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2013年7月31日 (水)

東京坂道散歩(鎌倉街道 中の道①)

2013年7月25日

二子玉川駅(東急田園都市線)・・・玉川高校交差点・・・丸子川・・稲荷坂・・上野毛稲荷神社・・・(環八通り)・・(上野毛駅(東急大井町線))・・・宮前橋(谷沢川)・・・天祖神社・・原の坂・・東京都市大学・・・産能短大交差点・目黒通り・・(目黒区)・・・太鼓坂上・・しどみ坂上・・氷川坂上・・・中根橋(呑川緑道)・・(都立大学駅(東急東横線))・・柿の木坂下・・・柿の木坂一交差点(環七通り)・・・葦毛塚・・・(蛇崩川緑道)・・・庚申塔道標・・・蛇崩交差点・・半兵衛坂・・・寿福寺・・・宿山の庚申塔・・・小川坂・・・(山手通り)・・宿山橋(目黒川)・・・目切坂・・目黒元富士跡・・(渋谷区)・・地蔵道標・・旧朝倉家住宅・・猿楽塚・・・代官山坂上・・・天狗坂上・・・猿楽橋(JR山手線)・・・東横線ガード・・並木橋(渋谷川)・・八幡坂①・・金王八幡宮・・・(六本木通り)・・・国道246号・・・(地下鉄表参道駅)・・・(外苑西通り)・・・青山熊野神社・勢揃坂・・竜厳寺・・慈光寺・・・榎坂下・・お萬榎稲荷・・観音坂上・・・鳩森八幡神社・・八幡坂上②・・・東京体育館・・・千駄ヶ谷駅(JR総武線)

  【ル-ト地図】(16.3km)

 鎌倉→鶴峰→荏田→二子と進んで多摩川を渡った鎌倉街道「中の道」の主要な道筋はこの先、赤羽の岩淵で合流するまで2つある。今回は東側のルートをたどる。
 蒸し暑い中を世田谷区→目黒区→渋谷区→新宿区→豊島区→北区→荒川へとゆっくりと進もう。この間、「鎌倉街道」を示す古蹟は少ないが道沿いに坂は多い。初めて歩く坂がないのが残念だが、道筋は覚えていて土地勘もあるから気楽だ。

 「鎌倉街道推定ルート」は『中世を歩く』(北倉庄一著)の13頁

 坂の詳細は、『東京23区』(坂道散歩)・『目黒の坂

 写真をクリックすると拡大します。

Img_3829稲荷坂を上る。《地図

Img_3830_2上野毛稲荷神社

坂上から環八通り・上野毛駅を横切って行く。

Img_3835天祖神社 《地図

Img_3839原の坂(上野毛通り)

Img_3843乾物屋(玉川警察署交差点)

営業しています。

産能短大交差点で目黒通りに合流する。

Img_3864太鼓坂上 《地図

Img_3867氷川坂上 《地図

都立大学駅の所で北に入り、柿の木坂一交差点(環七通り)を渡り、世田谷区と目黒区の境を北上する。

Img_3882区境のくねった道を行く。

Img_3892葦毛塚 【ル-ト地図】の①

源頼朝がこのあたりの沢に落ちて死んだ愛馬を葬った塚という伝承地。頼朝は奥州藤原氏征討の帰路、再びこの地に立ち寄り、馬に乗って通っては危険であるから馬を引いて通るように命じ、以後、この地を馬引沢と呼んだという。上馬引沢・下馬引坂→上馬・下馬の地名になったとか。

「鎌倉街道」を示す古蹟が、道の真ん中に堂々と残っていて嬉しくなった。

Img_3893説明板

Img_3899庚申供養塔道標 《地図

ここから目黒区に入る。

Img_3904「北 めぐろ道」・裏面に「南 ゆふてん寺道」(祐天寺

Img_3908半兵衛坂を上る。 【ル-ト地図】の②

1940年(昭和15年)の「幻の東京オリンピック」の際に整備された道で、通称「オリンピック道路」。2020年の(東京)オリンピックも2度目の幻になるかも。
坂の左側に寿福寺がある。

Img_3917宿山の庚申塔 《地図

庚申塔は3基で、背の高いのは地蔵。

ここを右に進む。

Img_3918説明板

Img_3920旧家

Img_3922小川坂を下る。《地図

往時は武者たちが鎌倉を目指し、馬でこの坂を駆け上ったのだろうが、今では一方通行で車は鎌倉方向には行けない。

山手通り・・宿山橋(目黒川)を渡る。

Img_3936目切坂を上る。

Img_3931説明板

「旧鎌倉街道」なのだ。

Img_3938目黒元富士跡(目切坂上)

別所坂上が「目黒新富士」だが、今はどちらからも富士は見えず、富士塚もない。『浮世絵に見る目黒

Img_3937説明板

ここから渋谷区になる。

Img_3943地蔵道標(文政元年(1818))

台座正面に、「右大山道 南無阿弥陀仏 左祐天寺道」

向い側に旧朝倉家住宅がある。

Img_3940説明板

Img_3950猿楽塚 【ル-ト地図】の③

円墳で2基あった。その間を初期の鎌倉街道が通っていたという。目黒川から直線的に上っていたのだろう。
この古墳の上で猿楽が演じられていて、この名がついたのか? 「猿楽町」の由来の塚でもある。

