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2013年4月26日 (金)

萩往還①

2013年4月21日

東萩駅(JR山陰本線)・・・萩橋(松本川)・・・弘法寺・・・萩小橋(新堀川)・・・岩倉獄跡・野山獄跡・・・萩藩御船倉跡・・浜崎地区・・鶴江の渡し(松本川)・・・住吉神社・・・女台場跡・・・北の総門・・萩城跡(指月公園)・・指月橋(指月川)・・天樹院墓所・・萩博物館・・中の惣門(総門)跡・・菊屋横丁・・伊勢屋横丁・・江戸屋横丁・・御客屋(萩町奉行所)跡あたり・・・唐樋札場跡(萩往還起点)・・・明倫館跡・・・藍場川・・・橋本橋(橋本川)・・・蓮正寺・・・大木戸跡・金谷天満宮・・・大屋川・・・萩駅(JR山陰本線)→東萩駅

  【ル-ト地図】(13.0km)

 萩往還は日本海沿いの萩城下から瀬戸内海の海港の三田尻を結ぶ街道で、毛利氏が慶長9年(1604)萩城築城後、江戸への参勤交代の御成道として開かれた。庶民にとっても山陰と山陽を結ぶ「陰陽連絡道」として重要な道であり、幕末には坂本龍馬、吉田松蔭ほか維新の志士たちも往来した道だ。
 萩城下~悴(かせが)坂~一升谷~五文蔵峠~中ノ峠~千持峠~板橋峠~防長国境・板堂峠(537m)~一の坂・・四十二の曲がり~天花坂~郡境・鯖山峠~三田尻とけっこう起伏のある道だが、よく整備され見所も多いようで坂道散歩にはぴったしだろう。

 まず初日は萩城下を散策し、萩城跡から御成道を萩往還の起点の唐樋札場に出る。そこから南下し、レトロな洋風の旧駅舎の残る萩駅までとした。萩市→山口市→防府市へと進んで行く。

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Img_0605 萩往還説明板

起点の唐樋(からひ)札場跡に設置のもの。

Img_1064 行程図(全長約53km)

「国境の碑」近くに設置のもの。

Img_1084 高低断面図

Img_0530 萩橋から松本川上流方向)

橋本川と共に旧萩市街の三角州を形成する川。ここから河口の日本海まで1kmくらい。

Img_0909 岩倉獄跡(左)・野山獄跡(道路の向い側) 【ル-ト地図】の①

岩倉獄は下牢として庶民を、野山獄は上牢として士分の者を収容した。投獄された吉田松陰は囚人たちを教化したという。まさにカリスマ教主のようだ。

Img_0912 説明板

 萩城下の港町として栄えた浜崎地区に向かう。

Img_0919 萩藩御船倉跡 【ル-ト地図】の②

往時は松本川に面して船が自由に出入り出来た。

Img_0920 説明板

Img_0927 鶴江の渡し(松本川) 《地図

江戸時代から続く櫓漕ぎの木造船による渡しで、右岸の鶴江地区と、左岸のこちらの浜崎地区を結んでいる。市道の代わりなので無料だそうだ。運行時間帯ではなかったので川を渡る船の姿は見られず。

Img_0922山村家住宅

Img_0924 山中家

Img_0934 浜崎の家並み

Img_0935 住吉神社

Img_0936 梅屋七兵衛旧宅

ここから中に入ったのだが、建物などが見当たらず(見落とし)引き返してしまった。

Img_0942 女台場跡(菊ヶ浜土塁) 【ル-ト地図】の③

元寇の防塁のミニチュア版みたいな土塁。

Img_0940 説明板

Img_0950 女台場の上から日本海(正面)

Img_0955_2 菊ヶ浜から萩城跡(指月山)

堀内地区から城下町地区に進む。『ぶらり萩あるき

Img_0959 萩城外堀・北の総門 【ル-ト地図】の④

Img_0982 説明板

Img_0960 益田家物見矢倉

Img_0963 説明板

Img_0969 繁沢家長屋門

Img_0967 説明板

Img_0974 周防家長屋門

Img_0973 説明板

Img_0976 武家屋敷跡の土塀

Img_0536 萩城跡

左端が天守台跡。
ここが毛利の殿様の萩往還の起点。御成道を唐樋札場へと向かう。

Img_0541 厚狭毛利家萩屋敷長屋跡

萩に現存する武家屋敷の中で最大の規模。

Img_0544 天樹院墓所 《地図

萩藩の開祖、毛利輝元の墓所。天樹院は廃寺となっている。

Img_0547 説明板

Img_0550 福原家萩屋敷門

Img_0552 説明板

Img_0560 萩高校(右)と萩西中学校(左)の間の通り

Img_0568_2萩博物館の隅櫓

この少し先が中の惣門(総門)跡。《地図

Img_0577 久保田家住宅

菊屋の向い側

Img_0576 説明板

Img_0575 菊屋横丁

左が菊屋

Img_0579 説明板

Img_0586 伊勢屋横丁

呉服商の伊勢屋にちなむ。

Img_0591 江戸屋横丁

木戸孝允・蘭方医・青木周弼の旧宅、高杉晋作・伊藤博文ゆかりの円政寺などが並ぶ。

Img_0595 円政寺

Img_0596 御客屋(萩町奉行所)跡あたり 《地図

瓦町の西端の北側というから左の萩公証役場あたりだろう。町人の司法・行政ほか、他藩人(士分の者)の応接や、宿泊等も行っていたので「御客屋」と呼んだという。

Img_0600 田町アーケード

昔は田地だったという。県道の手前で右折すると唐樋札場跡

Img_0601 唐樋札場跡 【ル-ト地図】の⑤

ここが萩往還の起点。防長2国の一里塚の基点。一里塚は三田尻まで11ヶ所に築かれていた。
「萩町道路元標」(大正12年設置)も移設されている。(左の柵内)

Img_0602 説明板①

Img_0606 説明板②

Img_0619 明倫館(萩藩校)南門 《地図

Img_0613 観徳門・有備館

明倫館の剣槍稽古場で、「他国修行者引請剣槍術場」のとおり、文久2年(1862)1月に萩を訪れた坂本龍馬は、ここで剣術の試合をしたという。

Img_0624 説明板

Img_0621 明倫小学校

明倫館跡の敷地内。

Img_0625 木造校舎が並んでいる。

Img_0628 藍場川 《地図

鯉の姿は見かけなかった。

Img_0629 橋本橋(橋本川)

橋の手前左方(東側)に番所があった。明治9年10月31日にこの橋を挟んで「萩の乱」の序曲となる銃撃戦があった。

Img_0632 橋本川上流方向

Img_0635 大木戸跡・金谷天満宮(左) 《地図

萩城下への表玄関で、木戸があり番所が置かれていた。左の「諸方里程標」(明治29年)には、長崎・熊本・讃岐金毘羅・大坂・西京・東京などへの里程が刻まれている。東京へは二百七十四里。

Img_0645 金谷天満宮

Img_0646 説明板

Img_0652 旧萩駅舎

現在の駅はどこなのか、ちょっとうろついた。左に隣接していてちょうど東萩駅方面行きの電車が入って来て間に合った。その電車を逃せば1時間以上待つことになり、グッドタイミングだった。(「萩循環まぁーるバス」もある)

Img_0650 説明板

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2013年4月20日 (土)

