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2013年10月29日 (火)

奥州街道(野辺地駅→清水川駅)

2013年10月19日

野辺地駅(青い森鉄道)・・・与田川橋・・・国道279号・・鳴沢橋(野辺地川)・・・西光寺・・海中寺・・・愛宕公園・愛宕神社・・・旧野村家住宅(明治天皇行在所跡)・・・神明宮・・・野辺地代官所跡(野辺地城跡)・・・国道279号・・・県道243号・・・野辺地八幡宮・・・八幡町踏切(JR大湊線)・・・遠見番所跡・常夜燈公園・浜町の常夜燈・野辺地湾・・・県道243号・・・野辺地橋(野辺地川)・・・野辺地戦争戦死者墓所・・・馬門番所跡・・・馬門交差点・国道4号・・・東京から699.9km地点・藩境塚・二本又川・(平内町)・・津軽藩関所跡碑・・・奥州街道標柱・旧道・・狩場沢番所跡あたり・・・熊野宮・・・地蔵祠・・・国道4号・・・狩場沢漁港・・・旧道・・・国道4号・・・(狩場沢駅)・・・堀差橋(堀差川)・・・旧道・・・清水川漁港(口広地区)・・・口広交差点・国道4号・・・清水川駅(青い森鉄道)

  【ル-ト地図】(18.3km)

 野辺地から馬門→浅虫→青森へと進み、青森湾沿いを北上し、津軽半島外ヶ浜の蟹田まで4日間で歩く。
 所々で地元の年配者から難解な方言(特に津軽弁)で話しかけられ、外国人と話すような身振り手振りで応対する、とまどいの道中でもあった。

  *奥州街道十和田市街→野辺地宿』からの続きです。

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Img_6700愛宕公園の石段 《地図

本町通りに敷かれていた北前船によって運ばれた香川県小豆島の土庄町の産出の花崗岩(御影石)。

Img_6695説明板①

Img_6696

小豆島の土庄町にある大坂城残石記念公園と、愛宕公園は友好公園。

Img_6706旧野村家住宅(明治天皇行在所跡) 《地図

Img_6705説明板

Img_6709本町通り 《地図

ここに御影石(花崗岩)が敷かれていた。この先の交差点が高札場跡のようだ。

Img_6712神明宮

野辺地町の「七五三」の子どもは何人だろうか?

Img_6711縁起

Img_6713野辺地代官所跡 【ル-ト地図】の①

図書館・歴史民俗資料館一帯で、かつての野辺地城跡でもある。
明治維新の野辺地戦争の際には、弘前・黒石藩の津軽軍はこのあたりまで進攻して来た。

Img_6730野辺地八幡宮 《地図

慶長年間(1596~1614)の創建と伝える野辺地の総鎮守。本殿は正徳4年(1714)の再建で、現在は拝殿を兼ねた覆屋の中に保存されている。
常夜灯(嘉永5年(1852))は地元の廻船問屋の寄進。この手前にある石鳥居の石は北前船で瀬戸内方面から運ばれた。『県指定文化財 4』

Img_6728金刀比羅宮本殿(八幡宮境内)

文政5年(1822)に廻船問屋仙台屋彦兵衛らによって勧進寄進された。一間社流造で屋根は柿覆(こけらぶき)の建築型厨子で、上り龍・下り龍などの彫刻が施されている。江戸時代に湊町として栄えた野辺地の航海安全の守り神。

JR大湊線の八幡町踏切を渡って、野辺地湾沿いの遠見番所跡・常夜燈公園へ寄る。

Img_6733正面に浜町の常夜燈が見える。 《地図

Img_6736遠見番所跡(南部藩) 【ル-ト地図】の②

Img_6745浜町の常夜燈

盛岡藩の日本海航路への窓口として賑わった野辺地湊へ、夜間入港する船への目印として、旧暦3月10日から10月10日までの間、毎晩火が灯された。

Img_6746説明板

Img_6752野辺地湾

空の青、海の青、白い船。遠くに霞んで下北半島。

Img_6751説明板

材木運搬の航路。

Img_6741説明板

銅の道でもあった。

Img_6763野辺地戦争戦死者墓所 【ル-ト地図】の③

盛岡藩・八戸藩は新政府に降伏しているのに、新政府軍の証(あかし)を立てるため、余計な戦いを仕掛けてあえなく討ち死した弘前・黒石藩の津軽軍の27名の墓所か。『県指定文化財 1』

Img_6764説明板

Img_6769事代主之神塔・延寿明神塔(右の木の下)

Img_6776馬門(まかど)番所跡(南部藩) 【ル-ト地図】の④

人々や物資の出入りを監視するために南部藩が設置した。建物は柵で囲われ、番人が警護していた。
幕末の馬門村は戸数約30の宿駅で、粟や稗などの農業と帆立貝中心の漁業が主だった。

Img_6805馬門番所(藩境塚の所に復元されたもの)

左の高札には、武具類や鉄製品、南部の特産品などの領外への持ち出し禁止が書かれている。(宝暦6年(1756))

Img_6781馬門交差点で国道4号に合流する。

Img_6783東京から699.9km地点

ここから右に海岸へ下りると藩境塚がある。

Img_6786藩境塚 【ル-ト地図】の⑤

手前の2つが南部側、二本又川を挟んだ向う側の2つが津軽側ですぐ右側は野辺地湾。街道は塚の間を通っていた。
『街道をゆく』で司馬遼太郎がここを訪れた頃(1971年11月)は、南部側の塚は立派で、津軽側の塚はぞんざいな作りだったという。今はどちらもきれいに手入れ、整備されている。『県指定文化財 2』