Img_3946説明板

猿楽橋を渡り、並木橋へと進む。

Img_3959東横線ガードをくぐれば並木橋 【ル-ト地図】の④

橋の袂に「鎌倉道」の説明板がある。

Img_3957説明板

Img_3956八幡坂の上りとなる。《地図

鎌倉に縁のある金王八幡宮(渋谷城址)が坂の途中の左に入った所にある。

Img_3962金王八幡宮

一帯は渋谷氏の渋谷城址。城主の渋谷金王丸は源頼朝の御家人だった。

この先、鎌倉街道とはほど遠い、車と人の多い現代の渋谷の町中を足早に抜け、勢揃坂を目指す。

Img_3970勢揃坂 【ル-ト地図】の⑤

八幡太郎義家ゆかりの坂。

Img_3971坂下方向

Img_3973説明板

坂下から鳩森八幡神社に上り、千駄ヶ谷駅に向かった。そのあたりは『渋谷区の坂③』に記載。

 

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2013年7月 8日 (月)

奥州街道(盛岡城下)

2013年6月17日

仙北町駅(JR東北本線)・・・長松寺・・・不退院・・・高屋稲荷神社・・・北上川土手・新山河岸・新山舟橋跡・・徳清旧宅・・明治橋(北上川)・・・明治橋標柱・・御蔵跡(下町資料館)・・・円光寺・・・惣門通り(宮古・遠野街道)・・鉈屋町地区・・大慈清水・・消防新番屋・十文字(宮古街道・遠野街道追分)・・三面地蔵尊・・あさ開酒造・・永泉寺・・十六羅漢公園・・大慈寺・・青龍水・・祇陀寺・・長松院・・千手院・・穀町惣門跡・・木津屋本店・・南大通2交差点・・・小野家跡・・・旧第九十銀行本店・・・耕作(小野組土蔵)・・・札の辻・岩手銀行旧本店・・・茣蓙九・・・紺屋町番屋跡・・・菊の司酒造・・・鍛冶町一里塚跡(139)・・・旧井弥商店・・上の橋(中津川)・・・本町通交差点・小本街道・・寺町・・大泉寺・・三ツ石神社・・光台寺・・清養院・・報恩寺・・・四ツ家惣門跡・大智田中地蔵尊・・・盛岡城跡・・・開運橋(北上川)・・・啄木であい道・・・盛岡駅(東北新幹線)

  【ル-ト地図】(14.0km)

 北上川舟運の起点で賑わった新山河岸跡に出て明治橋を渡り、御蔵跡から鉈屋町周辺を散策し、奥州街道の盛岡城下の南の玄関口、穀町惣門跡から中心街へと進む。街道筋には江戸時代から現在までの建築物が混在していて楽しめる。
 鍛冶町一里塚跡の先を左折し、上の橋を渡る。寺町に寄ってから城下の北の玄関口の四ツ家惣門跡まで行った。ここを今回の奥州街道歩きの終点とし、盛岡城跡に寄り盛岡駅に向かった。

  奥州街道盛岡城下→渋民宿→好摩駅)』に続く。

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Img_3562_2長松寺地図

嘉永6年(1853)の大火の際、遠州(静岡県袋井市久能町)から勧請した「秋葉三尺坊大権現」の化身が周辺への延焼を防いだという。盛岡三十三観音の12番。

Img_3565 千日堂不退院

元禄7年(1694)に飢饉の死者を供養するために建立。本尊は阿弥陀如来像で浄土宗。文化年間(1804~17)に農夫が草刈り中に見つけた虚空蔵菩薩像を安置し「虚空蔵さん」と呼ばれる。盛岡三十三観音の13番で聖観音像を安置する。

Img_3572 高屋稲荷神社 

宝永5年(1708) 南部家第32代南部利幹の時に仙北町、川原町を結ぶ新山舟橋に通じる沿道に五穀豊穣、城下の往来者等の安全の神として伏見稲荷から勧請されたという。江戸時代は、北上川舟運の水主(かこ)の信仰が厚く手洗い石等が奉納された。
大ケヤキ(樹齢250年以上)が社殿を圧倒している。いや、守っているのだろう。

Img_3571 由緒

Img_3573細い道を抜け、新山河岸・新山舟橋跡へ。

Img_3574 新山舟橋跡(新山河岸跡)(北上川) 《地図

舟を並べた舟橋→木造の旧明治橋→明治橋と変遷した。正面が舟をつなぐ大黒柱を立てた中島だろう。洪水で舟橋をはずす時は、仙北町側の水主(かこ)が橋の中程から南を担当し、北側は鉈屋町側の水主が担当した。このあたりを千日河原というのは、千日堂不動院による。

天明5年(1785)9月8日に盛岡に入った菅江真澄は、「北上川の岸辺に宿をかりた。舟橋がある。川の広い瀬に舟をならべてあり、その上を行きかう人も上弦の月の光に照らされてよく見えた」という。(菅江真澄遊覧記の「けふのせば布」より)

Img_3587 説明板

Img_3580 徳清倉庫(一部取り壊し整備リフォーム工事中) 《地図

慶安年間(1648~51)開業の「徳田屋」にはじまる。酒・味噌・醤油醸造業から米屋を営み、南部藩御立入商人となった。

Img_3583 明治橋から新山河岸・新山舟橋跡方向

Img_3584 御蔵(下町資料館) 《地図

飢饉に備えての盛岡藩の備穀蔵。

Img_3593 説明板

Img_3598 円光寺

左右は夫婦カツラ(樹齢約350年)、本堂は工事中。盛岡三十三観音の第11番。

Img_3597 説明板

Img_3600 生目(いけめ)観音(円光寺境内)