西近江路⑥

2013年4月1日

新疋田駅(JR北陸本線)・・・国道161号・・・(北陸本線)・・疋田地区・・南無阿弥陀仏碑・・西愛発小学校跡・・疋檀城跡・・定広院・・舟川(敦賀運河)の船溜跡・・日吉神社・・・国道8号・・・小河交差点・・・(北陸本線)・・・農兵隊鳩原水害記念碑・・・(北陸本線)・・・旧道・・・道ノ口踏切(JR小浜線)・・・国道8号・・・木の芽橋(木の芽川)・・・白銀交差点・・・気比神宮・・・天満神社・・・敦賀港線踏切・・金ヶ崎公園・・芭蕉翁鐘塚・・金ヶ崎宮・・金ヶ崎城跡・尊良親王墓所見込地・月見御殿跡・絹掛松・・・赤レンガ倉庫・・・旧敦賀港駅駅舎(敦賀鉄道資料館)・・・敦賀港・・・今橋・・・松島橋(笙の川)・・・専安寺・・気比の松原・・・神明社・・・松原神社・水戸烈士記念館・・武田耕雲斎等の墓・・・来迎寺・・・松原橋(笙の川)・・・真願寺(敦賀城跡)・・・今橋・・・みなとつるが山車会館・・・敦賀市立博物館(休館中)・・・晴明神社・・・西方寺跡(アクアトム跡)・・・神明神社・・・白銀交差点・・・敦賀駅(JR北陸本線・小浜線)

  【ル-ト地図】(19.4km)

 宿駅だった疋田地区・道口地区から木の芽橋を渡り、敦賀の中心街へ進んだ。気比神宮に寄り、桜の見頃な金ヶ崎公園から金ヶ崎城跡に上り、敦賀湾を眺めを楽しんだ後、気比の松原まで足を延ばし、西近江路歩きの終点とした。浜辺で小休止し、幕末の天狗党の史跡、敦賀城跡の遺構などに寄り道しながら敦賀駅に向かった。

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Img_0168 北陸本線をくぐって疋田地区へ

Img_0172 南無阿弥陀仏碑

Img_0171 説明板

Img_0177 疋檀(ひきた)城跡 【ル-ト地図】の①

Img_0176 説明板

Img_0183 舟川(敦賀運河)の船溜跡 【ル-ト地図】の②

敦賀からの曳き舟の終着点。川幅約2.8mというからもっと広かったのだろう。
古くは平清盛の深坂峠を越えて琵琶湖までの運河開削計画もあった。『本州縦断運河計画
 疋田は七里半越え(西近江路)・塩津道などの交通の要衝で、小浜藩の本陣が置かれ、郡内最大の宿駅として伝馬や多数の問屋があった。しかし、西廻り航路が開かれて以降、敦賀港への米穀など諸物資の積み降ろしが減少し、衰退して行った。

Img_0182 説明板

Img_0186 説明板(舟川)①

Img_0187 説明板(舟川)②

Img_0197 疋田地区を抜け、国道8号に出て緩やかに下って行く。

国道の北側の市橋地区にも旧道が残っているようだ。右前方は小河トンネル。

Img_0203 農兵隊の鳩原水害記念碑

慶応2年(1866)8月7日の暴風雨で屯所の裏山が崩れ、警戒に当たっていた17名の農兵隊が犠牲となったそうだ。その慰霊碑らしいが、それが「郷土を守った」ことになるのか?

Img_0205 笙の川沿いを行く。歩道がなく歩きづらい。

Img_0209 北陸本線を越え右に旧道に入る。

Img_0211 道ノ口踏切(小浜線)を渡る。 《地図

若狭・敦賀・越前三方への分岐点であることから「三ノ口」と呼ばれるようになり、さらに「道口」になったという道口は古くからの交通の要所で「愛発関」の推定地の一つでもある。江戸期には宿駅だったが、その面影は見当たらなかった。

Img_0215 木の芽橋を渡って敦賀の中心部へ 《地図

Img_0216 木の芽橋の古い親柱

Img_0374 気比神宮の大鳥居 《地図

春日大社・厳島神社の大鳥居に並ぶ「日本三大鳥居」の一つ。越前国一宮、北陸道の総鎮守。

Img_0375 説明板

Img_0377 拝殿

Img_0385 敦賀港線

JRの貨物線で現在は休止中。正面の金ヶ崎公園から金ヶ崎城跡へ向う。

Img_0434 敦賀港駅ランプ小屋

Img_0433 説明板

Img_0390芭蕉鐘塚

「月いつく 鐘は沈る 海の底」、南北朝時代の金ヶ崎城落城にまつわる陣鐘の沈鐘伝説を聞いて詠んだ句。

Img_0391 説明碑

ここでは「月いつこ・・・・」になっている。

Img_0396 金崎宮

恒良親王と尊良親王を祀る。

桜の見頃で「花換まつり」中だ。

Img_0404 敦賀港

Img_0428 尊良親王墓所見込地

墓所ではなく、自刃の地のようだ。

Img_0429 説明板

Img_0418 金ヶ崎城跡月見御殿から敦賀湾 【ル-ト地図】の③

ここは海抜86mで南北朝時代の本丸跡という。陣鐘を沈めたという海だ。戦国時代には朝倉攻めの織田信長は浅井長政の裏切りで退路を断たれ、この城から一目散に総退却し、朽木越え(若狭街道)で京へと逃げ帰った。司馬遼太郎は『街道をゆく』の旅の始まりの『湖西のみち』で「朽木渓谷」を訪れ、信長の退却を面白く書いている。

Img_0387 説明板①

Img_0394 説明板②

 下って敦賀港方向に出る。

Img_0441 赤レンガ倉庫

Img_0443 説明板

Img_0448 旧敦賀港駅駅舎(敦賀鉄道資料館) 《地図

Img_0447 説明板

Img_0473 気比の松原 《地図

三保の松原(静岡県)・虹の松原(佐賀県)と並ぶ日本三大松原の一つ。

Img_0471 気比の松原海水浴場

Img_0491 松原神社

この地で処刑された武田耕雲斎ら天狗党員を祀る。

Img_0488 ニシン蔵(水戸烈士記念館

天狗党員823名が幽閉された16棟の鰊蔵の一つを松原神社境内に移築。幽閉中に多くの病死者を出した。敦賀市と水戸市は姉妹都市だそうだ。

Img_0498 武田耕雲斎等の墓 【ル-ト地図】の④

Img_0497 説明板

Img_0502 来迎寺山門 《地図

敦賀城の中門を移築。この寺で武田耕雲斎らは処刑された。

Img_0510 真願寺(敦賀城跡) 《地図

Img_0508 説明板

Img_0514みなとつるが山車会館 《地図

Img_0517 敦賀市立博物館(旧大和田銀行本店)

修復工事で長期休館中というが、工事中には見えなかったが。何時、修復が終わって再開するのかなどの標示もなし。入場者が減少し閉館したのだろうと勝手に想像した。

Img_0519 晴明神社 【ル-ト地図】の⑤

晴明の祈念石」なる物を見せてもらった。何の変哲もない石で、賽銭が沢山乗っていた。写真を撮らせてもらおうかとも思ったが、賽銭も上げないようでは厚かましいと思い止めといた。

Img_0520 由緒

Img_0526 西方寺跡(アクアトム跡) 《地図

芭蕉の『奥の細道』にも詠まれた「お砂持ち行事」の2世遊行上人真教ゆかりの寺跡。

アクアトム((独)日本原子力研究開発機構)も24年3月末で閉館してしまった。これももったいない建物だ。再利用する計画はあるのか? まあどうでもいいが。

Img_0523 説明板

白銀交差点から敦賀駅へ向かった。

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2013年4月18日 (木)

