西近江路③
2013年3月29日
比良駅(JR湖西線)・・・国道161号・・・旧道・・・比良川・・・国道161号・・・旧道・・南小松地区・・大仙寺・・八幡神社常夜灯・・白髭大明神標柱・・家棟川・・西方寺・・国道161号・・旧道・・・行止り迂回・・・大堂川・・・旧道復帰・一里塚跡あたり・・・(志賀バイパス)・・・揚梅の里碑・・・第一樹下橋梁(湖西線)・・・樹下神社・・・北小松地区・・・国道161号・・・岩除地蔵尊・・・旧道・一里塚跡・・・びわこクラブ・・・鵜川・・・(高島市)・・・国道161号・・・白髭神社・・・旧道・・・鵜川四十八体石仏群・・・万葉歌碑・・国道161号・・・旧道・・・(中世古道分岐地点)・・日吉神社・・・最勝寺・・・乙女が池・・・日吉神社御旅所・・・大溝漁港・・高島地区・・街角ふれあい交流広場・・分部神社・・県道300号・・道標・・大溝陣屋惣門・・・枡形・・・小田川・・・三嶋稲荷神社・・・勝野交差点・・県道558号・・・和田打川橋・・・鯰川橋・・・鴨川橋・・・青井川・・・八反田川・・・小川口交差点・・・藤樹神社・・・日吉神社・・・安曇川大橋・・・(湖西線)・・・旧道・・・河原市一里塚跡・・・中世古道合流地点・県道558号・・・安井川交差点・馬方又左衛門宅址碑・・・安養寺子安延命地蔵・・・平井交差点・・・新旭駅(湖西線)
【ル-ト地図】
3日目にして大津市を抜け、白髭神社の手前で高島市に入る。5町1村が合併した高島市は広く、この先福井県敦賀市に入るまで続く。西近江路はまだ琵琶湖近くを北上して行く。やっぱり琵琶湖は広い。
写真をクリックすると拡大します。
今日も曇よりした天気だ。
左は八幡神社常夜灯
普通は留め金などをはずして抜けられるのだが、それもなく、がっしり組まれている。フェンスの向う側には道が続いているので国道に戻り、大堂川を渡り迂回し反対側に出る。
このあたりに一里塚があったという。
北方にある「揚梅の滝」にちなんだ碑だろう。雄滝・薬研滝・雌滝の3段に分れ、合計の落差は76mだそうだ。【ル-ト地図】の14
ここは左に進む。まだフェンスの間の道が続く。
正面は樹下神社の社叢
国道を渡り、琵琶湖沿いに出る。
西近江路の宿場で本陣は池田家が務めていた。
左に歩道がしっかりとついていて歩き安い。
ここは鎧岩と琵琶湖に挟まれた難所の地だった。
右に旧道に入る。 《地図》
分岐点あたりに一里塚があったようだ。(もう少し北のようです)
*石田様から(「鵜川(川)の手前300~350m位の所であろうと推察されます」)とのコメントをいただきました。(下記)
『中近世古道調査報告書8 西近江路』(滋賀県教育委員会)にも「鎧岩を経て、金ヶ口川を過ぎて鵜川を渡るまでの間に一里塚があったことが判明する」との記載があります。
びわこクラブの前を通り、鵜川を渡り大津市から高島市に入り、国道161号に戻る。
白髭神社拝殿
遠く霞むは沖島だろう。
鵜川四十八体石仏群 【ル-ト地図】の15
現在はここには33体で、大津市坂本の慈眼堂に13体で、残り2体は行方知れず(盗難)になっている。
西近江路の高島市の「万葉歌碑」。
このあたりを明神崎、古くは水尾(三尾)崎と呼んだ。「勝野の鬼江」は、この先の「乙女が池」ともいう。
ここで国道に出る。
勝野の氏神で、湖西地方随一の曳山祭の「大溝祭」が行われる。
神社の前あたりから中世古道が分岐するが、近世古道を行く。2つの道は安曇川こ越えた河原市宿で合流する。
「蓮如上人御逗留の地」碑が立つ。
乙女が池 【ル-ト地図】の16
琵琶湖の内湖で、北西にある大溝城はこの内湖を利用した水城。「恵美押勝の乱」で藤原仲麻呂が捕らえれ、斬罪された「勝野の鬼江」ともいう。
大溝漁港 《地図》
古代には万葉集にも詠まれた勝野津だった。
「大御船 泊ててさもらふ 高島の 三尾の勝野の 渚し思ほゆ」 (巻7-1171)
(天皇の御船が泊まって風待ちしている、高島の三尾の勝野の渚が思い出される)
