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2013年9月29日 (日)

奥州街道(一戸宿→福岡宿→金田一温泉駅)

2013年9月12日

一戸駅(いわて銀河鉄道)・・・一戸宿・・八坂神社鳥居・・八坂神社・・万代橋(馬淵川)・・・実相寺・・・(国道4号ガード)・・・(国道4号ガード)・・小井田の千本桂・・・小井田橋(小井田川)・・・浪打坂・・・大越田橋(八戸自動車道)・・・浪打峠一里塚跡(155)・・末の松山・浪打峠交叉層・・(二戸市)・・・山下清水・・・桜清水・桜清水地蔵・・・八幡宮・・・久府坂・・追分石①・道標・・県道274号・・福岡宿・・槻蔭舎・呑香稲荷神社・九戸政実神社・大作神社・・馬助坂・・岩谷観音堂・・白鳥川・・追分石②・・県道274号・・明治天皇小休所跡(現ホテル村井)・・・武内神社・・・八戸街道追分・・・斗米橋(馬淵川)・・・国道4号・・・旧道・・第2長瀬踏切(いわて銀河鉄道)・トトメキの追分石・上平の経塚・・・飢人供養塔・・・長寿寺・・・八坂神社・・・延命地蔵尊・・・白山神社・・・下金田一踏切・・・金田一温泉駅(いわて銀河鉄道)

  【ル-ト地図】(17.7km)

  *この先は『奥州街道』(金田一宿→三戸宿)へ続く。

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Img_5697八坂神社の鳥居(左)をくぐって行くのが街道の道筋。

Img_5706八坂神社

境内にはケヤキの大木が何本もそびえている。

Img_5703大ケヤキ(樹齢400年)

根回り7.4m

Img_5702説明板

Img_5710馬淵川(まべちがわ)に突き当たる。

街道はここを渡っていたのだが、右へ万代橋へ迂回する。
電柱の左に「十和田山大権現」塔・「庚申 秋葉山大権現 廿三夜」塔が立つ。

Img_5711万代橋 《地図

北上川とは昨日で分かれ、これからは当分、馬淵川と付き合うことになる。
『岩手県歴史の道調査報告書』には、「一戸駅から北、馬淵川の万代橋の間の字名は野田で、(一戸氏の)野田城跡といわれている。なお、一戸城跡はここより馬淵川を隔てた対岸の丘陵上にある。」と記す。
今でも北館という地名が残り、一戸城の一部が公園として整備されている。

Img_5715一戸宿の家並み

Img_5721実相寺 《地図

Img_5720イチョウ

雄木でありながら小枝に雌花がつき、ブドウ房状の実を結ぶそうだ。

Img_5719説明板

Img_5722「末の松山のみち」案内板(左)

案内看板(左)の「歩きたくなる道 500選」の道を進む。

Img_5729小井田の千本桂 【ル-ト地図】の①

樹齢700年以上の雄株で、幹を含め22本からなっている株立ち。昔は小枝八幡宮の参道の一部で根元に井戸水が湧いていたという。今でも下に井戸の蓋が残っている。

Img_5733説明板

Img_5735八戸自動車道(正面奥)を越えて行くのが「末の松山道」

Img_5736小井田橋(小井田川)を渡る。 《地図

親柱に歌枕「末の松山」の歌が4首。

Img_5737「ちぎりきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪こさじとは」(百人一首)の有名な清原元輔(清少納言の父)の歌。

橋を渡って右の方へ上って行く。左の道は九戸の乱のとき豊臣軍が進軍した道と伝える。「北奥路程記」には「右ハ本道波打坂 左ハ鳥越えの山道 鳥居あり」と記すそうだ。鳥越えの山道を行けば二戸市との境近くに鳥越観音がある。

Img_5743浪打(波打)坂の上りとなる。

まあ「歩きたくなる道」か。

Img_5747八戸自動車道を越える。

やけに空いている。今週末の3連休には混むのだろうか。(16日には台風が通過したか)

Img_5748さらに上って行く。

Img_5751浪打峠一里塚跡(155)

浪打峠が歌枕の地「末の松山」だが、宮城県多賀城市にも「末の松山」と呼ばれる所がある。

Img_5752説明板

Img_5759浪打峠交叉層 【ル-ト地図】の②

ホタテ貝などの破砕片を含んで、縞模様を作りながら堆積している。
貝梨峠→浄法寺と進んだ菅江真澄は天明5年(1785)9月6日に、『「をのがつま 波こしつやと恨むらん 末の松山雄鹿鳴くなり」と藤原家隆の詠じられた歌を口ずさみながら末の松山の麓についた。いまは浪打坂といい、浪打峠ともいう。上ると土の中から、われから、なみまかしなどの小貝を掘って、みやげにと拾う旅人がいた』(菅江真澄遊覧記の「けふのせば布」より)。我も旅人の一人、小貝をみやげにと思ってちょっと探したが明瞭に貝殻の形をしたものはなかった。

Img_5758説明板

二戸市に入って下りとなる。

Img_5769山下清水

Img_5767説明板

Img_5773末の松山トンネルの脇に下って来る。《地図

振り返って見ている。

Img_5778桜清水地蔵(右・天保4年(1833))・桜清水(左)

『岩手県歴史の道調査報告書』は、ここは蒼前(村松)の一里塚跡(156)で、地蔵の台座に「是ヨリ末ノ松山八丁」と刻むというが、浪打峠一里塚跡(155)から八丁(1km足らず)では近過ぎる。
地蔵は諸国を回国した六十六部で、「日向国臼杵郡岩戸村 願主新作」と刻むそうだ。宮崎県からはるばると、新作さんにはどんな事情があったのか? 拙者のようなただの物見遊山の旅ではない。ほんとにご苦労さん。

Img_5781桜清水

柄杓が置いてあるが、水は涸れる寸前でとても飲める状態ではない。

Img_5780説明板

Img_5788左に旧道に入る。 《地図

Img_5790村松の集落を通る旧道。

Img_5794火の見(消防小屋)の裏が八幡宮

Img_5798八幡宮

Img_5803久府坂(くふざか)を下って福岡宿へ。 【ル-ト地図】の③

坂上の在府小路に福岡城(もと九戸城)の家臣たちが住んでいた。坂下に道標と追分石がある。

Img_5807左の追分石は「右 浄法寺 左 一戸道」。左折する県道274号が浄法寺街道で、古刹天台寺(瀬戸内寂聴は一時、住職だった)のある浄法寺地区を通って安代(現八幡平市)で鹿角街道に合流する約36kmの脇街道。
右の道標は「末の松山 浪打峠 従是三十丁」。ここから浪打峠まで3.3km位だから、その間に蒼前(村松)一里塚跡があるというのはおかしいのでは。

Img_5809説明板

Img_5814福岡宿の家並み

九戸の乱の後、九戸城は蒲生氏郷が修築し、 三戸の南部信直の居城として払い下げられた。そして地名「宮野」を「福岡」に改め、信直は家臣団を引き連れて移ってきた。

Img_5819槻蔭舎(きいんしゃ)(呑香稲荷神社石段下)

吉田松陰の友人、小倉健作と地元有志がつくった学問を学ぶ結社「会輔社」の教場になった茶室

Img_5820説明板

Img_5823呑香(どんこう・とんこう)稲荷神社

南部氏の幼君の疱瘡が、枕元に立った「稲荷大明神なり」と告げる白衣白髪の老人のおかげで平癒したことから、 天和2年(1682)、呑香稲荷の神号を受ける。以来、代々の南部藩主から厚く信仰され、社殿、六角神輿、神楽面などが寄進されている。

