(国重文)を安置。別名を『汗かき地蔵』
信長が愛飲したという井戸跡。清洲城や岐阜城からも取り寄せたと伝える。
「左京都道并大垣道」・「右ぎふ并浅井道」というが下部は見えない。この先の岐阜街道との四ツ家追分に立っていたもの。ダンプにぶつけられ折れてここに移されたそうだ。
丹羽盤桓子誕生地碑(正面の植込みの所) 《地図》
安永2年(1773)に井之口四ツ家町に生まれた尾張藩の名筆家。
ここを左折すると四ツ家追分。
右折が岐阜街道、直進し東海道線の踏切を渡って行くのが美濃路。
長束正家邸趾碑
豊臣政権の五奉行の一人。
「はだか祭り」で有名な尾張大国霊神社(おわりおおくにたまじんじゃ)
稲葉(小沢)一里塚跡⑤ 《地図》
東の小沢村と西の稲葉村で稲葉宿を構成し、現在の稲沢市となった。
稲葉宿本陣跡 《地図》
植込みの間に碑が立つ。小沢村の原所次右衛門が勤めた。
天保14年(1843)には本陣1・脇本陣1・問屋場3・旅籠8軒の宿場だった。
ここを左折して行く。すぐ右側に「稲沢町道路元標」があり、その向い側あたりが脇本陣跡。
まだ待機中、寒い中をかり出されご苦労さん。
藤市酒造(創業明治5年)
「瑞豊」は「みりん」のようだ。
東・西・中の3軒の問屋場の一つで、伊東家が勤めた。
ここにもパレードに参加の子どもたちが。《地図》
「右つしま道 三里」で南へ津島方面に通じていた。
禅源寺 《地図》
徳川家光の上洛の際の休息所となり、朝鮮通信使(本堂の額は随員の筆による)、琉球使節(享保3年(1718)江戸からの帰途、当寺の僧と誌の贈答)ともゆかりのある寺。
明治2年の農民一揆の稲葉騒動はこの寺の早鐘を合図に始まった。
県指定文化財の「木造阿弥陀如来坐像」、
市指定文化財の「木造阿弥陀如来坐像」・「木造釈迦如来坐像」
ポストが似合っている。
稲葉宿を抜けて行く。
魦(いさざ)が獲れたのか?
高木一里塚跡⑥ 《地図》
民家の庭のような所に「一里塚址」碑。明治初年までは両塚が残り、榎がそびえていたそうだ。
「麩 製造・卸・販売」の店
名鉄尾西線踏切を渡って行く。
今は空地になっている。
高札場跡 《地図》
正端寺(左)の前。ここを右折する。
馬頭観音は宝暦13年(1763)に萩原宿の馬持ち12名が建立した。
下問屋は手前の下町にあった。
森権左衛門が世襲した。本陣1・脇本陣1・問屋場2・旅籠17軒の宿場だった。(天保14年)
この先を左折し、稲荷神社前を通り萩原宿を抜け、萩原橋(日光川)を渡って行く。
市川房江生家跡
この一隅に明石藩の大名行列の先駆の武士に無礼打にされた、孝行息子の「孝子佐吾平の碑」がある。《地図》
「佐吾平事件」のその後:尾張藩は自領内での事件で、明石藩に強く抗議したが、「無礼者打捨御免」と反論し開き直った。これを聞いた尾張藩主は、明石藩が領内を通行する際は白装束で提灯をつけ、夜間に限って通行を許可したという。その後、日中の通行が許されてからも、槍柄・旗竿の類は伏せて通過したともいう。
御三家筆頭の尾張藩だったからできた処置だろうが、少しは溜飲の下がる話ではある。
天神の渡し跡 《地図》
川幅が狭められ、今はここから日光川の流れは見えない。左は天神神社。
右塚(東塚)
美濃路の13の一里塚跡で両塚が残るのはここだけ。
駒塚道道標(慶応3年(1867)) 《地図》
「左駒塚道」で、美濃駒塚の殿様といわれた尾張藩の家老石河佐渡守が、名古屋城へ参勤するために開いた道という。西進すると駒塚から竹鼻を経て大垣に至る竹鼻街道の道筋で、ここが美濃路との追分。
起(おこし)宿に入る手前で左折し、聖徳寺跡に寄る。
聖徳寺跡 《地図》
織田信長と斎藤道三の会見の地という。バス停も「聖徳寺跡」
「美濃路散策ルートマップ」を販売している。これがあれば美濃路は(だいたい)歩ける。
起宿は木曽川の渡し場のある宿で、本陣1・脇本陣1・問屋場2・旅籠22軒だった。(天保14年)
加藤家が兼務していた。
起宿の本陣、脇本陣跡に異変が生じた際の退避所として設置された。起宿の中心部からはかなり離れている。
天誅組の藤本鉄石の隠れ家だったという。
この間、ここが披本陣として使用されたことはなかったようだ。
船橋跡碑 《地図》
起宿の木曽川の渡し場は3か所(①船橋河戸・②宮河戸・③定渡船場)あった。ここは一番下流の渡し場で、将軍や朝鮮通行使などの通行時に船を並べた長さ850mもの船橋が架けられた。
対岸まで270隻以上並んだ船橋は壮観だったろう。
船橋は尾張藩の船奉行の支配で架けられ、川原には船番所が置かれた。
少し上流の渡しが宮河戸、濃尾大橋の少し上流に起渡船場(定渡船場)があった。
美濃路に戻る。
宮河戸(みやごうど)跡碑 《地図》
起宿の商家の物資の輸送、定渡船場だけでは渡船が困難な時などに使用された。
旧湊屋主屋 《地図》
幕末に建てられた商家で、明治24年の濃尾地震にも耐えて残った数少ない建物。
尾張(愛知県)と美濃(岐阜県)を結ぶ重要な交通手段で、昭和32年まで運行していた。
車道から分離されているのはいいが、吹きさらしで寒い。
岐阜県羽島市に入った。
川の面に「おこし川渡場」・こちらの面には彦根藩の儒者の龍公美の漢詩が刻まれている。濃尾大橋の開通時にここに移された。
江戸に向かう「享保の象」は用意された特別船で木曽川を渡った。
金刀比羅神社② 《地図》
川の両岸にあった渡し守・川守社。
「史跡検証委員会」とはたいそうな名前をつけたものだ。
大浦の道標(寛延3年(1750)) 《地図》
移設されたものだが、「右 いせみち」・「左 おこし舟渡」で方向はあっている。
左前に道標があり「右 起道 左 笠松 墨俣道」だそうが、読み取りにくい。
右の正木小学校の校内に一里塚跡碑と説明板が立つ。
この先の足近川堤の上にあったもの。この側面にも漢詩が刻まれている。
これで今日の予定はすべて終了し、後は須賀駅→笠松駅→名古屋駅に向かうだけ。安心したのか疲れのせいか注意力が欠けたようで、この先駅までの間で道を間違い、もとの地点に戻るのに一苦労した。
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