切支丹の父と孝行娘の悲(秘)話。写真の右端の標柱(一部しか写っていない)の所が首塚。

Img_3599 説明板

惣門通りを進み、鉈屋町界隈を散策する。《地図》 

Img_3601 砂子沢家

昭和前期の周囲で一番の高さの表塗屋の町家。表側だけ土蔵店の外観にした市内では少ないタイプ。もとは茶屋だったそうだ。

Img_3648 説明板(鉈屋町)

Img_3606鎌田薬局

Img_3608 町屋サロンピッピ

もとは「細勘酒店」の明治期の町家。ここで「鉈屋町界隈案内」(盛岡まち並塾)を貰い役立った。
この惣門通りは惣門の手前で奥州街道から分かれた、宮古街道・遠野街道でもある。

Img_3609 町家

Img_3616大慈清水 【ル-ト地図】の①

上から一番~四番井戸で、①飲料水、②米とぎ場、③野菜・食器洗い場、④洗濯場に分かれている共同井戸。江戸期は湧水で、明治以降は大慈寺の境内から引水。

Img_3611用水組合で管理運営されている。

Img_3629 望楼付消防新番屋 《地図

もとは岩手川酒造だったが、平成18年に自己破産した。これは建て替えられた建物で、盛岡市の「賑わい事業」の施設になるようだ。裏の「浜藤の酒蔵」は整備・保存されるらしい。

この前が宮古街道(南西方向)と遠野街道(北東方向)との分岐点の十文字(追分)。

Img_3653 三面地蔵

やけに新しいと思ったら昭和4年に造られた模写品だった。

Img_3651 説明板

Img_3636 十六羅漢公園  《地図

Img_3637 説明板

Img_3645 大慈寺山門

明治38年建築の竜宮門形式の楼門で、天井には2頭の龍が描かれているそうだ。盛岡三十三観音の第6番。

Img_3658 青龍水 《地図

隣の青龍山祇陀寺の清龍伝説による名。

Img_3659 上野豆腐店

豊富な湧水を求めて移転してきたという、江戸期から続く豆腐店。ここは盛岡城の埋め立てられた外堀の上だそうだ。

Img_3667 千手院

本尊は厄除け千手観音。盛岡三十三観音の第5番。

穀町惣門跡から盛岡城下の中心部へ向かう。穀町→六日町→呉服町→紺屋町→鍛冶町→紙屋町へと進み、鍛冶町一里塚跡の先で左折して上の橋(中津川)を渡って行く。参考:『盛岡市町名由来記

Img_3670 盛岡城警備惣門遺趾標柱(穀町惣門跡) 【ル-ト地図】の②

奥州街道の盛岡城下への南の玄関口で、惣門の桝形には御番所が置かれ、城下へ出入りする人と物を取り調べた。交通量が多く、城下で最も重要な改番所だった。惣門は朝6時に開け、夕6時に閉じられた。

Img_3673 木津屋

初代は国書改ざんの「柳川一件」で盛岡に流罪となった規伯玄方を慕って山城国(京都府)の木津から移住。
このあたりは新穀町(西側が穀町)で、藩の御蔵米払下げの取引所で、穀物商が多く居住したことから由来する。この町には旅館が多く、諸国の商人・旅人を始め、江戸後期には蝦夷地警備に向かう東北諸藩の武士なども宿泊した。

Img_3672 説明板

Img_3679 小野家(小野組)跡

江戸時代は井筒屋を称した豪商の煉瓦塀の一部。

Img_3678説明板

Img_3686 旧第九十銀行本店

明治43年の建築

Img_3688耕作

小野組の唯一現存する土蔵は、レストランになっている。

Img_3694 岩手銀行旧本店地図

明治44年の建築で、現在改修工事中。ここは「札の辻」と呼ばれ高札場があった。

Img_3695説明板

Img_3702 茣蓙九(ござく) 【ル-ト地図】の③

荒物・日用品の雑貨屋。江戸後期から明治にかけて燈明用の燈心や藁工品を扱った商家。

Img_3777中津川からの茣蓙九の裏側の景観

Img_3703南部鉄器の釜定

Img_3708 紺屋町番屋(消防番屋) 《地図

大正2年の建築。紺屋町は中津川を利用した紺屋(染物屋)が集まっていたことに由来。南部紫や南部茜で染められた布地は、盛岡藩の特産物であった。

Img_3711菊の司酒造本社

石鳥谷宿の菊の司七福神工場はここに統合された。

Img_3713 鍛冶町一里塚跡(139) 【ル-ト地図】の④

ここは町中のため塚は築かれなかった。鍛冶職の棟梁職人が居住していた。刀鍛冶や鉄砲鍛冶のほかに農具を作る野鍛冶も住んでいた。当町の裏通りを鍛冶町裏ともいった。

Img_3715 一里塚跡碑

Img_3719 旧井弥商店 《地図

明治末期の建築、現在は盛岡正食普及会の店舗。紙町は上の橋の両詰に上方の紙商人を住まわせたことに由来。盛岡で初めて紙が漉かれたのは,寛文9年(1669)で筆墨も商ったため、紙町の東詰に天満宮が祀られていた。

Img_3726 上の橋(中津川)

青銅の擬宝珠には慶長14年(1609)の銘(8個)、16年の銘(10個)がある。橋板が痛むとして牛は渡れず、少し上流の「牛越え場」を歩いて渡ったという。

本町通り交差点を右折し、小本街道に入り寺町へ寄る。小本街道は塩を運ぶ牛を追った、「塩の道」・「牛追いの道」で、牛方たちは野宿をしながら牛を追ったという。♪『南部牛追い唄』発祥の地でもある。

