萩往還①
2013年4月21日
東萩駅(JR山陰本線)・・・萩橋(松本川)・・・弘法寺・・・萩小橋(新堀川)・・・岩倉獄跡・野山獄跡・・・萩藩御船倉跡・・浜崎地区・・鶴江の渡し(松本川)・・・住吉神社・・・女台場跡・・・北の総門・・萩城跡(指月公園)・・指月橋(指月川)・・天樹院墓所・・萩博物館・・中の惣門(総門)跡・・菊屋横丁・・伊勢屋横丁・・江戸屋横丁・・御客屋(萩町奉行所)跡あたり・・・唐樋札場跡(萩往還起点)・・・明倫館跡・・・藍場川・・・橋本橋(橋本川)・・・蓮正寺・・・大木戸跡・金谷天満宮・・・大屋川・・・萩駅(JR山陰本線)→東萩駅
【ル-ト地図】
萩往還は日本海沿いの萩城下から瀬戸内海の海港の三田尻を結ぶ街道で、毛利氏が慶長9年(1604)萩城築城後、江戸への参勤交代の御成道として開かれた。庶民にとっても山陰と山陽を結ぶ「陰陽連絡道」として重要な道であり、幕末には坂本龍馬、吉田松蔭ほか維新の志士たちも往来した道だ。
萩城下~悴(かせが)坂~一升谷~五文蔵峠~中ノ峠~千持峠~板橋峠~防長国境・板堂峠(537m)~一の坂・・四十二の曲がり~天花坂~郡境・鯖山峠~三田尻とけっこう起伏のある道だが、よく整備され見所も多いようで坂道散歩にはぴったしだろう。
まず初日は萩城下を散策し、萩城跡から御成道を萩往還の起点の唐樋札場に出る。そこから南下し、レトロな洋風の旧駅舎の残る萩駅までとした。萩市→山口市→防府市へと進んで行く。
写真をクリックすると拡大します。
起点の唐樋(からひ)札場跡に設置のもの。
「国境の碑」近くに設置のもの。
橋本川と共に旧萩市街の三角州を形成する川。ここから河口の日本海まで1kmくらい。
岩倉獄跡(左)・野山獄跡(道路の向い側) 【ル-ト地図】の4
岩倉獄は下牢として庶民を、野山獄は上牢として士分の者を収容した。投獄された吉田松陰は囚人たちを教化したという。まさにカリスマ教主のようだ。
萩城下の港町として栄えた浜崎地区に向かう。
萩藩御船倉跡 【ル-ト地図】の5
往時は松本川に面して船が自由に出入り出来た。
江戸時代から続く櫓漕ぎの木造船による渡しで、右岸の鶴江地区と、左岸のこちらの浜崎地区を結んでいる。市道の代わりなので無料だそうだ。運行時間帯ではなかったので川を渡る船の姿は見られず。
ここから中に入ったのだが、建物などが見当たらず(見落とし)引き返してしまった。
女台場跡(菊ヶ浜土塁) 【ル-ト地図】の6
元寇の防塁のミニチュア版みたいな土塁。
堀内地区から城下町地区に進む。『ぶらり萩あるき』
萩城跡 【ル-ト地図】の1
左端が天守台跡。
ここが毛利の殿様の萩往還の起点。御成道を唐樋札場へと向かう。
萩に現存する武家屋敷の中で最大の規模。
萩藩の開祖、毛利輝元の墓所。天樹院は廃寺となっている。
萩博物館の隅櫓
この少し先が中の惣門(総門)跡。《地図》
菊屋の向い側
菊屋横丁 【ル-ト地図】の2
左が菊屋
呉服商の伊勢屋にちなむ。
木戸孝允・蘭方医・青木周弼の旧宅、高杉晋作・伊藤博文ゆかりの円政寺などが並ぶ。
御客屋(萩町奉行所)跡あたり 《地図》
瓦町の西端の北側というから左の萩公証役場あたりだろう。町人の司法・行政ほか、他藩人(士分の者)の応接や、宿泊等も行っていたので「御客屋」と呼んだという。
昔は田地だったという。県道の手前で右折すると唐樋札場跡
ここが萩往還の起点。防長2国の一里塚の基点。一里塚は三田尻まで11ヶ所に築かれていた。
「萩町道路元標」(大正12年設置)も移設されている。(左の柵内)
明倫館の剣槍稽古場で、「他国修行者引請剣槍術場」のとおり、文久2年(1862)1月に萩を訪れた坂本龍馬は、ここで剣術の試合をしたという。
明倫館跡の敷地内。
鯉の姿は見かけなかった。
橋の手前左方(東側)に番所があった。明治9年10月31日にこの橋を挟んで「萩の乱」の序曲となる銃撃戦があった。
大木戸跡・金谷天満宮(左) 《地図》
萩城下への表玄関で、木戸があり番所が置かれていた。左の「諸方里程標」(明治29年)には、長崎・熊本・讃岐金毘羅・大坂・西京・東京などへの里程が刻まれている。東京へは二百七十四里。
現在の駅はどこなのか、ちょっとうろついた。左に隣接していてちょうど東萩駅方面行きの電車が入って来て間に合った。その電車を逃せば1時間以上待つことになり、グッドタイミングだった。(「萩循環まぁーるバス」もある)
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