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2013年5月29日 (水)

奥州街道(古川宿→築館宿)

2013年5月18日

東北イン古川駅前・・・金谷不動尊・・一把藁神社・・・十日町交差点・県道1号・・・吉野作造生家跡パーク・・・八幡神社・・・江合橋(江合川)・・・聖骨傳眞居士碑(追分石)・・・延慶の碑・・・天満宮・・・(国道4号)・・・荒谷宿・・・稲荷橋(田尻川)・・・斗瑩稲荷神社・・・羽黒山公園・・・国道4号・・・(栗原市)・・・立街道バス停・・・台町交差点・県道1号・・・透川・・高清水宿・・本町裏清水標柱・・八幡神社・・小山下清水公園・・牟良佐喜神社・・高清水城跡(高清水中学校)・・福現寺・・善光寺・・・善光寺橋(善光寺川)・・・伊東ハム工場・・・国道4号・・・ローソン・・旧道・・・前田橋(八重壁川)・・・力石・・・明治天皇行幸記念碑・・築館育苗センター標識・・・八沢放牧場・・機織坂・・・国道4号・八つ沢バス停・・・(築館IC)・・・高森遺跡標識・・・赤坂・・・国道4号・・・旧道・・・築館宿・・築館八幡神社・・双林寺(杉薬師)・姥杉・・金毘羅神社・・・国道4号・・・留場橋(一迫川)・・・シティホテルくりはら

  【ル-ト地図】(29.0km)

 今日も気持ちのいい五月晴れの下、古川宿から荒谷宿へと進み、栗原市に入った。高清水宿の先の旧道歩きが本日のハイライトだ。往時の奥州街道の面影が残り、力石から先もしっかりとした道がついて迂回することなく進め、機織坂も下れて大満足だった。
 けっこう歩いたわりには早めに築館宿に入った。その上、今日の宿は街道沿いだから楽だ。ただ一日中強い紫外線を浴びて、日焼けといつもの発疹が出るのが気がかりだが。

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Img_1739 一把藁神社 《地図

壊れかけている支那そば屋の隣で、やっかいな状況だ。由緒は何なのか調べても分からず。

 十日町交差点から街道に入る。

Img_1742 吉野作造生家跡地パーク

Img_1740 説明板

Img_1747 旧家

江合(えあい)川の手前

Img_1749 江合橋から

街道は橋を渡って左から右へ回り込むように進む。再び県道1号を横切ったあたりに休塚一里塚があったようだ。

Img_1755 聖骨傳眞居士碑(寛政4年(1792)・『宮城県のHP』による) 《地図

追分石も兼ね、裏に「東 田尻 西 古川 北 荒谷」と刻むというが確認できず。ここを左に行く。すぐ左に延慶の碑への標柱が立つ。

Img_1764 延慶の碑(延慶4年(1311)・『宮城県のHP』による。・中央) 【ル-ト地図】の①

両界曼茶羅・偈頌・逆修供養者の戒名を刻むようだ。右は「古碑として保存の価値ありと認む」という宮城県の余計でムダな役所仕事の碑。取っ払って説明板でも建てたら。

Img_1771 荒谷宿の家並み 《地図

郵便局が本陣跡。商人荷宿が1軒あるだけの小さな宿だった。

 田尻川の手前で左折し、斗瑩稲荷神社に寄る。

Img_1772 稲荷橋(田尻川)

田尻川、長者川の上流に伝説の化女沼がある。

Img_1780 斗瑩(とけい)稲荷神社(とっけさま) 【ル-ト地図】の②

義経東下りの先達を務めた白狐(狐忠信)が現れたという、歌舞伎「義経千本桜」ゆかりの地。
パロディ落語の『猫の忠信

右に「千葉周作先生の屋敷跡」の標柱。水戸街道の松戸宿には周作が修行した浅利道場跡がある。『なま道(鮮魚街道)②』に記載。後に千葉周作は神田於玉ケ池に北辰一刀流の道場を開いた。その弟子が少年剣士の赤胴鈴之助だ。

Img_1775 由来

Img_1786 羽黒山公園 《地図

曼珠沙華(彼岸花)の群生地。

Img_1789 説明板

ここから国道を渡り右斜めに入る。馬篭一里塚跡はどこにあったのか? 再び国道に出て、国道と左右に残る旧道を進むが、国道を渡り返さねばならず歩きにくい。通場交差点の先で栗原市に入り、立街道バス停で国道4号と分かれ、台町交差点から高清水宿へと進む。透川を渡る手前に高清水一里塚があったようだ。

Img_1820 本町裏清水標柱

清水は民家の敷地内か?

Img_1823 小山下清水公園 【ル-ト地図】の③

高清水七清水の一つだが、涸れてしまったか水の流れ、湧き水もない。

Img_1824 説明板

Img_1835 鷹の杉(牟良佐喜神社)

Img_1827 説明板

Img_1836 高清水城跡(正面の高清水中学校) 《地図

Img_1839 説明板

Img_1844 高清水宿の家並み

本陣泊屋跡は火の見櫓の所というが見逃した。もう少し手前のようだ。

Img_1845 福現寺

香の前」の埋葬地という。

Img_1853 善光寺

保元年中(1156~58)に平泉の藤原基衡が、その父清衡の菩提を弔うため建立したと伝える。本尊は信州善光寺の分身の阿弥陀如来像とか。日本三善光寺(信州・甲州・奥州)のひとつ。

Img_1849 北条塔(善光寺境内)などの石塔

Img_1850 北条塔(左端)

北条高時が新田義貞に敗れて自害したことを悼んで北条氏の縁者が建てられた伝える。

Img_1855 善光寺橋を渡り、前方の伊藤ハムの所で国道4号に出る。

Img_1860 ローソンの先、欠屋敷バス停の手前で右に旧道に入る。

Img_1863 道標に従って進む。 《地図

Img_1867_2 前田橋(八重壁川)

八重壁一里塚跡はこのあたりか。

Img_1872 ここから左斜めに入って行く。

今日のハイライトの旧道歩きが始まる。

Img_1875 まさに奥州街道だ。

Img_1876 雑草のクッションが気持ちいい。

Img_1881 この先で舗装道路を横切る。

その手前左側に力石がある。

Img_1882 力石 《地図

「後三年の役」で源義家の家臣鎌倉権五郎景政がこの石を投げて士気を鼓舞したという伝説。

舗装道路を横切って直進する。

Img_1884 旧道はさらに続く。

Img_1885 田畑の畦道のような道を行く。

Img_1888 舗装道路に出る。

Img_1890 明治天皇行幸記念碑(右端の標柱)

