岐阜街道(御鮨街道)②
2013年2月24日
笠松駅(名鉄名古屋本線)・・・名鉄竹鼻線踏切・・・真教寺・・・秋葉神社・・・笠松問屋跡・・善光寺(大臼塚跡の石碑)・・蓮国寺(むくげ塚)・・美濃郡代笠松陣屋跡・・法傳寺・・愛宕神社・・笠松町歴史民俗資料館・・杉山邸・・木戸跡・・笠松渡船場跡・・石畳道・・切支丹処刑場跡あたり・・木曽川橋・・・(一宮市)・・宝江の渡し跡・高橋源左衛門旧居跡・・・道標・・・・・県道14号・・・旧道・・・名鉄線踏切・・・岐阜街道踏切(東海道線)・・・法蓮寺・・・蔵ノ浦踏切(東海道線)・・・黒田城跡・・・旭橋(根府川)・・・善龍寺・・・西蓮寺・・・愛宕神社・・・(東海北陸自動車道)・・・石刀神社標柱・・・県道190号・・・彼岸縄手地蔵・・・野宮神明社・・・酒見神社・・・旧道・・・中町観音・・・和田橋(日光川)・・・真清田神社・・一宮宿・本町商店街・・市神堂跡・・一宮城跡・・・地蔵寺・・・富士神社・一宮一里塚跡・・真清田神社一の鳥居跡・・・浅間社・・多加木北交差点・県道190号・・・大江川・・・(名神高速道路)・・・(稲沢市)・・・赤池地蔵・赤池古蹟碑・・・旧道・・・赤池一里塚跡碑・・・下津城跡碑・・・頓乗寺・・・山神社・・・高札場跡・・・神明社・・・八幡神社・・・阿弥陀寺・・・井之口交差点・・・四ツ家追分・・・清洲駅(東海道線)
【ル-ト地図】
笠松宿に入ったらみぞれが降り出した。岐阜問屋から鮎鮨を引き継いだ笠松問屋跡から、善光寺に残る隠れ切支丹遺跡を見て、美濃郡代笠松陣屋跡を一苦労して探し、歴史民俗資料館を見学し、木戸跡から木曽川の河原の笠松湊跡に出た。笠松港公園として整備され気分のいい空間となっている。この頃にはみぞれも上がり青空が広がってきた。笠松渡船場の石畳を歩き、木曽川橋を渡れば尾張国側の宝江の渡船場だが、こちらは見所が少ない。
名古屋道の道標に従い、一宮宿へと南下する。真清田神社の門前町で、三八市で賑わった一宮宿だが遺構は残っていない。一宮一里塚跡で宿を抜け、赤池一里塚跡を通り、碑のみぽつんと立つ下津城跡に寄り、美濃路と合流する四ツ家の追分を目指した。
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笠松問屋跡 《地図》
道標には「鮎鮓街道」・「名古屋街道 笠松道」
笠松では御鮨街道を「鮎鮓(あゆずし)街道」、御鮨所を「お鮓元」と呼んでいる。歌碑には、「鮎鮨の 桶かつぎ 受けわたし 人びとは 江戸への道を ひたに走りき」
笠松湊に近い隠れ切支丹の処刑場の塚に立っていたもの。「大臼」はゼウスが訛った「デウス」だろう。
雪が舞っている。
八幡神社(正面奥)への古い家並み
八幡神社の「時の鐘」
むくげ塚(蓮国寺)
右の「芭蕉翁之墓」の裏に「みちのべの 木槿は馬に かまれけり」と刻むようだ。「野ざらし紀行」では「くはれけり」。
左は高橋清斗の句碑だそうだ。
美濃郡代笠松陣屋跡・笠松県庁跡 【ル-ト地図】(岐阜街道)の6
初代の美濃郡代は大久保長安だった。
館長さんからいろんな資料をいただき役立った。
明治24年の濃尾地震直後に再建された町家造りの建物。江戸時代の初め頃、笠松を拓いた「八人衆」の一人、杉山市右衛門家の15代目の銓二郎氏の別宅だった。
名古屋道(御鮨街道)(左)、伊勢道(直進)、京道(右)の分岐地点で交通の要衝で関所が置かれ。分岐にあった道標(周辺図の道標2)が笠松湊の河原に復元されている。
常夜灯の右が復元された道標(天保4年(1833))
