奥州街道(富谷宿→古川宿)
2013年5月17日
仙台駅(市営地下鉄)→泉中央駅(宮城交通バス)→富谷学校・・・西沢公園・西沢溜池・・・いぼ取り太子堂・・・竹林川・・・国道4号・・・五輪坂・・・三ケ森遺跡・・・高田橋(吉田川)・・・(大和町)・・・洞堀川・・・高田一里塚跡・・・松島道追分・・吉岡宿・・九品寺・・龍泉寺・・天皇寺・・本陣跡・・吉岡城跡・・・出羽街道追分・・中興寺・・・(大衡村)・・(国道4号)・・・松本橋(善川)・・・昌源寺・昌源寺坂(跡)・・・大衡城跡・・大衡小学校・・大衡村役場・・・県道57号・・・すかいらーくMDセンター・・もみじ広場・森田元平墓碑・旧道・・・戸口配水場・・・県道261号・・・県道16号・・・戸口バス停・駒場(戸口)一里塚跡説明板・・雲泉寺・・・須岐神社・・・明治天皇小休所跡(和泉家)・・・駒場橋(駒場川)・・・旧道跡・・・(東北自動車道)・・・(大崎市)・・・伊賀地区(間の宿)・・大坂・・・伊賀南橋(東北自動車道)・・・萱刈場坂・・・長坂・・伊賀一里塚跡・・・御殿森橋(東北自動車道)・・・明治天皇聖蹟碑・・・前坂・・・(国道4号)・・大豆坂地蔵尊・・・鳴瀬川土手・・節婦辰女之墓道標・・・(三本木大橋)・・・三本木宿・・清水沢不動尊標柱・・八坂神社・・桑折城址(館山公園)・・三本木橋(鳴瀬川)・・新澤醸造店・・白鳥神社・・・三本木北町交差点・国道4号・・・長堀川橋・・・多田川橋・・・稲荷神社・旧道・・・祇園八坂神社鳥居・・・蛸薬師・・・南町踏切(JR陸羽東線)・・・古川宿・・西宮神社・・瑞川寺・・・緒絶橋(緒絶川)・橋平酒造店・・古川城跡(古川第一小学校)・・本陣跡(大崎市役所あたり)・・・十日町交差点・・・東北イン古川駅前
【ル-ト地図】
大震災で中断していた奥州街道の続きを富谷宿(宮城県)から平泉まで歩く。
けっこう起伏もあり、名のついた坂も多い。天気も良さそうだし、実り多い坂道散歩・街道歩きとなるだろう。
今日は富谷町→大和町→大衡村→大崎市へと進んだ。
写真をクリックすると拡大します。
いぼ取り太子堂 《地図》
太子石塔の前にお礼参りで置かれた小石が並ぶ。かなり以前に供えられた物だろうか。
鳥居の右は「距仙臺元標五里・・・」の道路元標
竹林川を渡り、国道4号に沿う道を北上する。
今は坂と呼べるほどの傾斜はない。
縄文時代から近世にかけての複合遺跡。今は田畑になっている。
高田橋を渡って大和町(たいわちょう)に入る。
高田(一本杉)一里塚跡 《地図》
移設再現された東塚。もとは杉が植わっていたそうだ。
道中の宿場名が歌い込まれている。
この歌碑はちょうど今回の行程の平泉の手前の一関まで。青森三厩までの歌詞を知りたいものだ。
奥州街道は左折して吉岡宿に入って行く。ここにあった追分地蔵道標が九品寺門前に移設されている。
上町・中町・下町からなり、仙台以北では大きい宿場の一つだった。右が九品寺
九品寺山門 《地図》
山門前右手の左端が追分地蔵道標(宝暦7年(1757))。
街道から離れ天皇寺に寄る。
天皇寺山門
伊達宗清と養母の飯坂(吉岡)の局(伊達正宗の側室)の墓がある。
秀吉の「千成瓢箪」にあやかって各地に造られた池の一つ。徳川の時代となってほとんどは取り壊されたが、残った貴重な池という。
本陣跡(吉岡上町バス停の所) 《地図》
空地になっている。以前はコンビニがあったようだ。街道はこの先で右折して行くが、吉岡城跡に寄る。
元和2年(1616)築城という伊達宗清の居城跡。このあたりは一の丸跡と伝える。南側の城内大堤公園には模擬櫓が建っているようだが見逃した。
早坂酒造店(吉岡下町) 《地図》
出羽街道追分
正面向うの電柱下に「奥州街道 出羽海道 中山越え」碑が立つ。出羽街道はここを直進し、少し先で右折し、中興寺の西側を通っていたようだ。
奥州街道はここを右折し、大衡(おおひら)村に入り、国道4号を横切って行く。
この先旧道は北東に直線的に昌源寺坂を上っていたが、工業団地の造成などで途切れる。
大衡村は合併を拒否して頑張っている宮城県下唯一の村。「万葉の里」がキャッチフレーズのようだが、万葉集に詠まれた歌はあるのか?