Img_3763 大泉寺地図

貞女おかんの墓」探したが分からず。山門前の左側のあるようだが、工事車両に塞がれ隠れている。
寺宝に「お菊の皿」が4枚あるそうだ。8月16日に公開するらしい。各地にある「皿屋敷伝説」の一つだろう。落語『皿屋敷』もある。

Img_3739 三ツ石(三ツ石神社境内)

岩手・不来方(こずかた)の地名由来となった鬼の手形の大石。

Img_3738 説明板

鬼をこの地方の蝦夷、三ツ石の神を坂上田村麻呂と転じた伝説もある。

Img_3746 ムカデ姫の墓(光台寺)

大ムカデ退治の俵藤太を祖とするというから愉快で面白い。墓には寛文3年(1663)の銘がある。

Img_3745 説明板

Img_3752 寺町界隈

立派な寺が並んでいる。宮澤賢治・石川啄木に縁のある寺もある。

Img_3758 報恩寺

五百羅漢の寺

Img_3757 説明板

街道に戻る。

Img_3767 枡形の名残り

Img_3770 四ツ家惣門跡・大智田中地蔵尊 【ル-ト地図】の⑤

奥州街道の盛岡城下の北の玄関口で、門の脇に番所が置かれ、門の外には堀(旧赤川堰)が巡らされていた。

Img_3773 説明板

Img_3774 大智田中地蔵

夫人の菩提を弔うにしては迫力満点で、外国人力士、プロレスラーのような風格・顔立ちだ。

ここを今回の街道歩きの終点とし、盛岡城跡に寄り盛岡駅に向かった。

Img_3798盛岡城跡

Img_3801 南部利祥の銅像の台(本丸跡)

太平洋戦争で供出され銅像は剥がされたが、明治維新の朝敵のレッテルは剥がされずにまだ続くのか。

Img_3800 在りし日の銅像

Img_3804 開運橋(北上川)岩手山方向なのだが霞んでいる。《地図

Img_3807 啄木であい道

奥州街道はこの先、啄木ゆかりの玉山地区、渋民地区を通って行く。啄木は苦手で、あまり会いたくないがそうも行くまい。

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2013年7月 4日 (木)

奥州街道(石鳥谷宿→日詰郡山宿)

2013年6月16日

石鳥谷駅(JR東北本線)・・・県道265号・石鳥谷宿・・石鳥谷肥料相談所跡・・好地一里塚跡(133)・・薬師堂橋(薬師堂川)・・菊の司酒造・井筒屋跡・・・長坂・・菊池数馬の墓・・・境塚・・(柴波町)・・・犬淵交差点・国道4号・・・鎌倉古道跡・・・国道4号・・・滝名川橋・・善知鳥坂・善知鳥館跡・・・蔭沼一里塚跡(134)あたり・・・山吹橋(山吹川)・・・五郎沼・・薬師神社・・樋爪館跡・・・国道4号・・・(東北新幹線)・・・覚王寺・・旧道・・・志賀理和気神社・・紫波運動公園・・郡山河岸(北上川)・・・日詰郡山宿・・平井邸・・明治天皇旧蹟碑(ふれあい公園)・・来迎寺・・・国道4号・・勝源院・・・城山入口交差点・二日町一里塚跡(135)・御幸新道・・・(高水寺城跡)・・・日詰長岡通代官所役屋(御仮屋)跡あたり・・・高水寺・走湯神社・・・本宮神社・・・国道4号・旧道・・・蟠龍寺・・・横澤酒造店・・・五内川橋(五内川)・・・国道4号・・・稲荷神社・・・国道4号・・三枚橋(岩崎川)・(矢巾町)・・・間野々一里塚跡(136)・・・徳田神社・徳丹城跡・・・高田藤沢稲荷神社・・・見前橋(見前川)・(盛岡市)・・・今宮神社・見前一里塚跡あたり(137)・・・大国神社・・・いたこ塚・・・川久保一里塚跡(138)・稲荷街道追分・県道16号・・・小鷹刑場跡・・・仙北町駅口交差点・・・仙北町駅(東北本線)

  【ル-ト地図】(28.0km)

 石鳥谷宿から長坂を上り、坂上の境塚から紫波町に入る。鎌倉古道跡に寄り、滝名川橋を渡って善知鳥坂を上り、五郎沼へ下る。期待した古代の蓮の花は咲いていなかった。
 志賀理和気神社境内から北上川の郡山河岸跡に出て一休み。街道に戻り、日詰郡山宿を通って行く。
 二日町一里塚跡から御幸新道に入り、高水寺城跡を眺めながら、高水寺・走湯神社へと進んだ。三枚橋を渡れば矢巾町で国道4号を行く。間野々一里塚跡、徳丹城跡を過ぎ、見前橋を渡ってやっと盛岡市に入った。
 今日も暑い日でバテ気味で午後は何度も休みながらの道中となった。明日は盛岡城下へ入って散策し、今回の奥州街道歩きの打ち止めとする。

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Img_3309 石鳥谷肥料相談所跡

宮澤賢治はここから斜め向いの好地一里塚を見ていたのだろう。『三月』という詩に「一里塚」が出てくる。

Img_3310 説明板

Img_3312好地一里塚跡(133) 《地図

「・・・・一里塚一里塚    塚の下からこどもがひとりおりてくる    つゞいてひとりまたかけおりる
町はひっそり 火の見櫓が白いペンキで、 泣きだしさうなそらに立ち 風がにはかに吹いてきて 店のガラスをがたがた鳴らす」