Img_1891 説明板

明治天皇は機織坂→ここ→力石と進んだようだ。

Img_1892 「築館育苗センター」の標識の所で右へ入る。

奥州街道の道標も立つ。

Img_1895 分岐にも道標が立つ。

Img_1898 八沢放牧場に沿って行く。《地図

Img_1899 旧奥州街道の標柱

Img_1901 機織坂を下る。 【ル-ト地図】の④

Img_1908 下って国道4号に出る。

Img_1906 機織坂を振り返る

Img_1909 国道を横切り八つ沢バス停からバス路線を進む。《地図

Img_1912 築館ICをくぐる。

このあたりはICでもっと分かりにくいと思っていたが、すんなり通過できた。

Img_1915 高森遺跡標識(照越バス停そば)

旧石器捏造事件で有名なった元遺蹟。照越にも一里塚があった。

Img_1916 道標に従い左折。(神田バス停手前)

Img_1918 上り坂となって東北自動車道を越える。

Img_1922 赤坂を下る。 【ル-ト地図】の⑤

けっこうな急坂だ。

Img_1924 道標(正面)に従い右折する。

Img_1927 細い道を上って国道4号に出る。《地図

西側にも道があり、そちらの方が旧道のルートに近いようだ。栗原市役所の南側から左に入る。

Img_1935 杉薬師瑠璃殿(双林寺) 《地図

Img_1937 説明板

Img_1944 鐘楼

高床式倉庫のような素朴な造りだ。

Img_1946 栗駒山(参道から)

Img_1955 姥杉は落雷、火災などで痛々しい姿となっている。

東日本大震災の地震の影響もあるか。

Img_1952 説明板

 築館宿に入る。

Img_1958 本陣跡(左)

駐車場になっている。もとは築館郵便局があったそうだ。

Img_1961 旧家の2階部分

Img_1962シャッター通り商店街

地方の町はいずこも同じ秋に夕暮れか。アベノミクスなど遠いどこかの国の話だろう。

Img_1966 一迫川手前で国道4号に出る。

築館一里塚跡あたり。

Img_1970 旧家

Img_1971 シティホテルくりはら

ここが今日の宿。街道に近いから明日も楽だ。

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2013年5月26日 (日)

奥州街道(富谷宿→古川宿)

2013年5月17日

仙台駅(市営地下鉄)→泉中央駅(宮城交通バス)→富谷学校・・・西沢公園・西沢溜池・・・いぼ取り太子堂・・・竹林川・・・国道4号・・・五輪坂・・・三ケ森遺跡・・・高田橋(吉田川)・・・(大和町)・・・洞堀川・・・高田一里塚跡・・・松島道追分・・吉岡宿・・九品寺・・龍泉寺・・天皇寺・・本陣跡・・吉岡城跡・・・出羽街道追分・・中興寺・・・(大衡村)・・(国道4号)・・・松本橋(善川)・・・昌源寺・昌源寺坂(跡)・・・大衡城跡・・大衡小学校・・大衡村役場・・・県道57号・・・すかいらーくMDセンター・・もみじ広場・森田元平墓碑・旧道・・・戸口配水場・・・県道261号・・・県道16号・・・戸口バス停・駒場(戸口)一里塚跡説明板・・雲泉寺・・・須岐神社・・・明治天皇小休所跡(和泉家)・・・駒場橋(駒場川)・・・旧道跡・・・(東北自動車道)・・・(大崎市)・・・伊賀地区(間の宿)・・大坂・・・伊賀南橋(東北自動車道)・・・萱刈場坂・・・長坂・・伊賀一里塚跡・・・御殿森橋(東北自動車道)・・・明治天皇聖蹟碑・・・前坂・・・(国道4号)・・大豆坂地蔵尊・・・鳴瀬川土手・・節婦辰女之墓道標・・・(三本木大橋)・・・三本木宿・・清水沢不動尊標柱・・八坂神社・・桑折城址(館山公園)・・三本木橋(鳴瀬川)・・新澤醸造店・・白鳥神社・・・三本木北町交差点・国道4号・・・長堀川橋・・・多田川橋・・・稲荷神社・旧道・・・祇園八坂神社鳥居・・・蛸薬師・・・南町踏切(JR陸羽東線)・・・古川宿・・西宮神社・・瑞川寺・・・緒絶橋(緒絶川)・橋平酒造店・・古川城跡(古川第一小学校)・・本陣跡(大崎市役所あたり)・・・十日町交差点・・・東北イン古川駅前

  【ル-ト地図】(32.4km)

 大震災で中断していた奥州街道の続きを富谷宿(宮城県)から平泉まで歩く。
 けっこう起伏もあり、名のついた坂も多い。天気も良さそうだし、実り多い坂道散歩・街道歩きとなるだろう。
 今日は富谷町→大和町→大衡村→大崎市へと進んだ。

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Img_2386 いぼ取り太子堂 《地図

太子石塔の前にお礼参りで置かれた小石が並ぶ。かなり以前に供えられた物だろうか。
鳥居の右は「距仙臺元標五里・・・」の道路元標

Img_2387 説明板

 竹林川を渡り、国道4号に沿う道を北上する。

Img_2396 五輪坂を上る。

今は坂と呼べるほどの傾斜はない。

Img_2398 三ケ森遺跡(右・志戸田バス停のそば)