街道をゆく 三巻』の「野辺地湾」の一文。:「津軽家に領土を横領されたという歴史をもつ南部藩の場合、その境界を木柱や石柱というような簡便なもので済ませるというにはあまりにも思いが深刻だったにちがいない。古墳でも築くように土を盛りあげ、その上に松杉まで植えたればこそこのように除去されずに遺ったのであろう。津軽藩の場合、-またまた南部衆めが例によって執念ぶかく妙なものをこしらえおった。というわけで、対抗上やむをえず対になる二つを築いたに相違ない。うんざりしているような感じが、津軽側の塚作りのぞんざいさにもあらわれているような気がした。」

Img_6793説明板

Img_6797二本又川

右が南部領

野辺地町から平内町に入る。今はどちらも青森県。

Img_6809津軽藩関所跡碑

国道沿いの右側だが、「青森県歴史の道調査報告書」はこの位置ではないとする。

Img_6811狩場沢番所跡(津軽藩関所跡) 《地図

正面に奥州街道の標柱が立つ。
「青森県歴史の道調査報告書」によれば、左に上った最初の民家あたりのようだ。そこが津軽藩関所跡ということだろう。

狩場沢村は幕末の戸数約20で、馬門村と似たような状況だったようだ。

Img_6820熊野宮

左の金勢大明神の祠に木造の男根が立つ。

Img_6814白畑・堤ケ沢の集落を抜け、ここを右折して国道へ戻った。

右に地蔵の祠がある。

Img_6823狩場沢漁港

Img_6825左に旧道に入るがすぐに国道に合流して狩場沢駅を過ぎる。

Img_6827国道4号を行く。

歩道がなく、時折大型ダンプが轟音をあげ連なって通り過ぎる。あとに爆風を残して。

Img_6830堀差橋から堀差川

この先で右に旧道に入る。

Img_6839清水川漁港(口広地区) 《地図

ここで散歩中?のおじいさんから声をかけられた。方言で聞き取りにくく、身振り手振りを交えての会話となった。

Img_6843この先で国道に出る。

Img_6850清水川駅(青い森鉄道)

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2013年10月17日 (木)

鎌倉街道(上の道④)

2013年10月3日

永山駅(京王相模原線)・・・永山橋(乞田川)・・永山橋交差点(鎌倉街道・県道18号)・・ころげっと坂・・・旧鎌倉街道・・古市場跡・・多摩市役所・・沓切坂・・庚申塔・・県道18号・・・霞ノ関南木戸柵跡・熊野神社・・・馬頭観音・・・関戸古戦場跡・地蔵堂・・・大栗橋(大栗川)・・・関戸橋(多摩川・関戸の渡し跡)・(府中市)・・・中河原駅(京王線)・・・中河原駅北交差点・・法音寺・・・分梅橋(新田川)・分倍河原古戦場碑(新田川分梅公園)・・(中央道)・・・光明橋跡・・光明院坂・光明院・・・高倉塚古墳・・・神社前踏切(JR南武線)・・・八雲神社・元応の板碑・・・浅間神社・庚申塔・・・(旧甲州街道)・・・(甲州街道)・・・東芝府中工場迂回・・・県道20号・・・白明坂(鎌倉街道裏街道)・・県道20号・・・武蔵台緑地・・黒鐘公園・武蔵国分尼寺跡・・・鎌倉街道切通し・・尼寺北方の塚・・(伝)祥応寺跡・・・泉町陸橋(JR武蔵野線)・・・東山道武蔵路跡・・・西国分寺駅(JR武蔵野線)

 鎌倉街道上の道⑤)』に続く。

  【ル-ト地図】(12.7km)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_5922ころげっと坂を上って旧鎌倉街道へ  《地図

関戸の関所で捕らえれれた罪人を坂下の処刑場まで連れて行く時、この坂まで来るとなかなか進まず、ころがすように引いて行ったことからこのような名がついたという。

Img_5924左に旧鎌倉街道の旧道に入る。

Img_5926古市場標柱(多摩市役所前)

Img_5928説明文

Img_5931沓切(くつきり)坂を下る。 《地図

関戸の戦に勝って鎌倉を目指す新田義貞軍がこの坂を通りかかった時、あまりの急坂で馬の沓が切れてしまった。 ②正平7年(1352)、新田義興が鎌倉から足利尊氏を追い、夜半にこの坂付近にさしかかった所で、音消しの馬の沓を取り、裸馬を飛ばしたとの伝承による。

坂の途中の左上に庚申塔(正徳2年(1712))がある。

Img_5934旧鎌倉街道に合流

Img_5943霞ノ関南木戸柵跡・熊野神社 【ル-ト地図】の①

柵が復元されている。北木戸柵は観音寺の所にあった。

Img_5941説明板

Img_5942想定図

Img_5950観音寺(せきど観音) 《地図

Img_5952関戸古戦場跡・地蔵堂 【ル-ト地図】の②

元弘3年(1333)、新田義貞軍は鎌倉に向かう途中、分倍河原と関戸で幕府軍と合戦となり、5月16日この地で勝利を収めた新田軍は勢いに乗り、6日後に鎌倉を征圧した。

