« 奥州街道(石鳥谷宿→日詰郡山宿) | トップページ | 東京坂道散歩(鎌倉街道 中の道(東回り①)) »

2013年7月 8日 (月)

奥州街道(盛岡城下)

2013年6月17日

仙北町駅(JR東北本線)・・・長松寺・・・不退院・・・高屋稲荷神社・・・北上川土手・新山河岸・新山舟橋跡・・徳清旧宅・・明治橋(北上川)・・・明治橋標柱・・御蔵跡(下町資料館)・・・円光寺・・・惣門通り(宮古・遠野街道)・・鉈屋町地区・・大慈清水・・消防新番屋・十文字(宮古街道・遠野街道追分)・・三面地蔵尊・・あさ開酒造・・永泉寺・・十六羅漢公園・・大慈寺・・青龍水・・祇陀寺・・長松院・・千手院・・穀町惣門跡・・木津屋本店・・南大通2交差点・・・小野家跡・・・旧第九十銀行本店・・・耕作(小野組土蔵)・・・札の辻・岩手銀行旧本店・・・茣蓙九・・・紺屋町番屋跡・・・菊の司酒造・・・鍛冶町一里塚跡(139)・・・旧井弥商店・・上の橋(中津川)・・・本町通交差点・小本街道・・寺町・・大泉寺・・三ツ石神社・・光台寺・・清養院・・報恩寺・・・四ツ家惣門跡・大智田中地蔵尊・・・盛岡城跡・・・開運橋(北上川)・・・啄木であい道・・・盛岡駅(東北新幹線)

  【ル-ト地図

 北上川舟運の起点で賑わった新山河岸跡に出て明治橋を渡り、御蔵跡から鉈屋町周辺を散策し、奥州街道の盛岡城下の南の玄関口、穀町惣門跡から中心街へと進む。街道筋には江戸時代から現在までの建築物が混在していて楽しめる。
 鍛冶町一里塚跡の先を左折し、上の橋を渡る。寺町に寄ってから城下の北の玄関口の四ツ家惣門跡まで行った。ここを今回の奥州街道歩きの終点とし、盛岡城跡に寄り盛岡駅に向かった。

  奥州街道盛岡城下→渋民宿→好摩駅)』に続く。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_3562_2長松寺地図

嘉永6年(1853)の大火の際、遠州(静岡県袋井市久能町)から勧請した「秋葉三尺坊大権現」の化身が周辺への延焼を防いだという。盛岡三十三観音の12番。

Img_3565 千日堂不退院

元禄7年(1694)に飢饉の死者を供養するために建立。本尊は阿弥陀如来像で浄土宗。文化年間(1804~17)に農夫が草刈り中に見つけた虚空蔵菩薩像を安置し「虚空蔵さん」と呼ばれる。盛岡三十三観音の13番で聖観音像を安置する。

Img_3572 高屋稲荷神社 

宝永5年(1708) 南部家第32代南部利幹の時に仙北町、川原町を結ぶ新山舟橋に通じる沿道に五穀豊穣、城下の往来者等の安全の神として伏見稲荷から勧請されたという。江戸時代は、北上川舟運の水主(かこ)の信仰が厚く手洗い石等が奉納された。
大ケヤキ(樹齢250年以上)が社殿を圧倒している。いや、守っているのだろう。

Img_3571 由緒

Img_3573細い道を抜け、新山河岸・新山舟橋跡へ。

Img_3574 新山舟橋跡(新山河岸跡)(北上川) 《地図

舟を並べた舟橋→木造の旧明治橋→明治橋と変遷した。正面が舟をつなぐ大黒柱を立てた中島だろう。洪水で舟橋をはずす時は、仙北町側の水主(かこ)が橋の中程から南を担当し、北側は鉈屋町側の水主が担当した。このあたりを千日河原というのは、千日堂不動院による。

天明5年(1785)9月8日に盛岡に入った菅江真澄は、「北上川の岸辺に宿をかりた。舟橋がある。川の広い瀬に舟をならべてあり、その上を行きかう人も上弦の月の光に照らされてよく見えた」という。(菅江真澄遊覧記の「けふのせば布」より)

Img_3587 説明板

Img_3580 徳清倉庫(一部取り壊し整備リフォーム工事中) 《地図

慶安年間(1648~51)開業の「徳田屋」にはじまる。酒・味噌・醤油醸造業から米屋を営み、南部藩御立入商人となった。

Img_3583 明治橋から新山河岸・新山舟橋跡方向

Img_3584 御蔵(下町資料館) 《地図

飢饉に備えての盛岡藩の備穀蔵。

Img_3593 説明板

Img_3598 円光寺

左右は夫婦カツラ(樹齢約350年)、本堂は工事中。盛岡三十三観音の第11番。

Img_3597 説明板

Img_3600 生目(いけめ)観音(円光寺境内)