Img_5825九戸政実神社(呑香稲荷神社境内)

小さな社だが南部氏の神社の境内に移され祀られている。怨霊よけにもなるか。

Img_5824説明板

Img_5826大作神社(呑香稲荷神社境内)

南部藩の英雄、テロリスト?の相馬大作を祀る。

呑香稲荷神社の北側が、九戸の乱の舞台となった九戸城跡だが、うっかり寄るのを忘れ、だいぶ進んだ所で気がついたが、引き返さなかった。

Img_5831ここから県道274号から離れ、馬助坂を下って行く。

Img_5834馬助坂 【ル-ト地図】の④

人が馬を助けた急坂。でもこの景観は如何なものか。

Img_5837説明板

Img_5839岩谷観音堂

十一面観音像、阿弥陀如来の開帳は100年に一度だと。本当にあるのか疑いたくなる。まあ十一面観音像は写真があるからあるのだろう。

Img_5844説明板

Img_5847岩谷橋をくぐり県道274号に上り返す。これも馬助坂の一部だろう。坂上を右手に入った所が福岡代官所跡。

Img_5851追分石(安永4年(1775))

「右 もり岡 左 白とり」で、もとは上の坂の坂下の白鳥道との分岐にあったもの。

Img_5850説明板

Img_5857明治天皇小休所跡(現ホテル村井) 《地図

この向い側が一里番所跡、高札場跡のようだ。一里塚があったのもこのあたりか? 『岩手県歴史の道調査報告書』は五日町のはずれに一里塚があったとする。そうとすれば、浪打峠一里塚跡(155)の次の一里塚ということだろう。

Img_5856説明板

Img_5858阿繁ブロイラー(阿部繁孝商店)

山奥の高田牧場で「あべどり」を飼育している。

この先を左に入った龍岩寺には相馬大作の墓がある。

Img_5862武内神社 《地図

明日から3日間、例大祭。

Img_5863説明板

この先、八戸街道(登り街道)との分岐に追分石があるのだが、位置を思い違いしていて見つけることができなかった。ここにあるようだ。《地図》(右に行くのが八戸街道)
街道は県道374号から離れ、直進して馬淵川を渡っていたが、今は川の手前で途切れるので、左折し斗米橋を渡って行く。

Img_5873斗米橋から馬淵川(金田一方向)

Img_5882トトメキの追分石(2基) 【ル-ト地図】の⑤

どちらも念仏供養塔で、右は享保20年(1735)で、「右ハしもとまいみち 左ハふくおかみち」、左は宝暦2年(1752)で、「右ハしもとまい 左ハふく岡」。

Img_5885説明板

道路の向いの塚上に「上平の経塚」がある。

Img_5888上平の経塚

Img_5891説明板

Img_5895飢人?供養塔(右)

Img_5903八坂神社 《地図

背後の高台が四戸(金田一)城跡

Img_5906旧家

Img_5909延命地蔵尊

Img_5910説明板

Img_5911白山神社

この先で右に下金田一踏切を渡り、線路沿いを金田一温泉駅に向かった。

Img_5915金田一温泉駅

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2013年9月22日 (日)

奥州街道(御堂駅→一戸駅)

2013年9月11日

御堂駅(いわて銀河鉄道)・・・国道4号・・・尾呂部一里塚跡(148)あたり・・・旧道・・・御堂橋(北上川)・・・御堂観音・弓弭の泉・・・御堂・馬羽松一里塚跡(149)・(一戸町)・・・摺糠交差点(県道30号)・・・摺糠一号橋(平糠川)・・・旧道・・・奥州街道最高地点(484m)・・・旧中山一里塚跡(150)・・・蒼前神社・・・青面金剛像塔・・・火行伝馬所跡・・・ヨノ坂・・・小繋一里塚跡(151)・・・小繋御番所跡・・・長楽寺(小繋地蔵尊)・・・下平踏切(いわて銀河鉄道)・国道4号・・・旧道・・・国道4号・・・笹目子橋(小繋川)・・・笹目子トンネル・・川底一里塚標識・旧道・・・川底一里塚跡(152)・・・高屋敷地区・・駒形社・上の井戸・・中の井戸・・下の井戸・・・五月舘の追分石・・・(小鳥谷珪化木地帯)・・・(国道4号小鳥谷バイパス)・・・明治天皇小休所跡・・・国道4号・・・藤島のフジ・観音堂のフジ・・・(小鳥谷駅)・・・野中一里塚跡(153)・・・小姓堂地区・・御小姓神社?・・・日影坂・・・明治天皇御野立所之碑・・・雷電神社・・・女鹿口地区・・女鹿橋(女鹿橋)・・・荷坂・・・老ヶ館跡入口・・・白子坂・・百姓一揆集結地・・・(いわて銀河鉄道)・・・県道274号・・・御所野縄文公園標識・・・旧道・・・諏訪野一里塚跡(154)・・一戸駅(いわて銀河鉄道)→盛岡駅

  【ル-ト地図】(27.7km)

 今日は今回の奥州街道歩きのハイライトだ。見所は多く、起伏も距離もけっこうある。天気もまあまあだし、ゆっくりと楽しもう。

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Img_5420尾呂部一里塚跡(148)あたり

水堀小学校から500mほど北。右上に地蔵と念仏供養塔。

国道4号をひたすら北上する。

Img_5427茅葺の家

Img_5429ここで右に入り御堂観音、北上川の源流へ。《地図

Img_5430御堂橋

北上川に架る最初の橋。

Img_5433古い門が残る民家

Img_5434御堂新田の滝分岐(正面に標識) 《地図

右へ2kmはちょっとあるか。

Img_5437御堂観音 【ル-ト地図】の①

坂上田村麻呂が祈願所として建立。

Img_5443御堂観音堂

Img_5436説明板

Img_5442弓弭(ゆはず)の泉(北上川の源泉)

水は澄んでいる。「前九年の役」の際、源義家が「弓弭」(弓のつるをかける先端部分)で掘って湧き出た清水という伝説。

Img_5439大杉

樹齢1200年以上という老大木だが、痛々しい姿になっている。雷に打たれたのだろうか。

Img_5448御堂・馬羽松(まはまつ)一里塚跡(149)

岩手町(西塚)と一戸町(東塚)の境。
天明5年(1785)9月7日にここを通った菅江真澄は、「馬羽松 (馬不喰と昔はいった)という所がある。(源)頼義の馬糧の糠(ぬか)が腐って馬が食べなかったので捨てた所から出た名であるという。」と菅江真澄遊覧記の「けふのせば布」に記す。

Img_5450説明板(一戸町)

所有者の名前まで記載されている。一戸町の奥州街道沿いには道標、説明板が整備されていて分かりやすく、ありがたい。

Img_5457馬羽松から摺糠(すりぬか)地区へと下って行く。

Img_5460標柱

「北へ3.7km 中山一里塚」と距離まで書いてある。

Img_5465火の見(一戸町消防団)

この摺糠の交差点を左折して県道30号を行けば、奥中山高原駅へ出る。

Img_5470摺糠一号橋 《地図

正面の鳥居の石段下で小休止。ここは右に進む。

Img_5473左へ旧道へ入り、北上する。

地図には記載のない道だ。

Img_5474杉並木が片側に続く。

Img_5475高原上の道となる。

Img_5482ここは左へ進む。

Img_5483草原が広がる。

Img_5484奥州街道最高地点(484m)

