美濃路④・岐阜街道(御鮨街道)①
2013年2月23日
大垣駅(JR東海道線)・・・新大橋(水門川)・・・名古屋口門跡(大垣城東総門跡)・・高札場跡・・大垣宿脇本陣跡・・大垣城大手門跡(広嶺神社)・・本町道標・・問屋場跡・・本陣跡・・飯沼慾斎邸跡・・京口門跡(大垣城西総門跡)・・船町道標・・住吉燈台・船町港跡・・住吉神社・・高橋(水門川)・・船町中組常夜灯・・奥の細道むすびの地・・無何有荘・・全昌寺・・・県道31号・・・常隆寺・・・大泉寺・・・愛宕神社・・芭蕉・木因遺跡・正覚寺・・・水神神社・・・近鉄養老線踏切・・・山王用水・・旧道・・・徳円寺・・・秋葉神社・・・旧塩田橋(杭瀬川)・・塩田常夜灯・・・長源寺・・・秋葉神社・・・法永寺・・・(県道31号)・・・瓊瓊杵神社・・久徳一里塚跡⑫・・・谷汲道道標・・・白髭神社・・・大谷川橋・・・林松院・・・平林荘跡あたり・・・龍松禅寺・・・慈応寺・・・国道21号・・・(垂井町)・・・綾戸口交差点・旧道・・・等運寺・・・光堂寺・・綾戸一里塚跡⑬あたり・六所神社・・・大垣街道踏切(東海道線)・・・綾戸古墳・熊坂長範物見の松・・・美濃路松並木・・・中山道合流地点(垂井追分)・・・相川橋・・・垂井駅(東海道線)
垂井駅→岐阜駅→長良橋(長良川)・鵜飼観覧船乗場・・・川原町・・・霞橋・・・御鮨所跡あたり(林稲荷神社)・・・正法寺・・・常在寺・・妙照寺・・・岐阜奉行所跡あたり・・・岐阜町本陣跡・・・御園の榎・・橿森神社・・・名鉄各務原線踏切・・・東海道線ガード・北番所跡あたり・・・名鉄名古屋本線踏切・・・道標・中山道合流地点・・(加納宿)・岐阜問屋跡・・専福寺・・善徳寺・・東番所跡・・道標・・・加納大橋(新荒田川)・・中山道分岐地点・道標・力士「鏡岩」の碑(ぶたれ坊)・・・順勝寺・・・馬頭観音祠・・・(岐大バイパス)・・・県道14号・・西川手8交差点・・・境川・・旧道・・・三つ目川・・・笠松駅(名鉄名古屋本線)
【ル-ト地図】
城下町で「奥の細道の結びの地」でもある大垣宿を通り、ひたすら中山道との合流地点の垂井宿へと向う。まばらな松並木を抜けると見覚えある垂井の追分に着いた。
ここを美濃路歩きの「結びの地」とし、東海道線で垂井駅から岐阜駅へ行き、長良橋へ出て岐阜街道(御鮨街道)を歩き始めた。
岐阜街道は四ツ家追分で美濃路と分かれ、一宮宿を通り木曽川を渡り笠松宿から、中山道の加納宿に至りさらに北に進み、尾張藩領の岐阜町に至る街道で、岐阜の方からは尾張藩が長良川で獲れた鮎を鮎鮨にして江戸の将軍家へ献上するため継ぎ送った道で、「御鮨街道」と呼ばれた。長良川から御鮨所跡を通り、岐阜町→加納宿→笠松宿→笠松湊(木曽川)→一宮宿→四ツ家追分と歩くので、「御鮨街道」・「尾張街道」・「名古屋街道」といった方が適当だろう。
美濃路は北西方向に歩いたので風の冷たさが身にしみたが、今度は南東方向へ向かうので寒さはかなり和らぐ道中となるだろう。
写真をクリックすると拡大します。
かつては大垣城の外堀で、川沿いの「四季の路」は「ミニ奥の細道」となっている。
名古屋口門跡(大垣城東総門跡) 《地図》
ここを左折し10回の曲りで大垣宿を抜けて行く。(宿場図参照)
高札場跡 《地図》
ここを左折する。
脇本陣跡 《地図》
今は田中屋せんべい総本舗(創業安政6年(1859))が店を構えている。
ここは大垣城大手門跡
本町道標(文政9年(1826)の複製・正面左) 《地図》
「右 京道」・「左江戸道」、東に進むのは竹鼻街道で、揖斐川の平の渡し、長良川の本郷の渡し、木曽川の駒塚の渡しを越え、冨田の「駒塚道道標」の所で再び美濃路と出会う。『美濃路②』に記載。
ここを右折し、すぐ左折する
ここを右折する。
大垣宿は本陣1・脇本陣1・問屋場1・旅籠11軒の宿場だった。(天保14年(1843))
この先を左折しすぐ右折する。
創業は宝暦6年(1756)の老舗。
飯沼慾斎邸跡碑のすぐ先を左折する。
美濃路はこの先で右折し(10度目の曲り)、高橋(水門川)を渡り西進して行く。