縄文時代から近世にかけての複合遺跡。今は田畑になっている。

Img_2400 説明板

 高田橋を渡って大和町(たいわちょう)に入る。

Img_2412 高田(一本杉)一里塚跡 《地図

移設再現された東塚。もとは杉が植わっていたそうだ。

Img_2409 説明板

Img_2410 奥道中歌碑

道中の宿場名が歌い込まれている。
この歌碑はちょうど今回の行程の平泉の手前の一関まで。青森三厩までの歌詞を知りたいものだ。

Img_2413 松島道(右)追分

奥州街道は左折して吉岡宿に入って行く。ここにあった追分地蔵道標が九品寺門前に移設されている。

Img_2414 吉岡宿の家並み

上町・中町・下町からなり、仙台以北では大きい宿場の一つだった。右が九品寺

Img_2416 九品寺山門 《地図

山門前右手の左端が追分地蔵道標(宝暦7年(1757))。

Img_2417 「右 せんたい道 左 まつし満道」

Img_2420 昔風な建物の商店

 街道から離れ天皇寺に寄る。

Img_2425 天皇寺山門 

伊達宗清と養母の飯坂(吉岡)の局(伊達正宗の側室)の墓がある。

Img_2428 ひさご池

秀吉の「千成瓢箪」にあやかって各地に造られた池の一つ。徳川の時代となってほとんどは取り壊されたが、残った貴重な池という。

Img_2426 説明板

Img_2433 本陣跡(吉岡上町バス停の所) 《地図

空地になっている。以前はコンビニがあったようだ。街道はこの先で右折して行くが、吉岡城跡に寄る。

Img_2436 吉岡城跡(ひだまりの丘公園) 【ル-ト地図】の①

元和2年(1616)築城という伊達宗清の居城跡。このあたりは一の丸跡と伝える。南側の城内大堤公園には模擬櫓が建っているようだが見逃した。

Img_1530 上州屋

Img_1531 早坂酒造店(吉岡下町) 《地図

Img_1533 出羽街道追分

正面向うの電柱下に「奥州街道 出羽道 中山越え」碑が立つ。出羽街道はここを直進し、少し先で右折し、中興寺の西側を通っていたようだ。

奥州街道はここを右折し、大衡(おおひら)村に入り、国道4号を横切って行く。

Img_1543 この先旧道は北東に直線的に昌源寺坂を上っていたが、工業団地の造成などで途切れる。

Img_1546 万葉バス(大衡村営)

大衡村は合併を拒否して頑張っている宮城県下唯一の。「万葉の里」がキャッチフレーズのようだが、万葉集に詠まれた歌はあるのか?

Img_1547 昌源寺 《地図

Img_1550 昌源寺坂(跡)

正面に案内図が立つ。この先に昌源寺坂一里塚があり、坂の途中には「首洗い池」と「お仕置き場」と呼ばれた刑場があったという。このあたりは、『大衡村の奥州街道』に詳しい。

Img_1549 案内図

破線が旧奥州街道跡、が(昌源寺坂)一里塚跡。

 西に大きく迂回して行く。

Img_1554 残雪の奥羽山脈。

Img_1556 大衡城跡 【ル-ト地図】の②

先が長いので登城はしなかった。

Img_1557 説明板

Img_1561 大衡幼稚園

立派な建物だが廃園になってしまったか。このあたりで子どもの姿は見かけなかった。

Img_1564 単調な県道を上る。

北側は昭和万葉の森・万葉クリエートパーク。

「すかいらーくMDセンター」の先のもみじ広場から旧道が復活する。

Img_1570 旧道入口 《地図

森田元平の墓碑が立つ。

Img_1573 説明板

跡ではなく、旧奥州街道そのものだろうよ。

Img_1575 やっぱり旧道はいいね。

Img_1576 道標もある。

Img_1578 この先で開けた所に出る。

Img_1579 立入禁止だと。

休工中なので突っ切る。

Img_1581 車道に出る。

右は「大衡村災害廃棄物一次仮置場」になっている。

Img_1583 いつまで放って置くのか。

Img_1588 県道261号から16号に入る。

Img_1589 戸口バス停

裏に駒場(戸口)一里塚の説明板がある。

Img_1590 説明板

一里塚は雲泉寺の前にあったようだ。

Img_1591 雲泉寺

Img_1592 説明板

Img_1595 須岐神社 《地図

境内には梵鐘もある。神仏混淆だったのだろう。

Img_1596 由来

Img_1598 明治天皇小休所跡(和泉家) 《地図

Img_1599 説明板

Img_1602 旧道跡(左)

すぐ途切れるので直進する。

Img_1603 説明板

Img_1605 東北自動車道(正面)をくぐってすぐ左折し、自動車道沿いを北上する。

Img_1609 伊賀地区(大崎市) 《地図

吉岡宿と三本木宿との「間の宿」だったが、往時の面影はない。

Img_1612 大坂の上りとなる。

Img_1614 伊賀南橋(東北自動車道)を渡り、自動車道の西沿いを進む。

Img_1618 萱刈場(かやかりば)坂の下りとなる。

Img_1622 長坂を上る。

伊賀一里塚跡(左) 《地図

駒場一里塚跡と三本木北町(善並田)の間の一里塚跡だが標柱がなければ見逃してしまいそうだ。

Img_1632 御殿森橋から

正面は栗駒山か。

Img_1633 明治天皇鑾輿(らんよ)航渡聖蹟碑

明治14年の東北巡幸の記念碑。左に説明碑までついている。「鑾輿」とは天子の輿のことらしい。

Img_1641 前坂を下る。《地図

大豆坂は別の坂らしい。

Img_1642 大豆坂(おおまめざか)地蔵尊

放火の大罪を犯し処刑された者の供養ために、明和2年(1765)、広瀬川の巨石で彫刻させたという。
 なぜか「立入禁止」で地蔵へ近づけない。高4mの地蔵さんも寂しそうだ。借金のかたに人手に渡ってしまったのかも。

Img_1646 節婦辰女之墓道標(左の土手)

Img_1647「節婦の墓 此より二十丁餘 坂本村天性寺中にあ里」

右は説明板と思ったら占有許可標示板だった。役所根性丸出しで呆れた。
天性寺は西方にある。《地図

三本木大橋をくぐって三本木南町に入る。

Img_1653 三本木宿南町の家並み

南町は鳴瀬川の舟運の拠点として発展し、藩米を保管する御蔵場が立ち並んでいたという。八坂神社前に高札場があったようだ。

Img_1664 岩淵医院

門は傾いていた。

Img_1673 桑折(こおり)城址(館山公園)から 【ル-ト地図】の③

大崎氏の家臣渋谷相模守の居城。街道は左下の三本木橋を渡って行く。

Img_1679 三本木橋から桑折城址

Img_1682新澤醸造店 《地図

三本木宿の御仮屋(本陣)跡は河川改修で消滅した。

Img_1688 三本木北町

一里塚があったのはどのあたりか?

 この先で国道4号に出る。

Img_1695 稲荷神社 《地図

ここから右に旧道に入る。

Img_1699 祇園八坂神社参道

ここから遥拝のみ。

Img_1701 蛸薬師(中央の石塔か?) 《地図

「ミズイボ」に霊験あらたか。治ったらゆで蛸を供えるそうだ。「いぼ取り太子」は小石だった。こっちの方がご利益がありそうだ。供えられたゆで蛸を見みたいものだが。

Img_1700 由来

 陸羽東線の南町踏切を渡って古川宿へ入る。宿の入口付近にあった古川一里塚跡は不明という。

Img_1705 西宮神社

江戸時代の始め、近江商人らが兵庫の西宮神社を勧請したそうだ。

Img_1704 由緒

Img_1706 瑞川寺山門

古川城の搦手門を移築改造。

古川宿を三日町→七日町→十日町へと進んで行く。

Img_1707 説明板

Img_1711 緒絶橋 【ル-ト地図】の④

橋上は車が渋滞し絶えることなく、歌枕の風情なし。
『奥の細道』には、「十二日、平泉と心ざし、あねはの松緒だえの橋など聞き伝へて、人跡稀に、雉兎(ちと)・蒭蕘(すうぜう)の行きかふ道、そこともわかず、終に道ふみたがへて、石の巻といふ湊に出づ」と記す。道を間違えて石巻まで行ってしまうとは考えにくい。漂泊の旅の難渋さの印象を強めるための創作か。
向う側は橋平酒造店。

