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2013年10月13日 (日)

鎌倉街道(上の道③)

2013年10月2日

大和駅(小田急江ノ島線)タクシー→大門小学校・・・大門川・・・日枝神社・・・瀬谷神明社・・・瀬谷銀行跡・・・善昌寺・・・北向地蔵堂・県道401号(かまくらみち)・・・妙光寺・・・牢場坂・・・若宮八幡神社・・(東名高速道路)・・・旧道・・・目黒交差点(国道246号)・・鶴間橋①(境川)・(大和市)・・・大山街道交差地点(観音寺前交差点)・観音寺・鎌倉街道標柱・・県道56号(八王子街道)・・・旧道・地蔵祠・・・(東急田園都市線)・・・公所橋(国道16号)・・・公所浅間神社・・・(県道56号)・・・定方寺・寺の坂・・・鶴間橋②(境川)・(町田市)・県道56号・・・・金森天満宮・・・杉山神社・・・町田天満宮・・町田参宮橋(JR横浜線)・・・浜街道(絹の道・町田街道)合流地点・・・絹之道碑(小田急町田駅)・・小田急線踏切・・鶴川街道(県道3号)・・・鎌倉街道(県道52号)・・おんな坂・菅原神社・井出の沢古戦場碑・おとこ坂・・・旧道・・稲荷坂・・藤木稲荷・・稲荷坂橋(恩田川)・・・養運寺・・・宏善寺・・・ひなた村(日向山公園)・・・今井谷戸交差点・・・町田ダリア園・・・鎌倉井戸・七国山鎌倉街道碑・・・稲荷大明神社・・・新鎧橋(鶴見川)・・鎧橋?・・・県道57号・・神学校バス停・旧道・・・野津田高校・・・小野路一里塚跡・・向坂・・・白道寺・・・県道156号・・・小野神社・・小野路宿里山交流館・・小島資料館・・・双体道祖神など・・・ショパン・・・恵泉女学園・・・(多摩市)・・・鎌倉古道標柱・・多摩ニュータウン貝取団地・・・鎌倉街道(県道18号)・・せせらぎ緑道・・瓜生一里塚跡碑・・・(小田急線・京王線)・・・新大橋(乞田川)・・・乞田交差点・・・永山橋(乞田川)・・・京王永山駅

  【ル-ト地図

 今日は台風・スズメバチ・ショパン坂と落語の三題噺のような道中だった。

  写真をクリックすると拡大します。

Img_6457台風22号の「雨ニモ負ケズ、風ニモ負ケズ」、長い列をなして、大門小学校へ向かう生徒たち。

こちとらは昨日、大和駅近くに泊まったからには、風が吹こうが、雨、槍が降ろうが歩かねばならない。まるで鎌倉に攻め上る新田軍を迎え撃つ北条軍の決死隊の覚悟だ。

 

Img_6459日枝神社 《地図

拝殿の右側に大ケヤキがそびえる。うっかり写真を撮り忘れた。朝からこれではこの先が思いやられる。

 

Img_6460説明板

 

Img_6465古道の雰囲気の漂う所だ。

ここは中屋敷地区で古い家並みが残っている。雨の風情もいいものだ。

 

Img_6464説明板

 

Img_6466旧家の前にも大ケヤキ

 

Img_6473瀬谷銀行跡 《地図

明治40年、当時盛んだった養蚕業のための銀行を開業。昭和10年鎌倉銀行に合併するまで、地域の発展に寄与した。境川には銀行橋(中島橋)があり、大和市には銀行坂がある。『大和市の坂-3

 

Img_6472説明板

 

Img_6474北向地蔵堂 《地図

しばらくは歩道もない県道歩きとなる。ちょうど通勤時間帯のせいか車が多く、傘をさして歩くのは難儀だ。

 

Img_6475_2地蔵さんたちは何を話し合っているのか。

 

Img_6476妙光寺 

弘安5年(1282)、池上(現池上本門寺)へ向う日蓮が泊まったという寺。
梵鐘は関東で活躍した鋳物師、物部氏の一人守光が正中2年(1325)に鋳造したしたものを、山田伊賀守経光が寄進したという。瀬谷区で唯一の県重文。
瀬谷区の民話:『妙光寺梵鐘の由来

 

Img_6477説明板

 

Img_6480牢場坂を上る。

室町時代の宝徳年間(1449~51)頃、小田原北条早雲の家臣、山田伊賀守経光が牢屋を置いた場所とも、馬事訓練の場ともいわれる。このあたりには中屋敷・馬場屋敷・山田橋・長堀などの地名が残り、西隣の大和市には山田伊賀守経光が城主とも伝わる深見城址がある。

 

Img_6481若宮八幡宮 《地図

 

東名高速をくぐった先で右に入る。

Img_6484ここを右に入って工場街を抜けて行く。《地図

やっと車の列から逃れやれやれだ。雨風はまだまだ続くが。

 