西近江路⑤

2013年3月31日

マキノ駅(JR湖西線)・・・国道161号・・・西浜交差点・旧道・・・西浜・海津地区・・萬明寺・・蓮光寺・・誓行寺・・福善寺・・海津迎賓館・・宗正寺・・宝幢院・・・願慶寺・・・海津交差点・・・清水の桜・・・追坂・・・(湖西線)・・国道161号・・道の駅マキノ追坂峠・旧道・・小荒路地区・・長善寺・・・国道161号・・・野口交差点・旧道・・野口地区・・伝正寺・・日吉神社・・剣熊の関跡・・国道161号・・・路原地区・・本慶寺・・・在原口バス停・・・国境バス停・国境地区・願力寺・・(福井県敦賀市)・・・山中地区・・親鸞聖人有乳山旧蹟碑・・・祭地蔵尊・・・黒龍之瀧碑・・・(駄口)一里塚碑・・駄口地区・旧道・・日吉神社・・・国道161号・・・追分地区・・・新疋田駅(北陸本線)→敦賀駅

  【ル-ト地図】(20.1km)

 西近江路は海津で湖西線と琵琶湖におさらばし愛発越えとなる。追坂峠から小荒路~路原~国境へと上り、越前国敦賀に入って山中~駄口~追分まで下った。もう日本海の敦賀湾は間近だ。

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Img_0224 西浜交差点を直進し、西浜へ出る。

Img_0228 重要文化的景観に選定された「高島市海津・西浜・知内の水辺景観」 《地図

北陸から運ばれた海産物は海津から琵琶湖を大津などへ運ばれた。湖岸に残る風波除けの石積。遠方は琵琶湖八景の「暁霧・海津大崎の岩礁

Img_0230 西浜集落を風波から守る石積

Img_0245 説明板

Img_0233 海津の家並み

西浜は漁業を中心とした集落で、海津は港町・宿場町として栄えた。

Img_0238 蓮光寺

Img_0241西与一左衛門之碑

石積を築いた甲府藩領高島郡の代官

Img_0239 説明板

Img_0248 福善寺

Img_0251 近江のお兼の墓

怪力の遊女「お金」の伝承

Img_0250 説明板

Img_0252 海津迎賓館 【ル-ト地図】の①

明治4年に琵琶湖の南北をむすぶ大津-海津間に汽船を就航させた豪商、井花伊兵衛の屋敷で、現在は象牙の取扱い業者の所有。

Img_0260 迎賓館裏の浜

 マキノ東小学校の地が海津代官所跡で、その門は誓行寺の山門に移築されている。

Img_0258 宝幢院山門 《地図

峯山の最勝寺跡に残っていたものを明治31年に移築。

Img_0257 説明板

Img_0264 清酒竹生嶋の「吉田酒造」

Img_0266 商店

Img_0270 有限会社金六

Img_0268 この先の突き当りを左折して行く。

T字路交差点が高札場跡。

Img_0276 山吹御前ゆかりの梅(願慶寺(がんきょうじ))

木曽義仲の側室の山吹御前の子供が出家した後に、義仲の菩提を弔うために植えたと伝承されるそうだ。

Img_0274 説明板

Img_0277 海津交差点を渡って旧道に入る。

海津から敦賀までを「七里半越え」・「七里半街道」・「愛発(あらち)越え」・「海津越え」ともいう。

Img_0279 緩やかに上って行く旧道 《地図

Img_0283 清水(しょうず)の桜

まだ10日以上も早いらしい。水上勉の小説「桜守」にも登場するそうだ。

Img_0285 説明板

Img_0287 追坂(おうさか)峠への上り。

急坂で牛馬を追ったのか、逢坂山をなぞったのか?右上に国道が走る。

Img_0290 旧道はここで途切れ、右に国道に上る。

Img_0292 追坂峠 【ル-ト地図】の②

琵琶湖の眺めがいいのはどのあたりか? 見逃した。

道の駅マキノ追坂峠の先で右に旧道に入る。

Img_0294 小荒路地区を進む。《地図

Img_0295 長善寺

背と尻を向けた観音さんがニョッキリと。

国道に出て野口交差点で右に旧道に入る。

Img_0303 野口交差点。 《地図

Img_0305 伝正寺

Img_0309 野口地区の家並み

Img_0310 剣熊の関跡 【ル-ト地図】の③

野口御番所ともいわれる。幕府が女人の通行を改めるために設置した関。諸侯の家来筋は下馬しなければ通れず、東海道の新居関に相当する格だった。この先で国道に出て国境へと上って行く。もう旧道は残っていない。

Img_0315 路原地区

Img_0319 在原口バス停 《地図

ここを左折した在原集落の林の中に在原業平の墓と伝承される小さな宝篋印塔があるようだ。 業平が晩年に隠棲したという伝承の地。

Img_0327 国境(くにざかい)地区に到着。 《地図

バス停「国境」の所

Img_0329 福井県敦賀市へ入って下って行く。

敦賀は若狭国と思っていたが、越前国敦賀郡だった。

Img_0330 残雪の山並み

Img_0332 敦賀国際スキー場だが潰れてしまった。

気温は10度でちょっと肌寒い。

Img_0333 廃墟が残る。

かつてはスキーヤーで賑わったのだろう。

Img_0334 リフトはまだ使えそうだが。

Img_0339 山中地区 【ル-ト地図】の④

越前守護、朝倉氏が近江国境に当たるこの地に関所を設けたと考えられている。
江戸時代には宿駅で一里塚・口留番所・高札場が設置されていた。享保12年(1727)には46戸で200人近くが住み、問屋も10軒ほどあったとは想像もつかない風景だ。

親鸞聖人有乳山旧蹟碑(左)、 有乳(あらち)山は歌枕で、「八田の野の 浅茅色づく 有乳山 峯の沫雪(あわゆき) 寒く降るらし」(万葉集巻十)。有乳山=愛発山。

左に入るのが旧道跡だろうか。すぐに途切れてしまうが。

Img_0341 説明板①

Img_0342 説明板②

Img_0344 祭地蔵堂(左)

Img_0345 説明板

金ケ崎城の戦で自刃した?小笠原貞宗を祀る地蔵のようだが、年代の矛盾などよく分からない内容の文章だ。まあ伝承の一つとしておこう。そもそも「祭」の由来は何か?

Img_0348 祭地蔵は左?

