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2013年10月29日 (火)

奥州街道(野辺地駅→清水川駅)

2013年10月19日

野辺地駅(青い森鉄道)・・・与田川橋・・・国道279号・・鳴沢橋(野辺地川)・・・西光寺・・海中寺・・・愛宕公園・愛宕神社・・・旧野村家住宅(明治天皇行在所跡)・・・神明宮・・・野辺地代官所跡(野辺地城跡)・・・国道279号・・・県道243号・・・野辺地八幡宮・・・八幡町踏切(JR大湊線)・・・遠見番所跡・常夜燈公園・浜町の常夜燈・野辺地湾・・・県道243号・・・野辺地橋(野辺地川)・・・野辺地戦争戦死者墓所・・・馬門番所跡・・・馬門交差点・国道4号・・・東京から699.9km地点・藩境塚・二本又川・(平内町)・・津軽藩関所跡碑・・・奥州街道標柱・旧道・・狩場沢番所跡あたり・・・熊野宮・・・地蔵祠・・・国道4号・・・狩場沢漁港・・・旧道・・・国道4号・・・(狩場沢駅)・・・堀差橋(堀差川)・・・旧道・・・清水川漁港(口広地区)・・・口広交差点・国道4号・・・清水川駅(青い森鉄道)

  【ル-ト地図

 野辺地から馬門→浅虫→青森へと進み、青森湾沿いを北上し、津軽半島外ヶ浜の蟹田まで4日間で歩く。
 所々で地元の年配者から難解な方言(特に津軽弁)で話しかけられ、外国人と話すような身振り手振りで応対する、とまどいの道中でもあった。

  *奥州街道十和田市街→野辺地宿』からの続きです。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_6700愛宕公園の石段 《地図

本町通りに敷かれていた北前船によって運ばれた香川県小豆島の土庄町の産出の花崗岩(御影石)。

Img_6695説明板①

Img_6696

小豆島の土庄町にある大坂城残石記念公園と、愛宕公園は友好公園。

Img_6706旧野村家住宅(明治天皇行在所跡) 《地図

Img_6705説明板

Img_6709本町通り 《地図

ここに御影石(花崗岩)が敷かれていた。この先の交差点が高札場跡のようだ。

Img_6712神明宮

野辺地町の「七五三」の子どもは何人だろうか?

Img_6711縁起

Img_6713野辺地代官所跡 【ル-ト地図】の222

図書館・歴史民俗資料館一帯で、かつての野辺地城跡でもある。
明治維新の野辺地戦争の際には、弘前・黒石藩の津軽軍はこのあたりまで進攻して来た。

Img_6730野辺地八幡宮 《地図

慶長年間(1596~1614)の創建と伝える野辺地の総鎮守。本殿は正徳4年(1714)の再建で、現在は拝殿を兼ねた覆屋の中に保存されている。『野辺地町の文化財
常夜灯(嘉永5年(1852))は地元の廻船問屋の寄進。この手前にある石鳥居の石は北前船で瀬戸内方面から運ばれた。

Img_6728金刀比羅宮本殿(八幡宮境内)

文政5年(1822)に廻船問屋仙台屋彦兵衛らによって勧進寄進された。一間社流造で屋根は柿覆(こけらぶき)の建築型厨子で、上り龍・下り龍などの彫刻が施されている。江戸時代に湊町として栄えた野辺地の航海安全の守り神。

JR大湊線の八幡町踏切を渡って、野辺地湾沿いの遠見番所跡・常夜燈公園へ寄る。

Img_6733正面に浜町の常夜燈が見える。 《地図

Img_6736遠見番所跡(南部藩) 【ル-ト地図】の223

Img_6745浜町の常夜燈

盛岡藩の日本海航路への窓口として賑わった野辺地湊へ、夜間入港する船への目印として、旧暦3月10日から10月10日までの間、毎晩火が灯された。

Img_6746説明板

Img_6752野辺地湾

空の青、海の青、白い船。遠くに霞んで下北半島。

Img_6751説明板

材木運搬の航路。

Img_6741説明板

銅の道でもあった。

Img_6763野辺地戦争戦死者墓所 【ル-ト地図】の224

盛岡藩・八戸藩は新政府に降伏しているのに、新政府軍の証(あかし)を立てるため、余計な戦いを仕掛けてあえなく討ち死した弘前・黒石藩の津軽軍の27名の墓所か。『野辺地町の文化財

Img_6764説明板

Img_6769事代主之神塔・延寿明神塔(右の木の下)

Img_6776馬門(まかど)番所跡(南部藩) 

人々や物資の出入りを監視するために南部藩が設置した。建物は柵で囲われ、番人が警護していた。
幕末の馬門村は戸数約30の宿駅で、粟や稗などの農業と帆立貝中心の漁業が主だった。

Img_6805馬門番所(藩境塚の所に復元されたもの)

左の高札には、武具類や鉄製品、南部の特産品などの領外への持ち出し禁止が書かれている。(宝暦6年(1756))

Img_6781馬門交差点で国道4号に合流する。

Img_6783東京から699.9km地点

ここから右に海岸へ下りると藩境塚がある。

Img_6786藩境塚 【ル-ト地図】の225

手前の2つが南部側、二本又川を挟んだ向う側の2つが津軽側ですぐ右側は野辺地湾。街道は塚の間を通っていた。
『街道をゆく』で司馬遼太郎がここを訪れた頃(1971年11月)は、南部側の塚は立派で、津軽側の塚はぞんざいな作りだったという。今はどちらもきれいに手入れ、整備されている。

街道をゆく 三巻』の「野辺地湾」の一文。:「津軽家に領土を横領されたという歴史をもつ南部藩の場合、その境界を木柱や石柱というような簡便なもので済ませるというにはあまりにも思いが深刻だったにちがいない。古墳でも築くように土を盛りあげ、その上に松杉まで植えたればこそこのように除去されずに遺ったのであろう。津軽藩の場合、-またまた南部衆めが例によって執念ぶかく妙なものをこしらえおった。というわけで、対抗上やむをえず対になる二つを築いたに相違ない。うんざりしているような感じが、津軽側の塚作りのぞんざいさにもあらわれているような気がした。」

Img_6793説明板

Img_6797二本又川

右が南部領

野辺地町から平内町に入る。今はどちらも青森県。

Img_6809津軽藩関所跡碑

国道沿いの右側だが、「青森県歴史の道調査報告書」はこの位置ではないとする。

Img_6811狩場沢番所跡(津軽藩関所跡) 《地図

正面に奥州街道の標柱が立つ。
「青森県歴史の道調査報告書」によれば、左に上った最初の民家あたりのようだ。そこが津軽藩関所跡ということだろう。

狩場沢村は幕末の戸数約20で、馬門村と似たような状況だったようだ。

Img_6820熊野宮

左の金勢大明神の祠に木造の男根が立つ。

Img_6814白畑・堤ケ沢の集落を抜け、ここを右折して国道へ戻った。

右に地蔵の祠がある。

Img_6823狩場沢漁港

Img_6825左に旧道に入るがすぐに国道に合流して狩場沢駅を過ぎる。

Img_6827国道4号を行く。

歩道がなく、時折大型ダンプが轟音をあげ連なって通り過ぎる。あとに爆風を残して。

Img_6830堀差橋から堀差川

この先で右に旧道に入る。

Img_6839清水川漁港(口広地区) 《地図

ここで散歩中?のおじいさんから声をかけられた。方言で聞き取りにくく、身振り手振りを交えての会話となった。

Img_6843この先で国道に出る。

Img_6850清水川駅(青い森鉄道)【ル-ト地図】の227

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