Img_1713 説明板

Img_1717 橋平酒造店

緒絶川沿いにいくつもの蔵が連なっている。

Img_1719 みちのく古川食の蔵 「醸室」(かむろ)の「いっぷく茶屋」(蔵8)

歩き疲れたので美味いそばを食べて休憩した。

Img_1720 おおさきうめぇもの市場(蔵8)

駄菓子など子どもの好きそうな物がぎっしり。

Img_1726 古川城跡(古川第一小学校) 【ル-ト地図】の⑤

木造校舎は建て替えられたようだ。大正デモクラシーの提唱者吉野作造は当校の卒業生。

Img_1722 説明板(古川城跡)

Img_1723 説明板(吉野作造)

Img_1730 地味な色の住民バス

美里町は大崎市の東隣。市役所あたりに本陣があった。

Img_1734 十日町交差点 《地図

街道はここを左折して行く。今日はここまでとし、直進して古川駅前の今日の宿に向かった。

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2013年5月 7日 (火)

萩往還④

2013年4月24日

ホテルα1・・・(国道262号)・・・(中国自動車道)・・・柊神社・・・大師原公園・・・馬頭観音・・・鳴滝一里塚跡あたり⑨・・・鳴滝橋交差点・・国道262号・・・旧道・・・吉岡一味斎遭難碑・・・禅昌寺・・・小鯖皮番所跡あたり・・国道262号・・美由伎松あたり・・旧道・鯖山峠下一里塚跡あたり⑩・・鯖山峠・郡境碑・・・国道262号・・・上勝坂橋・・・おろく塚・・旧道・・・国道262号・・・勝坂砲台跡・・旧道・・防府霊場第64番・・・(山陽新幹線)・・剣神社・・・阿弥陀堂跡・・・乗円寺・・真宗寺・・・(山陽自動車道)・・・下右田大渡一里塚跡あたり⑪・・本橋(佐波川)・・・山口小路・・・山陽道合流地点・・・宮市観音(定念寺)・・・宮市本陣兄部家跡・・・山陰道分岐地点・高札場跡・・・防府天満宮・・・天神通り・・らんかん橋(迫戸川)・・・(山陽本線)・・・天御中主神社(車塚妙見社)・車塚古墳・・・華浦医学校跡・・道標・・・三田尻御茶屋跡(英雲荘)・・・専光寺・・・三田尻御船倉跡・・・防府駅(JR山陽本線)

  【ル-ト地図】(19.9km)

 やっぱり雨は降り続いていて南風も強く歩きにくい。国道262号の東側の旧道を進み、洞道北口バス停の先、佐波山トンネルの手前で、郡境の鯖山峠を越える道となる。舗装された道で峠の高さも150mくらいか。難なく峠を越えて防府市に入った。
 山陽新幹線、山陽自動車道をくぐり萩往還で最後の大渡一里塚跡から佐波川を渡り、防府市街地に入り、山陽道に合流し防府天満宮の前から南下し、終着点の三田尻御茶屋跡に着いた。この頃には雨は上がり、青空が広がってきた。三田尻御船倉跡を萩往還歩きの終点とし、蒸し暑い中を防府駅に向った。

 萩往還は見所は多く、適度な起伏もあり歩きがいのある道だった。好天が続けばなおさらだろう。 

  写真をクリックすると拡大します。

Img_1361 国道262号を地下道でくぐる。《地図

国道と中国自動車道で旧往還の道筋は失われた。地下道を抜けた台地に長州藩の柊獄舎があった。明治3年、旧奇兵隊などの諸隊の暴動(脱退騒動)があり、多くの者がここで刑に処せられた。明治26年に諸隊藩士招魂石碑が建てられた。

 地下道を抜けて右折し、中国自動車道をくぐって行く。

Img_1366 柊神社 《地図

婦人病に霊験ありという小さな鳥居が奉納されている。

Img_1365 説明板

Img_1368 面貌山(186m)

周防小富士・小鯖富士とも呼ばれる。

「面貌の由来伝説」:「毛利氏の時代、興隆寺での能狂言の時に、宝物の翁の能面が突然空に舞い上がり飛んで行ってしまった。村人がこの山で夜な夜な光るものがあるというので、探し出したところ翁の能面だった」

Img_1373 鳴滝一里塚跡あたり⑨ 《地図

ここを左折すれば泰雲寺鳴滝があるが、雨で行く気なし。

鳴滝橋交差点に出て、国道262号を少し進み、左に旧道に入る。

Img_1378 吉岡一味斎遭難碑

浄瑠璃「彦山権現誓助剣」のもとになった仇討話。これが講談となると、六助が宮本武蔵、吉岡一味斎が武蔵の父の新免無二斉、京極内匠は佐々木小次郎となるというから愉快だ。

Img_1377 説明板

Img_1381 禅昌寺山門 《地図

珍しい様式だ。鐘楼門ではない。

Img_1382 説明板

「安定は堕落のもと」だと。不安定でもとっくに堕落しているよ。

Img_1390 小鯖皮番所跡あたり(国道262号に出る手前)

天保2年(1831)の防長大一揆の発火点となった所。防長では稲の出穂時期に牛馬の毛皮を持ち運ぶと 必ず凶作となるという俗信があり、農民はその時期に皮番所を設けて通行者の荷物を調べる習わしがあった。天災などで凶作・飢饉の年が続き、苛酷に年貢を取り 立てられた農民の不満はつのり苛立っていた。7月26日、ここを対馬と貿易をしている中関の御用商人、上屋儀兵衛ほか2人が通りかかった。番所で調べると駕籠の底に獣の皮を敷いていた。農民たちは儀兵衛らを縛り上げ、荷物に火をつけ、さらに儀兵衛の家になだれ込み打ち壊して騒いだ。これをきっかけに農民たちは各地で蜂起し、その勢いは防長全土に及んだ。俗信にかこつけて農民たちが鬱積した怒りを爆発させた一揆だろう。