左に標柱。さほどの高さは感じない。

Img_5488東南方向の眺め

Img_5489旧中山一里塚跡(150) 【ル-ト地図】の②

現在の街道からは少し離れている。

Img_5492説明板

Img_5494蒼前神社

馬の守護神の藤原宗善を祀るか。

Img_5496青面金剛像塔(正面奥)

Img_5500青面金剛像(安永4年(1775))

道祖神的な役割をしていた庚申塔。右は首の欠けた地蔵で、左は墓だろう。

Img_5498説明板

Img_5508舗装されているが往時の街道風情が残る道だ。

Img_5513火行(ひぎょう)伝馬所跡

昔このあたりは大変な難所で行者に火を与えたことからついた地名という。沼宮内宿と一戸宿の間は長く、「山また山の果てしなき地」で旅人が凍死したので、ここに家を建てて難を救ったといわれる。それが伝馬所設置につながったのだろう。

Img_5514説明板

Img_5516この先で舗装道路は途切れ、ヨノ坂の下りとなる。左へ「開拓農道小繋線」を行けば小繋駅へ通じる。

Img_5520説明板

Img_5521ヨノ坂を下る。 【ル-ト地図】の③

大規模な改修が行われなかったため、往時の景観を残す道となっている。
難所といわれた所だが傾斜はゆるく、下りは楽だ。ただ、湿地帯でぬかるんでいて、露草で靴の中はびっしょりになるが。

Img_5522草深いが直線的な一本道で迷うことはないだろう。

Img_5526倒木のオンパレード

伊豆の下田街道で、二本杉峠から伐採工事中の宗太郎園地を下った時と比べれば、子どもだましみたいなもので、何てことはない。

Img_5527倒木もなくなり気分のいい道を行く。

Img_5528小繋(こつなぎ)一里塚跡(151)

西塚が残る。

Img_5529説明板

6人(うち女性5人)の共同所有だ。入会地を巡る「小繋事件」を思い出した。勉強したこともあるのよ、昔は。

Img_5536小繋御番所跡

奥州街道と巡見道(江戸時代に幕府より派遣された「巡見使」一行が通った道)の分岐点で、交通の要衝地だった。

Img_5537説明板

Img_5499地図

小繋から奥州街道の西側を、笹目子・上女鹿沢一里塚→穴久保下女鹿沢一里塚→奥州街道に合流するのが巡見道。

Img_5539長楽寺

本陣としても使われた寺だが、度々の火災で坂上田村麻呂の建立と伝える地蔵堂(正面奥の小繋地蔵尊)のみが残る。

Img_5540説明板

下平踏切(いわて銀河鉄道)・国道4号

Img_5547国道4号から左に旧道に入る。

Img_5548小繋川沿いの道だが、すぐ国道に合流する。

Img_5552笹目子トンネル(611m)に入る。 《地図

山越えの旧道は鉄道の敷設で通行不能となった。

Img_5555歩道はついていて中も明るく、交通量はそれほどでもないが、大型車の爆音には耳をふさぐ。出口が見えてきてやれやれだ。ここも『四国遍路道』のトンネル歩きに比べれば楽勝だ。

Img_5557トンネルを出て右に川底一里塚跡の方へ上る。

Img_5558道標がなければ分からない道筋だろう。

Img_5560ここから右へ上がる。

道と道標を整備してくれた地元の人たちに感謝だ。

Img_5562上って突き当りの所。

左から来る道が本来の街道の道筋だが、鉄道の敷地で分断され行止りとなる。
惜しいかな「高間舘坂」・「赤羽根坂」・「舅転の険」などの難所もあったのだが。右に200mで川底一里塚跡だ。

Img_5567川底一里塚跡(152) 【ル-ト地図】の④

ふっくらとした乳房のような両塚の間を街道が通っている。

Img_5570説明板

Img_5574高屋敷地区へと向かう。

この先で一般道へ出る。

Img_5575説明板(川底の道)

Img_5578高屋敷地区へ 《地図

Img_5579上の井戸

平成18年からの景観づくり活動で復元された。浅いので長い柄杓で汲み上げるそうだ。左側に小さな石祠の駒形社がある。

Img_5582中の井戸

高屋敷には馬継所が置かれていた。

Img_5584説明板

Img_5588下の井戸

Img_5593ここは右に進む。

迷う所だがちゃんと道標が立つ。一戸町にはまた感謝だ。

Img_5594道標

Img_5598五月舘の追分石(文久元年(1861))

左の山道を少し上った所(写真の左端)

Img_5602「右ハ 山道 左ハ もり岡」

Img_5601説明板

Img_5600この位置から見れば、「右ハ 山道 左ハ もり岡」

まあ奥州街道も山道と大差はないが。

Img_5604説明板に記載のある庚申塔と地蔵

Img_5607林間コースを下って小鳥谷(こずや)地区へと進む。

小鳥谷珪化木地帯はどのあたりか、分からず通り過ぎてしまった。

Img_5614明治天皇小休所跡

旧小鳥谷村で村長をしていた旧庄屋宅だそうだ。

Img_5615この先で国道4号に合流する。《地図

Img_5619藤島のフジ

フジに巻きつかれたカツラとサクラも老木となって現在は鉄のヤグラと支柱で支えている。

Img_5618説明板

Img_5625観音堂のフジ

Img_5623説明板

小鳥谷駅を通り過ぎる。この先、日影坂、荷坂、白子坂と起伏のある所が待っている。

Img_5632野中一里塚跡(153) 《地図

塚跡は残らず。

Img_5631説明板

Img_5635奥州街道はこの先を直進し、国道4号と離れるので国道の600km地点は通っていない。

Img_5643小姓堂(こしょうどう)地区に入って上りとなる。

Img_5646御小姓(おこしょう)神社の鳥居か

社殿はどこに?

Img_5653日影坂を上る。

たしかにこのあたりは日影だ。

Img_5655_2明治天皇御野立所之碑

この先で下りとなる。

Img_5662雷電神社

女鹿口地区に入り女鹿橋を渡る。

Img_5667
右へ荷坂の上りに入る。 【ル-ト地図】の⑤

Img_5670気分のいい坂道だが、そろそろ疲れてきた。

Img_5676老ヶ館跡入口

右へ上って行くのだが、どれ位か分からず通過する。

このあたりから白子坂の下りとなる。

Img_5680百姓一揆集結地

白子坂の途中で広場のような平坦地になっている。集結するにはもってこいの地か。

Img_5682説明板

Img_5683説明板

Img_5685白子坂の坂下でいわて銀河鉄道をくぐって、県道274号の出る。

白子坂は「山土尽く白灰」という様子ではなかった。

Img_5688御所野縄文公園標識

1kmだがパス。ここも世界遺産登録を目指している。

Img_5689諏訪野一里塚跡(154) 《地図

塚跡は残らず。すぐ先で県道に出た所が一戸駅。ちょうど盛岡行の電車に間に合ってグッドタイミングだった。

Img_5690説明板

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2013年9月20日 (金)

奥州街道(好摩駅→沼宮内宿→御堂駅)

