奥州街道(一戸宿→福岡宿→金田一温泉駅)
2013年9月12日
一戸駅(いわて銀河鉄道)・・・一戸宿・・八坂神社鳥居・・八坂神社・・万代橋(馬淵川)・・・実相寺・・・(国道4号ガード)・・・(国道4号ガード)・・小井田の千本桂・・・小井田橋(小井田川)・・・浪打坂・・・大越田橋(八戸自動車道)・・・浪打峠一里塚跡(155)・・末の松山・浪打峠交叉層・・(二戸市)・・・山下清水・・・桜清水・桜清水地蔵・・・八幡宮・・・久府坂・・追分石①・道標・・県道274号・・福岡宿・・槻蔭舎・呑香稲荷神社・九戸政実神社・大作神社・・馬助坂・・岩谷観音堂・・白鳥川・・追分石②・・県道274号・・明治天皇小休所跡(現ホテル村井)・・・武内神社・・・八戸街道追分・・・斗米橋(馬淵川)・・・国道4号・・・旧道・・第2長瀬踏切(いわて銀河鉄道)・トトメキの追分石・上平の経塚・・・飢人供養塔・・・長寿寺・・・八坂神社・・・延命地蔵尊・・・白山神社・・・下金田一踏切・・・金田一温泉駅(いわて銀河鉄道)
【ル-ト地図】
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境内にはケヤキの大木が何本もそびえている。
根回り7.4m
街道はここを渡っていたのだが、右へ万代橋へ迂回する。
電柱の左に「十和田山大権現」塔・「庚申 秋葉山大権現 廿三夜」塔が立つ。
万代橋 《地図》
北上川とは昨日で分かれ、これからは当分、馬淵川と付き合うことになる。
『岩手県歴史の道調査報告書』には、「一戸駅から北、馬淵川の万代橋の間の字名は野田で、(一戸氏の)野田城跡といわれている。なお、一戸城跡はここより馬淵川を隔てた対岸の丘陵上にある。」と記す。
今でも北館という地名が残り、一戸城の一部が公園として整備されている。
実相寺 《地図》
雄木でありながら小枝に雌花がつき、ブドウ房状の実を結ぶそうだ。
案内看板(左)の「歩きたくなる道 500選」の道を進む。
小井田の千本桂 【ル-ト地図】の147
樹齢700年以上の雄株で、幹を含め22本からなっている株立ち。昔は小枝八幡宮の参道の一部で根元に井戸水が湧いていたという。今でも下に井戸の蓋が残っている。
小井田橋(小井田川)を渡る。 《地図》
親柱に歌枕「末の松山」の歌が4首。
「ちぎりきな かたみに袖を しぼりつつ 末の松山 浪こさじとは」(百人一首)の有名な清原元輔(清少納言の父)の歌。
橋を渡って右の方へ上って行く。左の道は九戸の乱のとき豊臣軍が進軍した道と伝える。「北奥路程記」には「右ハ本道波打坂 左ハ鳥越えの山道 鳥居あり」と記すそうだ。鳥越えの山道を行けば二戸市との境近くに鳥越観音がある。
まあ「歩きたくなる道」か。
やけに空いている。今週末の3連休には混むのだろうか。(16日には台風が通過したか)
浪打峠が歌枕の地「末の松山」だが、宮城県多賀城市にも「末の松山」と呼ばれる所がある。
ホタテ貝などの破砕片を含んで、縞模様を作りながら堆積している。
貝梨峠→浄法寺と進んだ菅江真澄は天明5年(1785)9月6日に、『「をのがつま 波こしつやと恨むらん 末の松山雄鹿鳴くなり」と藤原家隆の詠じられた歌を口ずさみながら末の松山の麓についた。いまは浪打坂といい、浪打峠ともいう。上ると土の中から、われから、なみまかしなどの小貝を掘って、みやげにと拾う旅人がいた』(菅江真澄遊覧記の「けふのせば布」より)。我も旅人の一人、小貝をみやげにと思ってちょっと探したが明瞭に貝殻の形をしたものはなかった。
二戸市に入って下りとなる。
末の松山トンネルの脇に下って来る。《地図》
振り返って見ている。
『岩手県歴史の道調査報告書』は、ここは蒼前(村松)の一里塚跡(156)で、地蔵の台座に「是ヨリ末ノ松山八丁」と刻むというが、浪打峠一里塚跡(155)から八丁(1km足らず)では近過ぎる。