Img_1395 鯖山峠下一里塚跡あたり⑩ 《地図

手前の国道沿いに美由伎松があるのだが、場所を思い違いしていて見つからず。鯖山峠へ右の旧道に入り上る。国道は佐波山トンネルを抜けて行く。

Img_1399 雨の山道歩きと覚悟していたが、薄暗い所もあるが、舗装された道で拍子抜け。

Img_1401 鯖山峠・郡境碑(享和2年(1802))に小鯖村で建て替えた) 【ル-ト地図】の①

「従是北吉敷郡」・「従是南佐波郡」で山口市から防府市に入った。

Img_1403 防府市街は雨で霞んでいる。

Img_1408 佐波山トンネルが左下を通る。

Img_1416 おろく塚 【ル-ト地図】の②

哀れな由来話に涙雨が降り注ぐ。

Img_1414 由来

Img_1420 勝坂砲台跡(左上) 《地図

脱退騒動での激戦地の一つ。

Img_1421 説明板

Img_1423 砲台の石垣跡

今は民家の敷地内か。

 この先で左に旧道に入り、山陽新幹線をくぐる。

Img_1429 剣神社 《地図

Img_1436 乗円寺(左)・真宗寺(右)

Img_1441 下右田大渡一里塚跡あたり⑪ 《地図

唐樋札場から11番目の萩往還で最後の一里塚だった。

Img_1442 説明板

舟橋の写真がある。

Img_1446 本橋から佐波(さば)川

木橋→舟橋(昭和16年まで)→木橋(昭和26年まで)→現在の橋

 橋を渡って山口小路を進む。今は道の両側に続いていた往還松の姿はない。

Img_1450 山陽道合流地点 《地図

左折し、防府天満宮の前まで山陽道と一緒だ。

Img_1451 説明板

Img_1452 山陽道を東に進む。

成海寺の東側に脇本陣市川家、宮市観音の西隣の安村商事が脇本陣中村家だった。

Img_1456 宮市観音(定念寺) 《地図

Img_1457 縁起

長たらしく、くどい文章だ。

Img_1462 宮市本陣兄部(こうべ)家跡 【ル-ト地図】の③

門のみ残る。

Img_1464 説明板

Img_1465 写真

平成23年1月のもの。

Img_1469 高札場跡・山陽道分岐地点 《地図

萩往還は右折、山陽道は直進。左折して防府天満宮に寄る。

Img_1473 防府天満宮

表参道の石段に植木鉢が置かれている。文字になっているようだ。防府の街おこしのイベントのようだが、ちょっと歩きづらい。

Img_1474 拝殿

Img_1477 説明板

Img_1482 らんかん橋(迫戸川)

Img_1483 天神商店街

並木はいいが商店のシャッターは下りていて寂しい。

 山陽本線をくぐる。

Img_1494 天御中主神社(車塚妙見社)・車塚古墳 《地図

左に前方部の横穴石室が開口している。後円部にも石室がある。

Img_1493 説明板

Img_1500 華浦医学校跡 《地図

Img_1501 道標(文化15年(1818)) 《地図

西面に「左宮市天満宮 志ものせき 道」・南面に「右 かみかた 左中のせき 道」で、ここを左折して「かみかた道」を進む。

Img_1504 ここを左折する。

直進した右側が酒造業を営んだ豪商、三田尻の本陣跡五十君家のようだ。

Img_1505 三田尻御茶屋跡(右の石垣) 【ル-ト地図】の④

ここを右折する。

Img_1510 三田尻御茶屋跡(英雲荘)

ここが萩往還の終着点だが御船倉まで足を延ばす。

Img_1512 説明板

Img_1527 三田尻御船倉跡 【ル-ト地図】の⑤

当初は瀬戸内海に面していた。

Img_1524 説明板

萩城下の浜崎で御舟倉跡を見たのが4日前だった。

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2013年5月 4日 (土)

萩往還③

2013年4月23日

東萩駅 JRバス→佐々並・・・御客屋跡・・・佐々並市頭一里塚跡④・・・貴布禰神社・・・道祖神・・国道262号・・・(梨ヶ浴川)・・・(大迫川)・・・板橋峠・大迫口バス停・・・旧道・・・国道262号・・・日南瀬峠・・・中作バス停・・旧道・吉田松陰東送通過之地碑・・・首切れ地蔵・・・日南瀬の石風呂・・・県道62号・・・立場橋・・・上長瀬一里塚跡⑤・・・逆修石・・・猿田彦大神塔・・・萩往還夏木原交流施設・吉田松陰詩碑・・・旧道・・・国境の碑・板堂峠(537m)・・・県道62号・・旧道・・・一ノ坂・キンチヂミの清水・・・一貫石・・・一ノ坂一里塚跡⑥・・・一ノ坂駕籠建場跡・六軒茶屋跡・・・県道62号・・旧道・・四十二の曲がり・・・天花坂口・錦鶏の滝入口・・・子安観音堂・・・錦鶏湖・・一ノ坂ダム・・・虹紅橋(一の坂川)・・・第二天花橋・・・天花橋(一の坂川)・・天花木町頭一里塚跡⑦あたり・・・人丸神社・・・木町橋(一の坂川)・・・瑠璃光寺・・香山墓地・・洞春寺・・・山口県庁・・旧山口藩庁門・・・五十鈴橋(五十鈴川)・・山口大神宮・・・伊勢大路・・伊勢橋(一の坂川)・・・堅小路通り・・築山神社・八坂神社(大内氏築山館跡)・・・山口ふるさと伝承総合センター・・・龍福寺・大内氏館跡・・・観音堂・・・法界寺・・・堅小路交差点・・札の辻・山陰道(石州街道)合流地点・・大市商店街・・中市商店街・・・山陰道分岐地点・・・正福寺・・正善寺・・・山口客館跡(山口地方裁判所)・・・鰐石踏切(JR山口線)・・・鰐石橋(椹野川)・鰐石の重ね岩・・・外郎の福田屋跡・芭蕉句碑・・県道21号・・・旧道・・・山根観音堂・木喰仏・・・妙見社・興隆寺跡・・・氷上山山門前一里塚跡⑧あたり・氷上橋(仁保川)・・・ホテルα1

  【ル-ト地図】(26.9km)

 長門・周防の国境の板堂峠から長い一ノ坂を下り、大内氏で栄え「西の京」と称された山口に入る。木町橋の所で往還から離れ、瑠璃光寺五重塔から山口の街並みを散策した。

 往還に戻ると、札の辻を過ぎるあたりから雨が降り出し、南からの強い向かい風となり歩きづらくなった。氷上橋を渡った先の往還沿いのビジネスホテルを今日の宿とした。明日は鯖山峠を越え、萩往還の終着点の三田尻まで行く。大した距離ではないが、雨が続くようなので気分が重い。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_0992 佐々並市を抜けて行く。