今は左に説明板があるだけで、賢治の詩の子どもたちが下りて来た塚も「並木の松」もない。「町はひっそり」は当時と同じだが。

Img_3313 説明板

Img_3314_2石鳥谷は「南部杜氏の里」

正面向うの煙突は菊の司酒造七福神工場だが、平成23年9月に盛岡の本社に統合された。道の駅石鳥谷内に 「南部杜氏伝承館」もある。

Img_3320 井筒屋(小野家)跡

「七福神」は菊の司酒造に引き継がれた。

Img_3319 説明板

Img_3324 案内図

Img_3327長坂を上る。 【ル-ト地図】の①

左に菊池数馬の墓。菊池家はもとは肥後熊本の菊池氏の一族という。

Img_3330 左から2番目が数馬の墓か?背後が数馬館跡。

Img_3328 説明板

Img_3333 境塚 《地図

好地村と犬渕村の境だった。今は花巻市と紫波町の境。

Img_3334 説明板

犬淵交差点で国道4号に出て次の信号の所を左折し、鎌倉街道跡へ寄る。

Img_3341 鎌倉街道跡へ左折する。 《地図

Img_3343 鎌倉街道標柱(正面突き当り)

奥州街道古道は四日町三交差点→光林寺前→旧好地一里塚跡からここへ通じていた。

Img_3346 北へ向う。《地図

Img_3348 ここで途切れるので、右へ国道4号に出る。

Img_3351東根山(928m・正面)・南昌山(右の尖った山)

Img_3357 善知鳥(うとう)坂 【ル-ト地図】の②

坂の両側は善知鳥館跡で、坂上から五郎沼へと下って行く。安倍氏かそれに連なる有力者の居館か柵だったとも。
各地にある善知鳥坂については、『白河市の坂』の善知鳥坂跡の所に記載。『うとう坂表

Img_3377 歴史絵図

Img_3363 蔭沼一里塚跡(134)あたりか

五郎沼へ下る途中の蔭沼地区で「塚」という屋号の家があるそうだ。

Img_3366山吹橋(山吹川)

山吹色に輝く砂金の「黄金伝説」

Img_3369五郎沼

奥州藤原氏の初代清衡の孫、樋爪太郎俊衡、五郎季衡兄弟の館が近くにあり、五郎が幼い頃よく沼で遊んでいたことからその名がつけられたといわれている。池の北側あたりに、若い娘の人柱伝説の「夜泣き石」があるようだが見逃した。

Img_3372古代蓮

藤原泰衡の首桶に手向けられた五郎沼の蓮の種から800年を経て五郎沼に里帰りして花咲いたというロマン。

Img_3375 説明板

Img_3374説明板(樋爪館)

泰衡の首桶に蓮の種を入れたのは藤原太郎俊衝としている。参考:『五郎沼と樋爪館』(紫波町観光交流案内)

Img_3379薬師神社

もとは薬師堂だが、神仏分離で神社になってしまった。このあたり一帯が樋爪館跡。近くに元亨3年(1323)の銘の不動明王絵像碑があるはずだが分からず。

Img_3385 国道4号に出て右に旧道に入る。

Img_3388 南面の桜(志賀理和気神社) 《地図

これも「古代ロマンの桜」だ。結末はハッピーエンドだったのだろうか? まあ相手の藤原某は都の女たらしの貴族だろうから、相場は決まっているか。

Img_3389 説明板

Img_3391志賀理和気神社

最北の延喜式内社。通称の「赤石神社」・「赤石さん」は紫波の地名の由来となったという霊石の「赤石」から。「シカリ」は①アイヌ語で、「蛇行する流れ」(北上川のことか)。北海道には石狩(いしかり)川がある。②マタギの統率者の「シカリ」からとも。

Img_3392 由緒

Img_3399 郡山河岸(北上川)

「小舟渡」と呼ばれた小さな入江(階段の所)で一休みしたが、陽射しが強く風もなく早々退散。

Img_3401 説明板

Img_3405 ゴムボートで川下りか。

涼しそうだねえ。今日は日曜で河川敷の紫波運動公園も賑わっていた。

街道に戻り日詰郡山宿に入る。

Img_3411 平井邸

原敬も訪れた豪商の平六商店(現菊の司酒造)の邸宅。平井家は江戸初期から藩米を預かる御蔵宿で、倉庫運送業、宿屋などを営んでいた。

Img_3408 2階部分

Img_3415日詰郡山宿の町並み

町の中心部だが、静かでひっそり人影もない。時が止まったようだ。
継立業務は二日町、日詰町、下町が10日ずつ分担した。本陣は日詰町の桜屋と井筒屋、上町(二日町)では御仮屋(代官所)が利用された。

Img_3416 説明板

Img_3419 やっぱり時は止まっていた。

Img_3421銭形平次を演じた北大路欣也の手形

手を合わせると主題曲が流れ、町の説明が始まる。銭形平次といえばやっぱり大川橋蔵だろうよ。作者の野村胡堂は紫波町の生まれ。すぐ先の銭形平次会館は閉まっていた。

Img_3423 畿久屋

説明板の美濃屋(畿久屋)金子家だろう。

Img_3428 明治天皇旧蹟碑(ふれあい公園)

来迎寺に突き当たり左折して行く。

Img_3430 旧家の前を右にカーブして国道4号に出る。

途中で会った近所の人に、国道沿いの「シライシパンアウトレットショップ日詰店」でパンを買って昼食にしたらいいと勧められた。買わなかったが美味くて安いのか、車で買いに来る人が多くいた。