切支丹の父と孝行娘の悲(秘)話。写真の右端の標柱(一部しか写っていない)の所が首塚。

Img_3599 説明板

惣門通りを進み、鉈屋町界隈を散策する。《地図》 

Img_3601 砂子沢家

昭和前期の周囲で一番の高さの表塗屋の町家。表側だけ土蔵店の外観にした市内では少ないタイプ。もとは茶屋だったそうだ。

Img_3648 説明板(鉈屋町)

Img_3606鎌田薬局

Img_3608 町屋サロンピッピ

もとは「細勘酒店」の明治期の町家。ここで「鉈屋町界隈案内」(盛岡まち並塾)を貰い役立った。
この惣門通りは惣門の手前で奥州街道から分かれた、宮古街道・遠野街道でもある。

Img_3609 町家

Img_3616大慈清水 【ル-ト地図】の109

上から一番~四番井戸で、①飲料水、②米とぎ場、③野菜・食器洗い場、④洗濯場に分かれている共同井戸。江戸期は湧水で、明治以降は大慈寺の境内から引水。

Img_3611用水組合で管理運営されている。

Img_3629 望楼付消防新番屋 《地図

もとは岩手川酒造だったが、平成18年に自己破産した。これは建て替えられた建物で、盛岡市の「賑わい事業」の施設になるようだ。裏の「浜藤の酒蔵」は整備・保存されるらしい。

この前が宮古街道(南西方向)と遠野街道(北東方向)との分岐点の十文字(追分)。

Img_3653 三面地蔵

やけに新しいと思ったら昭和4年に造られた模写品だった。

Img_3651 説明板

Img_3636 十六羅漢公園  《地図

Img_3637 説明板

Img_3645 大慈寺山門

明治38年建築の竜宮門形式の楼門で、天井には2頭の龍が描かれているそうだ。盛岡三十三観音の第6番。

Img_3658 青龍水 《地図

隣の青龍山祇陀寺清龍伝説による名。

Img_3659 上野豆腐店

豊富な湧水を求めて移転してきたという、江戸期から続く豆腐店。ここは盛岡城の埋め立てられた外堀の上だそうだ。

Img_3667 千手院

本尊は厄除け千手観音。盛岡三十三観音の第5番。

穀町惣門跡から盛岡城下の中心部へ向かう。穀町→六日町→呉服町→紺屋町→鍛冶町→紙屋町へと進み、鍛冶町一里塚跡の先で左折して上の橋(中津川)を渡って行く。参考:『盛岡市町名由来記

Img_3670 盛岡城警備惣門遺趾標柱(穀町惣門跡) 【ル-ト地図】の110

奥州街道の盛岡城下への南の玄関口で、惣門の桝形には御番所が置かれ、城下へ出入りする人と物を取り調べた。交通量が多く、城下で最も重要な改番所だった。惣門は朝6時に開け、夕6時に閉じられた。

Img_3673 木津屋

初代は国書改ざんの「柳川一件」で盛岡に流罪となった規伯玄方を慕って山城国(京都府)の木津から移住。
このあたりは新穀町(西側が穀町)で、藩の御蔵米払下げの取引所で、穀物商が多く居住したことから由来する。この町には旅館が多く、諸国の商人・旅人を始め、江戸後期には蝦夷地警備に向かう東北諸藩の武士なども宿泊した。