昌源寺 《地図》
正面に案内図が立つ。この先に昌源寺坂一里塚があり、坂の途中には「首洗い池」と「お仕置き場」と呼ばれた刑場があったという。このあたりは、『大衡村の奥州街道』に詳しい。
破線が旧奥州街道跡、★が(昌源寺坂)一里塚跡。
西に大きく迂回して行く。
大衡城跡 【ル-ト地図】の25
先が長いので登城はしなかった。
立派な建物だが廃園になってしまったか。このあたりで子どもの姿は見かけなかった。
北側は昭和万葉の森・万葉クリエートパーク。
「すかいらーくMDセンター」の先のもみじ広場から旧道が復活する。
旧道入口 《地図》
森田元平の墓碑が立つ。
跡ではなく、旧奥州街道そのものだろうよ。
休工中なので突っ切る。
右は「大衡村災害廃棄物一次仮置場」になっている。
裏に駒場(戸口)一里塚の説明板がある。
一里塚は雲泉寺の前にあったようだ。
須岐神社 《地図》
境内には梵鐘もある。神仏混淆だったのだろう。
明治天皇小休所跡(和泉家) 《地図》
すぐ途切れるので直進する。
東北自動車道(正面)をくぐってすぐ左折し、自動車道沿いを北上する。
伊賀地区(大崎市) 《地図》
吉岡宿と三本木宿との「間の宿」だったが、往時の面影はない。
伊賀一里塚跡(左) 《地図》
駒場一里塚跡と三本木北町(善並田)の間の一里塚跡だが標柱がなければ見逃してしまいそうだ。
正面は栗駒山か。
明治14年の東北巡幸の記念碑。左に説明碑までついている。「鑾輿」とは天子の輿のことらしい。
前坂を下る。《地図》
大豆坂は別の坂らしい。
放火の大罪を犯し処刑された者の供養ために、明和2年(1765)、広瀬川の巨石で彫刻させたという。
なぜか「立入禁止」で地蔵へ近づけない。高4mの地蔵さんも寂しそうだ。借金のかたに人手に渡ってしまったのかも。
節婦辰女之墓道標(左の土手)
右は説明板と思ったら占有許可標示板だった。役所根性丸出しで呆れた。
天性寺は西方にある。《地図》
三本木大橋をくぐって三本木南町に入る。
南町は鳴瀬川の舟運の拠点として発展し、藩米を保管する御蔵場が立ち並んでいたという。八坂神社前に高札場があったようだ。
門は傾いていた。
桑折(こおり)城址(館山公園)から 【ル-ト地図】の29
大崎氏の家臣渋谷相模守の居城。街道は左下の三本木橋を渡って行く。
三本木宿の御仮屋(本陣)跡は河川改修で消滅した。
一里塚があったのはどのあたりか?
この先で国道4号に出る。
稲荷神社 《地図》
ここから右に旧道に入る。
祇園八坂神社参道
ここから遥拝のみ。
蛸薬師(中央の石塔か?) 《地図》
「ミズイボ」に霊験あらたか。治ったらゆで蛸を供えるそうだ。「いぼ取り太子」は小石だった。こっちの方がご利益がありそうだ。供えられたゆで蛸を見みたいものだが。
陸羽東線の南町踏切を渡って古川宿へ入る。宿の入口付近にあった古川一里塚跡は不明という。
江戸時代の始め、近江商人らが兵庫の西宮神社を勧請したそうだ。
古川城の搦手門を移築改造。
古川宿を三日町→七日町→十日町へと進んで行く。
橋上は車が渋滞し絶えることなく、歌枕の風情なし。
『奥の細道』には、「十二日、平泉と心ざし、あねはの松・緒だえの橋など聞き伝へて、人跡稀に、雉兎(ちと)・蒭蕘(すうぜう)の行きかふ道、そこともわかず、終に道ふみたがへて、石の巻といふ湊に出づ」と記す。道を間違えて石巻まで行ってしまうとは考えにくい。漂泊の旅の難渋さの印象を強めるための創作か。
向う側は橋平酒造店。
緒絶川沿いにいくつもの蔵が連なっている。
みちのく古川食の蔵 「醸室」(かむろ)の「いっぷく茶屋」(蔵8)
歩き疲れたので美味いそばを食べて休憩した。
駄菓子など子どもの好きそうな物がぎっしり。
古川城跡(古川第一小学校) 【ル-ト地図】の33
木造校舎は建て替えられたようだ。大正デモクラシーの提唱者吉野作造は当校の卒業生。
美里町は大崎市の東隣。市役所あたりに本陣があった。
十日町交差点 《地図》
街道はここを左折して行く。今日はここまでとし、直進して古川駅前の今日の宿に向かった。
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