2013年9月10日

好摩駅(いわて銀河鉄道)・・・芋田橋(北上川)・・・好摩口交差点・国道4号・・・新塚一里塚跡(144)・・・旧道・・・駒形大神塔など・・状小屋地区・・状小屋跡・・桝沢山城跡入口・・小豆研ぎ石・・国道4号・・地蔵堂・・・巻堀神社・・・一字一石一礼供養塔・寺林交差点・・・(岩手町)・・・草桁(二つ森)一里塚跡(145)・・・園井恵子像(岩手町働く婦人の家)・・明円寺・・川口豊城稲荷神社鳥居・・・館坂・・川口城跡・・・跨線橋(いわて銀河鉄道)・・・明治天皇小休所跡・・・丹藤橋(丹藤川)・・・丹藤街道踏切(いわて銀河鉄道)・・・芦田内一里塚跡(146)・・芦田内番屋跡・・・(いわて沼宮内駅)・・・(東北新幹線)・・・沼宮内宿・・愛宕神社・・川路旅館跡・・寄寿姫像(町の駅よりーじゅ)・・・柳橋(大坊川)・・沼宮内代官所跡(沼宮内小学校)・・大蓮寺・・沼福寺・・新町(沼宮内)一里塚跡あたり(147)・新町橋(北上川)・・・金毘羅碑・・・(国道281号)・・・国道4号・・・(東北新幹線)・・・御堂駅(いわて銀河鉄道)

  【ル-ト地図】(21.4km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_5220新塚一里塚跡(144) 【ル-ト地図】の①

東塚が残る。

Img_5222説明板

Img_5223「只今の気温21℃」

只今9時30分頃、からっとした好天で快適、快調。

Img_5226右に状小屋地区に入る。《地図

Img_5233状小屋跡(左に案内板)

江戸時代、このあたりに飛脚便の中継店(点)があった。飲食もできたそうだ。この道の東側の民家の裏側に旧道が残り、標識が立っている。

Img_5235クリヤーな景色

空気が澄んでいるのだろう。

Img_5236岩手山は今日も雲にまとわりつかれている。

Img_5240桝沢山城(砦)跡への道

どんな城跡か、調べても分からず。

Img_5246小豆研ぎ石(国道4号に出る手前の右側)

旅人がこの前を通ると、ザラザラー、ザラーと(小豆を洗う)音がしたという。各地にある「小豆婆」の伝承の一つだろう。

Img_5250地蔵堂(国道4号に入ってすぐの右側)

Img_5247地蔵と庚(申)供養塔(寛延4年(1751))

Img_5257巻堀神社  《地図

もとは「南部金精大明神」だったが、明治3年の大教宣布で、天皇中心の神道へ集約するために、 古くからの民間信仰を「淫祀邪教」として禁止し、 代わりに猿田彦命、伊佐那岐命を祭神として祀り巻堀神社とした。

菅江真澄天明5年(1785)9月8日にここ(金精大明神)を訪れた。金属製でなく石の男根がいくつも祠に納めているのを見て問うと、盗まれたのを探し出して別の家に納めてあるというので、その家に案内してもらい机上に祀ってある鉄製(実際は青銅製か)の7寸ほどの男根を2つ見ている。『菅江真澄遊覧記 1』(東洋文庫)より
天明5年といえば天明の大飢饉の真っただ中、「遊覧」するのも大変だったろうに。
ちょうど地区の善男善女たちが境内の清掃、整備をしていて、金精様などをキョロキョロと探すのはばかられた。

Img_5260男根石と女陰石

Img_5261元気で何より。

Img_5264一字一石一礼供養塔 【ル-ト地図】の②

飢饉犠牲者の供養塔。塔の下の土中には、経典を一石に一字づつ書写した小石が埋められている。

Img_5263説明板

Img_5268ストーンサークルのように並んだ石造物

この先で盛岡市から岩手町に入る。

Img_5270草桁(二つ森)一里塚跡(145) 【ル-ト地図】の③

「らーめん たけちゃん」の敷地内の電柱の右脇に、「二つ森一里塚跡」の木柱。

この先は国道4号と離れ直進し、岩手川口駅、川口地区の方へ向かう。

Img_5275園井恵子像(岩手町働く婦人の家)

幼少期を川口村で暮らした宝塚歌劇団のスター。広島の原爆犠牲者の一人。
後方の岩手山がいつも見守ってくれてはいるが、むなしく、悲しいねえ。

Img_5276説明板

Img_5280茅葺の民家

Img_5284明円寺 《地図

先ほどの「一字一石一礼供養塔」の「一字一石」に経典を書写したのは、ここの14代住職の実秀和尚。

Img_5285鐘楼・梵鐘(寛永21年(1644))

川口地区を抜けて行く。

Img_5291海鼠壁の土蔵

Img_5292うだつと千本格子の旧商家

Img_5293川口豊城稲荷神社の鳥居

例大祭には秋浦大名行列(通称=ドッコイ)が練り歩く。

Img_5298館坂を上る。 【ル-ト地図】の④

右が川口城跡。川口氏は河村(川村)氏の支族で、九戸政実の乱にも参陣し、後には八戸南部藩の家老になっっている。

Img_5301説明板

Img_5304川口城跡から

姫神山が頭部をのぞかせている。

Img_5311跨線橋を渡って、いわて銀河鉄道沿いを進む。

Img_5313明治天皇小休所跡(左の民家の敷地内に石碑)

Img_5318丹藤(たんどう)川

丹藤橋から上流方向。この先の渓流沿いには8kmの遊歩道が続くそうだ。正面はいわて銀河鉄道。

丹藤街道踏切を渡って芦田内一里塚跡へ。旧道はいわて銀河鉄道の東側を通っていた。

Img_5322芦田内一里塚跡標柱(正面)

ここを左折して行く。

Img_5325芦田内一里塚跡(146) 【ル-ト地図】の⑤

右に標柱のみ。東塚跡だろうか、塚の形ははっきりしない。この先で道は途切れる。小川(芦田内川)を渡った向うが芦田内番屋跡で標柱(左奥)が立つ。
『岩手県歴史の道調査報告書』には、「側の一里塚は道路と鉄道路線によって完全に破壊されている。」とあるが、ここから線路まではかなりの距離がある。ここが正しい一里塚跡とすれば記事は間違いとなるが。

Img_5327芦田内番屋跡

電柱右に標柱。街道はここを通っていて芦田内踏切の方へ進み、線路の東側を通っていた。東に大きく迂回すれば正面の番屋跡の道へ行けるようだが、もとの道を引き返す。

Img_5337いわて沼宮内駅

東北新幹線も止まるが、2012年度の1日平均乗車人員は84人で、全国の新幹線停車駅では最少人数だそうだ。

東北新幹線をくぐり、沼宮内(ぬまくない)宿に入る。

Img_5340愛宕神社の長く、きつい参道の階段。

Img_5347沼宮内宿の家並み

Img_5346旧家

Img_5349閑散とした通り

左奥が川路旅館

Img_5359上路旅館

明治41年創業という老舗だが、もう営業してない。建物はどうするのだろうか?

Img_5362土蔵が2棟の旧家

Img_5365寄寿姫像(町の駅「よりーじゅ」前)

大蛇の人身御供となった寄寿姫の『沼宮内伝説』(イートハーブブログ)

Img_5378枡形の名残り

この東側の沼宮内小学校が南部盛岡藩の沼宮内代官所跡で正門前に案内板があるようだ。 《地図

Img_5383大蓮寺

後方が沼宮内氏の沼宮内城跡で城山公園になっている。

Img_5396新町(沼宮内)一里塚跡あたり(147)

新町橋(北上川)の手前にあったらしいが、何の標識もない。「塚」の屋号の福山家もどれか分からず。

新町橋を渡らず、北上川沿いを進む。《地図

Img_5399北上川の流れも細くなってきた。

明日は源流にたどりつく予定だ。

Img_5400金毘羅塔と三界万霊塔(右)

右に入った所に金毘羅宮神社がある。

国道281号を渡り、国道4号に出て北上し、東北新幹線をくぐる。

Img_5410いわて銀河鉄道沿いを進む。

Img_5417御堂駅

青い森鉄道」の車両だ。いわて銀河鉄道の車体より少しはましか。

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2013年9月17日 (火)