幕末の恭順派(俗論派・藩側)と諸隊(奇兵隊などの主戦派)の長州(萩)藩内部の争いで、ここ佐々並もその舞台となった。
御茶屋(藩主の休息・宿泊施設)はこの先の長松庵(後の佐々並尋常小学校)の所にあった。

Img_0999 説明板

Img_1008 佐々並市頭一里塚跡④ 【ル-ト地図】の①

Img_1007 説明板

Img_1012 「萩路来て 何やらゆかし ・・・・・」

Img_1014 貴布禰神社

急で不揃いな石段を上り、今日の武運長久を願う。

Img_1013 石州赤瓦葺きの屋根の社殿

Img_1011 説明板

Img_1015 道祖神(サイノカミ)

佐々並市の出入り口の守り神だろう。安永年間(1772~70)のものらしい。

 この先で国道262号に出る。

Img_1030日南瀬(ひなたせ)峠あたり

 中作バス停そばで右に旧道に入る。分岐に「吉田松陰東送通過之地碑」が立つ。

Img_1035 首切れ地蔵

首は乗っかっているだけ。

Img_1036 由来

Img_1037 日南瀬の石風呂(復元)

中は古墳の石室のようで、居心地はよくない。

Img_1038 説明板

Img_1043 上長瀬一里塚跡⑤ 【ル-ト地図】の②

Img_1044 説明板

Img_1047 逆修(ぎゃくし)石

Img_1046 説明板

逆修」(ぎゃくしゅ)としたのは、「一ノ坂銀山」の廃絶・終わりを、自分の最後としたのか?

Img_1054 吉田松陰詩碑(萩往還夏木原交流施設の一角) 《地図

Img_1053 説明板

Img_1056 左に旧道に入り防長国境へ。

Img_1059 国境の碑(文化5年(1808)) 【ル-ト地図】の③

「北 長門国 阿武郡」・「南 周防国 吉敷郡」だが、今は山口県萩市と山口市の境。

Img_1060 説明板

Img_1058 県道62号へ下り、反対側を折り返すように上る。

県道が旧往還を切断してしまったのだ。

Img_1067 「クマ出没!注意!」だと。やだねえ。

Img_1074 板堂峠から下る。

板堂は大内政弘が板葺きの堂を建てたことに由来するという。

Img_1076 再び県道を横切り、左の階段に入る。

Img_1078 一ノ坂の長い下りとなる。

Img_1086 キンチヂミの清水

大正の始めまでは、この水を利用したトコロテン屋があったそうだ。今は生温かい水で、キンは緩んだままだった。

Img_1080 説明板

Img_1091 一貫石

Img_1089 説明板

一貫文(5万~10万円?)入りの財布をここに置き忘れたまま伊勢参りとは、その路銀はどうしたのだろうか?

Img_1092 一ノ坂一里塚跡⑥ 【ル-ト地図】の④

Img_1093 説明板

Img_1094 石畳が復元されている。

Img_1103 旧道の標示柱

地蔵の左上を通っていたのか?

Img_1096 一ノ坂駕籠建場・六軒茶屋跡 《地図

Img_1106 説明板

Img_1118 四十二の曲がり

「ここは一ノ坂四十二の曲がり 下りてくだされ旦那様」と駕籠かきに歌われた難所だった。

Img_1122やっと四十二の曲がりが終わり天花坂口へと下る。

Img_1124 天花坂口

右へ行けば「錦鶏の滝」まで700mだが、先が長いのでパスした。

Img_1133 子安観音堂

大内政弘の夫人が難産し、この観音を祈って出産したのが義興という伝説がある。堂内に小さな観音坐像が見えた。堂のそばを乳安川が流れている。

Img_1132 説明板

Img_1138 錦鶏湖

旧萩往還は、一の坂川の右岸を通っていたが湖とダムの底となってしまった。

Img_1141 一ノ坂ダム・古城ヶ岳(365m)

大内弘世の頃、山口氏が居城としたとする説がある。

Img_1143 山口市街地が見えてきた。

Img_1152 天花橋(一の坂川) 《地図

橋を渡った右から来るのが旧往還の道筋だが、一ノ坂ダムの手前で途切れるようだ。(未確認) 天花橋の手前約50mの旧往還に天花木町頭一里塚跡⑦があったようだが、跡形や標示などはなかった。

Img_1158 人丸神社

「ひとまる」→「火止まる」で、山口地域の火除けの神。

Img_1157 由来

Img_1159木町橋(一の坂川)

往還は竪小路を札の辻まで直進だが、右へ瑠璃光寺などに寄り道する。

Img_1166 瑠璃光寺五重塔 《地図

この五重塔は素晴らしい。雪景色の時を見たいものだが。

Img_1177 屋根の反り具合が気高さを感じさせるか。

Img_1175 説明板

Img_1181 鐘楼

Img_1179 説明板

Img_1196 香山墓地

ここで手を叩くと正面方向から反響音が返ってくる。

Img_1195 説明板

Img_1209 洞春寺山門

Img_1210 説明板

Img_1204 鐘楼門

Img_1201 観音堂

Img_1199 説明板

Img_1243 山口県警察体育館 《地図

もとは大日本武徳会の柔剣道場

Img_1220 山口県庁旧議会棟

Img_1217 旧県庁舎(県政資料館)

Img_1222 旧藩庁の堀

コブハクチョウがこちらへ泳いで来る。チャッピーとプッチーの2羽がいるようだ。どっちだろう?向うが旧藩庁の門。

Img_1230 旧藩庁門 《地図

Img_1226 説明板

Img_1235 山口大神宮(西のお伊勢さま) 《地図

背後は大内氏の高峰城跡

伊勢大路を通り、萩往還に戻る。

Img_1260 築山館土塁跡 《地図

大内教弘は勢力範囲の拡大により、龍福寺付近一帯の大内館では手狭になり、ここに豪華な庭園のある迎賓館的な新館を設けた。

Img_1253 説明板

Img_1257 八坂神社本殿(国重文)

Img_1256 説明板

Img_1265野村酒造家(明治19年建築)

現在は山口ふるさと伝承総合センターの「まなび館」

Img_1277 龍福寺本堂

Img_1276 説明板

Img_1287 大内氏館跡の池泉

Img_1289 説明板

Img_1291 観音堂(建て替え中) 《地図

千体地蔵菩薩」が見つかったそうだ。ここは大内氏の再興を企み、毛利氏を討とうとした布川少輔七郎元教が事が発覚して自害した地という。

Img_1297 札の辻・山陰道(石州街道)合流地点 【ル-ト地図】の⑤

何の標示も見当たらないが・・・。

Img_1300 札の辻と萩往還道の標示を見つけてほっとした。

Img_1305 山陰堂(中市商店街)