奥の細道むすびの地 《地図》
朝鮮通信使が宿泊したそうだ。
竜宮門で1階部分にも屋根があるのは珍しいか。
芭蕉・木因遺跡(正覚寺前)
正覚寺の隣には西から大垣宿を通行する諸侯などを迎えた「使者場」があった、
近鉄養老線踏切を渡り、山王用水の先で左に旧道に入る。
塩田橋・塩田常夜灯(対岸) 《地図》
塩田港があった所で、赤坂港と桑名港の中継地として栄えた。
県道31号を横切って行く。
この先旧街道は太平洋工業内で消滅している。しばらく県道を歩き右に入る。
谷汲道道標(電柱下) 《地図》
北に進めば荒尾を経て赤坂から谷汲巡礼道で谷汲山華厳寺に通じていた。後ろは江戸時代には「十里四方売薬御免」の屋号「とら屋」の薬草店。
ここが平林荘跡(飯沼慾斎の隠居所)と思っていたが、この西側のようだ。 《地図》
この先で国道21号に出る。
綾戸口交差点で右に入る。 《地図》
綾戸一里塚跡⑬あたり・六所神社 《地図》
美濃路で最後の一里塚で六所神社の東側にあったという。
綾戸古墳は武内宿祢の墓という言い伝えがあるのようだ。
熊坂長範物見の松
何代目かの若い松は元気がなく倒れそうだ。別名を「幣掛松」(しでかけまつ)ともいい、南宮大社で平将門調伏祈願の時、この松に御幣を掛けたからという。
「北国街道」の野尻坂峠の北方には長範山がある。右は「武内大神」碑
期待していたがまばらだった。
中山道合流地点(垂井の追分) 【ル-ト地図】の19
左中山道・右が歩いて来た美濃路
東海道線で岐阜駅まで行き岐阜街道(御鮨街道)を歩き始める。
******ここからは岐阜街道(御鮨街道)******
中央あたりに「御鮨所」がある。その南方の広い敷地の「御役所」は岐阜奉行所。
左の林稲荷神社の所。
鮎はここで「なれ鮨」(熟れ鮨)に加工されて江戸城まで継ぎ送りされた。
金華山の左上に岐阜城が小さく見える。
正面の正法寺で「岐阜大仏」を見る。拝観料200円也。
4~5日で江戸に着く頃にはちょうど食べごろになったそうだ。将軍も「これは美味だ」といったとか。
貞享5年(1688)6月、芭蕉は約1か月当寺に滞在した。鵜飼見物をしただろうか?
岐阜問屋→笠松問屋→一宮問屋→(美濃路)→名古屋→宮宿(熱田)→(東海道)→江戸へと継ぎ送られた。
料亭「水琴亭」
元治元年(1864)創業
本陣賀島家の跡地に日下部邸が建った。その洋館(右・石原美術)は残るが和館はビルになってしまった。(尾張藩主が岐阜を訪れる時の本陣で、中山道加納宿の本陣とは別物)
県外に移築されたようだ。
小熊町2交差点
前の釣鐘は西側にある「岐阜鋳物会館」への案内用のようだ。
当社は瑞竜寺との関わりが深く、両部鳥居も神仏習合の名残りという。
東海道線ガード下あたりが北番所跡だが説明板などは見当たらず。
中山道合流地点 《地図》
右の太田薬局前に道標「右 ぎふ道」・「左 中山道」、「ぎふ道」が今通って来た岐阜街道・御鮨街道のこと。ここを左折してすぐ左側が加納宿の岐阜問屋場跡。
ここから中山道との分岐地点までは、いくつもの枡形を曲がって行く。このあたりは『中山道(太田宿→加納宿』でも歩いている。
御鮨所で作られた「鮎鮨」はこの問屋を経て、笠松問屋へと継ぎ送りされた。
何の標示もないが、後で調べると民家の軒下に説明板があるそうだが?
道標(明治18年) 《地図》
「「右 岐阜 谷汲」「左 西京」で、明治時代に立てられたので「西京」か。「谷汲」は谷汲山華厳寺で、さっきの美濃路にもあった。
ここを右折する。
中山道は直進、御鮨街道は右折。
道標は「江戸木曽路」・「東海道いせ路」
鏡岩は自分をぶたせたのではなく、木像をぶたせたようだ。身代わりとはちゃっかりしている。
この先は境川沿いの道となり、笠松宿まで見所も少ない。
境川沿いを進む。 《地図》
街道は八丁畷と呼ばれる自然堤防上の松並木の道だったそうだが、今は何の風情もない。
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