Img_0351 ひたすら車道を下る。

Img_0352 (駄口)一里塚碑 【ル-ト地図】の⑤

左の大木の下

Img_0354 一里塚碑

昭和11年に福井県が設置したもの。

Img_0360 駄口地区

駄口宿は冬季(11月~1月)の3ヶ月間を除く下り荷の荷継場で、問屋1軒、茶屋兼宿屋1軒があった。住民は生活の基盤を農業におき、飼っている駄馬で副業的に街道で荷馬運送を行い駄賃を稼いでいた。

Img_0361 左に駄口地区の旧道が残る。《地図

Img_0363 日吉神社

この先ですぐに国道に出てしまう。

Img_0367 追分地区に入る。

Img_0371深坂古道追分(振り返って見ている。右が下って来た国道) 《地図

塩津街道の古道で、越前守に任ぜられた父・藤原為時一行とともに紫式部もこの道を通り、歌を残した。平清盛が子・重盛に命じ深坂峠を開削して、琵琶湖(近江塩津)と敦賀を連結する運河建設を計画したことでも知られている。

Img_0369 説明板

Img_0164 説明板

愛発関(あらちのせき)は敦賀の①疋田・②道口などの説がある。

Img_0167 新疋田駅(北陸本線)

洒落た造りの無人駅舎

 

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2013年4月15日 (月)

西近江路④

2013年3月30日

新旭駅(JR湖西線)・・・平井交差点・県道558号・・・旧道・今市地区・・田井川・・北国海道道標・・・熊野本交差点・県道558号・・・本養寺・・永正寺・・・元三大師石標・・・大国主神社・・・報恩寺・・・覚伝寺・・・法泉寺・・・林照寺・・・岡橋(林照寺川)・・堂西遺跡・・・岡の玉水・・・妙静寺・・・饗庭交差点(国道161号高島バイパス)・・(湖西線)・・・旧道・・今川・・木津地区・・木津の一里塚跡・・北国海道道標・波爾布神社石標・・木津浜・竹生島遥拝所(跡)・・・二つ石大明神・・・今津地区・松並木・・日枝神社・大水別神社・・今津桟橋跡・・丁子屋・・金沢藩今津代官所跡・・住吉神社・・九里半街道起点・・ヴォーリズ通り・・ヴォーリズ資料館・・今津基督教会館・・(湖西線)・・辻川通り・・旧今津郵便局・・天神坂・・九里半街道分岐地点・・行過天満宮(阿志都彌神社)・・・弘川口交差点・県道335号・・・前川橋(今津川)・・・保寿院・・・明厳寺・・・石田川・・・上郷川・・・櫟原神社・・・旧道・・・境川小橋・・・県道335号・・・旧道・・・日吉神社・・・県道335号・・・旧道・・・県道335号・・・新保地区・・新保天満宮・・・(湖北バイパス)・・・百瀬川トンネル(百瀬川)・・・生来橋(生来川)・・・長法寺・・・栄敬寺・・・知内川橋・・・国道161号・・・マキノ駅(湖西線)

  【ル-ト地図】(17.9km)

 4日目にしてすっきりと晴れた。木津の一里塚跡から木津(古津)浜に出て今津宿へ進み、九里半街道の起点から天神坂を上り、行過天満宮の常夜灯の所で九里半街道と分かれ北進した。
 マキノ町(高島市)に入り天井川の百瀬川をくぐりマキノ駅まで進んだ。まだ時間はたっぷりあり、折角のいい天気の下をもっと歩きたいところだが、この先、西近江路は湖西線から離れ、海津からは琵琶湖からも離れ、追坂峠、国境(地名)を越えて行く。次の新疋田駅(北陸本線)までは、かなりな距離なので急ぐ旅でもなし、今日はここを打ち止めとした。

 昨日までは大津に泊まっていたが、今日からは敦賀に泊まる。マキノ駅ではスイカでスイーと乗ったが、敦賀駅はスイカは使えなかった。スイカだけでなく、電子カードを使えるシステムになっていないのだ。改札口で「やっぱり裏日本だなあ」と思わず蔑称を口走りそうになった。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_9961 右に旧道入り今市の集落を枡形のように曲がって行く。

Img_9964 今市地区

県道ができるまではこちらが表通りだった。突き当り右に北国海道の道標が立つ。

Img_9967 道標 【ル-ト地図】の①

Img_9968 説明板

左折して熊野本交差点で県道に出る。

Img_9973 旧家

Img_9975 元三大師道標(新旭北小学校の南角) 《地図

慈恵大師良源のことで西方の大泉寺(通称お大師さん)への道標。

Img_9977 大国主神社

通称は五十川(いかがわ)神社でバス停名も「五十川神社前」。なぜ出雲の神が祀られているのか?

Img_9982 報恩寺(びわ湖百八霊場第23番) 《地図

この上が吉武壱岐守の詰城の五十川城跡と推定されている。東方には居城の吉武城跡がある。

Img_9984 法泉寺

「蓮如上人御旧蹟・吉武壱岐守墓所」の標石が立つ。吉武壱岐守は延暦寺から任じられた荘官を務めていた。

Img_9987 林照寺

親鸞にゆかりの寺

Img_9991 堂西遺跡の標柱が立つがどんな遺跡か調べても分からず。(岡橋(林照寺川)を渡った左側)

Img_9992 岡の玉水?

旅人ののどを潤した井戸だが、正面の覆い屋に井戸があるのか、水は湧いているのか確認しなかった。

 饗庭交差点で国道161号高島バイパスを渡り、湖西線をくぐり、今川の手前で旧道に入る。

Img_9996 今川を渡り木津(こうつ)地区へ入る。《地図

今津よりも古い港で古津ともいった。

Img_0002 旧北国海道(西近江路)改修記念碑

Img_0001 説明碑

Img_0007 木津(こうつ)の一里塚跡 【ル-ト地図】の②

塚はないが不気味な廃屋が残る。写真を撮っていたら廃屋を撮っていると近所の人に間違われた。

Img_0006 説明板

Img_0013 北国海道道標・波爾布神社石標

振り返って見ている。波爾布神社は国道161号の西方にある。

Img_0010 説明板

大津長命寺は?

Img_0015 木津浜・竹生島遥拝所跡碑 《地図

北の津に対しての津。今津と物資集散の取り扱いをめぐって対立が起き、街道が分かれる追分村で貨客争奪が生じたため、寛永9年(1632)古津村は小浜藩の荷物だけを扱うことで一旦決着したが、その後もしばしば竹生島へ渡る巡礼客をめぐって対立が続いたそうだ。

Img_0016 説明板

古銭を探したりはしなかったが。

Img_0022 竹生島

琵琶湖上で沖の島に次ぐ2番目に大きな島。神の住むといわれる信仰の島で琵琶湖八景のひとつ。神仏一体思想で発展してきたが、明治の神仏分離令で、弁才天を本尊とする「宝厳寺(ほうごんじ)」と浅井姫命を祀る「都久夫須麻神社(つくぶすまじんじゃ)」に分かれた。

Img_0026 二つ石大明神

本物の「二つ石」は海中にある。

Img_0025 説明板

Img_0032 今津浜の松並木から今津宿へ 《地図

日枝神社大水別神社(左)

Img_0040 今津港観光船乗場

竹生島から帰船か。♪「琵琶湖周航の歌記念碑」が立つ。

Img_0042 今津宿の家並み

Img_0044 今津(いまづ)桟橋跡

若狭の塩や海産物が集散する港として繁栄した。今津港では延宝5年(1677)に丸子船74隻、また享保年間(1720年頃)には82隻を所有し、最盛期には加賀藩米を中心に年間20万駄を扱う賑わいだった。

Img_0046 旅館丁子屋

江戸時代の旅籠屋で、福寿・鶴屋・丸福などの旅籠・料理屋とともに置屋の営業もしていたという。

Img_0062 金沢藩今津代官所跡(右) 《地図

江戸時代、今津村は金沢藩近江領だった。

手前を左に入った泉慶寺には身代わりとなって蓮如を救ったという娘、お初を祀る「お初地蔵」がある。

Img_0060 説明板

Img_0049 住吉神社・九里半街道の起点 【ル-ト地図】の③

毎年5月4日に日枝神社大水別神社と住吉神社で、今津祭が行われる。

九里半街道は行過天満宮の常夜灯までは西近江路と同じ道筋。保坂で若狭街道(通称鯖街道)と合流し、水坂峠を越え小浜へ通じる。またここを直進し、浜沿いに海津に向かう西近江路の「浦海道」のルートもあった。

