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2013年4月18日 (木)

西近江路⑤

2013年3月31日

マキノ駅(JR湖西線)・・・国道161号・・・西浜交差点・旧道・・・西浜・海津地区・・萬明寺・・蓮光寺・・誓行寺・・福善寺・・海津迎賓館・・宗正寺・・宝幢院・・・願慶寺・・・海津交差点・・・清水の桜・・・追坂・・・(湖西線)・・国道161号・・道の駅マキノ追坂峠・旧道・・小荒路地区・・長善寺・・・国道161号・・・野口交差点・旧道・・野口地区・・伝正寺・・日吉神社・・剣熊の関跡・・国道161号・・・路原地区・・本慶寺・・・在原口バス停・・・国境バス停・国境地区・願力寺・・(福井県敦賀市)・・・山中地区・・親鸞聖人有乳山旧蹟碑・・・祭地蔵尊・・・黒龍之瀧碑・・・(駄口)一里塚碑・・駄口地区・旧道・・日吉神社・・・国道161号・・・追分地区・・・新疋田駅(北陸本線)→敦賀駅

  【ル-ト地図

 西近江路は海津で湖西線と琵琶湖におさらばし愛発越えとなる。追坂峠から小荒路~路原~国境へと上り、越前国敦賀に入って山中~駄口~追分まで下った。もう日本海の敦賀湾は間近だ。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_0224 西浜交差点を直進し、西浜へ出る。

 

Img_0228 重要文化的景観に選定された「高島市海津・西浜・知内の水辺景観」 《地図

北陸から運ばれた海産物は海津から琵琶湖を大津などへ運ばれた。湖岸に残る風波除けの石積。遠方は琵琶湖八景の「暁霧・海津大崎の岩礁

 

Img_0230 西浜集落を風波から守る石積 【ル-ト地図】の24

 

Img_0245 説明板

 

Img_0233 海津の家並み

西浜は漁業を中心とした集落で、海津は港町・宿場町として栄えた。

 

Img_0238 蓮光寺

 

Img_0241西与一左衛門之碑

石積を築いた甲府藩領高島郡の代官

 

Img_0239 説明板

 

Img_0248 福善寺

 

Img_0251 近江のお兼の墓

怪力の遊女「お金」の伝承

 

Img_0250 説明板

 

Img_0252 海津迎賓館 

明治4年に琵琶湖の南北をむすぶ大津-海津間に汽船を就航させた豪商、井花伊兵衛の屋敷で、現在は象牙の取扱い業者の所有。

 

Img_0260 迎賓館裏の浜

 

 マキノ東小学校の地が海津代官所跡で、その門は誓行寺の山門に移築されている。

Img_0258 宝幢院山門 《地図

峯山の最勝寺跡に残っていたものを明治31年に移築。

 

Img_0257 説明板

 

Img_0264 清酒竹生嶋の「吉田酒造」

 

Img_0266 商店

 

Img_0270 有限会社金六

 

Img_0268 この先の突き当りを左折して行く。

T字路交差点が高札場跡。

 

Img_0276 山吹御前ゆかりの梅(願慶寺(がんきょうじ))

木曽義仲の側室の山吹御前の子供が出家した後に、義仲の菩提を弔うために植えたと伝承されるそうだ。

 

Img_0274 説明板

 

Img_0277 海津交差点を渡って旧道に入る。

海津から敦賀までを「七里半越え」・「七里半街道」・「愛発(あらち)越え」・「海津越え」ともいう。

 

Img_0279 緩やかに上って行く旧道 《地図

 

Img_0283 清水(しょうず)の桜

まだ10日以上も早いらしい。水上勉の小説「桜守」にも登場するそうだ。

 

Img_0285 説明板

 

Img_0287 追坂(おうさか)峠への上り。

急坂で牛馬を追ったのか、逢坂山をなぞったのか?右上に国道が走る。

 

Img_0290 旧道はここで途切れ、右に国道に上る。

 