Img_5956地蔵堂の左前に「関戸古戦場跡」の標柱

Img_5962関戸橋から多摩川(上流方向)

昭和12年までは関戸の渡しがあった。

多摩市から府中市に入る。

Img_5965中河原駅北交差点で右に旧道に入る。 《地図

Img_5967旧家

Img_5972分倍河原古戦場碑(新田川分梅公園) 【ル-ト地図】の③

Img_5973説明板

Img_5982光明院坂を上る。 《地図

光明院・高倉塚古墳・八雲神社・元応の板碑・浅間神社・庚申塔は、『府中市の坂-1』に記載。

Img_6002旧甲州街道を横切る。 《地図

Img_6011東芝府中工場に突きあたり左へ迂回する。

ついでに白明坂に寄る。

Img_6016白明(しらみ)坂 【ル-ト地図】の④

鎌倉街道裏街道で、分倍河原に向かう新田軍はこの道を通ったともいう。

Img_6017説明板

Img_6022武蔵台緑地を抜ける。

黒鐘公園で上の道に戻る。

Img_6025武蔵国分尼寺跡

Img_6033切通しの道となる。 《地図

車は通行禁止だ。

Img_6046右に上ると尼寺北方の塚
左へ上ると(伝)祥応寺跡

Img_6037尼寺北方の塚上から(下はJR武蔵野線)

中世(14~15世紀頃)に、種々の祈願の成就を得るために、作法に則り本尊に対して祈祷するために築かれた修法壇跡で、(伝)祥応寺との関係を有するものと推考されるそうだ。

Img_6043(伝)祥応寺跡

鎌倉時代末期に立てられた寺跡で、国分寺駅の北の本多四丁目にある祥応寺の前身にあたると考えられている。

Img_6044説明板

Img_6058東山道武蔵路跡 【ル-ト地図】の⑤

古代に都と東国の山間地の諸国とを結ぶ東山道が、上野国府と下野国府間から分岐して、武蔵国府とを結ぶ往還路として整備された官道の遺構。

Img_6051説明文①

Img_6052

Img_6068東山道武蔵路跡は300mほど歩道として整備されている。

鎌倉街道上の道は東山道武蔵路の西側を通っていた。『鎌倉街道上道』に推定地図あり。

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2013年10月13日 (日)

鎌倉街道(上の道③)

2013年10月2日

大和駅(小田急江ノ島線)タクシー→大門小学校・・・大門川・・・日枝神社・・・瀬谷神明社・・・瀬谷銀行跡・・・善昌寺・・・北向地蔵堂・県道401号(かまくらみち)・・・妙光寺・・・牢場坂・・・若宮八幡神社・・(東名高速道路)・・・旧道・・・目黒交差点(国道246号)・・鶴間橋①(境川)・(大和市)・・・大山街道交差地点(観音寺前交差点)・観音寺・鎌倉街道標柱・・県道56号(八王子街道)・・・旧道・地蔵祠・・・(東急田園都市線)・・・公所橋(国道16号)・・・公所浅間神社・・・(県道56号)・・・定方寺・寺の坂・・・鶴間橋②(境川)・(町田市)・県道56号・・・・金森天満宮・・・杉山神社・・・町田天満宮・・町田参宮橋(JR横浜線)・・・浜街道(絹の道・町田街道)合流地点・・・絹之道碑(小田急町田駅)・・小田急線踏切・・鶴川街道(県道3号)・・・鎌倉街道(県道52号)・・おんな坂・菅原神社・井出の沢古戦場碑・おとこ坂・・・旧道・・稲荷坂・・藤木稲荷・・稲荷坂橋(恩田川)・・・養運寺・・・宏善寺・・・ひなた村(日向山公園)・・・今井谷戸交差点・・・町田ダリア園・・・鎌倉井戸・七国山鎌倉街道碑・・・稲荷大明神社・・・新鎧橋(鶴見川)・・鎧橋?・・・県道57号・・神学校バス停・旧道・・・野津田高校・・・小野路一里塚跡・・向坂・・・白道寺・・・県道156号・・・小野神社・・小野路宿里山交流館・・小島資料館・・・双体道祖神など・・・ショパン・・・恵泉女学園・・・(多摩市)・・・鎌倉古道標柱・・多摩ニュータウン貝取団地・・・鎌倉街道(県道18号)・・せせらぎ緑道・・瓜生一里塚跡碑・・・(小田急線・京王線)・・・新大橋(乞田川)・・・乞田交差点・・・永山橋(乞田川)・・・京王永山駅

  【ル-ト地図】(26.1km)

 今日は台風・スズメバチ・ショパン坂と落語の三題噺のような道中だった。

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Img_6457台風22号の「雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ」、長い列をなして、大門小学校へ向かう生徒たち。

こちとらは昨日、大和駅近くに泊まったからには、風が吹こうが、雨、槍が降ろうが歩かねばならない。まるで鎌倉に攻め上る新田軍を迎え撃つ北条軍の決死隊の覚悟だ。

Img_6459日枝神社 《地図

拝殿の右側に大ケヤキがそびえる。うっかり写真を撮り忘れた。朝からこれではこの先が思いやられる。

Img_6460説明板

Img_6465古道の雰囲気の漂う所だ。

ここは中屋敷地区で古い家並みが残っている。雨の風情もいいものだ。

Img_6464説明板

Img_6466旧家の前にも大ケヤキ

Img_6473瀬谷銀行跡 《地図

明治40年、当時盛んだった養蚕業のための銀行を開業。昭和10年鎌倉銀行に合併するまで、地域の発展に寄与した。境川には銀行橋(中島橋)があり、大和市には銀行坂がある。『大和市の坂-3

