山陽道(神戸駅→朝霧駅)
2013年11月17日
神戸駅(JR神戸線)・・・兵庫宿湊口惣門跡・湊八幡神社・・・(国道2号)・・七宮神社・・岡方惣会所跡・・札の辻跡・道標・・大和田泊の石椋・・新川運河・・来迎寺・・兵庫城跡碑・・住吉神社・・清盛塚・琵琶塚・・真光寺・・和田の笠松歌碑(須佐野公園)・・能福寺(兵庫大仏)・・(国道2号)・・福海寺・・柳原蛭子神社・柳原惣門跡・・・兵庫駅北口交差点・・・長田交差点・・長田橋(新湊川)・・長田神社・・苅藻川・・・県道21号・・・蓮の池跡(西代蓮池公園)・・・道標4基(蓮池小学校内)・・・三の井橋(妙法寺川)・・・須磨橋・(阪神高速神戸3号線)・・・浄徳寺・・・厄除八幡神社標柱・・・山陽電鉄踏切・・松風村雨堂・・・元宮長田神社・菅の井跡・須磨駅家跡・・・国道2号・・須磨駅(JR神戸線)・・村上帝社・・・源平史蹟戦の濱碑・・・敦盛塚・・・塩屋橋(塩屋谷川)・・・福田橋(福田川)・・・玉林禅寺・・・海神社・・・(JR神戸線)・地蔵・・・山陽電鉄踏切・・・五色塚古墳・小壺古墳…国道2号・・・舞子公園・・(明石海峡大橋)・・舞子砲台跡・・・国道2号・・・舞子延命地蔵尊・・・旧道・・・舞子六神社・・・国道2号・・・山田橋(山田川)・・・(明石市)・・・大蔵海岸公園・・朝霧歩道橋・・朝霧駅(JR神戸線)
兵庫宿は見所が多く時間を費やした。須磨地区は『神戸市の坂』で歩いているので、街道筋を通り抜ける。途中、神戸マラソンのランナーたちとすれ違った。ランナーではなく、ウォーカーだったが。
五色塚古墳から明石海峡の眺めを楽しん後、若者たちで賑わう舞子公園に寄り、明石市に入り夕暮れせまる頃に朝霧駅に着いた。
【ル-ト地図】
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湊口惣門跡 《地図》
湊八幡神社前で、ここが兵庫宿の東の出入口。門があり、番所が置かれ、高札場があった。湊口の東は旧湊川で、慶応元年(1865)まで橋は架けらず、降雨のあと水量が増えると通行止になり、参勤交代の一行や旅人が兵庫津の町にあふれたという。
警察活動の行き届かない時代に、迷子探しの方法として建てられた石。もとは神社の塀の外に建っていた。子どもが迷子になった家ではここに来て、子どもの特徴・年齢・住所・氏名を紙に書いて、この石に張りつけておく。また、子どもを発見した人は、ここへ連れてきて、尋ねる家の人に会えば、すぐ引き渡し、会えなければ、石に住所・氏名などを書いた紙を張りつけておく。双方がここへ来るのだから、たいていの場合はすぐ解決する仕組みで重宝がられていたそうだ。
東京中央区の一石橋(日本橋川)のたもと、岡山県の牛窓往来の京橋(旭川)のたもとにもあった。『甲州街道(日本橋→新宿追分)』・『牛窓往来①』に記載。
高田屋嘉兵衛は寛政11年(1799)に幕府の命に応じて巨船を造り、クナシリ・エトロフに向った。この時この神社に模型船3隻を献納して海上安全を祈願した。嘉兵衛は西出町(現在の公社入江住宅(旧入江小学校跡地)のあたり)に住んでいた。邸宅跡に建てられた「高田屋嘉兵衛顕彰碑」は近くの竹尾稲荷神社に移設されている。鎮守稲荷神社には嘉兵衛が奉納した一対の石灯籠が残されている。
岡方惣会所跡
この建物は昭和2年に兵庫商人が社交場として建てた。今は「兵庫津歴史館 岡方倶楽部」で、「よみがえる兵庫津連絡協議会」の活動拠点。
札の辻(札場の辻)跡 《地図》
兵庫宿の高札場は、ここと東西の惣門と来迎寺(築島寺)前の四ヵ所にあったという。街道はここを右折するが、あちこち寄り道する。
「右 和田」・「左 築」(和田御崎と築島寺)で、街道筋を離れ築島寺、新川運河方向へ寄り道。
大輪田泊の石椋
石を積み上げた防波堤(波消し)や突堤の基礎などの港湾施設。
来迎寺 《地図》
「松王丸入海の碑・墓」と妓王・妓女の塚(右後ろ)。
野洲市の『朝鮮人街道』沿いには、妓王井川・妓王屋敷跡・妓王寺がある。
清盛くんと新川運河(兵庫運河の一つ)
これ以上近づこうとすると、リーダー(見張りかも)かもめが警告の鳴き声をあげ、一斉に飛び立つ用意をする。
今の新川運河の中之島の地から北の切戸町にかけて、天正9年(1581)池田信輝が落城した花熊城の資材を使って兵庫城を築いた。
祭神は上筒之男命、中筒之男命、底筒之男命、神功皇后で航海安全、陸上交通安全の守り神。
なぜ象が?