Img_3433 勝源院 《地図

逆かしわを探してウロウロ、墓参りに来た人に聞いてやっと分かった。

Img_3443 逆カシワ(本堂の裏側)

かなりの迫力だ。前九年の役の後に源頼義・義家父子が植えたという伝説もあるそうだが、樹齢約300年ではちょっと無理な話だ。

Img_3435 説明板

Img_3445 城山入口交差点

渡った左の民家の敷地内に二日町一里塚跡の標柱がある。

Img_3446 二日町一里塚跡(135) 【ル-ト地図】の③

交差点を右折し「御幸新道」に入る。

Img_3449 高水寺(こうすいじ)城跡(城山公園)の西側を進む。

Img_3451 旧家

この先あたりが日詰長岡通代官所役屋(御仮屋)跡で、本陣としても利用された。宿の中心部からはかなり離れている。

Img_3456 高水寺・走湯神社

源頼朝が高水寺の鎮守のために、伊豆の足湯権現を勧請したと伝える。
ここで地元の人とリュックを背負って、立ったまま長話をしてしまい、後でその疲れが出た。

Img_3458 説明板

Img_3465槻(つき・ケヤキ)の木

源義家が前九年の役の戦勝を祈願し、奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝が戦勝を感謝し、走湯権現に奉納の上矢の鏑を2つを射立てたという槻の2代目とか。

Img_3474 本宮神社

ここのケヤキも見事だ。

Img_3478国道に出てすぐ右に旧道に入る。

Img_3481蟠龍(ばんりゅう)寺(右)

本尊は鑑真→孝謙天皇→藤原仲麻呂へ渡ったという千枚苞巻観音像(當国七番観音)。一寸八分の秘仏だそうだが・・・・。

Img_3483 説明板

Img_3487横澤酒造店

「月の輪」の由来は前九年の役の際の池、その後の藤原秀衡の修造の「月の輪形」によるそうだ。

五内川橋(五内川)を渡って国道4号に出る。

Img_3501 間野々(あいのの)一里塚跡(136)

塚も松並木の跡形もなく、殺風景な車道となってしまった。すぐ先に「東京まで522km」の標識が立つ。

Img_3503 説明板

三枚橋(岩崎川)を渡って矢巾町に入る。

Img_3511 徳丹城跡 【ル-ト地図】の④

北にあった志波城(盛岡市)を、水害を理由に弘仁2年(811)、文室綿麻呂の建議により南10kmのこの地に移転・造営したが、9世紀半ばには廃絶された古代律令国家の城柵跡。
アイヌ語の「ト・コタン」(集落・部落)に由来する名という。『コタンの口笛』というのがあった。古いねえ俺も。国道を挟んで「矢巾町歴史民俗資料館」があるがパスした。

Img_3515 説明板

Img_3520高田藤沢稲荷神社 地図

元々の地主神は熊野神で、前九年の役の際に源頼義が熊野社を勧請したという。
広い境内の大きな稲荷社だが、国道を横切るのが面倒でここから遥拝のみではご利益は薄いか。

見前橋(見前川)を渡れば盛岡市だ。

Img_3527 今日も暑く、強い日差しでバテてきた。並木の小さな日陰でもありがたい。

Img_3528 今宮神社・見前一里塚跡あたり(137) 《地図

社殿に座り込んで30分ほどの大休止。

Img_3529 説明板

Img_3530 大国(だいこく)神社(左) 《地図

津軽町の遊郭の遊女や楼主が奉納した献額(絵馬)は見当たらず。むろんこのあたりが遊郭街だったことを感じさせる建物なども皆無。

Img_3536 説明板

Img_3534 献額の代わりに小石が奉納か?

Img_3540いたこ塚(津志田交差点手前)

遊郭街を偲ぶ唯一のものか。囲いの中は百万遍供養塔(昭和8年)などの石塔で塚跡もないが。
吉田松陰の『東北日記』には、「津志田村・・・・廃良田新起妓楼数十家・・・・」で、松蔭は通しただけで遊郭でばなかったようだ。松陰が旅した嘉永4年(1851)にはまだ塚も新しく、見たかも。

Img_3538 説明板

Img_35444時近くで曇ってきたがこの気温、暑いわけだ。

Img_3547 川久保一里塚跡(138)・稲荷街道追分 《地図

斜め左、南西方向に稲荷街道が分岐する。

Img_3548 説明板

Img_3551 稲荷街道(右)

志和稲荷神社地図》方向で、松陰の『東北遊日記』には、「川久保 塚根ニ茶屋一軒アリ・・・・コノ茶店ノ脇ニ道アリ 是ヲ志和街道ト云 志和稲荷ヘ参詣ノ道也 茶屋ノ側ニ稲荷ノ鳥居アリ」で、一里塚には触れていない。今は鳥居も茶店も一里塚もない。

Img_3555 小鷹刑場跡 【ル-ト地図】の⑤

「殺生場とも通称された。左に天保7年(1836)の供養塔。この先に足軽同心屋敷が並び、枡形があったとそうだ。
仙北町は江戸初期に、2代藩主南部利直が奥州街道の南口に出羽国仙北郡の出身者を住まわせたことに由来するという。紫波郡の穀倉地帯に近く、米の集散や農民相手の商工業によって発展した。

Img_3556 説明板

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2013年7月 1日 (月)

奥州街道(黒沢尻宿→石鳥谷宿)

