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2013年9月20日 (金)

奥州街道(好摩駅→沼宮内宿→御堂駅)

2013年9月10日

好摩駅(いわて銀河鉄道)・・・芋田橋(北上川)・・・好摩口交差点・国道4号・・・新塚一里塚跡(144)・・・旧道・・・駒形大神塔など・・状小屋地区・・状小屋跡・・桝沢山城跡入口・・小豆研ぎ石・・国道4号・・地蔵堂・・・巻堀神社・・・一字一石一礼供養塔・寺林交差点・・・(岩手町)・・・草桁(二つ森)一里塚跡(145)・・・園井恵子像(岩手町働く婦人の家)・・明円寺・・川口豊城稲荷神社鳥居・・・館坂・・川口城跡・・・跨線橋(いわて銀河鉄道)・・・明治天皇小休所跡・・・丹藤橋(丹藤川)・・・丹藤街道踏切(いわて銀河鉄道)・・・芦田内一里塚跡(146)・・芦田内番屋跡・・・(いわて沼宮内駅)・・・(東北新幹線)・・・沼宮内宿・・愛宕神社・・上路旅館・・寄寿姫像(町の駅よりーじゅ)・・・柳橋(大坊川)・・沼宮内代官所跡(沼宮内小学校)・・大蓮寺・・沼福寺・・新町(沼宮内)一里塚跡あたり(147)・新町橋(北上川)・・・金毘羅碑・・・(国道281号)・・・国道4号・・・(東北新幹線)・・・御堂駅(いわて銀河鉄道)

  【ル-ト地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_5220新塚一里塚跡(144) 【ル-ト地図】の126

東塚が残る。

Img_5222説明板

Img_5223「只今の気温21℃」

只今9時30分頃、からっとした好天で快適、快調。

Img_5226右に状小屋地区に入る。《地図

Img_5233状小屋跡(左に案内板)

江戸時代、このあたりに飛脚便の中継店(点)があった。飲食もできたそうだ。この道の東側の民家の裏側に旧道が残り、標識が立っている。

Img_5235クリヤーな景色

空気が澄んでいるのだろう。

Img_5236岩手山は今日も雲にまとわりつかれている。

Img_5240桝沢山城(砦)跡への道

どんな城跡か、調べても分からず。

Img_5246小豆研ぎ石(国道4号に出る手前の右側)

旅人がこの前を通ると、ザラザラー、ザラーと(小豆を洗う)音がしたという。各地にある「小豆婆」の伝承の一つだろう。

Img_5250地蔵堂(国道4号に入ってすぐの右側)

Img_5247地蔵と庚(申)供養塔(寛延4年(1751))

Img_5257巻堀神社  《地図

もとは「南部金精大明神」だったが、明治3年の大教宣布で、天皇中心の神道へ集約するために、 古くからの民間信仰を「淫祀邪教」として禁止し、 代わりに猿田彦命、伊佐那岐命を祭神として祀り巻堀神社とした。

菅江真澄天明5年(1785)9月8日にここ(金精大明神)を訪れた。金属製でなく石の男根がいくつも祠に納めているのを見て問うと、盗まれたのを探し出して別の家に納めてあるというので、その家に案内してもらい机上に祀ってある鉄製(実際は青銅製か)の7寸ほどの男根を2つ見ている。『菅江真澄遊覧記 1』(東洋文庫)より
天明5年といえば天明の大飢饉の真っただ中、「遊覧」するのも大変だったろうに。
ちょうど地区の善男善女たちが境内の清掃、整備をしていて、金精様などをキョロキョロと探すのはばかられた。

Img_5260男根石と女陰石

Img_5261元気で何より。

Img_5264一字一石一礼供養塔 

飢饉犠牲者の供養塔。塔の下の土中には、経典を一石に一字づつ書写した小石が埋められている。

Img_5263説明板

Img_5268ストーンサークルのように並んだ石造物

この先で盛岡市から岩手町に入る。

Img_5270草桁(二つ森)一里塚跡(145) 【ル-ト地図】の127

「らーめん たけちゃん」の敷地内の電柱の右脇に、「二つ森一里塚跡」の木柱。

この先は国道4号と離れ直進し、岩手川口駅、川口地区の方へ向かう。

Img_5275園井恵子像(岩手町働く婦人の家)

