萩往還③
2013年4月23日
東萩駅 JRバス→佐々並・・・御客屋跡・・・佐々並市頭一里塚跡④・・・貴布禰神社・・・道祖神・・国道262号・・・(梨ヶ浴川)・・・(大迫川)・・・板橋峠・大迫口バス停・・・旧道・・・国道262号・・・日南瀬峠・・・中作バス停・・旧道・吉田松陰東送通過之地碑・・・首切れ地蔵・・・日南瀬の石風呂・・・県道62号・・・立場橋・・・上長瀬一里塚跡⑤・・・逆修石・・・猿田彦大神塔・・・萩往還夏木原交流施設・吉田松陰詩碑・・・旧道・・・国境の碑・板堂峠(537m)・・・県道62号・・旧道・・・一ノ坂・キンチヂミの清水・・・一貫石・・・一ノ坂一里塚跡⑥・・・一ノ坂駕籠建場跡・六軒茶屋跡・・・県道62号・・旧道・・四十二の曲がり・・・天花坂口・錦鶏の滝入口・・・子安観音堂・・・錦鶏湖・・一ノ坂ダム・・・虹紅橋(一の坂川)・・・第二天花橋・・・天花橋(一の坂川)・・天花木町頭一里塚跡⑦あたり・・・人丸神社・・・木町橋(一の坂川)・・・瑠璃光寺・・香山墓地・・洞春寺・・・山口県庁・・旧山口藩庁門・・・五十鈴橋(五十鈴川)・・山口大神宮・・・伊勢大路・・伊勢橋(一の坂川)・・・堅小路通り・・築山神社・八坂神社(大内氏築山館跡)・・・山口ふるさと伝承総合センター・・・龍福寺・大内氏館跡・・・観音堂・・・法界寺・・・堅小路交差点・・札の辻・山陰道(石州街道)合流地点・・大市商店街・・中市商店街・・・山陰道分岐地点・・・正福寺・・正善寺・・・山口客館跡(山口地方裁判所)・・・鰐石踏切(JR山口線)・・・鰐石橋(椹野川)・鰐石の重ね岩・・・外郎の福田屋跡・芭蕉句碑・・県道21号・・・旧道・・・山根観音堂・木喰仏・・・妙見社・興隆寺跡・・・氷上山山門前一里塚跡⑧あたり・氷上橋(仁保川)・・・ホテルα1
【ル-ト地図】
長門・周防の国境の板堂峠から長い一ノ坂を下り、大内氏で栄え「西の京」と称された山口に入る。木町橋の所で往還から離れ、瑠璃光寺五重塔から山口の街並みを散策した。
往還に戻ると、札の辻を過ぎるあたりから雨が降り出し、南からの強い向かい風となり歩きづらくなった。氷上橋を渡った先の往還沿いのビジネスホテルを今日の宿とした。明日は鯖山峠を越え、萩往還の終着点の三田尻まで行く。大した距離ではないが、雨が続くようなので気分が重い。
写真をクリックすると拡大します。
幕末の恭順派(俗論派・藩側)と諸隊(奇兵隊などの主戦派)の長州(萩)藩内部の争いで、ここ佐々並もその舞台となった。
御茶屋(藩主の休息・宿泊施設)はこの先の長松庵(後の佐々並尋常小学校)の所にあった。
急で不揃いな石段を上り、今日の武運長久を願う。
佐々並市の出入り口の守り神だろう。安永年間(1772~70)のものらしい。
この先で国道262号に出る。
中作バス停そばで右に旧道に入る。分岐に「吉田松陰東送通過之地碑」が立つ。
首は乗っかっているだけ。
中は古墳の石室のようで、居心地はよくない。
「逆修」(ぎゃくしゅ)としたのは、「一ノ坂銀山」の廃絶・終わりを、自分の最後としたのか?
吉田松陰詩碑(萩往還夏木原交流施設の一角) 《地図》
「北 長門国 阿武郡」・「南 周防国 吉敷郡」だが、今は山口県萩市と山口市の境。
県道が旧往還を切断してしまったのだ。
板堂は大内政弘が板葺きの堂を建てたことに由来するという。
大正の始めまでは、この水を利用したトコロテン屋があったそうだ。今は生温かい水で、キンは緩んだままだった。
一貫文(5万~10万円?)入りの財布をここに置き忘れたまま伊勢参りとは、その路銀はどうしたのだろうか?
地蔵の左上を通っていたのか?