2013年6月15日

北上駅(JR東北本線)・・・黒沢尻宿(間の宿)・・脇本陣三浦屋跡・・本陣鍵屋跡・・脇本陣井筒屋跡・・・本町踏切(JR北上線)・・・本宮橋(黒沢川)・・・常盤台跨線橋(東北本線)・・・新堰川・・・二子一里塚跡(128)・塚越稲荷神社・・・(村崎野駅)・・・大堰川・・・天照御祖神社(伊勢神社)・・・北上工業団地・・・成田橋(飯豊川)・・・成田一里塚跡(129)・一里塚バス停・・・(花巻市)・・・薬師神社・・円通寺・・・(国道4号)・・・十二丁目坂・・・「がけ」の松(なごり松)・・なごり松(南城小学校)・・・上館跡・・・岩崎街道分岐地点・・・賢治文学散歩道・・同心屋敷跡・・・おくら(跡)・・・豊沢橋(豊沢川)・・・豊沢一里塚跡(130)・・・松庵寺・・・花巻城大手門跡・時鐘・・円城寺坂・・円城寺門(鳥谷崎神社)・・本丸跡・・西御門・・・花巻宿・・本陣跡あたり・・明治天皇御聖蹟碑・・・広隆寺・・・四日町三交差点・奥州街道古道分岐地点・・・国道4号・・・東京から500km地点・・・枇杷沢川・・・(JR釜石線)・・・瀬川橋・・(釜石自動車道)・・・宮野目一里塚跡(131)・・・宮の目坂(幅下坂)・・・新堤(溜池)・・境橋(油沢川)・・追分の碑(花巻空港駅口交差点)・・・塚の根バス停・江曽一里塚跡(132)・・・小森林館跡・逆ひば・・・・滝沢橋(滝沢川)・・・耳取橋(耳取川)・・・県道265号・・・葛丸橋(葛丸川)・・・杉生桜・・・北向跨線橋(東北本線)・・・上和町遺跡標柱・・・石鳥谷交差点(国道4号)・奥州街道古道(鎌倉街道)跡・・旧好地一里塚跡・・・石鳥谷駅(東北本線)

  【ル-ト地図】(31.4km)

 黒沢尻宿を抜け、両塚が残る二子一里塚跡から北上工業団地の間を通り、ここも見事な両塚が残る成田一里塚跡を過ぎると花巻市に入る。豊沢川を渡って花巻城跡を散策し、花巻宿を通って行く。
 四日町三交差点からは明暦4年に切り替えられたまっすぐな新道(現国道4号・県道265号)を行く。石鳥谷地区に入り、逆ひば・杉生桜の珍木を見て左折し、古道跡と旧好地一里塚跡を訪ねた。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_2998 黒沢尻宿の家並み

和賀川の川留のなどの不測の事態に備えた間の宿だったが、北上川舟運の中継基地の黒沢尻河岸擁して栄え、本陣・脇本陣も置かれた。

Img_3001 脇本陣三浦屋跡 《地図

北上信用金庫の前に標柱。

Img_3004 説明板

Img_3008 本町の家並み

さくらの百貨店前に説明板

向い側あたりが本陣鍵屋跡

Img_3007 説明板

Img_3009 脇本陣井筒屋跡

「メガネの松村前」に標柱

 黒沢尻宿を抜け、北上線、東北本線を渡って行く。

Img_3023 二子一里塚跡(128) 【ル-ト地図】の①

両塚が残る。西塚は塚越稲荷神社内

Img_3026 説明板

Img_3048 北上工業団地の間を行く。

殺風景な工場群の間と思っていたが、けっこう緑豊かで気分がよかった。

Img_3057 成田一里塚跡(129) 【ル-ト地図】の②

東塚は桜、西塚はケヤキの見事な一里塚跡。すぐ先が一里塚バス停。

Img_3060 説明板

Img_3063 振り返る。

 旧成田小学校(2012年3月閉校で解体工事中)のすぐ先で花巻市に入る。

Img_3069 薬師神社

神仏混淆か廃仏毀釈か?

Img_3071 十二丁目坂を上る。《地図

稗貫氏の家臣の十二丁目氏に由来する地名。元は伊藤を称していたが、室町時代に十二丁目に改称したそうだ。
緩やかな坂で、今は国道4号に分断されている。

Img_3075 がけ松(傘松)

ガードレールの外のがけから田んぼの方へ傾いて立っている。

Img_3081 がけ松(傘松)

支柱に寄りかかって頑張っている奥州街道の4本の名残り松のうちの1本。

Img_3080 説明板

宮澤賢治のいう「古いみちのくの断片」の「青い松並」は4本だけになってしまった。

Img_3094 なごり松(南城小学校) 3本

Img_3095 上館跡(右に標柱)

前九年の役で政府軍の将、源頼義がこの付近に陣所を置いたという。

Img_3085 説明板

 この先で岩崎街道が南西に分岐する。《地図
ここから南西に向かい、山ノ神・飯豊・門屋・新平(にっぺい)を経て江釣子佐野から和賀川を渡り、岩崎で旧秋田街道に至る全長15.6kmの道。江戸時代前期に奥州街道が整備されるまでは本街道と呼ばれていた要路だった。

Img_3101 宮澤賢治詩碑

このあたりは賢治文学散歩道で、詩碑やゆかりの物が多い。この先には桜地人館がある。

Img_3108同心屋敷跡

平野家(左)・今川家(右)