折角の「往還餅」だが、土産に買うのはまだ早い。
井筒屋の前が本陣山田家跡(御茶屋に収容しきれない時などの補完的施設)。中市町の北側の中河原町に山口御茶屋があった。御茶屋橋が残っている。下道場門前町の安部家が脇本陣だった。

Img_1310 山口客館跡(山口地方裁判所) 《地図

幕末、山口に藩庁を移した時、他藩からの使節の出入りが多くなり、応接・宿泊のため慶応3年(1867)、ここに広大な客館を新築した。客館の2つの門は雪舟庭園で有名な常栄寺に移築されている。

Img_1314 旧商店

Img_1319 鰐石の重ね岩(鰐石橋) 《地図

ここから西へ400mほどの井出河原に、そこで処刑された奇兵隊総督赤根武人の顕彰碑があるそうだ。

Img_1318 説明板

Img_1323_2 外郎の福田屋跡 《地図

右端に「梅が香に のっと日の出る 山路かな」の芭蕉句碑。

Img_1344 山根観音堂 《地図

聖観音像は拝めなかったが、この藤の花で満足だ。

Img_1332 説明板

Img_1341 木喰仏

観音堂の後ろの楠の幹の中。木喰は寛政10年(1798)、山口に長く滞在し多くの仏像を残しているので、この時のものであろうとされているそうだ。

Img_1339 説明板

Img_1346 妙見社・興隆寺跡

広大な寺領と大伽藍を誇った興隆寺は明治の神仏分離・廃仏毀釈で、妙見社と中興堂と梵鐘だけになってしまった。

Img_1350 説明板

Img_1349 中興堂

木造釈迦如来坐像を安置

Img_1348 説明板

Img_1352 梵鐘

Img_1351 説明板

Img_1357 氷上山山門前一里塚跡⑧あたり 《地図

氷上橋(仁保川)の手前のカーブするあたりにあったようだ。

仁保は鎌倉時代に関東から三浦氏(周防三浦氏)が入国し、地頭となって居館を構えた地で、大内氏が山口に町造りをするより1世紀以上も前のこと。三浦氏が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請した舟山八幡宮や、三浦氏の菩提寺で多くの寺宝を有する源久寺、高さ270cmの木造阿弥陀如来坐像を安置する玄答院などに仁保の文化が残る。

Img_1360 ホテルα1 《地図

南からの向かい風と雨が強くなってきた。明日も風雨のようで折りたたみ傘では心配だ。ちょうどここを左折した所にホームプラザナフコがあった。透明の長いビニール傘を買って歩き始める。前が見えて歩き安いと思いきや、ホテルの手前でビル風のような突風に会いあえなく骨が1本折れてしまった。まだ5分も経っていないのに。さらにこの夜はホテルの居酒屋で飲み過ぎた。明日はどうなることやら。まあ萩往還の終点の三田尻まではそれほどの距離ではない。雨はいやだが何とかなるだろう。

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2013年5月 1日 (水)

萩往還②

2013年4月22日

萩駅(JR山陰本線)・・・国道262号・・(山陰本線)・・・旧道・・・前原騒動慰霊碑・・・大屋観音橋(大屋川)・・・涙松の遺址・・・猿田彦神塚木・・・萩八十八ヶ所の第八番・・・地下道(県道32号)・・・悴坂一里塚跡①・・・大屋刑場跡・栗山孝庵女刑屍体腑分之跡碑・首切り地蔵・・・地下道(県道32号)・・・道の駅萩往還・松陰記念館・・・(鹿背隧道)・・・悴坂駕籠建場跡・茶屋跡・・・烏帽子岩・・・地蔵・殉難三士説明板・・・(県道32号)・・・吉田松陰詩碑・・・・彦六・又十郎伝説明板・明木橋(明木川)・明木市(明木宿)・・高札場跡・・乳母の茶屋(御茶屋跡)・・目代所跡・・瑞光寺・・明木神社・・赤間関街道分岐・明木市頭ノ尾一里塚跡②・地蔵・庚申塔・・・(国道262号)・・・一升谷入口・・下茶屋の浴(川)・・石畳・・町田梅之進自刃の地・行司の墓・・金ヶ浴・・上茶屋の浴・・彦六の道分岐・・根の迫石橋・・五文蔵峠(一升谷十合目・346m)・・・釿切駕籠建場跡・桜茶屋跡・・・釿切中ノ峠下一里塚跡③・・・七賢堂の展望台・・国道262号・・・中ノ峠(釿ノ切峠・405m)・・・旧道・・・落合の石橋・・・千持峠・・・佐々並市(宿)・・西岸寺・・佐々並橋(佐々並川)・高札場跡・・目代所跡・・御客屋跡・・・佐々並バス停→東萩駅

 街道歩きには絶好の天気の下、萩城下を後に涙松跡から悴坂を上って、宿駅風情の残る明木市へと下った。明木市を抜けると五文蔵峠への一升谷の長い上りとなる。所々に石畳が残っている。釿切地区へ下り、中ノ峠から千持峠を越えて宿駅だった佐々並市へ入った。ここにも宿場の面影が残っていた。

  【ル-ト地図】(16.9km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_0659 山陰本線を渡り、国道262号から旧道に入る。《地図

山陰本線が通じる前の旧道は、萩駅前から大屋縄手という直線的な道で、ここへ通じていた。今日も晴れていて気持ちがいい。

Img_0661 前原騒動慰霊碑

萩の乱(前原騒動)で戦死した多くの若者の慰霊のため地元の人が建てたという。

Img_0664 茶臼山方向

頂上に狼煙場があったと伝え、中世には大内氏の将、岩城豊後守の城跡と伝える。

Img_0665_2大屋観音橋 《地図

道標「左 山口 小郡 道」・「右 河内 木間 道」と、観音橋の古い親柱が立つ。橋の下の石造観音像を探したが見つからず。

Img_0669 大屋地区を抜け悴坂(かせがさか)の上りとなる。

Img_0671 涙松の遺址 【ル-ト地図】の①

萩城下が見える最後の所で、旅立つ時には萩の街との別れの涙を流し、帰って来た時は嬉し涙した所。松は枯れてしまってない。安政6年(1859)、江戸に護送される吉田松陰はここで歌を詠んだ。