Img_6472説明板

Img_6474北向地蔵堂 《地図

しばらくは歩道もない県道歩きとなる。ちょうど通勤時間帯のせいか車が多く、傘をさして歩くのは難儀だ。

 

Img_6475_2地蔵さんたちは何を話し合っているのか。

 

Img_6476妙光寺 

弘安5年(1282)、池上(現池上本門寺)へ向う日蓮が泊まったという寺。
梵鐘は関東で活躍した鋳物師、物部氏の一人守光が正中2年(1325)に鋳造したしたものを、山田伊賀守経光が寄進したという。瀬谷区で唯一の県重文。
瀬谷区の民話:『妙光寺梵鐘の由来

Img_6477説明板

 

Img_6480牢場坂 【ル-ト地図】①

室町時代の宝徳年間(1449~51)頃、小田原北条早雲の家臣、山田伊賀守経光が牢屋を置いた場所とも、馬事訓練の場ともいわれる。このあたりには中屋敷・馬場屋敷・山田橋・長堀などの地名が残り、西隣の大和市には山田伊賀守経光が城主とも伝わる深見城址がある。

Img_6481若宮八幡宮 《地図

 

東名高速をくぐった先で右に入る。

Img_6484ここを右に入って工場街を抜けて行く。《地図

やっと車の列から逃れやれやれだ。雨風はまだまだ続くが。

 

目黒交差点(国道246号)と鶴間橋①(境川)を渡り大和市に入り、大山街道との交差地点(観音寺前交差点)に出る。

Img_6488観音寺 

境内を抜ける。下の標柱によれば鎌倉街道は境内を通っていた。

 

Img_6491鎌倉街道標柱 《地図

「旧鎌倉街道は観音寺境内を通り抜け鎌倉に至る」・「元弘3年新田義貞公進撃の鎌倉街道で有る」などと記す。

八王子街道を少し進み、右に入って行く。分岐に地蔵の祠がある。

Img_6502地蔵の祠

 

東急田園都市線をくぐり、公所橋(国道16号)を渡る。このあたりの道筋は違っているかも。

Img_6505公所橋(国道16号) 《地図

「公所」(ぐぞ)の由来は、公文所があったから、鎌倉街道を源頼朝が通った時に休んだので、公(おおやけ)の所ということから、などと伝える。『大和市の地名』

公所橋を渡って公所の鎮守、浅間神社から定方寺へと進む。

Img_6510_2寺の坂を下る。《地図

左が定方寺。このあたりは『大和市の坂-6』で歩いている。

 

鶴間橋②(境川)を渡って町田市に入る。なぜ同じ川に同じ名の橋があるのか?

Img_6517金森天満宮 《地図

広い「金森天神の森」に小祠だけの意外と小さな社だった。

 

Img_6516説明板

 

Img_6518杉山神社 《地図

 

Img_6519説明板

 

Img_6520日露戦争戦勝記念の模擬砲弾など。

その他、地蔵・庚申塔・地神塔・日待塔・道祖神などだが、左端の「光専神」(こうせんじん)が珍しく面白い。(写真の撮り方を間違えた。後の祭りだ。)
『町田の民話と伝承 第一集』の「風の神 こうせん婆さん」によると「この光専神とは、もとは、山の神様で、目の神様ともされていて大きなつげの木に囲まれていた。つげの木の下で、婆さんが香煎(こうぜん・むぎこがし)を売っていて、「こうせん婆さん」と呼ばれていた。ところがある日、この婆さんが香煎がのどにつかえ、むせて死んでしまった。これを哀れんだ村人たちは、そこに石碑を建て、これを「こうせんぼ」と言って、「咳の神様」としてお参りするようになった。お参りの際には筒にお茶を入れてつげの木にぶら下げた。昔は麦こがしを供えたともいう。 「こうせん婆さん こがしょを こがして 咽(む)せずに 頬張れ ホ ホ」と、はやり歌が歌われたという」
「光専神」の石碑は成瀬と金森との境、京浜団地の西側(南四小の近く)の「こうせんぼ道」と呼ばれた道の四つ辻にあったが、トラックにひかれて3つに割れてしまい、ここに移された。

Img_6526光専神の説明

「光仙茶菩薩」・「麦こがし」・「こうせん婆さん」などが見える。

 

Img_6530町田天満宮

やっぱり天神さんには牛がお似合いだ。

 

町田参宮橋(JR横浜線)を渡り、浜街道(絹の道・町田街道)に合流して進み「絹の道」碑を左に見て小田急線の踏切を渡る、線路沿いを進み鶴川街道に入る。

Img_6536(現)鎌倉街道合流地点 《地図

 

Img_6537だそうだ。

 

Img_6538おんな坂 《地図

菅原神社参道

 

Img_6541井出の沢古戦場碑(菅原神社境内)

このあたりは中先代の乱の戦場跡で、井出の沢は鎌倉時代の歌謡、宴曲抄「善行寺修行」に「かれいい食うべしいにしへも、かかりし井手の沢べかとよ、小山田の里に来にけらし」と歌われており、弁当の干飯(米を蒸し乾燥させた保存、携帯用の食糧)を食べるのに必要なきれいな湧水があることで有名であった。