管理人のご婦人2人にお茶と飴で接待していただき、しばし談笑し小休止。

Img_3104 内部

Img_3810 花巻同心組

Img_3113 おくら(跡)

これも賢治の羅須地人協会の付属の建物。

Img_3109 説明板

Img_3118 豊沢橋から豊沢川上流方向

Img_3119 豊沢一里塚(錦塚)跡(130) 【ル-ト地図】の③

左の店舗前に説明板。偉容を誇ったという「錦塚」は跡形も残らず。

Img_3120 説明板

Img_3121 松庵寺

高村光太郎ゆかりの寺」でもある。

Img_3127 松庵寺境内

飢死供養塔(中央・文化12年(1815))・飢饉疫病死供養塔(右・文化2年(1805)で宝暦6年と天明3年の飢饉死者の供養塔)・飢饉供養塔(左・天保4年(1833))。
飢饉の時には境内には「救け小屋」が設けられた。

Img_3122 説明板

Img_3131 花巻城大手門跡 《地図

かつては鳥谷ヶ崎城と呼ばれ、安倍氏の城柵のあった地と伝え、その後、戦国時代までは稗貫氏の居城だった。

花巻城跡散策ガイドマップ

Img_3134時鐘

Img_3133 説明板

Img_3144 円城寺坂 《地図

もとは円城寺門は坂上のこのあたりにあった。

Img_3142 絵図

Img_3146円城寺門

現在は鳥谷崎神社に移築。

Img_3145 説明板

 馬場口御門跡→白堀跡→東御門跡→焔硝御蔵跡→御囲穀御蔵跡→御台所前御門緒本丸跡→西御門跡へと進んだ。

Img_3158 本丸井戸跡

Img_3164 説明板

Img_3161 西御門を抜けて城外に出て街道に戻る。 《地図

Img_3169 花巻宿の家並み

ここ一日市町に本陣があった。

Img_3173 明治天皇御聖蹟碑

Img_3185広隆寺 《地図

右奥は樹齢600年の大いちょう。

Img_3187 説明板

Img_3191 旧家

Img_3193 奥州街道古道分岐地点《地図》 

すぐ先の四日町三交差点を左に行くのが古道(明暦4年(1658)以前)の道筋。本館橋(枇杷沢川)を渡って、JR釜石線のガードの所まで行って見た。その先に道標が立つようだ。

右折して国道4号を直進、北上する新道を行く。

Img_3203 東京から500km地点

まだかもうか?

Img_3211 宮野目一里塚跡(131) 【ル-ト地図】の④

跡形もないと思っていたが、新しく塚が再現されている。塚上には榎が植わっていたようだ。

Img_3215 説明板

Img_3213 標柱と説明板

今年の3月に宮野目コミュニティ会議・宮野目ふるさと会が設置した新しいもの。

Img_3223 宮の目坂(幅下坂)を上る。

Img_3230 宮野目~紫波の蔭沼の間、14kmは一直線の街道で両側には松並木が続いていた。

Img_3235 新堤(溜池)

Img_3237花巻空港駅口交差点 《地図

交差点の南西角に追分の碑(道標)がある。花巻空港駅はもとは二枚橋駅で昭和63年に改称された。
右前方が早池峰山方向。

Img_3241 追分の碑

右が享保9年(1724)の奥州街道と、北上川を葛の渡しで渡って東へ向う早池峯道の道標、左が明治23年の土佛観世音への土佛街道(消滅)の道標。

Img_3240 説明板

Img_3246 江曽一里塚跡(132)

塚の根バス停の所ですぐ先が塚の根交差点。
説明板には東塚のみ現存とあるが、西塚も再現されている。

Img_3249 説明板

Img_3253 小森林館跡

稗貫氏の家臣、小森林氏の居館跡と伝える。

Img_3254 説明板

Img_3257 逆ヒバ

弘法大師が、湧き水でのどを潤すため、地面にさした杖が根づいたもので、名の由来は、大きくなっても杖のように根元が細く、幹が太いため、逆さになったヒバに見えたことからとか。もう枯れ死寸前か。小森観世音はこの奥か?

Img_3265 耳取川(耳取橋から) 《地図

前九年の役の時、敗れた安倍軍の兵士の耳が取られて集められたという伝説があるようだ。耳取山もあるらしい。

 この先、国道は左へカーブして行くが、右に県道265号に入り石鳥谷宿へと進む。

Img_3280 杉生桜 《地図

杉の幹に寄生した山桜。杉は奥州街道の路線変更が行われた明暦4年(1658)当時のものと推定され、昭和58年に安全対策上現在の高さに切られた。桜は毎年開花するそうだ。

セブンイレブンの手前で左折し、四日町三交差点で分かれた奥州街道古道跡と旧好地一里塚跡を訪ねる。

Img_3287 上和町遺跡標柱

どんな遺跡なのか?

Img_3291 奥州街道古道跡(鎌倉街道) 《地図

古道は光林寺前を通り、国道4号の石鳥谷交差点あたりから、ここへ(正面の草むらの溝が旧道跡)と通じていた。この先も古道は途切れているが、犬渕交差点の先で鎌倉街道として残っている。それは明日のお楽しみ。

Img_3293 説明板

Img_3295 古道跡

草に埋もれた溝になっている。並木道だったのだろうか?

Img_3297_2 旧好地一里塚跡 【ル-ト地図】の⑤

正面の説明板の所が東塚跡で、西塚は昭和の初期に消滅した。

Img_3300 説明板

新道の好地一里塚跡は明日とし、石鳥谷駅に向かった。

Img_3307 石鳥谷駅

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