奥州街道(盛岡城下→渋民宿→好摩駅)

2013年9月9日

盛岡駅→四ツ家惣門跡・・・上田踏切(JR山田線)・・・上田組町跡・・・正覚寺・・盛岡一高・・・NHK前交差点・・・高松の池・・・高松神社・・・上田一里塚跡(140)・・・座頭ころがし・・・松園観音・・・長坂・・・県立博物館・・・松園水辺公園・・・小野松一里塚跡(141)・・小野松観音・・・観音清水・・・観音橋(飛田川)・・・春日大明神・・・笹平大橋(北上川)・・・笹平一里塚跡(142)・・・二つ坂・・・明治天皇小休所跡・・・門前寺橋(濁川)・・・渋民野球場・・・盛岡工業団地・・・(国道4号ガード)・・・渋民一里塚跡(143)・・館石川・・・渋民宿・・(愛宕清水)・・愛宕の森・愛宕神社・・・宝徳寺・・石川啄木記念館・渋民尋常小学校校舎・・国道4号・・駒形神社鳥居・・・好摩口交差点・・・芋田橋(北上川)・・・好摩駅(いわて銀河鉄道) 

 【ル-ト地図】(24.8km)

  奥州街道』(盛岡城下)からの続きです。

  秋の気配を感じる岩手の奥州街道を、盛岡城下から金田一宿まで4日間で歩く。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_5031上田組町跡 《地図

南部藩の足軽屋敷が並び、「御組丁」・「御同心丁」・「上田ぐみ(茱萸)町」ともいわれた。

Img_5030説明板

Img_5038正覚寺

足軽たちの檀家寺として親しまれていた寺。浅田次郎の小説『壬生義士伝』の主人公、吉村貫一郎が、のちに妻となるしづと初めて出会った場所。

盛岡三十三観音の第十八番

Img_5035説明板

「汗搔観音」と呼ばれる木造聖観音立像を見たいものだが。

街道を挟んだ西側には、宮澤賢治、石川啄木らが学んだ名門、盛岡一高がある。

Img_5044高松の池

盛岡城築城時に、上田沼に治水のために築いた上田堤にできた池。
日本さくらの名所100選」・「白鳥の飛来地」で、岩手山を望む景勝地。
ゆっくりしたい所だが、まだ歩き始めたばかりでそうも行くまい。

Img_5049説明板

Img_5050高松神社

祭神の猿田彦は道の神。道中の無事安全を願う。(ちょっと一礼しただけだが)

このあたりの街道沿いには茶屋があったそうだ。

Img_5054上田一里塚跡(140) 【ル-ト地図】の①

西塚のみ残る。
昭和初期の「上田一里塚」と奥州街道の写真。
ここにあった「ドミニカン修道院」と一里塚の写真。

すぐ先に松並木の名残りが5、6本。

Img_5055説明板

Img_5062ここを左に入る。 《地図

分かりにくく、少し先に進んでしまった。

Img_5065「座頭ころがし」の長い上りとなる。 【ル-ト地図】の②

写真で見るより急坂だ。坂上近くに松園観音があるが入らず。

Img_5069長坂の下りとなる。

Img_5070坂下の岩手県立博物館の敷地。 《地図

ここも前を素通り。

Img_5079南部片富士湖(四十四田ダム湖)

北上川本流のただ一つのダム。南部片富士とは岩手山のこと。『周辺図

Img_5080ドミニカン・ロザリオの聖母修道院入口。

上田一里塚跡からこの地に移ってきた。《地図

Img_5082_2小野松一里塚跡(141) 【ル-ト地図】の③

東西両塚が残る。

Img_5084_2説明板

Img_5086ここは小野松橋(左)に向かわずに直進して行く。

その前に右に入って小野松観音に寄る。

Img_5087小野松観音

観音堂より立派な鳥居だ。ここは里宮で北東の小野松山(291m)の山腹に奥宮がある。

Img_5090正観音の一寸八分の金像というからここにはないのだろう。奥宮に安置されているのか?

Img_5089縁起

もう少し短い文章にならないものか。

Img_5095観音清水

Img_5096_2奥宮への道だが遥拝のみ。

Img_5101岩手山(2038m)

惜しいかな、上部は雲隠れ。下は北上川。

Img_5109観音橋(飛田(ひだ)川)から 《地図

この先で北上川に流れ込む。

Img_5119笹平大橋(北上川)・岩洞第二発電所

水力・火力・風力その他の自然エネルギーに限る。原発はダメよ。

Img_5125「岩手山 秋はふもとの三方の 野に満つる蟲を何と聴くらむ」(石川啄木・橋の欄干の歌碑)

右下の北上川の岸近くに笹平一里塚跡がある。北上川本流が四十四田ダムで堰き止められて水位が上昇し、このあたりの旧奥州街道は水没してしまった。

Img_5129笹平(ささだいら)一里塚跡への標柱

覆い隠されている。ここを左に入って民家の方へ左折して行くのだが、「床止護岸工事」(25年12月20日まで)用道路でその先は通行不能。

少し引き返し、工事用道路に入り岸辺に下りる。

Img_5137笹平一里塚跡(142) 【ル-ト地図】の④

何の標識もないが(後で調べると塚に立っている木の杭に「笹平一里塚」と書かれているようだ)、たぶんこれが西塚だろう。すぐ後ろは北上川の流れ。増水時には水没するか。塚は崩壊寸前、工事用重機で根こそぎ崩されてしまうのか。盛岡市は保存する気はあるのか。工事業者まかせでほったらかしか。

Img_5149「二つ坂」を上って峠を越える。

Img_5152明治天皇御小休之跡碑(右)

Img_5156下って柏平、門前地区へ。

上って下る「二つの坂」か? 昔は千本松という、根元から多くの枝の生えた松があったが、菅江真澄が旅した頃にはすでに枯れていたという。

Img_5165岩手山

Img_5163姫神山(1123m)はくっきり、稲穂も刈入れ間近で黄金色に輝いている。

白河以北一山百文」 と吐いた、明治新政府軍を率いた薩長土肥の役人に見せたい風景だ。

Img_5918姫神山山頂から岩手山(1999年9月16日撮影)

雨の中を登った。雲の切れ目から寸時、岩手山山頂が頭をのぞかせた。

Img_5171これも気分いい坂だ。

濁川を渡り、渋民野球場から盛岡工業団地の間を抜け、国道4号(渋民バイパス)をくぐって行く。

Img_5183渋民一里塚跡(143) 【ル-ト地図】の⑤

右の電柱脇に「奥州道中 渋民一里塚跡」の標柱。塚は残らず。

Img_5185国道4号に出て渋民宿へ。

盛岡以北は宿駅の間隔は長くなり、規模も小さかった。渋民宿の出入口には柵戸が置かれていた。右折したすぐ先に愛宕清水があるようだが、気づかずに通り過ぎてしまった。

Img_5189愛宕の森 《地図

啄木がよく散策した道。この下に啄木が通い、代用教員としても務めた渋民尋常小学校があった。

Img_5187説明板

Img_5191宝徳寺 《地図

啄木一家が住んだ寺。「啄木」の名はここから生まれた。

Img_5193説明板

Img_5195石川啄木記念館

Img_5197渋民尋常小学校校舎

愛宕神社下からここへ移築された。

Img_5202説明板

Img_5200旧斎藤家

啄木一家が間借りしていた家だが、奥州道中渋民宿の町家だったことの方が興味深い。

Img_5201一部2階建ての広く立派な町家だ。啄木一家は借家でなく、間借りだった。

Img_5199説明板

Img_5205頂上あたりも見えてきた岩手山。

「ふるさとの 山に向ひて 言ふことなし ふるさとの山は ありがたきかな」(啄木『一握の砂』より)

