鎌倉街道(上の道④)
2013年10月3日
永山駅(京王相模原線)・・・永山橋(乞田川)・・永山橋交差点(鎌倉街道・県道18号)・・ころげっと坂・・・旧鎌倉街道・・古市場跡・・多摩市役所・・沓切坂・・庚申塔・・県道18号・・・霞ノ関南木戸柵跡・熊野神社・・・馬頭観音・・・関戸古戦場跡・地蔵堂・・・大栗橋(大栗川)・・・関戸橋(多摩川・関戸の渡し跡)・(府中市)・・・中河原駅(京王線)・・・中河原駅北交差点・・法音寺・・・分梅橋(新田川)・分倍河原古戦場碑(新田川分梅公園)・・(中央道)・・・光明橋跡・・光明院坂・光明院・・・高倉塚古墳・・・神社前踏切(JR南武線)・・・八雲神社・元応の板碑・・・浅間神社・庚申塔・・・(旧甲州街道)・・・(甲州街道)・・・東芝府中工場迂回・・・県道20号・・・白明坂(鎌倉街道裏街道)・・県道20号・・・武蔵台緑地・・黒鐘公園・武蔵国分尼寺跡・・・鎌倉街道切通し・・尼寺北方の塚・・(伝)祥応寺跡・・・泉町陸橋(JR武蔵野線)・・・東山道武蔵路跡・・・西国分寺駅(JR武蔵野線)
【ル-ト地図】
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ころげっと坂を上って旧鎌倉街道へ 《地図》
関戸の関所で捕らえれれた罪人を坂下の処刑場まで連れて行く時、この坂まで来るとなかなか進まず、ころがすように引いて行ったことからこのような名がついたという。
沓切(くつきり)坂を下る。 《地図》
①関戸の戦に勝って鎌倉を目指す新田義貞軍がこの坂を通りかかった時、あまりの急坂で馬の沓が切れてしまった。 ②正平7年(1352)、新田義興が鎌倉から足利尊氏を追い、夜半にこの坂付近にさしかかった所で、音消しの馬の沓を取り、裸馬を飛ばしたとの伝承による。
坂の途中の左上に庚申塔(正徳2年(1712))がある。
霞ノ関南木戸柵跡・熊野神社 《地図》
柵が復元されている。北木戸柵は観音寺の所にあった。
元弘3年(1333)、新田義貞軍は鎌倉に向かう途中、分倍河原と関戸で幕府軍と合戦となり、5月16日この地で勝利を収めた新田軍は勢いに乗り、6日後に鎌倉を征圧した。
関戸橋から多摩川(上流方向)
昭和12年までは関戸の渡しがあった。
多摩市から府中市に入る。
中河原駅北交差点で右に旧道に入る。 《地図》
分倍河原古戦場碑(新田川分梅公園)
光明院坂を上る。 《地図》
光明院・高倉塚古墳・八雲神社・元応の板碑・浅間神社・庚申塔は、『府中市の坂-1』に記載。
旧甲州街道を横切る。 【ル-ト地図】の11
ついでに白明坂に寄る。
白明(しらみ)坂 《地図》
鎌倉街道裏街道で、分倍河原に向かう新田軍はこの道を通ったともいう。『府中市の坂①』
黒鐘公園で上の道に戻る。
切通しの道となる。 《地図》
車は通行禁止だ。
中世(14~15世紀頃)に、種々の祈願の成就を得るために、作法に則り本尊に対して祈祷するために築かれた修法壇跡で、(伝)祥応寺との関係を有するものと推考されるそうだ。
鎌倉時代末期に立てられた寺跡で、国分寺駅の北の本多四丁目にある祥応寺の前身にあたると考えられている。
東山道武蔵路跡 【ル-ト地図】の12
古代に都と東国の山間地の諸国とを結ぶ東山道が、上野国府と下野国府間から分岐して、武蔵国府とを結ぶ往還路として整備された官道の遺構。
鎌倉街道上の道は東山道武蔵路の西側を通っていた。『鎌倉街道上道』に推定地図あり。
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