Img_0055 説明板

Img_0064 道標(左)

「右 わかさ」・「左 京」

ヴォーリズ通りに入る。

Img_0071 ヴォーリズ資料館

Img_0068 説明板

Img_0074 今津基督教会館

Img_0076 説明板

Img_0081 湖西線をくぐれば辻川通りだ。

Img_0085 旧今津郵便局

Img_0083 説明板

Img_0088 天神坂の坂上で右折し、北進する。 《地図

Img_0091 九里半街道(左へ)分岐地点

西近江路は行過天満宮(阿志都彌神社)の東側を北進する。分岐の天満宮永代常夜灯は明和3年(1766)の建立。

Img_0096 阿志都彌(あしづみ)神社 【ル-ト地図】の④

天保14年(1843)に行過(ゆきすぎ)天満宮を合祀した。「行過」の由来は、菅原道真が越中の国守として任地に赴く時、湖西地域に滞在していた藤原時平に会おうとして、村人にその所在を尋ねたところ、すでに通り過ぎていたという伝承からという。(別の伝承もあるようだ)

 弘川口交差点で県道335号に出る。

Img_0102 旧家

Img_0103 明厳寺

Img_0106 石田川 《地図

水彩画のような風景?

Img_0111白米塚標識(右の電柱脇)

北陸から奥州へ逃れる源義経一行の伝承。

この先のJA今津町の交差点あたりに一里塚があったそうだ。

Img_0117 櫟原(いちはら)神社

ここで一休み

Img_0120 右斜めに旧道 《地図

分岐点に「義人長三郎の」の標識がある。道沿いにあるものとキョロキョロしながら探したが見当たらず。後で調べるとここを右折した芳春院境内にが立っているそうだ。

Img_0124 深清水地区

左に旧道に入る。

Img_0130 日吉神社

 この先で県道に出る。

Img_0139 新保天満宮

京都の北野天満宮より勧請。

Img_0138 新保地区説明板

平安時代の大處荘の荘園の時代から、多くの変遷の歴史が書かれている。そして今はマキノ町から高島市マキノ町になっている。

Img_0145 百瀬川トンネル(百瀬川) 【ル-ト地図】の⑤

上に川は流れているのか見に行く。

Img_0147 百瀬川がしっかりと流れていた。

Img_0150 生来橋(生来(しょうらい)川)を渡る。

マキノスキー場はもうシーズンは終わっただろう。

この先、知内川(うないがわ)橋を渡り、国道161号に出てマキノ駅まで行った。

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2013年4月12日 (金)

西近江路③

2013年3月29日

比良駅(JR湖西線)・・・国道161号・・・旧道・・・比良川・・・国道161号・・・旧道・・南小松地区・・大仙寺・・八幡神社常夜灯・・白髭大明神標柱・・家棟川・・西方寺・・国道161号・・旧道・・・行止り迂回・・・大堂川・・・旧道復帰・一里塚跡あたり・・・(志賀バイパス)・・・揚梅の里碑・・・第一樹下橋梁(湖西線)・・・樹下神社・・・北小松地区・・・国道161号・・・岩除地蔵尊・・・旧道・一里塚跡・・・びわこクラブ・・・鵜川・・・(高島市)・・・国道161号・・・白髭神社・・・旧道・・・鵜川四十八体石仏群・・・万葉歌碑・・国道161号・・・旧道・・・(中世古道分岐地点)・・日吉神社・・・最勝寺・・・乙女が池・・・日吉神社御旅所・・・大溝漁港・・高島地区・・街角ふれあい交流広場・・分部神社・・県道300号・・道標・・大溝陣屋惣門・・・枡形・・・小田川・・・三嶋稲荷神社・・・勝野交差点・・県道558号・・・和田打川橋・・・鯰川橋・・・鴨川橋・・・青井川・・・八反田川・・・小川口交差点・・・藤樹神社・・・日吉神社・・・安曇川大橋・・・(湖西線)・・・旧道・・・河原市一里塚跡・・・中世古道合流地点・県道558号・・・安井川交差点・馬方又左衛門宅址碑・・・安養寺子安延命地蔵・・・平井交差点・・・新旭駅(湖西線)

  【ル-ト地図】(24.9km)

 3日目にして大津市を抜け、白髭神社の手前で高島市に入る。5町1村が合併した高島市は広く、この先福井県敦賀市に入るまで続く。西近江路はまだ琵琶湖近くを北上して行く。やっぱり琵琶湖は広い。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_9734 比良川の手前で旧道に入る。

今日も曇よりした天気だ。

Img_9735 国道に出て比良川を渡って行く。

Img_9738 左に旧道に入る。

Img_9743 南小松地区

左は八幡神社常夜灯

Img_9746 天井川の家棟川を渡る。

Img_9752 西方寺(左)の所で国道に出る。

Img_9756 すぐ左の田園地帯に入る。

Img_9757 大堂川の手前で獣害防止フェンスに阻まれる。

普通は留め金などをはずして抜けられるのだが、それもなく、がっしり組まれている。フェンスの向う側には道が続いているので国道に戻り、大堂川を渡り迂回し反対側に出る。

Img_9762 フェンスを越えた大堂川の所

このあたりに一里塚があったという。

Img_9766 フェンスの間の道が続く。

Img_9773 揚梅の里碑 【ル-ト地図】の①

北方にある「揚梅の滝」にちなんだ碑だろう。雄滝・薬研滝・雌滝の3段に分れ、合計の落差は76mだそうだ。

ここは左に進む。まだフェンスの間の道が続く。

Img_9778 第一樹下橋梁(湖西線)をくぐる。

Img_9781 もうフェンスはない。

正面は樹下神社の社叢

Img_9783 樹下神社

国道を渡り、琵琶湖沿いに出る。

Img_9786 琵琶湖は霞んでいる。

Img_9790 北小松の家並み

西近江路の宿場で本陣は池田家が務めていた。

Img_9791 北小松漁港

Img_9794 旧家

Img_9797 国道に出て白髭神社へと向かう。

左に歩道がしっかりとついていて歩き安い。

Img_9798 岩除地蔵

ここは鎧岩と琵琶湖に挟まれた難所の地だった。

Img_9803 地蔵

Img_9811 右に旧道に入る。 《地図

分岐点あたりに一里塚があったようだ。(もう少し北のようです
*石田様から(「鵜川(川)の手前300~350m位の所であろうと推察されます」)とのコメントをいただきました。(下記)
『中近世古道調査報告書8 西近江路』(滋賀県教育委員会)にも「鎧岩を経て、金ヶ口川を過ぎて鵜川を渡るまでの間に一里塚があったことが判明する」との記載があります。