Img_0673 説明板

Img_0675 猿田彦の塚木

倒れているのでなく、置かれて祀られている道祖神だろう。

Img_0676 萩八十八ヶ所の第八番

地下道で県道32号をくぐる。

Img_0680 悴坂一里塚跡① 【ル-ト地図】の②

基点の唐樋札場から最初の一里塚跡。三田尻まで11の一里塚があった。

Img_0683 土盛りではなく石積みの塚。

Img_0681 説明板

Img_0685 竹林の道を進む。

Img_0689 大屋刑場跡・栗山孝庵女刑屍体腑分之跡碑・首切り地蔵

Img_0688 説明板

Img_0690 首切り地蔵

刑死者供養の地蔵。優しく物悲しそうで、女性的な顔立ちをしている。

 再び地下道をくぐる。

Img_0692 松陰記念館 《地図

Img_0698 萩往還は右だが、左へ鹿背隧道を見に行く。

ここから隧道入口までは約250mある。隧道の出口はこの先の萩往還のすぐ近くにある。

Img_0699 鹿背(かせ)隧道(国の有形文化財)

長さ約182mの山口県で最初の洋風石造隧道。
萩往還はこの上を越え、隧道の向う口の少し先へ下って行く。

Img_0695 説明板

Img_0702 悴坂はまだ続く。

Img_0703 悴坂駕籠建場跡(復元)

悴坂峠あたり。

Img_0704 説明板

Img_0706 駕籠を置く台

Img_0711 萩往還は隧道の上を越え、ここへ下って来る。

Img_0712 萩往還の所々には現在の休憩所も設置されている。

Img_0714 道標に従い左へ下って行く。

この道標は萩市内では多くて助かるが、山口市・防府市では少ない。

Img_0716 烏帽子岩

自然の道しるべとして往還を行く人々の目標物になっていたという。慶応元年(1865)鎮静会議員の香川半助ら3名(殉難三士)を襲った選鋒隊は、香川らの首級と睾丸をここに晒したという。

Img_0719 明るい所へ出て明木市に向かう。

Img_0721 明木川沿いを進む。 《地図

静かでのどかだ。

Img_0724 地蔵・石灯籠・「殉難三士」説明板(右下)

殉難三士を供養する地蔵ともいう。

Img_0725 「殉難三士」説明板

Img_0728 吉田松陰詩碑(左)

伊豆の下田で捕らえられた松陰は江戸の伝馬町の牢屋敷へ送られ、助命されて萩へ檻送され野山獄に幽囚された。

Img_0730 説明板

Img_0734 氷室跡?

Img_0735 (現)明木橋を渡って明木市へ入る。 《地図

もとは西来寺前に架かっていて明木川を渡った所に高札場があった。

Img_0736 彦六・又十郎伝説明板

明木地区の恩人。

Img_0802 保存会もあるよ。

Img_0740 明木市(宿)へ入る。

元郵便局の児玉家

Img_0744 説明板

Img_0753 案内図

Img_0743 乳母の茶屋(萩往還交流施設)

御客屋から昇格した御茶屋跡(藩主の休憩・宿泊施設)。

Img_0745 由来

Img_0757 明木市の家並み 《地図

石州赤瓦葺きの屋根。右側に目代所(問屋場)・馬継場があった。

Img_0760 瑞光寺山門

Img_0763 「一升谷入口」の倉木商店の屋根看板

ここを左折。左角に道標と曲がった右手に高札場があったようだ。

Img_0767 赤間関街道(中道筋)分岐(右)・明木市頭ノ尾一里塚跡② 【ル-ト地図】の③

Img_0773 左上に地蔵・庚申塔・小祠

 この先で国道262号をくぐる。

Img_0775 一升谷入口

3km以上の長い上り坂の始まりだ。途中に石畳が残っている。

Img_0780 説明板

Img_0781 一升谷の石畳

Img_0782 町田梅之進自刃の地・行司の墓(左)

Img_0783 説明板

Img_0784 小さな石碑がポツンと。

Img_0786 行司の墓(昭和2年)

「東京行司木村久治墓」とあるそうだ。詳細は不明のようだ。旅の途中のこの地で病死したのだろうか。

Img_0788 金ヶ浴(きんがえき)あたり

昔、大泥棒が処刑される時、このあたりに盗んだ千両箱を埋めたという埋蔵金伝説があるそうだ。今だ発見されず・・・。「浴」とは小川のことか?

Img_0792 一升谷五合目(標高165m)あたり

Img_0801 彦六の道分岐(右の木橋方向)

Img_0808 根の迫石橋を渡って行く。

Img_0816 石畳道

Img_0820 五文蔵峠(一升谷十合目(346m))

Img_0822 釿切(ちょうのぎり)地区に入る。

Img_0827 釿切駕籠建場跡・桜茶屋跡

Img_0828 説明板

Img_0834 釿切中ノ峠下一里塚跡③ 【ル-ト地図】の④

何の標示、説明板などはない。写真を撮って通り過ぎ、塚上の木柱の文字を読もうと思い引き返すが、フェンスで近づけず読めない。近くで農作業中のおばさんに聞いてみる。確かに一里塚跡で、役場に何度も案内板・説明板などを立てるように言っているが、駄目らしい。以前はもっと粗雑に扱われ、塚石は炭焼きの窯(かまど)用に持ち去られていた時もあったそうだ。地区の人たちがこのように復元したという。その他いろんな話を聞けてよかった。

 この先で左折し、国道262号へ上って行く。

Img_0838 七賢堂の展望台から 《地図

下が萩往還の釿切中ノ峠下一里塚跡あたり。

Img_0841 竹林を抜けて国道に出る。

孟宗竹・黒竹・大名竹ほか色々ある。

Img_0849 中ノ峠(釿ノ切峠)

標高405mで五文蔵峠より高い。下りとなって佐々並に向かう。

Img_0853 旧道に入る。

Img_0854 石畳が残る。

Img_0864 落合の石橋

Img_0861 説明板

Img_0865 刎橋構造になっている。

木造の刎橋は甲州街道沿いの「猿橋」が有名だ。

Img_0871 千持峠あたり

Img_0876 佐々並市(宿)へと入る。

Img_0880 佐々並橋 《地図

渡った所の左の呉服屋前に高札場があった。

Img_1006 説明板

Img_0889 案内図

御茶屋(藩主の宿泊・休息施設)は宿の東端(写真の右端)にあった。

Img_0886 説明板

Img_0893 目代所跡(右)

Img_0894 説明板

Img_0990 林旅館

江戸期からの旅館

Img_0991 御客屋跡(正面) 【ル-ト地図】の⑤

右は阿武萩森林組合佐々並出張所。

Img_0904 説明板

Img_0902 阿武萩森林組合佐々並出張所

もとはバスの佐々並停留所の建物。佐々並で唯一の洋風建築だそうだ。

Img_0901 説明板

ここを左折して行くのだが、この先のバスの便を考えて今日はここまでとし、佐々並バス停に向う。

Img_0907 今が盛りか

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