地蔵は諸国を回国した六十六部で、「日向国臼杵郡岩戸村 願主新作」と刻むそうだ。宮崎県からはるばると、新作さんにはどんな事情があったのか? 拙者のようなただの物見遊山の旅ではない。ほんとにご苦労さん。
柄杓が置いてあるが、水は涸れる寸前でとても飲める状態ではない。
左に旧道に入る。 《地図》
久府坂(くふざか)を下って福岡宿へ。 【ル-ト地図】の151
坂上の在府小路に福岡城(もと九戸城)の家臣たちが住んでいた。坂下に道標と追分石がある。
左の追分石は「右 浄法寺 左 一戸道」。左折する県道274号が浄法寺街道で、古刹天台寺(瀬戸内寂聴は一時、住職だった)のある浄法寺地区を通って安代(現八幡平市)で鹿角街道に合流する約36kmの脇街道。
右の道標は「末の松山 浪打峠 従是三十丁」。ここから浪打峠まで3.3km位だから、その間に蒼前(村松)一里塚跡があるというのはおかしいのでは。
九戸の乱の後、九戸城は蒲生氏郷が修築し、 三戸の南部信直の居城として払い下げられた。そして地名「宮野」を「福岡」に改め、信直は家臣団を引き連れて移ってきた。
吉田松陰の友人、小倉健作と地元有志がつくった学問を学ぶ結社「会輔社」の教場になった茶室
呑香(どんこう・とんこう)稲荷神社 【ル-ト地図】の152
南部氏の幼君の疱瘡が、枕元に立った「稲荷大明神なり」と告げる白衣白髪の老人のおかげで平癒したことから、 天和2年(1682)、呑香稲荷の神号を受ける。以来、代々の南部藩主から厚く信仰され、社殿、六角神輿、神楽面などが寄進されている。
九戸政実神社(呑香稲荷神社境内)
小さな社だが南部氏の神社の境内に移され祀られている。怨霊よけにもなるか。
南部藩の英雄、テロリスト?の相馬大作を祀る。
呑香稲荷神社の北側が、九戸の乱の舞台となった九戸城跡だが、うっかり寄るのを忘れ、だいぶ進んだ所で気がついたが、引き返さなかった。
人が馬を助けた急坂。でもこの景観は如何なものか。
十一面観音像、阿弥陀如来の開帳は100年に一度だと。本当にあるのか疑いたくなる。まあ十一面観音像は写真があるからあるのだろう。
岩谷橋をくぐり県道274号に上り返す。これも馬助坂の一部だろう。坂上を右手に入った所が福岡代官所跡。
「右 もり岡 左 白とり」で、もとは上の坂の坂下の白鳥道との分岐にあったもの。
明治天皇小休所跡(現ホテル村井) 《地図》
この向い側が一里番所跡、高札場跡のようだ。一里塚があったのもこのあたりか? 『岩手県歴史の道調査報告書』は五日町のはずれに一里塚があったとする。そうとすれば、浪打峠一里塚跡(155)の次の一里塚ということだろう。
山奥の高田牧場で「あべどり」を飼育している。
この先を左に入った龍岩寺には相馬大作の墓がある。
武内神社 《地図》
明日から3日間、例大祭。
この先、八戸街道(登り街道)との分岐に追分石があるのだが、位置を思い違いしていて見つけることができなかった。ここにあるようだ。《地図》(右に行くのが八戸街道)
街道は県道374号から離れ、直進して馬淵川を渡っていたが、今は川の手前で途切れるので、左折し斗米橋を渡って行く。
どちらも念仏供養塔で、右は享保20年(1735)で、「右ハしもとまいみち 左ハふくおかみち」、左は宝暦2年(1752)で、「右ハしもとまい 左ハふく岡」。
道路の向いの塚上に「上平の経塚」がある。
八坂神社 《地図》
背後の高台が四戸(金田一)城跡。 【ル-ト地図】の156
この先で右に下金田一踏切を渡り、線路沿いを金田一温泉駅に向かった。
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