目黒交差点(国道246号)と鶴間橋①(境川)を渡り大和市に入り、大山街道との交差地点(観音寺前交差点)に出る。【ル-ト地図】の7

Img_6488観音寺 

境内を抜ける。下の標柱によれば鎌倉街道は境内を通っていた。

 

Img_6491鎌倉街道標柱 《地図

「旧鎌倉街道は観音寺境内を通り抜け鎌倉に至る」・「元弘3年新田義貞公進撃の鎌倉街道で有る」などと記す。

 

八王子街道を少し進み、右に入って行く。分岐に地蔵の祠がある。

Img_6502地蔵の祠

 

東急田園都市線をくぐり、公所橋(国道16号)を渡る。このあたりの道筋は違っているかも。

Img_6505公所橋(国道16号) 《地図

「公所」(ぐぞ)の由来は、公文所があったから、鎌倉街道を源頼朝が通った時に休んだので、公(おおやけ)の所ということから、などと伝える。『大和市の地名』

 

公所橋を渡って公所の鎮守、浅間神社から定方寺へと進む。

Img_6510_2寺の坂を下る。《地図

左が定方寺。このあたりは『大和市の坂-6』で歩いている。

 

鶴間橋②(境川)を渡って町田市に入る。なぜ同じ川に同じ名の橋があるのか?

Img_6517金森天満宮 《地図

広い「金森天神の森」に小祠だけの意外と小さな社だった。

 

Img_6516説明板

 

Img_6518杉山神社 《地図

 

Img_6519説明板

 

Img_6520日露戦争戦勝記念の模擬砲弾など。

その他、地蔵・庚申塔・地神塔・日待塔・道祖神などだが、左端の「光専神」(こうせんじん)が珍しく面白い。(写真の撮り方を間違えた。後の祭りだ。)
『町田の民話と伝承 第一集』の「風の神 こうせん婆さん」によると「この光専神とは、もとは、山の神様で、目の神様ともされていて大きなつげの木に囲まれていた。つげの木の下で、婆さんが香煎(こうぜん・むぎこがし)を売っていて、「こうせん婆さん」と呼ばれていた。ところがある日、この婆さんが香煎がのどにつかえ、むせて死んでしまった。これを哀れんだ村人たちは、そこに石碑を建て、これを「こうせんぼ」と言って、「咳の神様」としてお参りするようになった。お参りの際には筒にお茶を入れてつげの木にぶら下げた。昔は麦こがしを供えたともいう。 「こうせん婆さん こがしょを こがして 咽(む)せずに 頬張れ ホ ホ」と、はやり歌が歌われたという」
「光専神」の石碑は成瀬と金森との境、京浜団地の西側(南四小の近く)の「こうせんぼ道」と呼ばれた道の四つ辻にあったが、トラックにひかれて3つに割れてしまい、ここに移された。

 

Img_6526光専神の説明

「光仙茶菩薩」・「麦こがし」・「こうせん婆さん」などが見える。

 

Img_6530町田天満宮

やっぱり天神さんには牛がお似合いだ。

 

町田参宮橋(JR横浜線)を渡り、浜街道(絹の道・町田街道)に合流して進む。【ル-ト地図】の8
「絹の道」碑を左に見て小田急線の踏切を渡って浜街道と分れ、線路沿いを進み鶴川街道に入る。

Img_6536(現)鎌倉街道合流地点 《地図

 

Img_6537だそうだ。

 

Img_6538おんな坂 《地図

菅原神社参道

 

Img_6541井出の沢古戦場碑(菅原神社境内)

このあたりは中先代の乱の戦場跡で、井出の沢は鎌倉時代の歌謡、宴曲抄「善行寺修行」に「かれいい食うべしいにしへも、かかりし井手の沢べかとよ、小山田の里に来にけらし」と歌われており、弁当の干飯(米を蒸し乾燥させた保存、携帯用の食糧)を食べるのに必要なきれいな湧水があることで有名であった。

 

Img_6539説明板

 

Img_6542おとこ坂を下って境内を出る。坂標は見当たらなかった。

 

旧道に入り、稲荷坂を下る。

Img_6549稲荷坂(坂下方向) 《地図

途中の右上に藤木稲荷がある。

 

Img_6551藤木稲荷

 

稲荷坂橋と交差点を渡って左折して行く。

Img_6557養運寺 

 

Img_6562宏善寺

両寺とも境内の手入れが行き届き、静かで落ち着いた雰囲気のある寺だ。

 

Img_6565ひなた村 《地図

青少年施設

 

恩田川沿いの「なかよし散歩道」を進み、今井谷戸交差点に出て、ダリア園から七国山への上りとなる。

Img_6569正面のコンビニの裏からダリア園へ上って行く。《地図

 

Img_6574町田ダリア園

 

Img_6575右へ上る。

 

Img_6576山道に入る。

 

Img_6577鎌倉井戸・鎌倉街道碑 《地図

 

Img_6578説明板

 

Img_6580「七国山 鎌倉街道の碑」

 

Img_6581左へ下って行く。

 

Img_6582案内板

「上ノ道」とある。

 

Img_6584気分のいい道だが赤土のむき出た所もある。雨で濡れて滑りやすくなっていて、すってんころりんと転びそうになった。

Img_6587住宅街へ出る。

左へ回り込んで鶴見川に向かう。

 

Img_6590稲荷大明神だろう。 《地図

 

Img_6591新鎧橋を渡る。

鶴見川の流路が変更され、鎧橋の手前に新しく架けられた橋か?