Img_6539説明板

 

Img_6542おとこ坂を下って境内を出る。坂標は見当たらなかった。

 

旧道に入り、稲荷坂を下る。

Img_6549稲荷坂(坂下方向) 《地図

途中の右上に藤木稲荷がある。

 

Img_6551藤木稲荷

 

稲荷坂橋と交差点を渡って左折して行く。

Img_6557養運寺 

 

Img_6562宏善寺

両寺とも境内の手入れが行き届き、静かで落ち着いた雰囲気のある寺だ。

 

Img_6565ひなた村 《地図

青少年施設

 

恩田川沿いの「なかよし散歩道」を進み、今井谷戸交差点に出て、ダリア園から七国山への上りとなる。

Img_6569正面のコンビニの裏からダリア園へ上って行く。《地図

 

Img_6574町田ダリア園

 

Img_6575右へ上る。

 

Img_6576山道に入る。

 

Img_6577鎌倉井戸・鎌倉街道碑 【ル-ト地図】の②

 

Img_6578説明板

 

Img_6580「七国山 鎌倉街道の碑」

 

Img_6581左へ下って行く。

 

Img_6582案内板

「上ノ道」とある。

 

Img_6584気分のいい道だが赤土のむき出た所もある。雨で濡れて滑りやすくなっていて、すってんころりんと転びそうになった。

Img_6587住宅街へ出る。

左へ回り込んで鶴見川に向かう。

 

Img_6590稲荷大明神だろう。 《地図

 

Img_6591新鎧橋を渡る。

鶴見川の流路が変更され、鎧橋の手前に新しく架けられた橋か?

 

この先で県道57号に出て左折し、神学校バス停から左折し北上する。

Img_6596長い上りが始まる。《地図

急な所もあり、七国山への上りよりもきつく感じた。雨も止み、蒸し暑くて疲れてきたせいもあるだろう。

Img_6599スズメバチ危険通行止

思わずうろたえた。

 

Img_6598左の林の木の枝に巣があるのだ。明日までは待てない。迂回するのも億劫だし、平身低頭し、そろりそろりと女王蜂のご機嫌を損ねないように通り抜ける。「熊出没注意」の標識にはよく出会うが、スズメバチは始めてだった。何せすぐそばに巣があり、蜂がいるのだから切迫感があった。

南多摩整形外科の所で右折する。

Img_6605野津田公園の駐車場沿いを下って行く。

大山道の道筋でもある。

 

Img_6606小野路一里塚跡 《地図

このあたりは『町田市の坂-3』で歩いている。

 

Img_6609説明板

 

Img_6614向坂を下る。

(久能山から日光東照宮へ向かう)家康の柩の車の軸がこの坂を下る時に折れ大変難儀した。この時、乞田村(多摩市)の鍛冶屋を呼び、至急に鉄の棒を修理したため一行は無事に府中へ着くことができた。これらの労働にむくいるため、幕府は小野路村、木曾村など、この時に苦労をかけた村々に対して、東海道や甲州街道からの助郷は永久に免除するという特命を出した。『町田の歴史をたどる』

県道156号に出て小野路宿に入る。

Img_6622小野神社

華麗なる小野一族ゆかりの地は『西近江路②』の小野地区でも歩いた。

 

Img_6621由来

 

Img_6625小野路宿里山交流館 【ル-ト地図】の③

3日前の9月29日にオープンしたばかり。小野路宿の旅籠「角屋」を改修し、観光交流の拠点とした。

Img_6624主屋

 

Img_6628土蔵

 

Img_6627味噌蔵

 

Img_6635小野路宿の家並み

7年近く前に訪れた時は、この通りは車が渋滞していて歩道もなく、危なくて歩けるような道ではなかったが、歩道もポールで分離され車の往来も少なくなっている。右が小島資料館の小島屋敷。

「小野路の宿は野郎、遊女の宿泊まかりならぬ」で、やくざ・無宿人・博徒・飯盛り女などのいない健全?な宿だったそうだ。

Img_6637小島家資料館  《地図

小野路宿の旧名主家。

 

小野路バス停手前で右折し、多摩市との境へと上って行く。本来の道筋はもう少し手前で右に入って行くようだが、まあいいだろう。「ショパン坂」もあったし、坂道散歩としては大満足だ。

Img_6642竹林の間のいい坂だが、晴れてきて蒸し暑いこと。

 

Img_6644双体道祖神などが忘れ去られたように、道脇に並ぶ。

前に湯呑み茶碗と皿が置かれているから、忘れられてはいないかも。

 

Img_6646ショパン坂を上る。 【ル-ト地図】の④

右が「ピアノカフェ ショパン」で、世界的ピアニストも演奏するそうだ。

 

Img_6648左に「ショパン坂」の坂標

鎌倉街道とショパンの取り合わせが何とも愉快だ。
鎌倉攻めの新田軍には♪『軍隊ポロネーズ』が似合いだ。負け戦さで上州へ引き上げる時には、”世界的ピアニスト”が♪『葬送行進曲』で見送ってくれるだろう。

Img_6653この先で町田市と多摩市の境を進む。

多摩市に入った北側に江戸時代の古民家、「旧加藤家と旧有山家」がある。《地図

 

Img_6665恵泉女学園沿いを下る。

 