びわこクラブの前を通り、鵜川を渡り大津市から高島市に入り、国道161号に戻る。

Img_9815 やっと湖中に白髭神社の鳥居が見えてきた。

Img_9827 白髭神社拝殿

Img_9828 説明板

Img_9826 鳥居

遠く霞むは沖島だろう。

Img_9829 旧道に入り鵜川四十八体石仏群へ向かう。

Img_9831 湖岸を離れた林間コースが少し続く。

Img_9835 鵜川四十八体石仏群 【ル-ト地図】の②

現在はここには33体で、大津市坂本の慈眼堂に13体で、残り2体は行方知れず(盗難)になっている。

Img_9833 説明板

Img_9836 万葉歌碑

西近江路の高島市の「万葉歌碑」。

Img_9837 説明板

このあたりを明神崎、古くは水尾(三尾)崎と呼んだ。「勝野の鬼江」は、この先の「乙女が池」ともいう。

ここで国道に出る。

Img_9839 左に入って高島市街へ。

Img_9840日吉神社

勝野の氏神で、湖西地方随一の曳山祭の「大溝祭」が行われる。

神社の前あたりから中世古道が分岐するが、近世古道を行く。2つの道は安曇川こ越えた河原市宿で合流する。

Img_9842 最勝寺

「蓮如上人御逗留の地」碑が立つ。

Img_9850 乙女が池 【ル-ト地図】の③

琵琶湖の内湖で、北西にある大溝城はこの内湖を利用した水城。「恵美押勝の乱」で藤原仲麻呂が捕らえれ、斬罪された「勝野の鬼江」ともいう。

Img_9857 大溝漁港 《地図

古代には万葉集にも詠まれた勝野津だった。

大御船 泊ててさもらふ 高島の 三尾の勝野の 渚し思ほゆ」 (巻7-1171)
天皇の御船が泊まって風待ちしている、高島の三尾の勝野の渚が思い出される)

旧六軒町から旧長刀町へと進む。

Img_9864 街角ふれあい交流広場

「浅井三姉妹 ようこそ 初の里 高島へ」の看板は2011年のNHKの大河ドラマ『江~姫たちの戦国』にちなんだものだろう。

白髭神社から高島・安曇川・近江今津にかけては以前に歩いたことがある。その時、大溝城跡近藤重蔵墓なども訪れたので今回は割愛して西近江路を進んだ。

Img_9865 旧家

Img_9867 道標

近藤重蔵の墓と藤樹神社(安曇川)への道標。
ここは蝋燭(ろうそく)の店が集まっていた旧蝋燭町で、西に旧職人町へ入る。

Img_9874

大溝陣屋惣門 【ル-ト地図】の④

門だけで裏側は普通の道だ。

Img_9871 説明板

Img_9878 萬木綱商店

「米・えさ・たまご」の看板が架る。

Img_9885 高島まちづくり交流サロン(びれっじ1号館)

Img_9886 福井市之助商店

Img_9892

びれっじ2号館

Img_9897清酒萩乃露」福井弥平商店

Img_9902 萩の浜標識

「日本の渚百選」の浜辺だが、ちょっと離れているので寄らなかった。

この先県道は直進して小田川を渡るが、旧道は左折、右折し枡形のように曲がって行く。

Img_9907 枡形の道筋 《地図

ここは旧紺屋(こや)町

Img_9908 県道に合流した所の旧家

Img_9921 安曇川地区に入る。

安曇川町も高島市に合併されていた。

小川口交差点で右折し、藤樹神社に寄る。

Img_9922 藤樹神社 《地図

安曇川出身の「近江聖人」の中江藤樹を祀る。

Img_9923 説明板

Img_9934 安曇川大橋を渡って新旭町に入る。

地図を見ると橋を渡った安曇川の土手下に旧道が残るようだが、県道を進んだ。

Img_9939 旧道はここへ通じるのだろう。(手前が県道で安曇川方向を見ている) 《地図

 ここで県道から離れ右折して行く。

Img_9941 河原市一里塚跡(左) 【ル-ト地図】の⑤

民家の敷地の枯草の山のようで、見逃しやすいだろう。河原市は宿場として賑わったというが、その面影は薄い。

Img_9940 説明板

この先の突き当りで左折し、県道に出て中世古道に合流する。

Img_9945 馬方又左衛門宅址碑(安井川交差点の左側)

名前を中西又左衛門といい、中江藤樹の教えを身をもって実践した『正直な馬方』のお話。熊沢蕃山が藤樹の門下になるきっかけとなった話とか。

Img_9946 碑文

Img_9951安養寺子安延命地蔵堂 《地図

地蔵さんは扉の中で拝めず。

Img_9952 縁起

 平井交差点で左折し、新旭駅に向かった。

Img_9958 新旭駅

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2013年4月10日 (水)

西近江路②

2013年3月28日

比叡山坂本駅(JR湖西線)・・・(旧)比叡辻・・・大崎神社・・・供所神社・・・国道161号・・来迎寺・・・新大宮川橋(大宮川)・・・高橋川・・・苗鹿三丁目交差点・苗鹿の常夜灯・旧道・・・那波加神社・・・大正寺川・・・雄琴温泉・雄琴港・・福領寺・・雄琴神社・・・北雄琴橋(雄琴川)・・・寿命寺・・・国道161号・・・御呂戸川・・・天神川橋・・・仰木口交差点・・堅田地区・・妙盛寺・・本福寺・・湖族の郷資料館・・浮御堂・・堅田藩陣屋跡・・伊豆神社・・都久夫須麻神社・・居初家(天然図画亭)・・福聚禅院・・堅田漁港・・堅田内湖・内湖大橋・・・湖族の郷青年像・堅田駅・・・一本松跡・・・県道558号・・・真野川大橋・・・小野駅・・・小野交差点・旧道・・・丹出川橋・・・(湖西線)・・・小野妹子墓道標・・・小野道風神社・・・小野神社・小野篁神社・・上品寺・・和邇川・・・榎の石碑・・・報恩寺常夜灯・道標・・・(和邇駅)・・・出口辻あたり・・大将軍神社・・・灯籠地蔵堂・・・和邇浜・・・喜撰川浜橋・・・真光寺・・・住吉神社標石・・県道558号・・・鎌田川橋・・・(蓬莱駅)・・八所神社・・・八屋戸橋(八屋戸川)・・・八屋戸交差点・旧道・・・六地蔵・道標・・・県道558号・・・旧道・・・野離子川・・・志賀清林墓・・・木戸川橋・・・木戸地区・樹下神社①・・白髭大明神道標・・県道558号・・志賀駅口交差点・国道161号・・・大川・・・木元大明神標石・・・湯島神社標石・・・荒川交差点・・・大谷川橋・・・旧道・・・国道161号・・・樹下神社②・・・比良駅(JR湖西線)

  【ル-ト地図】(27.0km)

 雨模様の中を比叡辻(坂本)から北へ、雄琴→衣川・堅田→小野→和邇→木戸(志賀)へと進んだ。雨はうっとうしいが、まあ順調だろう。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_9482 来迎寺山門

坂本城の表門を移築。

Img_9485 客殿(国重文)

Img_9484 説明板

Img_9494 苗鹿(のうか)の常夜灯(弘化4年(1847)) 【ル-ト地図】の①

西近江路沿いでは最大の規模。もとの場所からは西北に移設されている。

ここを左に入る。

Img_9498 那波加神社

Img_9497 由緒

苗鹿の地名由来が書かれている。

Img_9503 おごと温泉観光公園 《地図

歓楽・風俗温泉のイメージから脱却を目指しているか。

Img_9508 雄琴港

Img_9513 福領寺・雄琴神社(右奥) 《地図

福領寺は木造阿弥陀如来坐像を安置。
ここの南西側が雄琴城跡

西近江路の最初の宿だった衣川には往時の面影はない。

Img_9526 仰木口交差点(国道161号)で西近江路から離れ右に入り、堅田地区へと進む。 《地図

左に入った西近江路沿いには一里塚の役割を果たしていた榎と白髭神社への道標があるようだ。

Img_9528 堅田の旧家

Img_9530 本福寺

蓮如がここを近江での布教活動の拠点とした。また、十一世住職明式(みょうしき)は、松尾芭蕉の高弟(俳号「千那」)で、芭蕉は当寺に泊まり多くの句を残している。 「病雁の夜寒に落ちて旅寝哉」 