 

この先で県道57号に出て左折し、神学校バス停から左折し北上する。

Img_6596長い上りが始まる。《地図

急な所もあり、七国山への上りよりもきつく感じた。雨も止み、蒸し暑くて疲れてきたせいもあるだろう。

 

Img_6599スズメバチ危険通行止

思わずうろたえた。

 

Img_6598左の林の木の枝に巣があるのだ。明日までは待てない。迂回するのも億劫だし、平身低頭し、そろりそろりと女王蜂のご機嫌を損ねないように通り抜ける。「熊出没注意」の標識にはよく出会うが、スズメバチは始めてだった。何せすぐそばに巣があり、蜂がいるのだから切迫感があった。

 

南多摩整形外科の所で右折する。

Img_6605野津田公園の駐車場沿いを下って行く。

大山道の道筋でもある。

 

Img_6606小野路一里塚跡 《地図

このあたりは『町田市の坂-3』で歩いている。

 

Img_6609説明板

 

Img_6614向坂を下る。

(久能山から日光東照宮へ向かう)家康の柩の車の軸がこの坂を下る時に折れ大変難儀した。この時、乞田村(多摩市)の鍛冶屋を呼び、至急に鉄の棒を修理したため一行は無事に府中へ着くことができた。これらの労働にむくいるため、幕府は小野路村、木曾村など、この時に苦労をかけた村々に対して、東海道や甲州街道からの助郷は永久に免除するという特命を出した。『町田の歴史をたどる』

 

県道156号に出て小野路宿に入る。

Img_6622小野神社

華麗なる小野一族ゆかりの地は『西近江路②』の小野地区でも歩いた。

 

Img_6621由来

 

Img_6625小野路宿里山交流館 《地図

3日前の9月29日にオープンしたばかり。小野路宿の旅籠「角屋」を改修し、観光交流の拠点とした。

 

Img_6624主屋

 

Img_6628土蔵

 

Img_6627味噌蔵

 

Img_6635小野路宿の家並み

7年近く前に訪れた時は、この通りは車が渋滞していて歩道もなく、危なくて歩けるような道ではなかったが、歩道もポールで分離され車の往来も少なくなっている。右が小島資料館の小島屋敷。

「小野路の宿は野郎、遊女の宿泊まかりならぬ」で、やくざ・無宿人・博徒・飯盛り女などのいない健全?な宿だったそうだ。

 

Img_6637小島家資料館  《地図

小野路宿の旧名主家。

 

小野路バス停手前で右折し、多摩市との境へと上って行く。本来の道筋はもう少し手前で右に入って行くようだが、まあいいだろう。「ショパン坂」もあったし、坂道散歩としては大満足だ。

Img_6642竹林の間のいい坂だが、晴れてきて蒸し暑いこと。

 

Img_6644双体道祖神などが忘れ去られたように、道脇に並ぶ。

前に湯呑み茶碗と皿が置かれているから、忘れられてはいないかも。

 

Img_6646ショパン坂を上る。 【ル-ト地図】の10

右が「ピアノカフェ ショパン」で、世界的ピアニストも演奏するそうだ。

 

Img_6648左に「ショパン坂」の坂標

鎌倉街道とショパンの取り合わせが何とも愉快だ。
鎌倉攻めの新田軍には♪『軍隊ポロネーズ』が似合いだ。負け戦さで上州へ引き上げる時には、”世界的ピアニスト”が♪『葬送行進曲』で見送ってくれるだろう。

 

Img_6653この先で町田市と多摩市の境を進む。

多摩市に入った北側に江戸時代の古民家、「旧加藤家と旧有山家」がある。《地図

 

Img_6665恵泉女学園沿いを下る。

 

Img_6668鎌倉古道標柱 《地図

上部に「鎌倉古道(鎌倉街道上ノ道本路跡)」と記す。

 

Img_6667説明文

 

多摩ニュータウン貝取団地内を通り、鎌倉街道(県道18号)から瓜生緑地の「せせらぎ緑道」に入る。

Img_6679瓜生一里塚跡碑(瓜生緑地内) 

この西南70mが一里塚跡で、小野路一里塚の次の一里塚で、家康の柩を日光へ運ぶ際に造られたようだ。

 

Img_6678説明板

午前中の風雨と、午後の蒸し暑さでいい加減バテた。旧鎌倉街道に入る手前の乞田交差点まで進み、永山駅に向かった。

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