旧六軒町から旧長刀町へと進む。
「浅井三姉妹 ようこそ 初の里 高島へ」の看板は2011年のNHKの大河ドラマ『江~姫たちの戦国』にちなんだものだろう。
白髭神社から高島・安曇川・近江今津にかけては以前に歩いたことがある。その時、大溝城跡・近藤重蔵墓なども訪れたので今回は割愛して西近江路を進んだ。
近藤重蔵の墓と藤樹神社(安曇川)への道標。
ここは蝋燭(ろうそく)の店が集まっていた旧蝋燭町で、西に旧職人町へ入る。
大溝陣屋惣門 【ル-ト地図】の17
門だけで裏側は普通の道だ。
「米・えさ・たまご」の看板が架る。
びれっじ2号館
「清酒萩乃露」福井弥平商店
萩の浜標識
「日本の渚百選」の浜辺だが、ちょっと離れているので寄らなかった。
この先県道は直進して小田川を渡るが、旧道は左折、右折し枡形のように曲がって行く。
枡形の道筋 《地図》
ここは旧紺屋(こや)町
安曇川町も高島市に合併されていた。
小川口交差点で右折し、藤樹神社に寄る。
藤樹神社 《地図》
安曇川出身の「近江聖人」の中江藤樹を祀る。
地図を見ると橋を渡った安曇川の土手下に旧道が残るようだが、県道を進んだ。
旧道はここへ通じるのだろう。(手前が県道で安曇川方向を見ている) 《地図》
ここで県道から離れ右折して行く。
民家の敷地の枯草の山のようで、見逃しやすいだろう。河原市は宿場として賑わったというが、その面影は薄い。
この先の突き当りで左折し、県道に出て中世古道に合流する。
名前を中西又左衛門といい、中江藤樹の教えを身をもって実践した『正直な馬方』のお話。熊沢蕃山が藤樹の門下になるきっかけとなった話とか。
落語『熊沢蕃山』(狐つき)
安養寺子安延命地蔵堂 《地図》
地蔵さんは扉の中で拝めず。
平井交差点で左折し、新旭駅に向かった。
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コメント
詳細で貴重なコメントをありがとうございます。
「西近江路」を歩いた時の資料の『中近世古道調査報告書8』(滋賀県教育委員会)を読み返して見ました。52頁の最後に、「享保元年(1716)の鵜川山境論裁許絵図によれば、鎧岩を経て、金ヶ口川を過ぎて鵜川を渡るまでの間に一里塚があったことが判明する。同年11月の「北小松村御検地帳」(旧小松村役場文書)にも、「中鵜川耕地壱里塚八歩」として記載されている。現在は、その痕跡を見出すことはできない」とありました。
「分岐点あたり」というのは、あいまいでいい加減な表現でした。記事を追加修正しましたのでご覧いただければ幸いです。
投稿: 石田様へ(坂道散歩) | 2014年10月 9日 (木) 07:03
大津市北小松地区の一里塚を探しています。昔、隣の高島市区鵜川区との間で境論があり最終的に江戸表での評定により決着した時の北小松~郡境までの絵図があり、そこに一里塚が描かれていますが、絵図の現存の川と別の川の間隔から推察すると、このサイトで表現されているよりもう少し北の鵜川(川)の手前300~350m位の所であろうと推察されます。
この絵図の裏書に「北小松村三本松より云々」とあり、この三本松がどこかという議論が所属サークルで起こっています。
一般的にお互いに知れた所(例えば一里塚や川など)を起点とすると思われますので、この一里塚が、当時、三本松と呼ばれている証拠があればよいのですが、在所の古老の方々もご存じないようです。
現地で上記の一里塚が三本松として探して見たところ5本ぐらいの松が一ヶ所にかたまって生えている場所がありましたが、300年ほど前から生えにいたのであればもっと大木であるべきですが、樹齢はそれほどもないと思われ場所も旧街道でなくR161からの方が近いのと盛土の上ではないのでちがうかもしれません。
ハンディGPSでの測位での場所は、測地系WGS84で N35°15'52”71, E135.59'21"28 でした。
投稿: 石田 功 | 2014年10月 9日 (木) 00:58