Img_9531 湖族の郷資料館

中世堅田は、琵琶湖の水運・漁業権を一手に掌握し、泉州堺と並ぶ自治都市として栄え「堅田千軒」と称された。その歴史、文化を築いたのが堅田湖族と呼ばれた堅田衆だが、近世に入ると大津百艙船にその地位を奪われ、大津百艙船も彦根三湊(松原・米原・長浜)に既得権を奪われて行く。栄枯盛衰世のならいか。

Img_9557 説明板

堅田駅前の「湖族の郷青年像」の所に設置のもの。

Img_9533 堅田の浮御堂

近江八景「堅田落雁
ここでパリ在住のインド人で、日本全国を一人で回っているという中年の男性に出会う。北から南(逆だったかも)へもう3か月以上も旅行中で、この先、敦賀にも寄るという。この景観が素晴らしいとしきりに感嘆していた。こちらは2度目だし、それほどのものとも思わないが自分が褒められているようで、いい気分だった。(彼は日本語が喋れる。自分はむろん仏語も英語も喋れない)

Img_9535 琵琶湖大橋方向

Img_9541 堅田藩陣屋跡 【ル-ト地図】の②

ここは表御門跡。

Img_9539 説明板

Img_9546 中井呉服店

Img_9550 居初家 《地図

堅田湖族の三家の一つである居初氏の邸宅。茶室「天然図画亭」と庭園がある。

Img_9555 堅田内湖・内湖大橋

琵琶湖の水が入り込んだ池のような内湖の一つで、淡水真珠の養殖も行われている。

Img_9556 湖族の郷青年像(堅田駅前)

Img_9559 一本松跡碑(右の郡農協前バス停の所) 【ル-ト地図】の③

「旧北国海道 「一里塚」 一本松跡」と刻む。一里塚の役割を果たした一本の松で、正式な一里塚ではなかったようだ。

Img_9562 碑の側面の説明文

Img_9563 歌枕の「真野の浜」は、今は真野浜水泳場になっている。 《地図

「近江路まのの浜べに駒とめて比良の高ねの花をみるかな」(源頼政「新続古今和歌集」 )
「うづら鳴く真野の入江のはま風に尾花なみよる秋の夕暮」(源俊頼「金葉集」)

Img_9566 小野駅を通り過ぎる。

Img_9567 小野交差点で左に入り、湖西線をくぐって行くのが「上街道」、湖西線の手前で右折し湖岸方向へ進むのが「下街道」で、和邇駅の先の大将軍神社手前の「出口辻」で上・下街道は合流する。上街道を行く。

Img_9572 小野妹子墓道標(大正8年)

「外交始祖大徳冠小野妹子墓 是ヨリ 三丁余」と刻む。唐臼山古墳(正面の小高い小野公園内 《地図》)を小野妹子の墓とする伝承がある。以前行ったことがあるが、琵琶湖の眺めがよかったことしか覚えていない。

Img_9583 小野道風神社 【ル-ト地図】の④

三蹟(跡)の一人。

Img_9585 説明板

Img_9587 小野地区の家並み

Img_9588 茅葺の農家の倉庫か。

Img_9589 旧家

Img_9603 小野篁(たかむら)神社・小野神社(左奥)

Img_9601 説明板①

Img_9599 説明板②

Img_9597 小野氏系図

妹子王が小野妹子、小野小町は篁の孫になっている。華麗なる一族だ。

Img_9594 百人一首の小野篁の歌碑。

Img_9595 説明板

「小町はである篁・・・」とある。上記の系図からは祖父だろうが、「小野小町」の真実については定かでないというのが事実のようだ。

 和邇川を渡り和邇地区に入る。

Img_9616 「榎」と刻まれた石碑。かって榎の大木がそびえ、和邇宿を「榎の宿」と呼んだ。一里塚の榎とも、天皇社の神木ともいう。《地図

この辻は途中越えの竜華道との交差点で、石碑の裏面には「→途中大原八瀬京都道」の道標が立つ。若狭街道(通称は鯖街道)へ出る道筋だろう。 (途中は地名)

Img_9622 左が旧道

Img_9623 常夜灯(慶応2年(1866))・道標 《地図

常夜灯は報恩寺十一面観世音常夜灯。
道標は「北国海道 大津 江五里余 白髭江 五里」・「近江西国第八番比良山観世音江二丁」で報恩寺のこと。白髭神社までまだ5里もある。

和邇駅下をくぐり、大将軍神社沿いを進み琵琶湖方向に進む。

Img_9634 左に近辺の北国海道(西近江路)地図が貼られている。(中浜会議所の所)すぐ先の灯籠の所が灯籠地蔵堂だろう。正面は琵琶湖。 《地図

Img_9639 琵琶湖沿いの道を行く。

Img_9644 海岸を歩いている気分だが、磯の香りがしないので湖岸だと気づかされる。

Img_9652 霞んで見えるのは比良の山並みか。

近江八景「比良の墓雪

中浜・和邇漁港・北浜と進み、真光寺手前で県道に戻る。 

Img_9659 蓬莱駅手前を斜めにくぐる。

向う側は八所神社。

Img_9669八屋戸交差点の石材店の所で左に旧道に入る。《地図

江戸時代に東海道の京と大津の間に敷設された車石には、主として付近から産出される木戸石が使用されたそうだ。

Img_9672 道標・六地蔵の辻 《地図

道標は「左京大津」、木の立札は「←金ピラ峠を越え 蓬莱山 JR蓬莱駅→」で、右に行き県道に出る。

Img_9678 県道に出た地点

ここにも地蔵と道標(文政2年(1819))、「左かいとう」で北国海道(西近江路)のことか?

Img_9681 再び左に旧道に入る。《地図

Img_9682 旧道っぽい雰囲気が残る。

しゃれた名の野離子川を渡り、「びわこバレー」に通じる道路を横切り進む。

Img_9687 志賀清林の墓 【ル-ト地図】の⑤

木戸地区出身の奈良時代の力士。

Img_9696 樹下(じゅげ)神社①標石 《地図

滋賀県には樹下神社が多いそうだ。このあたりが木戸宿の中心部だったか。木戸も設けられていたのだろうか。標石の傍らに道標(宝暦9年(1759))がある。「観音堂号西方寺」・「従是至二町」で西方寺は樹下神社の北側にある。

Img_9702 県道に出て志賀駅口交差点を越えて行く。

Img_9710 荒川交差点 《地図

右に「湯島の里碑」・「蓮如上人御旧蹟碑」が立つが、どんないわれがあるのか?