一ノ坂駕籠建場・六軒茶屋跡 《地図》
「ここは一ノ坂四十二の曲がり 下りてくだされ旦那様」と駕籠かきに歌われた難所だった。
右へ行けば「錦鶏の滝」まで700mだが、先が長いのでパスした。
大内政弘の夫人が難産し、この観音を祈って出産したのが義興という伝説がある。堂内に小さな観音坐像が見えた。堂のそばを乳安川が流れている。
旧萩往還は、一の坂川の右岸を通っていたが湖とダムの底となってしまった。
一ノ坂ダム・古城ヶ岳(365m)
大内弘世の頃、山口氏が居城としたとする説がある。
天花橋(一の坂川) 《地図》
橋を渡った右から来るのが旧往還の道筋だが、一ノ坂ダムの手前で途切れるようだ。(未確認) 天花橋の手前約50mの旧往還に天花木町頭一里塚跡⑦があったようだが、跡形や標示などはなかった。
「ひとまる」→「火止まる」で、山口地域の火除けの神。
往還は竪小路を札の辻まで直進だが、右へ瑠璃光寺などに寄り道する。
この五重塔は素晴らしい。雪景色の時を見たいものだが。
ここで手を叩くと正面方向から反響音が返ってくる。
洞春寺山門
もとは大日本武徳会の柔剣道場
コブハクチョウがこちらへ泳いで来る。チャッピーとプッチーの2羽がいるようだ。どっちだろう?向うが旧藩庁の門。
旧藩庁門 《地図》
背後は大内氏の高峰城跡
伊勢大路を通り、萩往還に戻る。
築山館土塁跡 《地図》
大内教弘は勢力範囲の拡大により、龍福寺付近一帯の大内館では手狭になり、ここに豪華な庭園のある迎賓館的な新館を設けた。
八坂神社本殿(国重文)
現在は山口ふるさと伝承総合センターの「まなび館」
観音堂(建て替え中) 《地図》
千体地蔵菩薩が見つかったそうだ。ここは大内氏の再興を企み、毛利氏を討とうとした布川少輔七郎元教が事が発覚して自害した地という。
何の標示も見当たらないが・・・。
折角の「往還餅」だが、土産に買うのはまだ早い。
井筒屋の前が本陣山田家跡(御茶屋に収容しきれない時などの補完的施設)。中市町の北側の中河原町に山口御茶屋があった。御茶屋橋が残っている。下道場門前町の安部家が脇本陣だった。
幕末、山口に藩庁を移した時、他藩からの使節の出入りが多くなり、応接・宿泊のため慶応3年(1867)、ここに広大な客館を新築した。客館の2つの門は雪舟庭園で有名な常栄寺に移築されている。
鰐石の重ね岩(鰐石橋) 《地図》
ここから西へ400mほどの井出河原に、そこで処刑された奇兵隊総督赤根武人の顕彰碑があるそうだ。
外郎の福田屋跡 《地図》
右端に「梅が香に のっと日の出る 山路かな」の芭蕉句碑。
山根観音堂 《地図》
聖観音像は拝めなかったが、この藤の花で満足だ。
観音堂の後ろの楠の幹の中。木喰は寛政10年(1798)、山口に長く滞在し多くの仏像を残しているので、この時のものであろうとされているそうだ。
広大な寺領と大伽藍を誇った興隆寺は明治の神仏分離・廃仏毀釈で、妙見社と中興堂と梵鐘だけになってしまった。
木造釈迦如来坐像を安置
氷上山山門前一里塚跡⑧あたり 《地図》
氷上橋(仁保川)の手前のカーブするあたりにあったようだ。
仁保は鎌倉時代に関東から三浦氏(周防三浦氏)が入国し、地頭となって居館を構えた地で、大内氏が山口に町造りをするより1世紀以上も前のこと。三浦氏が鎌倉の鶴岡八幡宮を勧請した舟山八幡宮や、三浦氏の菩提寺で多くの寺宝を有する源久寺、高さ270cmの木造阿弥陀如来坐像を安置する玄答院などに仁保の文化が残る。
ホテルα1 《地図》
南からの向かい風と雨が強くなってきた。明日も風雨のようで折りたたみ傘では心配だ。ちょうどここを左折した所にホームプラザナフコがあった。透明の長いビニール傘を買って歩き始める。前が見えて歩き安いと思いきや、ホテルの手前でビル風のような突風に会いあえなく骨が1本折れてしまった。まだ5分も経っていないのに。さらにこの夜はホテルの居酒屋で飲み過ぎた。明日はどうなることやら。まあ萩往還の終点の三田尻まではそれほどの距離ではない。雨はいやだが何とかなるだろう。
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