Img_6668鎌倉古道標柱 《地図

上部に「鎌倉古道(鎌倉街道上ノ道本路跡)」と記す。

 

Img_6667説明文

 

多摩ニュータウン貝取団地内を通り、鎌倉街道(県道18号)から「せせらぎ緑道」に入る。

Img_6679瓜生一里塚跡碑 【ル-ト地図】の⑤

この西南70mが一里塚跡で、小野路一里塚の次の一里塚で、家康の柩を日光へ運ぶ際に造られたようだ。

Img_6678説明板

午前中の風雨と、午後の蒸し暑さでいい加減バテた。旧鎌倉街道に入る手前の乞田交差点まで進み、永山駅に向かった。

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2013年10月 9日 (水)

鎌倉街道(上の道②)

2013年10月1日

藤沢駅(JR東海道線) バス→十二天公園前・・村岡二丁目交差点・貝殻坂・・長福寺・・村岡城址公園・・・日枝神社・・・渡内交差点・県道302号・・・慈眼寺・・・(県道312号)・・・森坂稲荷・・・柄沢神社・・・道祖神①・・・道祖神②・・・滝ノ川・・・旧東海道(県道30号)・(戸塚区)・・鉄砲宿(間の宿)・・・東俣野陸橋(国道1号)・・・俣野別邸庭園・もみじ坂・・・庚申塔など・・・八坂神社鳥居・堂坂下・水堰橋経由合流地点・・・八坂神社・・・龍長院・・・宇田川橋(宇田川)・・・鼻返し橋・・・俣野観音堂・・・上俣野神社・・・庚申塔・・・境川遊水池公園・・(泉区)・・・東泉寺・・・琴平神社・・・富士塚城址公園・・・(横浜市営地下鉄)・(相鉄いずみ野線)・・・左馬神社①・・・県道22号(長後街道・大山道)・・無量寺・・・飯田神社(サバ神社②)・・・いちょう団地・・・本興寺・上飯田せせらぎ緑道・・・(東海道新幹線ガード)・・・羽太郷土館跡・・・道祖神・・・柳明神社・堅牢地神塔道標・・・出水橋(相沢川)・・・(中原街道(県道45号))・・・宗川寺・・・新道稲荷神社・・・左馬神社③・・・西福寺・・・稲荷神社・・(厚木街道)・・・道祖神・地神塔?・・・(相模鉄道)・・・大門小学校・・・地神塔・庚申塔・・・境川・・・(国道467号)・・・大和駅(小田急江ノ島線)

  【ル-ト地図】(23.3km)

  参考:『泉区 地区別小史

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Img_6242貝殻坂を上る。《地図

空は晴れているのに雨が降っている。この先、降ったり止んだりの一日だった。
坂の途中の左側に村岡城址公園がある。

Img_6248村岡城址公園 【ル-ト地図】の①

坂東八平氏の祖とされる平良文(村岡五郎)の居城跡と伝えられる所。奥に城址碑があるだけで遺構は何もなし。

Img_6246説明板

Img_6254日枝神社  《地図

渡内の鎮守だが、もとは平良文が守護神として京都の日吉山王大権現を勧請したものという。祭神は大山咋命と村岡(平)良文。石灯籠は天保6年(1835)の建立。

Img_6251由来

Img_6261慈眼寺山門 《地図

左脇に平氏満の墓がある。

Img_6259説明板(平氏満の墓)

Img_6263森坂稲荷大明神

社殿・祠はないようだ。新旧が混ざっている。

Img_6265柄沢神社 《地図

由緒に「創立の時不詳であるが、建久四年(一一九四年)右大将源頼朝武州入間川に狩りせし路次当神社に奉斎せしより、鎌倉武士及び領主大久保佐渡守忠保等の崇敬極めて篤く、村民亦氏神と仰ぎ祭事を尽くした」とある。
手前は天保10年?造立の庚申塔。

この先の道筋ははっきりしない。

Img_6275道祖神①(昭和21年) 《地図

Img_6278道祖神② 《地図》(このあたりだったか?)

新旧の2基

この先を左折し、滝ノ川を渡り右折して行った。

Img_6284戸塚区との境の坂を上り旧東海道(県道30号)に出る。 《地図

Img_6290鉄砲宿あたり 《地図

東海道の戸塚宿と藤沢宿の間の宿で、影取の地名の由来となった大蛇を鉄砲で退治した猟師が住み着いたことからこの名がついたという。『大蛇の物語(影取町)

国道1号を東俣野陸橋で渡ると「俣野別邸庭園」(誰の別邸だったかが書かれていないお粗末な資料)への標識があったので寄って見る。これが正解で庭園内に「もみじ坂」を見つけた。

Img_6294もみじ坂 《地図

もとは住友財閥の邸宅があったが、火事で焼失したそうだ。

Img_6299庚申塔・地神塔などの辻 《地図

左端の南無大師遍照金剛塔には木食○○とある。右端のとろけかかったような地蔵?には元禄2年(1689)の銘がある。

Img_6316八坂神社鳥居・堂坂下 【ル-ト地図】の②

ここで、水堰橋経由の「上の道」に合流する。鳥居をくぐって八坂神社までの参道はない。
鳥居の右手の庚申塔の1基は「右かまくらみち、左はちおうじみち」と道標を兼ねているそうだが気づかなかった。

Img_6317説明板

Img_6318八坂神社(正面奥)

