奥州街道(盛岡城下)
2013年6月17日
仙北町駅(JR東北本線)・・・長松寺・・・不退院・・・高屋稲荷神社・・・北上川土手・新山河岸・新山舟橋跡・・徳清旧宅・・明治橋(北上川)・・・明治橋標柱・・御蔵跡(下町資料館)・・・円光寺・・・惣門通り(宮古・遠野街道)・・鉈屋町地区・・大慈清水・・消防新番屋・十文字(宮古街道・遠野街道追分)・・三面地蔵尊・・あさ開酒造・・永泉寺・・十六羅漢公園・・大慈寺・・青龍水・・祇陀寺・・長松院・・千手院・・穀町惣門跡・・木津屋本店・・南大通2交差点・・・小野家跡・・・旧第九十銀行本店・・・耕作(小野組土蔵)・・・札の辻・岩手銀行旧本店・・・茣蓙九・・・紺屋町番屋跡・・・菊の司酒造・・・鍛冶町一里塚跡(139)・・・旧井弥商店・・上の橋(中津川)・・・本町通交差点・小本街道・・寺町・・大泉寺・・三ツ石神社・・光台寺・・清養院・・報恩寺・・・四ツ家惣門跡・大智田中地蔵尊・・・盛岡城跡・・・開運橋(北上川)・・・啄木であい道・・・盛岡駅(東北新幹線)
【ル-ト地図】
北上川舟運の起点で賑わった新山河岸跡に出て明治橋を渡り、御蔵跡から鉈屋町周辺を散策し、奥州街道の盛岡城下の南の玄関口、穀町惣門跡から中心街へと進む。街道筋には江戸時代から現在までの建築物が混在していて楽しめる。
鍛冶町一里塚跡の先を左折し、上の橋を渡る。寺町に寄ってから城下の北の玄関口の四ツ家惣門跡まで行った。ここを今回の奥州街道歩きの終点とし、盛岡城跡に寄り盛岡駅に向かった。
*『奥州街道(盛岡城下→渋民宿→好摩駅)』に続く。
嘉永6年(1853)の大火の際、遠州(静岡県袋井市久能町)から勧請した「秋葉三尺坊大権現」の化身が周辺への延焼を防いだという。盛岡三十三観音の12番。
元禄7年(1694)に飢饉の死者を供養するために建立。本尊は阿弥陀如来像で浄土宗。文化年間(1804~17)に農夫が草刈り中に見つけた虚空蔵菩薩像を安置し「虚空蔵さん」と呼ばれる。盛岡三十三観音の13番で聖観音像を安置する。
宝永5年(1708) 南部家第32代南部利幹の時に仙北町、川原町を結ぶ新山舟橋に通じる沿道に五穀豊穣、城下の往来者等の安全の神として伏見稲荷から勧請されたという。江戸時代は、北上川舟運の水主(かこ)の信仰が厚く手洗い石等が奉納された。
大ケヤキ(樹齢250年以上)が社殿を圧倒している。いや、守っているのだろう。
新山舟橋跡(新山河岸跡)(北上川) 《地図》
舟を並べた舟橋→木造の旧明治橋→明治橋と変遷した。正面が舟をつなぐ大黒柱を立てた中島だろう。洪水で舟橋をはずす時は、仙北町側の水主(かこ)が橋の中程から南を担当し、北側は鉈屋町側の水主が担当した。このあたりを千日河原というのは、千日堂不動院による。
天明5年(1785)9月8日に盛岡に入った菅江真澄は、「北上川の岸辺に宿をかりた。舟橋がある。川の広い瀬に舟をならべてあり、その上を行きかう人も上弦の月の光に照らされてよく見えた」という。(菅江真澄遊覧記の「けふのせば布」より)
慶安年間(1648~51)開業の「徳田屋」にはじまる。酒・味噌・醤油醸造業から米屋を営み、南部藩御立入商人となった。
御蔵(下町資料館) 《地図》
飢饉に備えての盛岡藩の備穀蔵。
左右は夫婦カツラ(樹齢約350年)、本堂は工事中。盛岡三十三観音の第11番。
切支丹の父と孝行娘の悲(秘)話。写真の右端の標柱(一部しか写っていない)の所が首塚。
昭和前期の周囲で一番の高さの表塗屋の町家。表側だけ土蔵店の外観にした市内では少ないタイプ。もとは茶屋だったそうだ。
もとは「細勘酒店」の明治期の町家。ここで「鉈屋町界隈案内」(盛岡まち並塾)を貰い役立った。
この惣門通りは惣門の手前で奥州街道から分かれた、宮古街道・遠野街道でもある。
上から一番~四番井戸で、①飲料水、②米とぎ場、③野菜・食器洗い場、④洗濯場に分かれている共同井戸。江戸期は湧水で、明治以降は大慈寺の境内から引水。
望楼付消防新番屋 《地図》
もとは岩手川酒造だったが、平成18年に自己破産した。これは建て替えられた建物で、盛岡市の「賑わい事業」の施設になるようだ。裏の「浜藤の酒蔵」は整備・保存されるらしい。
この前が宮古街道(南西方向)と遠野街道(北東方向)との分岐点の十文字(追分)。
やけに新しいと思ったら昭和4年に造られた模写品だった。
明治38年建築の竜宮門形式の楼門で、天井には2頭の龍が描かれているそうだ。盛岡三十三観音の第6番。