この風景を毎日眺めていれば、なるほど、納得。

国道4号に出て北上する。

Img_5208北上川が蛇行しながらすぐ左下を流れる。《地図

この先の奥州道中は北上川の源流を訪ねる旅でもある。

Img_5209駒形神社鳥居

啄木の『渋民日記』の「八月中(暑中休暇中)」に、「この月、村に祭礼が二度あつた。・・・(中略)・・・六日は陰暦六月十七日で芋田にある村社駒形神社の祭典、所謂「お蒼前さま」であつた。この社は、其昔、九郎判官義経が高館の城落ちて、表向きは死んだ風に装ふて僣かに北海へ落人となつた時、其乗馬の斃れたのを葬むつた所であるさうな。されば今猶、その馬の足跡を刻んだ石がこの社に残つて居る。又、十町許り離れて武道の部落には、義経が一夜を明かしたといふ判官館といふのがある。・・・(以下略)」と紹介されている。

Img_5215芋田橋から北上川下流方向

Img_5216好摩駅

「霧ふかき 好摩の原の停車場の 朝の虫こそ すずろなりけり」 (『一握の砂』より)

今は歌心を誘う駅あたりの光景ではない。歌心も持ち合わせていないが。

Img_5217
いわて銀河鉄道

JR東日本から引き継いだ第三セクターの鉄道にしては地味な車輛だ。JR境線の「鬼太郎列車」とは行かないまでも、もう少し派手にしたらどうか。路線存続が第一、余計なお世話か。

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2013年9月 5日 (木)

鎌倉街道(下の道⑤)

2013年9月30日

綱島駅(東急東横線)・・・東照寺・・・来迎寺・・・飯田家住宅・・・金蔵寺・・・天神坂・駒林神社・・・鎌倉街道標石・・・真福寺(下田地蔵)・・下田神社・・・(川崎市)・・・中原養護学校・・・神庭緑地・・・橘橋(矢上川)・・・小関橋跡(江川せせらぎ遊歩道)・・・中原街道合流地点・・大戸神社・・・武蔵中原駅(JR南武線)

  【ル-ト地図】(8.5km)

 *この先、小杉御殿町→小杉陣屋町→丸子の渡し(多摩川)→
①沼部(北回りルート)→洗足坂上交差点『中原街道②』・『中原街道①』(逆方向に歩いている)・品川道→大井町
②沼部(南回りルート)→大森→大井町となる。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_6076東照寺

横浜七福神」の布袋尊。石段敷石は文化元年(1804)のもの。

Img_6077説明板

Img_6083来迎寺 【ル-ト地図】の①

無住で荒れているが廃寺ではないようだ。境内には庚申塔・歳神塔・天地神袛塔?(文久元年(1861))など石造物が多い。

Img_6091飯田家住宅 【ル-ト地図】の②

旧北綱島村の名主家。来迎寺の天地神袛塔?の願主の飯田助太夫は当家の一族か?

Img_6094説明板

Img_6097金蔵寺

上野の寛永寺の末寺として栄え、敷地面積は2万坪。徳川家康・秀忠父子により梵鐘が寄進された。凝った作りの灯籠だ。日光東照宮でも意識したのか? 
「横浜七福神」の寿老人

Img_6098水天堂もきんきらきん。

Img_6104天神坂 【ル-ト地図】の③

坂の途中の右側、駒林神社の祭神、菅原道真にちなむ坂。

道興准后は東国の旅の途中、「駒林といへる所に到りて、宿をかり侍るに、あさましげなる賎の伏屋に、落葉所をせき侍るを、ちとはきなどし侍りける間、たたずみて思ひつづけける」と『廻国雑記』に記す。

Img_6103駒林神社

天神坂を上って北西方向に回り込むのが本来の街道の道筋のようだが、坂下から駒林小学校沿いを進んだ。

Img_6109急坂を上る。《地図

斜度2°(21.2%)らしい。

Img_6111坂下方向

Img_6112鎌倉街道標石 【ル-ト地図】の④

「史跡 鎌倉街道」と刻む。

Img_6116真福寺(下田地蔵尊) 《地図

本尊は高さ台座とも40cmほどの、左手に子供を抱いた木造の下田子育延命地蔵菩薩座像で、黒塗りの厨子に納められているそうだ。

Img_6117下田神社

地区の産土神。標石の後ろに宝永5年(1708)の青面金剛像庚申塔。

Img_6121説明板

Img_6123港北区(横浜市)から川崎市に入り、中原区と高津区の境を進む。

中原養護学校の手前で左に入り、橘橋へ通じる道があるようだが、神庭緑地を抜けて行った。

Img_6129神庭(かにわ)緑地 【ル-ト地図】の⑤

3基ある円墳の一つ。

Img_6130緑地内を下って一般道へ出て左折し、橘橋を渡った。

Img_6136小関橋跡(江川せせらぎ遊歩道) 《地図

Img_6138中原街道合流地点 《地図

正面が大戸神社で、社殿前の狛犬は砲弾を抱えている。鎌倉街道下の道はここを右折し、中原街道を進み、小杉御殿町→小杉陣屋町→丸子の渡しで多摩川を渡って行く。

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2013年9月 4日 (水)

鎌倉街道(下の道④)

2013年8月29日

弘明寺駅(横浜市営地下鉄)・・・百段々下・・・蒔田橋(大岡川)・・・京急線ガード・・・清水ヶ丘公園・・・出逢橋(神奈川3号狩場線)・・・(保土ヶ谷区)・・・北向地蔵・・いわな坂・・御所台の井戸・・御所台地蔵・・福聚寺・・・(国道1号)・・・上岩間踏切(東海道線)・・・金沢横丁(旧東海道)・道標・・・遍照寺・・・大蓮寺・・天徳院・・神戸坂下・・・古東海道標柱・庚申堂・・・旧古町橋跡・・・天王町1号踏切(相鉄線)・・古町橋(帷子川)・・・延命地蔵尊・・・宮田町2交差点・・・裁判所通り・・・鎌谷町公園・・・三ツ沢公園・・・横浜市立病院・・・岡沢橋(神奈川2号三ツ沢線)・・・三ツ沢上町交差点・(神奈川区)・・・神大寺中央公園・・・神大寺小学校・・・水道道・・・岸根公園・・・西岸根交差点・(港北区)・・・篠原八幡神社・・・菊名駅(JR横浜線・東横線)・・・菊名神社・・・妙義社・庚申塔・綱島街道・おぼろ坂・・・秋浦大社・・・大曽根交差点・旧道・・・綱島街道・・・大網橋(鶴見川)・・・綱島駅(東横線)

  【ル-ト地図】(16.9km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_4893百段々下 《地図

鎌倉街道とは関係ないが。このあたりは『南区の坂②』で歩いている。

Img_4903清水ヶ丘公園に上る長い坂。《地図

出逢橋(神奈川3号狩場線)を渡って保土ヶ谷区に入る。

Img_4912北向地蔵(左) 【ル-ト地図】の①

道標も兼ねている。このあたりは『保土ヶ谷区の坂①』に記載。

Img_4913説明板

ここを左折するのが、「くめう寺道」(弘明寺道)で、弘明寺から餅井坂を経て、日限山あたりで中の道に合流する鎌倉街道の連絡道。

道輿准后は、「岩井の原を過ぐるとて、すさまじき岩ゐの原をよそに見て、結ぶぞ草の枕なりける」と廻国雑記』に記す。当時は保土ヶ谷宿はなかったが、かたひら(帷子)の宿があったろうに、なぜこのあたりで野宿をしたのだろうか。ここは岩井町で今もその名が残っている。