Img_9715 左に旧道に入る。

Img_9724 樹下神社②

樹齢300年のスダジイの老神木が「樹下」に似合いだ。右に天満宮が隣合う。

ここを右折して比良駅に向かった。

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2013年4月 3日 (水)

小関越え・西近江路①

2013年3月27日

四宮駅(京阪京津線)・・・東海道・・・小関越え追分・小関越道標・・・藤尾道踏切(京阪京津線)・・・徳丸稲荷大明神・・(東海道線・湖西線)・・・寂光寺・・・(国道161号)・・・普門寺・・・琵琶湖疏水第一竪坑・・・小関峠・・峠の地蔵・・・(小関町)・・新光寺・・等正寺・・小関越道標・天満宮・腹帯地蔵尊・・・札の辻(京町1丁目交差点)・大津市道路元標・・・北国橋(琵琶湖疏水)・・・大門踏切((京阪石山坂本線)・・・観音寺西交差点・大津城跡・道標・・・観音寺地区・・蛭子社・・・熊野川橋・・・不動川橋・・・国道161号・・・柳川橋・・・新際川橋・・・神馬仮屋地・・唐崎神社・・・国道161号・・・四ツ谷交差点・旧道・・・志津若宮神社・・・四ツ谷川橋・・・七本柳・・坂本城跡公園・・東南寺川・・東南寺・・坂本城址碑・・・蓮瑞寺・・・両社の辻・・酒井神社・両社神社・・・専念寺・・・幸神神社・・・厳島神社・・・(下坂本5丁目交差点)・・・磯成神社・・磯成川橋・・・大宮川橋・・・若宮神社・比叡辻・・・比叡山坂本駅(JR湖西線)

  【ル-ト地図】(14.9km)

 東海道の横木1丁目(大津市)の追分から小関越えで札の辻へ出て西近江路(北国道)に入り、琵琶湖西岸を北上し、海津からは七里半越えで追坂峠、国境(くにざかい・地名)を越え、日本海沿いの敦賀を目指す。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_9266 小関(こぜき)越道標 【ル-ト地図】の①

京都と大津を結ぶ古道の一つで、西国三十三観音の第14番三井寺(園城寺)への巡礼道でもある。ここを左折し東海道から分かれ北方向に進む。

Img_9292 由来(小関峠に設置のもの)

東海道の逢坂越えを大関とする。『近江・若狭と湖の道』(街道の日本史)では、逢坂山を越える逢坂関は大関と小関の複合体で、大関は東海・東山道、小関は北陸道を抑えたとする。

Img_9273 東海道線・湖西線を越える。 《地図

Img_9275 寂光寺方向へ進む。

Img_9280 普門寺沿いに上りとなる。

Img_9286 琵琶湖疏水第一竪坑

この底から東西の三井寺下、藤尾の出入り口に向かって堀り進められた。

Img_9284 説明板

Img_9283 琵琶湖疏水は小関越えの道とほぼ重なる。

Img_9288 山道っぽくなるが舗装されていて、すぐに峠に出る。

Img_9291 小関峠 《地図

野ざらし紀行』で芭蕉は、「大津に至る道、山路を越えて 山路来て何やらゆかしすみれ草」と詠んだ。

Img_9298 峠の地蔵堂(喜堂)

Img_9295峠の地蔵

出世・延命地蔵

Img_9297 説明板

Img_9300 車道となって下って行く。

Img_9303 三井寺への近道が分岐。

Img_9307 小関町に入る。

Img_9308 等正寺(右)

Img_9309 天満宮(右)前に道標 《地図

Img_9310 小関越道標

左は「かたゝげんべゑのくび」・「蓮如上人御旧蹟 等正寺」への道標で、蓮如上人の信奉者の『堅田源兵衛親子の伝承』。

Img_9317 説明板

Img_9319 腹帯地蔵堂(天満宮の向い側・左)

寛平年間(889~897)に園城寺を再興した円珍の開基と伝える。長等神社から三井寺への道。

Img_9321 西近江路に突き当たる。 《地図

ここを左折して行くのだが、右折して西近江路の起点の札の辻まで行く。

Img_9324 阪本屋鮒寿司店

明治2年の開業

Img_9326 札の辻(東海道) 【ル-ト地図】の②

ここを西近江路の起点とする。
右が歌枕の逢坂の関跡方向。

Img_9327 大津市道路元標(交差点の右側)

Img_9330 道標(文政2年(1819)・北国橋の手前)

「右 くさ津 いしやま」、西近江路は直進。

Img_9338 北国橋から琵琶湖疏水

Img_9342 大津城跡(観音寺西交差点)

ここは北西部の外堀跡あたり。

Img_9344 説明板

Img_9348 道標(文政10年(1827)) 《地図

「右三井寺観音道」は今歩いて来た道で、「右 山王唐崎道」を進むのが西近江路。

Img_9354 観音寺地区

枡形のように曲がっている。江戸時代前期に琵琶湖の船奉行を務めた観音寺の屋敷にちなむ町名。

Img_9376 神馬仮屋地(唐崎神社手前)

Img_9374 説明板

Img_9377 白髭神社道標(天保7年(1836))

ここは唐崎神社の参道で、白髭神社はまだまだ遠い。

Img_9381唐崎の松 《地図

「野ざらし紀行」には、「辛崎の松は花より朧にて」
万葉集には、「
楽浪(さざなみ)の 志賀の辛崎 さき幸くあれど 大宮人の 舟待ちかねつ」(柿本人麻呂) 

Img_9384 近江八景 「唐崎夜雨」

三上山(近江富士)がうっすらと。夕刻間近で今にも雨が降り出しそうだ。

Img_9393 四ツ谷交差点

左へ旧道に入る。

Img_9398 志津若宮神社 《地図

下坂本の「三津浜」(戸津・志津・今津)の志津はこのあたりか。

Img_9399 説明板

Img_9403 天井川の四ツ谷川を渡り、下坂本地区を通って行く。

Img_9404 湖岸沿いに出て、七本柳・坂本城跡公園に寄る。

Img_9405 山王鳥居 《地図

日吉大社山王祭の「船渡御」で7基の神輿はここから唐崎神社の沖まで行き、若宮神社で下船し日吉大社に還御する。鳥居の間の遥かに三上山。

Img_9406 説明板

ちほん」ではなく「ちほん」だ。

Img_9412 坂本城跡公園 【ル-ト地図】の③

明智光秀像が立つ。

Img_9408 説明板

Img_9409 城域図

Img_9417 東南寺川沿いを進み西近江路に戻る。

坂本城の堀として利用されていたと考えられている。

Img_9422 東南寺 《地図

Img_9420 説明板

Img_9423 坂本城址碑

正面奥が東南寺

Img_9426 西近江路石標

右は蓮瑞寺

Img_9434 両社の辻 【ル-ト地図】の④

松の馬場通りを左折すれば2つの社がある。

Img_9450 説明板

Img_9436 酒井神社(右)・両社神社(左)

もとは一社だった。

Img_9443 説明板

Img_9445 琵琶湖洪水石標・道標

明治29年の洪水の水位を記す。もとは両社の辻の東南隅にあった。
右は道標(宝暦8年(1758)で、「右北国海道・「左 日吉山王 ひゑいさん道」と刻むそうだが、下部は埋まっている。もとは両社の辻の西北角にあったもの。

Img_9444 説明板

Img_9439説明板

Img_9462 磯成神社

鳥居に向うはムクロジの大木。このあたりは中世には坂本の馬借・車借の居住地だった。

Img_9461 説明板

Img_9468 比叡辻 【ル-ト地図】の⑤

右が若宮神社

Img_9469 若宮神社

山王祭の船渡御を終えた神輿はこの裏の浜へ下船し、日吉大社へ還御する。

Img_9470 説明板

Img_9478 比叡山坂本駅へ向う。

神輿が還御する日吉神社の参道だ。本降りの雨になってきた。明日はどうか。ちょっと気が重い。

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