青龍水 《地図》
豊富な湧水を求めて移転してきたという、江戸期から続く豆腐店。ここは盛岡城の埋め立てられた外堀の上だそうだ。
本尊は厄除け千手観音。盛岡三十三観音の第5番。
穀町惣門跡から盛岡城下の中心部へ向かう。穀町→六日町→呉服町→紺屋町→鍛冶町→紙屋町へと進み、鍛冶町一里塚跡の先で左折して上の橋(中津川)を渡って行く。参考:『盛岡市町名由来記』
盛岡城警備惣門遺趾標柱(穀町惣門跡) 【ル-ト地図】の110
奥州街道の盛岡城下への南の玄関口で、惣門の桝形には御番所が置かれ、城下へ出入りする人と物を取り調べた。交通量が多く、城下で最も重要な改番所だった。惣門は朝6時に開け、夕6時に閉じられた。
初代は国書改ざんの「柳川一件」で盛岡に流罪となった規伯玄方を慕って山城国(京都府)の木津から移住。
このあたりは新穀町(西側が穀町)で、藩の御蔵米払下げの取引所で、穀物商が多く居住したことから由来する。この町には旅館が多く、諸国の商人・旅人を始め、江戸後期には蝦夷地警備に向かう東北諸藩の武士なども宿泊した。
小野家(小野組)跡
江戸時代は井筒屋を称した豪商の煉瓦塀の一部。
明治43年の建築
小野組の唯一現存する土蔵は、レストランになっている。
明治44年の建築で、現在改修工事中。ここは「札の辻」と呼ばれ高札場があった。
茣蓙九(ござく) 【ル-ト地図】の111
荒物・日用品の雑貨屋。江戸後期から明治にかけて燈明用の燈心や藁工品を扱った商家。
南部鉄器の釜定
大正2年の建築。紺屋町は中津川を利用した紺屋(染物屋)が集まっていたことに由来。南部紫や南部茜で染められた布地は、盛岡藩の特産物であった。
菊の司酒造本社
石鳥谷宿の菊の司七福神工場はここに統合された。
ここは町中のため塚は築かれなかった。鍛冶職の棟梁職人が居住していた。刀鍛冶や鉄砲鍛冶のほかに農具を作る野鍛冶も住んでいた。当町の裏通りを鍛冶町裏ともいった。
明治末期の建築、現在は盛岡正食普及会の店舗。紙町は上の橋の両詰に上方の紙商人を住まわせたことに由来。盛岡で初めて紙が漉かれたのは,寛文9年(1669)で筆墨も商ったため、紙町の東詰に天満宮が祀られていた。
青銅の擬宝珠には慶長14年(1609)の銘(8個)、16年の銘(10個)がある。橋板が痛むとして牛は渡れず、少し上流の「牛越え場」を歩いて渡ったという。
本町通り交差点を右折し、小本街道に入り寺町へ寄る。小本街道は塩を運ぶ牛を追った、「塩の道」・「牛追いの道」で、牛方たちは野宿をしながら牛を追ったという。♪『南部牛追い唄』発祥の地でもある。
「貞女おかんの墓」探したが分からず。山門前の左側のあるようだが、工事車両に塞がれ隠れている。
寺宝に「お菊の皿」が4枚あるそうだ。8月16日に公開するらしい。各地にある「皿屋敷伝説」の一つだろう。落語『皿屋敷』もある。
岩手・不来方(こずかた)の地名由来となった鬼の手形の大石。
鬼をこの地方の蝦夷、三ツ石の神を坂上田村麻呂と転じた伝説もある。
大ムカデ退治の俵藤太を祖とするというから愉快で面白い。墓には寛文3年(1663)の銘がある。
立派な寺が並んでいる。宮澤賢治・石川啄木に縁のある寺もある。
五百羅漢の寺
街道に戻る。
奥州街道の盛岡城下の北の玄関口で、門の脇に番所が置かれ、門の外には堀(旧赤川堰)が巡らされていた。
夫人の菩提を弔うにしては迫力満点で、外国人力士、プロレスラーのような風格・顔立ちだ。
ここを今回の街道歩きの終点とし、盛岡城跡に寄り盛岡駅に向かった。
南部利祥の銅像の台(本丸跡)
太平洋戦争で供出され銅像は剥がされたが、明治維新の朝敵のレッテルは剥がされずにまだ続くのか。
奥州街道はこの先、啄木ゆかりの玉山地区、渋民地区を通って行く。啄木は苦手で、あまり会いたくないがそうも行くまい。
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コメント
新潟市の入船地蔵尊についての情報提供です。寺院名は「入船地蔵尊 浄信院」です。
次に、この地蔵尊のキャチフレーズですが、
次のとおりです。御本尊は、千体仏を迎える入船地蔵尊となっております。新潟市民文化遺産〈入船地蔵尊及び千体地蔵〉→当寺院には、江戸時代から明治時代の新潟湊の繁栄を示す千五百体の寄進仏(金箔地蔵)が安置されております。詳しくは、Google検索の「入船地蔵尊」をご覧ください。
投稿: 関川 亮順 | 2016年11月27日 (日) 19:53