Img_4922周辺案内図

Img_4918いわな(石難)坂を下る。《地図

この先は工事中で歩きにくい難路だ。

坂下から東海道(国道1号)とJR線を渡る。

Img_4926金沢横丁(正面向うに標柱) 【ル-ト地図】の②

旧東海道と「かなさわかまくら道」(鎌倉街道下の道)の辻。左に道標4基。

ここを直進し、次の細い道を右折し古町橋へ向かうのが古東海道(鎌倉街道)の道筋。

Img_4927道標

Img_4928説明板

Img_4931遠くから見ると行止りのように見えた。近所の人に聞いて通行できることを知って一安心。

遍照院前から神戸坂下に出る。

Img_4941神戸坂下 《地図

くねった長い石段坂だ。今日は上らないが。

Img_4946古東海道標柱・庚申堂 【ル-ト地図】の③

西面(鎌倉街道沿い)に「古東海道」・北面に「相州道」と刻む新しい道標。右に庚申堂。

道興准后は「かたひら(帷子)の宿といへる所にて、いつ来てか、旅のをかへてまし、風うら寒 かたひらの里」と詠んだ。着物の帷子と掛けているのだろう。

Img_4955旧古町橋跡

Img_4953説明板

Img_4957古町橋(帷子川) 《地図

Img_4958説明板

Img_4959帷子川(古町橋から)

右を相鉄線が通る。

Img_4962延命地蔵堂(正面奥)

宮田二交差点の先で左折し、裁判所通りの長い坂を上り北上する。

Img_4969裁判所通りの坂 《地図

坂上を進むと保土ヶ谷簡易裁判所がある。坂名はついていないようだ。

Img_4970裁判所の手前で右に細い道に入り、鎌谷町公園沿いの尾根道を行く。 《地図

Img_4972三ツ沢公園(右)沿いを行く。《地図》

木陰がありがたい。陸上競技場で関東甲信越大学体育大会が開催されていて、男子100m準決勝の場内放送が聞こえてきた。暑いのにご苦労さん。早く10秒を切ってくれよ。まあ無理だろうな。

Img_4975岡沢橋を渡る。《地図

下は神奈川2号三ツ沢線。

Img_4978三ツ沢上町交差点を越える。

暑苦しさが増す歩道橋だ。

神奈川区に入り、右に上って行く。

Img_4981中丸小学校の方へ上って行く。《地図

この先街道は片倉台住宅の間を通っていたようだが、南の神大寺中央公園沿いを行く。

Img_4982神大寺中央公園(左)

神大寺小学校前の交差点で左折し、すぐ右折し北行する。

Img_4985畑が広がる風景が残っている。《地図

この先で水道道に合流する。

Img_4990岸根公園で一休み 《地図

西岸根交差点で港北区に入る。武相台バス停の交差点で左に入り、右へカーブして北上する。《地図

Img_5003篠原八幡神社 【ル-ト地図】の④

HPに「新横浜の街並みが一望できる 八幡山 山頂」とある。確かに右(北方向)にうっすらビル群が見える。HPに写真が載っている。

北東方向に菊名駅へと下り、横浜線のガードをくぐり、東横線の菊名駅構内を東に抜ける。

Img_5007右に菊名神社の方へ進む。

Img_5008菊名神社

意外と小さな境内だった。社殿も重みのないなじめない造りだ。改修前の社殿(HPに写真が載る)の方がよかったと思うが。

Img_5010この先で綱島街道に合流する。

見所もなく、2時近くで暑い。

Img_5013おぼろ坂 【ル-ト地図】の⑤

ここは『港北区の坂-1』で歩いている。右の庚申塔(文化5年(1808))は小祠に入っていたはずだが、露座にされてしまったか。こっちの頭も疲れと暑さでおぼろだが。庚申塔の後ろの石垣上にも鳥居が立つ小さな妙義社がある。

Img_5020大曽根交差点の先で左に旧道に入る。《地図

この道も鶴見川の手前で綱島街道に合流してしまうが。

Img_5022大網橋(鶴見川)を渡って、綱島駅までとした。

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2013年9月 3日 (火)

鎌倉街道(下の道③)

2013年8月28日

金沢八景駅(京浜急行線)・・・瀬戸神社・・・琵琶島神社・・・瀬戸橋(宮川)・・・憲法草創之処碑・洲崎町交差点・・・洲崎神社・・龍華寺・・・金沢八幡神社・・赤門通り・・薬王寺・・称名寺・・金沢文庫・・・国道16号・・・能見台第2踏切(京急線)・・・六国峠ハイキングコース・・・能見堂跡・・能見台緑地・・・(横浜横須賀道路)・・・能見台北公園・・・永取沢高校・・岩船地蔵尊・・・(磯子区)・・・笹下釜利谷道路・・栗木交差点・・JR根岸線ガード・・・旧道・かねさわ道案内板・・・妙蓮寺・・・(港南区)・・・新川橋交差点・・・打越交差点(環状2号)・・・関バス停・・・関之橋(笹下橋)・・・横浜刑務所・・・関ノ下交差点・・・(上大岡駅)・・・慰霊堂入口交差点・鎌倉街道・・・京急線ガード・・・最戸橋(大岡川)・旧鎌倉街道・(南区)・・・旧道入口交差点・鎌倉街道・・鎌倉街道碑・・・弘明寺駅(横浜市営地下鉄)

  【ル-ト地図】(14.7km)

  鎌倉市の坂-3(鎌倉街道下の道②)』(金沢八景駅→鎌倉へと歩いている)からの続きです。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_4762瀬戸神社

治承4年(1180)、源頼朝が伊豆三島明神を勧請。

Img_4758蛇びゃくしん

Img_4757説明板

Img_4760謡曲「放下僧(ほうかそう)」

放下僧の仇討

Img_4766琵琶島神社参道 【ル-ト地図】の①

「びゃくしん」の枝が左の海の方へ延びている。

Img_4768社殿

北条政子が琵琶湖の竹生島弁財天を勧請。

Photo金沢八景『瀬戸の秋月』

Img_4764説明板

Img_4772瀬戸橋を渡る。

Img_4777憲法草創之処碑  《地図

Img_4775説明板

Img_4779洲崎神社(正面右)

もとは「長浜千軒」といわれた地にあったが、応長元年(1311)大波にさらわれ、村民とこの地に移ってきたという。

Img_4786龍華寺(りゅうげじ)

茅葺き屋根の鐘楼、梵鐘は天文10年(1541)の銘があるが、鎌倉時代後期の作ではないかという。

Img_4791金沢八幡神社

Img_4793薬王寺(右)

源範頼の霊を弔うために建立。

正面奥は称名寺の赤門

Img_4796赤門(称名寺) 《地図

拝観料を覚悟していたが無料だった。境内は広く、静かできれいだ。季節がよければ散策にぴったしだろう。

Img_4798光明院表門

Img_4797説明板

Img_4799仁王門

Img_4803庭園

反り橋と阿字ヶ池

Img_4805反り橋の上から金堂・釈迦堂(右)

Img_4808釈迦堂

禅宗様で茅葺。

Img_4813反り橋に日傘の麗人?