Img_3672 説明板

Img_3679 小野家(小野組)跡

江戸時代は井筒屋を称した豪商の煉瓦塀の一部。

Img_3678説明板

Img_3686旧第九十銀行本店

明治43年の建築

Img_3688耕作

小野組の唯一現存する土蔵は、レストランになっている。

Img_3694岩手銀行旧本店地図

明治44年の建築で、現在改修工事中。ここは「札の辻」と呼ばれ高札場があった。

Img_3695説明板

Img_3702 茣蓙九(ござく) 【ル-ト地図】の111

荒物・日用品の雑貨屋。江戸後期から明治にかけて燈明用の燈心や藁工品を扱った商家。

Img_3777中津川からの茣蓙九の裏側の景観

Img_3703南部鉄器の釜定

Img_3708紺屋町番屋(消防番屋) 《地図

大正2年の建築。紺屋町は中津川を利用した紺屋(染物屋)が集まっていたことに由来。南部紫や南部茜で染められた布地は、盛岡藩の特産物であった。

Img_3711菊の司酒造本社

石鳥谷宿の菊の司七福神工場はここに統合された。

Img_3713 鍛冶町一里塚跡(139) 【ル-ト地図】の112

ここは町中のため塚は築かれなかった。鍛冶職の棟梁職人が居住していた。刀鍛冶や鉄砲鍛冶のほかに農具を作る野鍛冶も住んでいた。当町の裏通りを鍛冶町裏ともいった。

Img_3715 一里塚跡碑

Img_3719旧井弥商店 《地図

明治末期の建築、現在は盛岡正食普及会の店舗。紙町は上の橋の両詰に上方の紙商人を住まわせたことに由来。盛岡で初めて紙が漉かれたのは,寛文9年(1669)で筆墨も商ったため、紙町の東詰に天満宮が祀られていた。

Img_3726 上の橋(中津川)

青銅の擬宝珠には慶長14年(1609)の銘(8個)、16年の銘(10個)がある。橋板が痛むとして牛は渡れず、少し上流の「牛越え場」を歩いて渡ったという。

本町通り交差点を右折し、小本街道に入り寺町へ寄る。小本街道は塩を運ぶ牛を追った、「塩の道」・「牛追いの道」で、牛方たちは野宿をしながら牛を追ったという。♪『南部牛追い唄』発祥の地でもある。

Img_3763大泉寺地図

貞女おかんの墓」探したが分からず。山門前の左側のあるようだが、工事車両に塞がれ隠れている。
寺宝に「お菊の皿」が4枚あるそうだ。8月16日に公開するらしい。各地にある「皿屋敷伝説」の一つだろう。落語『皿屋敷』もある。

Img_3739 三ツ石(三ツ石神社境内)

岩手・不来方(こずかた)の地名由来となった鬼の手形の大石。

Img_3738 説明板

鬼をこの地方の蝦夷、三ツ石の神を坂上田村麻呂と転じた伝説もある。

Img_3746 ムカデ姫の墓(光台寺)

大ムカデ退治の俵藤太を祖とするというから愉快で面白い。墓には寛文3年(1663)の銘がある。

Img_3745 説明板

Img_3752 寺町界隈

立派な寺が並んでいる。宮澤賢治・石川啄木に縁のある寺もある。

Img_3758 報恩寺

五百羅漢の寺

Img_3757 説明板

街道に戻る。

Img_3767 枡形の名残り

Img_3770 四ツ家惣門跡・大智田中地蔵尊 【ル-ト地図】の115

奥州街道の盛岡城下の北の玄関口で、門の脇に番所が置かれ、門の外には堀(旧赤川堰)が巡らされていた。

Img_3773 説明板

Img_3774 大智田中地蔵

夫人の菩提を弔うにしては迫力満点で、外国人力士、プロレスラーのような風格・顔立ちだ。

ここを今回の街道歩きの終点とし、盛岡城跡に寄り盛岡駅に向かった。

Img_3798盛岡城跡

Img_3801 南部利祥の銅像の台(本丸跡)

太平洋戦争で供出され銅像は剥がされたが、明治維新の朝敵のレッテルは剥がされずにまだ続くのか。

Img_3800 在りし日の銅像

Img_3804 開運橋(北上川)岩手山方向なのだが霞んでいる。《地図

Img_3807 啄木であい道

奥州街道はこの先、啄木ゆかりの玉山地区、渋民地区を通って行く。啄木は苦手で、あまり会いたくないがそうも行くまい。

|

« 奥州街道(石鳥谷宿→日詰郡山宿) | トップページ | 東京坂道散歩(鎌倉街道 中の道(東回り①)) »

旅行・地域」カテゴリの記事

コメント

新潟市の入船地蔵尊についての情報提供です。寺院名は「入船地蔵尊 浄信院」です。
次に、この地蔵尊のキャチフレーズですが、
次のとおりです。御本尊は、千体仏を迎える入船地蔵尊となっております。新潟市民文化遺産〈入船地蔵尊及び千体地蔵〉→当寺院には、江戸時代から明治時代の新潟湊の繁栄を示す千五百体の寄進仏(金箔地蔵)が安置されております。詳しくは、Google検索の「入船地蔵尊」をご覧ください。

投稿: 関川 亮順 | 2016年11月27日 (日) 19:53

この記事へのコメントは終了しました。

トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 奥州街道(盛岡城下):

« 奥州街道(石鳥谷宿→日詰郡山宿) | トップページ | 東京坂道散歩(鎌倉街道 中の道(東回り①)) »