「時雨ふれ 笠松へ着く 日なりけり」・「春風や きせるくわへて 船頭殿」の句とも『野ざらし紀行』の句ではないようだ。
隠れ切支丹刑場跡あたり 《地図》
大臼(デウス)塚の石碑はここにあった。
工事中で細い歩道で時々水滴が落ちてくる。自転車が来るとやだなと思っていたが幸い1台も通らなかった。
右岸が笠松渡船場、左岸が宝江渡船場、左岸の東海道線の下あたりの堤防上に尾張藩の北方代官所(周辺図の北方陣屋)があった。
宝江の渡し跡 《地図》
高橋源左衛門旧居跡
道標(文政12年(1829)) 《地図》
「右津しま起道」・「左なこや道」で左に進む。「起」は美濃路の木曽川を渡った起(おこし)宿のこと。
県道14号に出る。見所は少ない。
左に旧道に入る。 《地図》
名鉄線踏切、岐阜街道踏切(東海道線)を渡って行く。
旭橋(根府川)の手前で右折し、法蓮寺と黒田城跡に寄る。 《地図》
黒田城主山内家の菩提寺。
黒田城跡 【ル-ト地図】の8
山内一豊出生の城。
旭橋に戻る。
久能硝子店 《地図》
明治11年の明治天皇東海北陸巡幸の際に、小休所となった寺。
黒田はかつては鎌倉街道の宿駅だった。江戸時代には黒田村地内で北方代官所へ通じる御陣屋道が分岐していた。(上掲の周辺図参照)
「善光寺如来 葉栗郡出張所」の石柱が立つ。善光寺如来の本田善光にまつわる古跡で江戸時代には善光寺屋敷と呼ばれていたという。
石刀神社標柱
県道190号に出る。
彼岸縄手地蔵 《地図》
説明板に「尾張国六地蔵第一」とある。「尾張六地蔵」の第一番は美濃路にある長光寺六角堂の「汗かき地蔵」で紛らわしい。「尾張国六地蔵」のあとの5つはどこにあるのか?
倭姫伝説の社
左に旧道に入る。 《地図》
すぐ左に中町観音がある。
西側から尾張国一宮の境内を抜けて行こう。
三八市の市神堂跡碑・真清田神社の二の鳥居跡碑(右の大和証券前) 《地図》
天保13年(1842)には500以上もの店が真清田神社門前から地蔵寺あたりまで軒を連ねていた。綿に関連する店が多かったという。笠松問屋から搬送された鮎鮨は南側の伝馬町の一宮宿の問屋に引き継がれたが、問屋の場所が分からず。三八市は昭和まで続いたというが、このあたりは戦災で焦土となり宿場の名残りは全くない。
一宮城跡(三菱東京UFJ銀行前) 《地図》
東海三十六不動尊の第三番札所。西門と樹齢400年以上のイチイガシ。
富士神社(真清田神社御旅所)境内の南西角に「岐阜街道 一宮一里塚跡」碑が立つ。ここと赤池一里塚のほかはどこに一里塚はあったのか?
正面の殿町温泉の脇に真清田神社一の鳥居跡碑。
古蹟碑は長文の漢文で読む気になれない。この地の伝承を記すようで、最初の方に「鎌倉街道」とあるのだが。後ろの水溜りのようなのが赤池跡か?
赤池一里塚跡(植込みの所) 《地図》
「御巡幸之跡」碑(左)と「赤池一里塚址」碑(右)
街道から離れ下津(おりつ)城跡に寄る。
下津小学校前に碑だけがぽつんと。
下津は鎌倉街道の宿駅で、阿仏尼の『十六夜日記』にも「又一宮といふやしろをすぐとて、一宮名さへなつかしふたつなく三なき法をまもる成べし 廿日、おはりの國おりど〔つ〕といふむまや(駅家)をゆく」とある。
山神社 《地図》
この先を左折し、神明社の手前の高札場跡の所を右折するのだが、神明社・八幡神社・阿弥陀寺に寄りながら進む。
阿弥陀寺 《地図》
井之口交差点(県道62号)を横切って行く。
左に常夜灯が立つ先で四ツ家の追分に突き当たる。
左折し美濃路を歩いた時とは逆に清須宿方向に進み、清洲駅に向かった。
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