Img_4817中世のトンネル跡

Img_4816説明板

Img_4820金沢文庫

古い建物かと思っていた。

Img_4815説明板

国道16号に出て能見台第2踏切(京急線)を渡り、能見台の住宅街を上って行く。

Img_4829能見堂跡へ向う。《地図

Img_4831六国峠ハイキングコースに入る。

Img_4834いい道だが、とにかく蒸し暑い。

Img_4840能見堂跡あたりから 【ル-ト地図】の②

能見堂とは擲筆山(てきひつざん)地蔵院のこと。
ここは「金沢八景の根元地」だが、眺望は広がらない。

Img_4835写真(明治時代)

巨勢金岡があまりの絶景に筆が進まず、松の根元に筆を投げ捨てたという「筆擲松」(ふですてまつ)がそびえる。金岡は熊野古道の藤白でも筆を投げ捨てている。『熊野古道(紀伊路⑥)

この先は北の京急団地の方に行くのだが、迷って西の釜利谷の方へ下ってしまい、大汗をかきながら引き返し、やっと能見台緑地を抜けた。

Img_4847京急団地を通って行く。《地図

Img_4851尾根道を行く。

Img_4853岩船地蔵尊

岩船地蔵の本尊は栃木県の岩船山高勝寺にあり、この地蔵尊は子授け、子育て、安産祈願や、海が近いことから漁の安全を祈願したようだ。

金沢区から磯子区に入る。

Img_4859大岡川(笹下川)沿いの道となる。

笹下釜利谷道路に出て栗木交差点を渡り、JR根岸線ガードをくぐった先で右に「かねさわ道」に入る。

Img_4866右が「かねさわ道」 【ル-ト地図】の③

Img_4867案内板

妙蓮寺の先で港南区に入る。

Img_4875の橋 【ル-ト地図】の④

バス停・ノ下交差点などがある。中世には「笹下の関」があって関銭を徴収した交通の要衝地だったのだろう。

Img_4882最戸橋(大岡川) 《地図

手前で右に旧鎌倉街道に入ると、港南区から南区になる。この広い道は鎌倉街道の名称。

Img_4885旧鎌倉街道の標識

旧道の面影はないが。

Img_4887旧道入口交差点

鎌倉街道に合流する。

Img_4889鎌倉街道碑 【ル-ト地図】の⑤

すぐ先の弘明寺駅(横浜市営地下鉄)から帰宅した。

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2013年9月 2日 (月)

鎌倉街道(下の道①)

2013年8月2日

鶴岡八幡宮(源氏池・旗上弁天社・・東鳥居)・・畠山重忠邸跡・・・岐れ路・・・関所橋・・関取場跡・・・大倉の辻・・大御堂橋(滑川)・・文覚上人邸跡・・・荏柄天神社前・・・歌の橋(二階堂川)・・・(杉本寺)

  【ル-ト地図

  鎌倉街道中の道は流鏑馬馬場を西に進み、西鳥居をくぐって巨福呂坂切通しへと向い、下の道は東へ進み東鳥居をくぐり、朝比奈切通しから金沢へと向かう。さらに帷子(保土ヶ谷)→菊名→丸子から多摩川を渡って行く。

 この先は『鎌倉市の坂③(鎌倉街道下の道②)』へ続く。(金沢八景駅から鎌倉へ向って歩いている)

 「鎌倉街道推定ルート」は『中世を歩く』(北倉庄一著)の13頁

 写真をクリックすると拡大します。

Img_4167源氏池

Img_4170旗上弁天社 【ル-ト地図】の①

Img_4169由緒

Img_4171流鏑馬馬場

ここを鎌倉街道の起点とする。

Img_4172畠山重忠邸跡 【ル-ト地図】の②

Img_4180関取場跡 【ル-ト地図】の③

Img_4179説明板

中学生の作成か?

Img_4188大御堂橋(滑川)

橋を渡った突き当りが文覚上人屋敷跡 【ル-ト地図】の④

ここは「田楽辻子のみち」の入口でもある。

Img_4182歌の橋(二階堂川) 【ル-ト地図】の⑤

この先の左側が杉本寺。

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2013年9月 1日 (日)

鎌倉街道(中の道③)

2013年8月27日

中山駅(JR横浜線)・・・中山第二踏切(横浜線)・・・都橋(恩田川)・・・青砥交差点・・・精進橋(鶴見川)・地蔵の渡し跡あたり・(都筑区)・・・川和町駅(横浜市営地下鉄)・・・瑞雲寺・・川和小学校・・・旧道・・・横浜上麻生道路・庚申塔祠・・句碑・・手斧橋・旧道・・・川和高校・・・川和高校北側交差点・・・荏田坂・荏田高校・・・池尻橋・・(青葉区)・・・真福寺・・・大山街道合流地点・・・荏田下宿庚申塔・・・中宿秋葉講常夜灯・・荏田交差点(国道246号)・・・高札場跡・・・庚申塔・・・(東名高速)・・・江田駅(東急田園都市線)

  【ル-ト地図】(9.2km)

 大山街道合流地点から先、「中の道」は大山街道と重なり、『川崎市の坂②』→『川崎市の①』→『大山街道(赤坂御門跡→二子の渡し跡)』(逆方向に歩いている)→『東京坂道散歩(鎌倉街道中の道①・②・③)』と続く。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_4677都橋から恩田川 【ル-ト地図】の①

この先、道路工事中で精進橋を渡るまで少し迷った。

Img_4679水難者供養塔・地蔵・庚申塔

ここは鎌倉街道の道筋ではないようだ。

Img_4685庚申塔(右)

Img_4691精進橋(鶴見川) 【ル-ト地図】の②

この手前は道路工事中でここまで来るのに苦労した。橋を渡るというおばさんに道案内してもらい助かった。橋名の由来は何か?
「地蔵の渡し」があったのはこのあたりか。地蔵は天宗寺に移されているそうだ。《地図

Img_4695川和町駅

モノレールではない。地下鉄の駅だ。

Img_4698少しは旧道らしいか。《地図

この先で右にカーブし、横浜上麻生道路に出る。

Img_4700庚申塔の祠 《地図

道路向かいに句碑がある。そのすぐ先が手斧(ちょうな)橋。【ル-ト地図】の③

Img_4704句碑(天保3年?)

句は読めない。台座に「川和里」とある。このあたりは川和の宿があった交通の要衝地で、「上サ」という字名だった。その由来は諸国を巡歴した花山法皇がこの地にも訪れ、その名をとって花山(かざん)が上山(かざん)となり、「上サ」となったという。今でも「上サ会館」にその名が残る。【ル-ト地図】の③に載っている。

手斧橋(?川)の手前を右折し坂を上って行く。

Img_4711この先で広い道に合流し川和高校へと上って行く。《地図

Img_4714川和高校(右前方)

Img_4716川和高校北側交差点 《地図

正面左は大丸デパートではなく、大丸調整池だろう。
この先は都筑区と青葉区の区境あたりを北行する。

Img_4724荏田坂を上る。 【ル-ト地図】の④

荏田高校のHPに載っていた坂名。

Img_4732尾根道を行く。

右の崖下は荏田高校のグランド。

Img_4733池尻橋を渡る。《地図

下は車道。橋を渡って進むと左側が低くなり、開けてくる。

青葉区に入り真福寺の方へ下って行く。

Img_4748真福寺 《地図

Img_4745説明板

木造千手観音立像」(本尊・県重文)
木造釈迦如来立像」(国重文)

Img_4746説明板

奉納絵馬

Img_4751大山街道合流地点 【ル-ト地図】の⑤

溝口・二子方向、すぐ先の右側に荏田下宿庚申塔がある。大山方向に進み、中宿常夜灯から国道246号を渡り、大山街道を江田駅に向かった。

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