幼少期を川口村で暮らした宝塚歌劇団のスター。広島の原爆犠牲者の一人。
後方の岩手山がいつも見守ってくれてはいるが、むなしく、悲しいねえ。

Img_5276説明板

Img_5280茅葺の民家

Img_5284明円寺 《地図

先ほどの「一字一石一礼供養塔」の「一字一石」に経典を書写したのは、ここの14代住職の実秀和尚。

Img_5285鐘楼・梵鐘(寛永21年(1644))

川口地区を抜けて行く。

Img_5291海鼠壁の土蔵

Img_5292うだつと千本格子の旧商家

Img_5293川口豊城稲荷神社の鳥居

例大祭には秋浦大名行列(通称=ドッコイ)が練り歩く。

Img_5298館坂を上る。 

右が川口城跡。川口氏は河村(川村)氏の支族で、九戸政実の乱にも参陣し、後には八戸南部藩の家老になっっている。

Img_5301説明板

Img_5304川口城跡から  【ル-ト地図】の128

姫神山が頭部をのぞかせている。

Img_5311跨線橋を渡って、いわて銀河鉄道沿いを進む。

Img_5313明治天皇小休所跡(左の民家の敷地内に石碑)

Img_5318丹藤(たんどう)川

丹藤橋から上流方向。この先の渓流沿いには8kmの遊歩道が続くそうだ。正面はいわて銀河鉄道。

丹藤街道踏切を渡って芦田内一里塚跡へ。旧道はいわて銀河鉄道の東側を通っていた。

Img_5322芦田内一里塚跡標柱(正面)

ここを左折して行く。

Img_5325芦田内一里塚跡(146) 

右に標柱のみ。東塚跡だろうか、塚の形ははっきりしない。この先で道は途切れる。小川(芦田内川)を渡った向うが芦田内番屋跡で標柱(左奥)が立つ。
『岩手県歴史の道調査報告書』には、「側の一里塚は道路と鉄道路線によって完全に破壊されている。」とあるが、ここから線路まではかなりの距離がある。ここが正しい一里塚跡とすれば記事は間違いとなるが。

Img_5327芦田内番屋跡

電柱右に標柱。街道はここを通っていて芦田内踏切の方へ進み、線路の東側を通っていた。東に大きく迂回すれば正面の番屋跡の道へ行けるようだが、もとの道を引き返す。

Img_5337いわて沼宮内駅

東北新幹線も止まるが、2012年度の1日平均乗車人員は84人で、全国の新幹線停車駅では最少人数だそうだ。

東北新幹線をくぐり、沼宮内(ぬまくない)宿に入る。

Img_5340愛宕神社の長く、きつい参道の階段。

Img_5347沼宮内宿の家並み

Img_5346旧家

Img_5349閑散とした通り

左奥が上路旅館

Img_5359上路旅館

明治41年創業という老舗だが、もう営業してない。建物はどうするのだろうか?

Img_5362土蔵が2棟の旧家

Img_5365寄寿姫像(街の駅「よりーじゅ」前)

大蛇の人身御供となった寄寿姫の『沼宮内伝説

Img_5378枡形の名残り

この東側の沼宮内小学校が南部盛岡藩の沼宮内代官所跡で正門前に案内板があるようだ。 《地図

Img_5383大蓮寺

後方が沼宮内氏の沼宮内城跡で城山公園になっている。【ル-ト地図】の131

Img_5396新町(沼宮内)一里塚跡あたり(147)

新町橋(北上川)の手前にあったらしいが、何の標識もない。「塚」の屋号の福山家もどれか分からず。

新町橋を渡らず、北上川沿いを進む。《地図

Img_5399北上川の流れも細くなってきた。

明日は源流にたどりつく予定だ。

Img_5400金毘羅塔と三界万霊塔(右)

右に入った所に金毘羅宮神社がある。

国道281号を渡り、国道4号に出て北上し、東北新幹線をくぐる。

Img_5410いわて銀河鉄道沿いを進む。

Img_5417御堂駅

青い森鉄道」の車両だ。いわて銀河鉄道の車体より少しはましか。

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コメント

 失礼しました。訂正しました。

投稿: 坂道散歩 | 2014年11月20日 (木) 06:23

岩手町沼宮内のものです。
こちらに川路旅館とありますが、上路旅館です

投稿: | 2014年11月19日 (水) 21:28

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