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2013年3月 6日 (水)

美濃路③

2013年2月22日

須賀駅(名鉄竹鼻線)・・・及が橋(旧足近川)・・・間の宿南宿・・・道標・地蔵・境川土手・・(鎌倉街道)・・・西方寺・・・東小熊・西小熊一里塚跡⑨・・・秋葉神社・・・小熊の渡し跡・境川橋(境川)・・大江川橋(大江川)・・・長良大橋(長良川)・墨俣の渡し跡・墨俣橋(犀川)・・・犀川制水樋門・・太閤出世橋(犀川)・・墨俣一夜城・・墨俣宿札の辻・本陣跡碑・・脇本陣跡・・寺町界隈・・本正寺・・明台寺・・津島神社・・・正八幡宮・・・東結一里塚跡⑩・・・米の宮之跡碑・・・白山神社・・・町屋観音堂・・・結神社・・・佐渡の渡し跡・新揖斐川橋(揖斐川)・・(大垣市)・・・佐渡常夜灯・・・大師寺・・・宮脇酒造・・・小野の長橋・・・宝光寺・・・八幡神社・・・三塚一里塚跡⑪・・新規橋(新規川)・・・名古屋口御門跡(大垣城東総門跡)・・・大垣城・・・大垣駅(JR東海道線)

  【ル-ト地図】(19.9km)

 木曽川を渡った美濃路は輪中地帯を通って行く。境川の堤を西に進み、小熊の渡し跡で境川を渡り、すぐ大江川を渡る。
 墨俣の渡しの長良川を渡れば墨俣一夜城の墨俣宿だ。正八幡宮から先は輪中の堤上を行く。遠くに伊吹山の雪姿を眺めながらの道中となる。照手姫ゆかりの町屋観音堂の先で揖斐川の佐渡の渡しとなるが、今はかなり上流の新揖斐川橋へ迂回する。橋を渡って下流に進み佐渡常夜灯で土手を下り西に進み、大垣城下・大垣宿へと入った。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_8394 及が橋(旧足近川) 《地図

昨日見た「及が橋石灯籠」はこのあたりにあった輪中の堤防上の松並木の間に立っていたもの。

Img_8407 西方寺への道標 【ル-ト地図】の①

道標は「親鸞上人御舊跡 」で、傍らに地蔵が2体。ここは鎌倉街道と美濃路の合流地点で、土手上の鎌倉街道を東に進み西方寺に寄る。

Img_8403 西方寺

「聖徳太子 親鸞聖人遺跡」の標柱。

Img_8402 説明板

 道標の所まで戻る。

Img_8412 境川土手を西に進む。

Img_8410 丸々太った野ねずみ

猫より大きい。土手を散歩中の人の話によると川原の草むらで3で棲んでいるそうだ。(むろんネズミのこと)

Img_8415 川側にも民家が並び、この道が街道だったことが分かる。

Img_8424 東小熊・西小熊一里塚跡⑨ 《地図

Img_8425 一里塚跡碑

Img_8431 小熊の渡し跡(境川橋) 《地図

もとは尾張と美濃の堺川だった。

Img_8428 説明板

長良川にぶつかり長良大橋を渡る。

Img_8439 長良川(長良大橋から上流方向)

長良大橋の少し下流から上流方向に「墨俣の渡し」で渡っていた。ここも将軍や朝鮮通信使の通行の際には100艙ほどの船橋が架けられた。左前方に墨俣一夜城(復元)が見える。

阿仏尼の『十六夜日記』に、建治3年(1277)、長良川を船橋(浮橋)で渡った記述がある。「すのまたとかやいふ川には、舟をならべて、まさきのつなにやあらん、かけとゞめたるうきはしあり。いとあやうけれどわたる。・・・(中略)・・・假の世のゆきゝとみるもはかなしや身を浮舟を浮橋にして 」

Img_9260享保の象」は特別船で渡った。

象は対岸に着くと大勢の見物の群集に驚いたのか暴走し、竹藪に入り込み竹の葉を食べ始めたという。揖斐川と境川は少し沈みながらも歩いて渡ったそうだ。揖斐川はそんなに浅かったのか?