Img_6320説明板

影取→水堰橋経由の「上の道」の道筋のこと。

宇田川橋(宇田川)を渡り、すぐ先で「鼻返し橋」を渡る。面白い名だが由来を調べても分からず。

Img_6331俣野観音堂 【ル-ト地図】の③

源頼朝に敵対した俣野五郎景久の守護仏という十一面観音像を祀る。

Img_6333説明板

Img_6335長屋門

Img_6337上俣野神社

鐘楼の梵鐘はない。戦時中に供出されてしまったままか。

Img_6340庚申塔(3基)の辻

台座に「右飯田町」と刻むのがあるようだが、これも気づかず。右へ行くのが本来の街道筋だろうが、左に行き境川遊水地公園に寄った。

Img_6347境川遊水地公園 《地図

横浜市戸塚区、泉区、藤沢市に位置する県立公園。左奥の遊水地情報センターで小休止。

Img_6352自然創出ゾーン(ビオトープ)

サギ、カワウ、カモ類、カワセミなどの水辺の鳥が棲息するそうだ。

Img_6360東泉寺山門  《地図

天明3年(1783)の再建で、平成5年に屋根替修復工事の時に、天明の飢饉、浅間山の噴火、風水害の様子などが、梁や肘木に多数書付 けられているのが発見されたそうだ。

Img_6361ひまわりもまだ元気だ。

Img_6362琴平神社

東泉寺が別当寺で、「飯田のこんぴら様」と親しまれている神社。

Img_6364富士塚公園 【ル-ト地図】の④

右の公園内に富士塚城址碑が建つ。
ここで一休みしている間にまた雨が降り出した。

Img_6367説明板

Img_6368左馬神社①(下飯田) 《地図

境川沿いのサバ神社(下表)の一社で、左馬源義朝が祀られている。以前は「鯖神社」と表記していたそうだ。(手持ちの(古い)地図も鯖神社になっている)
境川流域には、はやり病にかかると「七サバ参り」をすると治るという風習があったそうだ。七サバとは、どこの神社であるか定かでないというが、どの「サバ社」でも七社参ればいいということなのでは?

境川沿いのサバ神社一覧(神奈川県神社誌より)

社  名 鎮 座 地 旧 社 格
佐波神社 藤沢市石川 村社
鯖神社 藤沢市今田 村社
七ツ木神社 藤沢市高倉 村社
左馬神社 大和市下和田  
左馬神社 大和市上和田  
左馬社 瀬谷区橋戸  
飯田神社 泉区上飯田町 村社
左馬神社 泉区下飯田町 村社
鯖神社 泉区和泉町  
左馬神社 泉区和泉町 村社
左婆神社 泉区和泉町  

この他に、藤沢市西俣野に「左馬明神社」があり計12社となるようだ。
泉区和泉町の3社は源満仲を祀り、他の9社は源義朝を祀る。

Img_6372長屋門

雨が降りやまない。

Img_6376旧家の門

県道22号(長後街道・大山道)を渡ると無量寺がある。

Img_6378無量寺  《地図

境内に大山道の道標を兼ねた名号碑があるそうだ。

Img_6379説明板

Img_6386飯田神社前

七観音像・地蔵・庚申塔・道祖神などが並ぶ。ここへ移されて来たものか。

Img_6385飯田神社(サバ神社②) 《地図

Img_6384説明板

飯田神社の前で左に入り、いちょう団地を抜けて行く。

Img_6393本興寺  《地図

京都妙満寺の開山で日蓮宗の高僧、日什上人が開山。

Img_6395上飯田せせらぎ緑道

清掃などのメンテが不十分で「住環境と自然との調和が心地よい空間を演出してくれます」とは言えない。
右上の茂みの中にも小さな流れがある。

この先で東海道新幹線をくぐって行く。

Img_6405羽太(はぶと)郷土館跡(右) 《地図

廃館したようだ。

Img_6401江戸柳明(やなみょう)古地図(資料館前)

「新田義貞公進軍の道」が鎌倉街道。中屋敷地区・忠兵衛屋敷・名主・下屋敷?(羽太郷土館)などがある。

Img_6403

代官・名主・三家・矢の下古戦場(境川を挟んで鎌倉攻めの新田軍と北条軍が戦った所か)などがあるが、今は往時の面影はない。

Img_6410道祖神(左)

新旧の道祖神2基と五輪塔の残欠。

Img_6413柳明(やなみょう)神社  《地図

裏に堅牢地神塔道標がある。

Img_6420堅牢地神塔道標(文久元年(1861))

「北 八王子道 南 大山道」

Img_6416説明板

相沢川沿いを進み、出水橋を渡り瀬谷区に入り、瀬谷さくら小学校の先で左折して行き、中原街道を横切る。

Img_6432宗川寺 《地図

夫婦イチョウがそびえる。寺の東方80mが瀬谷問屋場跡で、天正6年(1578)に後北条氏の関東経営の駅路として設置されたのが始まりという。

横浜瀬谷八福神」の福禄寿

Img_6433説明板

Img_6437左馬神社③(右前方) 【ル-ト地図】の⑤

Img_6438梵鐘

戦時中に供出されたが、氏子の協力で新たに造られた。

Img_6439説明板

Img_6440西福寺

左馬神社の別当寺だった。「横浜瀬谷八福神」の布袋尊。

Img_6445道祖神?地神?が三叉路の真ん中に堂々と。《地図

自動車・自転車もスピードを落とさざるを得ない。まさに道の塞ぎ(ふさぎ)の神は往来・交通安全の神だ。石造物は2基とも古く、磨滅・破損して読みづらい。

Img_6446右は地神だろうか?