Img_0292 追坂峠 【ル-ト地図】の25

琵琶湖の眺めがいいのはどのあたりか? 見逃した。

 

道の駅マキノ追坂峠の先で右に旧道に入る。

Img_0294 小荒路地区を進む。《地図

 

Img_0295 長善寺

背と尻を向けた観音さんがニョッキリと。

 

国道に出て野口交差点で右に旧道に入る。

Img_0303 野口交差点。 《地図

 

Img_0305 伝正寺

 

Img_0309 野口地区の家並み

 

Img_0310 剣熊の関跡 【ル-ト地図】の26

野口御番所ともいわれる。幕府が女人の通行を改めるために設置した関。諸侯の家来筋は下馬しなければ通れず、東海道の新居関に相当する格だった。この先で国道に出て国境へと上って行く。もう旧道は残っていない。

 

Img_0315 路原地区

 

Img_0319 在原口バス停 《地図

ここを左折した在原集落の林の中に在原業平の墓と伝承される小さな宝篋印塔があるようだ。 業平が晩年に隠棲したという伝承の地。

 

Img_0327 国境(くにざかい)地区に到着。 《地図

バス停「国境」の所

 

Img_0329 福井県敦賀市へ入って下って行く。

敦賀は若狭国と思っていたが、越前国敦賀郡だった。

 

Img_0330 残雪の山並み

 

Img_0332 敦賀国際スキー場だが潰れてしまった。

気温は10度でちょっと肌寒い。

 

Img_0333 廃墟が残る。

かつてはスキーヤーで賑わったのだろう。

 

Img_0334 リフトはまだ使えそうだが。

 

Img_0339 山中地区 【ル-ト地図】の27

越前守護、朝倉氏が近江国境に当たるこの地に関所を設けたと考えられている。
江戸時代には宿駅で一里塚・口留番所・高札場が設置されていた。享保12年(1727)には46戸で200人近くが住み、問屋も10軒ほどあったとは想像もつかない風景だ。
親鸞聖人有乳山旧蹟碑(左)、 有乳(あらち)山は歌枕で、「八田の野の 浅茅色づく 有乳山 峯の沫雪(あわゆき) 寒く降るらし」(万葉集巻十)。有乳山=愛発山。

 

左に入るのが旧道跡だろうか。すぐに途切れてしまうが。

Img_0341 説明板①

 

Img_0342 説明板②

 

Img_0344 祭地蔵堂(左)

 

Img_0345 説明板

金ケ崎城の戦で自刃した?小笠原貞宗を祀る地蔵のようだが、年代の矛盾などよく分からない内容の文章だ。まあ伝承の一つとしておこう。そもそも「祭」の由来は何か?

 

Img_0348 祭地蔵は左?

 

Img_0351 ひたすら車道を下る。

 

Img_0352 (駄口)一里塚碑 【ル-ト地図】の28

左の大木の下

 

Img_0354 一里塚碑

昭和11年に福井県が設置したもの。

 

Img_0360 駄口地区

駄口宿は冬季(11月~1月)の3ヶ月間を除く下り荷の荷継場で、問屋1軒、茶屋兼宿屋1軒があった。住民は生活の基盤を農業におき、飼っている駄馬で副業的に街道で荷馬運送を行い駄賃を稼いでいた。

 

Img_0361 左に駄口地区の旧道が残る。《地図

 

Img_0363 日吉神社

この先ですぐに国道に出てしまう。

 

Img_0367 追分地区に入る。

 

Img_0371深坂古道追分(振り返って見ている。右が下って来た国道) 《地図

塩津街道の古道で、越前守に任ぜられた父・藤原為時一行とともに紫式部もこの道を通り、歌を残した。平清盛が子・重盛に命じ深坂峠を開削して、琵琶湖(近江塩津)と敦賀を連結する運河建設を計画したことでも知られている。

 

Img_0369 説明板

 

Img_0164 説明板

愛発関(あらちのせき)は敦賀の①疋田・②道口などの説がある。

 

Img_0167 新疋田駅(北陸本線)

洒落た造りの無人駅舎

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