墨俣宿の札の辻跡を通り過ぎ墨俣城に向う。

Img_8452 墨俣一夜城(墨俣歴史資料館) 《地図

木下藤吉郎出世の城だ。

Img_8460 犀川制水樋門・長良川(天守から)

墨俣宿の札の辻跡に戻る。

Img_8444 墨俣宿札の辻・本陣跡碑 《地図

本陣は沢井家が勤めた。関ヶ原の戦の際に伊達正宗が泊まったと伝わるそうだ。
本陣1・脇本陣1・問屋場1・旅籠10軒の宿場だった。(天保14年(1843))

Img_8449 説明板

Img_8447 常夜灯説明板

平成25年3月6日」と先の日付が入っている。

Img_8465 中町の家並み

岐島屋百貨店の右隣が脇本陣跡。

Img_8468 脇本陣跡 【ル-ト地図】の②

Img_8467 説明板

Img_8471 寺町界隈

Img_8476 本正寺山門

脇本陣の門を移築。

Img_8485 明台寺(みょうだいじ)

小野篁が彫ったという「橋杭笑地蔵」の石柱が立つ。本堂内に安置されているようだ。逸話と伝説の多い小野篁はあちこちに神出鬼没だ。境内には南朝の忠臣?土岐悪五郎の墓もある。

Img_8480 宿場絵図(安永7年(1778)当時の宿場図)

左上の「城あと」は墨俣城、大川は長良川。昭和初期の河川改修で川端町から中町にかけての町並みは削られた。

Img_8479 説明板

Img_8488 琉球使節記念石灯籠(津島神社)

寛政3年(1791)、帰国する琉球国使節一行が墨俣宿を通過した際、天王講中の人達が当社に奉納する石燈篭に刻銘文を願い「琉球国儀衛生毛延柱書」の文字が刻まれた。

Img_8494 正八幡宮 《地図

太鼓橋は急傾斜で渡れない。

Img_8499 東結一里塚跡⑩ 《地図

右に「美濃路 一里塚跡」碑と地蔵の小祠。地蔵の台座には「右墨股 左大垣」と刻まれているそうだ。

Img_8501 説明板

Img_8504 輪中の堤上の道を行く。

「いがみしゃくれ」といわれた松並木があったのはこのあたりか? 前方にうっすらと雪化粧した山並みは伊吹山方向だろう。

米の宮之跡碑、白山神社を過ぎて行く。

Img_8512 町屋観音堂 【ル-ト地図】の③

各地に残る照手姫伝説の地の一つ。照手姫の守本尊の黄金仏を頭上に祀る十一面観音像を安置するそうだ。

Img_8513 説明板

Img_8515 町屋の由来

「待合」→「町屋」

Img_8516 美濃路は直進し、佐渡(さわたり)の渡しへで揖斐川を渡っていたが、今は右折しかなり上流の新揖斐川橋を渡る。

Img_8517 結(むすぶ)神社 《地図

Img_8524 社殿

若い女性が熱心に長い間手を合わせていた。縁結びを祈っていたのだろう。
阿仏尼の『十六夜日記』に、「ひるつかた、過ゆく道にめにたつ社あり。人にとへば、「むすぶの神とぞきこゆる。」といへば、 まもれたゞ契結ぶの神ならばとけぬ恨にわれまよはさで 」
信長はこの社に長篠の戦の戦勝を祈願したという。

Img_8527 佐渡の渡し跡方向(新揖斐川橋から)

橋を渡り下流方向に進む。

Img_8533 佐渡常夜灯(嘉永7年(1854)) 【ル-ト地図】の④

Img_8534 説明板

Img_8541宮脇酒造 《地図

Img_8543 樹齢200年以上というクスノキか?

Img_8546 専勝寺は関ヶ原の戦の時、教如上人をかくまい、西美濃触頭役を勤めたという。周辺が小野城跡のようだ。 《地図

Img_8547 「鎌倉街道 小野の長橋」碑 《地図

鎌倉街道が通り、長さ5町ほどの低湿地に板を掛けて渡ったという。
「各所方角抄」に「長橋は橋の長さ五町ばかりなり・・・此橋は蘆須なり」とあり、雅世卿の「富士紀行」や尭孝の「覧富士記」の中の歌に詠まれているというが未確認。古くから歌に詠まれた橋だったようだが、今は下を流れるのは「津排水路」で何の風情もない。

Img_8552 ここを左折して大垣市街地へ入って行く。《地図

このあたりは今宿という地名で、鎌倉街道の宿駅が置かれていたという。東海道線沿いに今宿城跡があり、真徳寺の西側あたりが三塚城跡という。

Img_8558 三塚一里塚跡⑪ 《地図

右に碑のみ。近くには美濃路を東から通行する諸侯を迎える使者場があった。

Img_8563 名古屋口御門跡(大垣城東総門跡) 【ル-ト地図】の⑤

ここから大垣宿(城下)を10の曲りで通り抜けて行くのだが、それは明日とし大垣城に向かった。

Img_8601 大垣城東門

Img_8585 大垣城 《地図

関ヶ原の戦では西軍石田光成の本拠地となった。右は大垣藩初代藩主の戸田氏鉄騎馬像。

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