相模鉄道をくぐる。

Img_6450大門小学校 《地図

今日はここまでとし、左折して境川を渡り相鉄線沿いに大和駅に向かう。

Img_6452地神塔・庚申塔

Img_6456プロムナードを通り大和駅へ

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2013年10月 7日 (月)

鎌倉街道(上の道①)

2013年9月30日

鎌倉駅(JR横須賀線)・・・鶴岡八幡宮・・流鏑馬馬場(鎌倉街道起点)・・西鳥居・・・鉄の井(鎌倉十井)・・・鎌倉市川喜多映画記念館・・・岩窟不動尊・・・扇ヶ谷踏切(横須賀線)・・・寿福寺・・・英勝寺・・(伝)阿仏尼の墓・・・隠里稲荷・・・(伝)景清の土牢跡・・・化粧坂切通し・・・源氏山公園・・日野俊基の墓・・・藤原仲能墓碑・・・葛原岡神社・・・山の内配水池・・・日当公園・S字坂・・・梅見坂上・・・日当り坂上・・西の坂・・・深沢中学校・大仏切通し経由上の道合流地点・・・東光寺・・・駒形神社・・・大慶寺・・・(湘南モノレール)・洲崎古戦場跡あたり・・・天満宮・・・泉光院・・・(JR東日本大船工場引込線跡?)・・・町屋橋(柏尾川)・・(藤沢市)・・・JR東海道線ガード・・・十二天公園前バス停→藤沢駅

  【ル-ト地図】(9.0km)

 鎌倉街道「上の道」の主要ルートには、①化粧坂切通し経由、②大仏切通し経由、③巨福呂坂切通し→水堰橋経由(ここまでは「中の道」と一緒)がある。
 ①の道筋をたどり、化粧坂切通し→深沢→瀬谷→町田→小野路→関戸の渡し跡で多摩川を渡って行くとしよう。

  「鎌倉街道推定ルート」は『中世を歩く』(北倉庄一著)の13頁

  写真をクリックすると拡大します。

Img_6150岩窟不動尊地図

もとは背後の絶壁の岩窟の奥の壁面に不動像が彫られていたそうだ。右に不動茶屋がある。

Img_6149現在の不動明王像

Img_6157(伝)阿仏尼の墓 【ル-ト地図】の①

十六夜日記」の著者

Img_6159隠里稲荷

お狐さんより招き猫の方が大きく幅をきかせている。

Img_6160説明板

Img_6166(伝)景清の土牢跡 【ル-ト地図】の②

源頼朝を暗殺しようとして捕われ、ここに幽閉されたという言い伝えの所。岩の前に平景清の法名、「水鑑景清大居士」の標柱が立つ。

落語『景清

Img_6171化粧(仮粧)坂(けはいざか・けわいざか)切通し 《地図

坂名の由来は、このあたりに化粧した遊女がいたからとも、戦で討ち取った平家の武将の首を化粧して、ここで検分したからともいわれる。

Img_6172岩盤の露出した険しい坂。

距離はそれほどでもないが、ぬかるんでいる所もある。雨の時などは坂を雨水が流れ落ち、冬場は凍ってアイスバーンにもなるか。

Img_6174説明板

Img_6175日野俊基墓標柱

南朝方の忠臣で墓所は後ろ。

Img_6176説明板

Img_6177藤原仲能之墓碑

墓の塚はどこか?

Img_6179葛原岡神社 《地図

日野俊基を祀る。

Img_6180説明板

西に向かい一般道に出る。

Img_6184旧家

Img_6190S字坂 【ル-ト地図】の③

右に【坂標】

Img_6196坂下方向

下って大きく右にカーブする。地図を見ればS字の形がよく分かる。東京文京区のS坂(新坂)より、この坂の方がだんぜんS字に近い。

Img_6201梅見坂 《地図

右の電柱前に【坂標】

Img_6206標識

西の坂が鎌倉街道方向。このあたりは坂だらけで、じっくり探せばもっと名前のついた坂があるかも。

Img_6207日当り坂 《地図

南向きで日当りがいいのだろうが、3時を過ぎて日影坂になってきている。

Img_6209西の坂を下る。 【ル-ト地図】の④

Img_6216大仏切通し経由の「上の道」合流地点 《地図

ここを右折し、すぐ左折して行く。

Img_6215地名由来

Img_6218駒形神社

ここから遥拝で済ます。

Img_6221大慶寺

広大な寺域を誇り、寺分の地名の由来にもなり、関東十刹と列せられたもとの大慶寺の塔頭だった「方外庵」を改称した寺。

Img_6224富士塚小入口交差点(上は湘南モノレール) 《地図

洲崎古戦場跡あたりで、右折した先の左側に洲崎古戦場碑が立っているようだ。

Img_6227天満宮

上町屋の鎮守

Img_6228JR東日本大船工場引込線跡? 《地図

この先で町屋橋を渡り藤沢市に入り、JR線の地下道を抜ける。この間、街道の道筋は失われている。

Img_6235JR線地下道

Img_6237十二天公園前バス停 《地図

今日はここで終わり。街道はすぐ先の村岡東二丁目交差点を左折し貝殻坂を上って行く。

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