琵琶塚・清盛像・清盛塚十三重塔(弘安9年(1286)) 《地図》
清盛御前水の井戸・道標(中央)
道標は「左 京大坂道 右 は里満ミち」で、街道沿いから移されたものだろう。
須佐の入江の浜にそびえ、入港船の目印になっていた松だった。
歌碑「秋風に吹きくる峰の村雨にさして宿かる和田の笠松」(藤原為家)
滝善三郎供養塔(神戸事件)
札の辻に戻って兵庫宿を進む。神明町に井筒屋(衣笠)又兵衛の本陣があり、本陣に南接して脇本陣の明石屋宗兵衛、小路を隔てて西側の小広町に豊島屋宗兵衛、同町の東側に桝屋長兵衛(または長左衛門)、その南隣に三木屋作右衛門の4軒があったというが、新しい建物ばかりで往時の面影はない。
また兵庫宿には本陣の他に浜本陣(出在家町)があった。
柳原惣門跡 《地図》
兵庫宿の西の出入口。左は柳原蛭子神社(柳原のえべっさん)、右は福海寺で「平清盛公遺愛の時雨の松」碑がある。(松は太平洋戦争の火災で枯れ、残っていた切り株も阪神大震災で無くなってしまった)
兵庫宿は見所が多く、湊口惣門からここまで1.2kmほどに2時間近くを費やした。
JR神戸線をくぐり、兵庫駅北口交差点→長田交差点→長田神社へ向かう。
拝殿横の弘安9年(1286)奉納の銘のある石灯籠(雨乞の石灯籠)を見落とした。『長田神社文化財』
県道21号に戻り西進する。
行基が造ったと伝える農業用のため池跡。『平家物語』にも登場し、池の北側の蓮の宮の小祠には「丑の刻参り」が行われていたそうだ。
左端は北西の妙法寺毘沙門堂(須磨区妙法寺字毘沙門山)、その右は北の観音山、右端は「従是大山寺道」で太山寺(西区伊川谷町)への道標だが、こんな所に集められていても何の意味・価値もないと思うが。
三の井橋(妙法寺川)を渡り、須磨橋を渡って行く。
一石五輪塔(浄徳寺) 《地図》
地輪部分地蔵像を刻む。
厄除八幡神社標柱(明治17年) 《地図》
「右 多井畑村迄距離三十三丁」で、須磨区多井畑の厄除八幡宮への道標。
ここを右折し山陽電鉄の踏切を渡ると、右に松風村雨堂がある。
松風村雨堂
須磨に流されていた在原行平に仕えていた、この土地の松風と村雨姉妹の庵跡という伝承の地で、今は観音堂。
「立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる 待つとし聞かば いま帰り来む」(百人一首)の歌は、都へ帰る行平が離別の際に詠んだものとされる。
元宮長田神社・菅の井跡・菅公手植えの松跡(旧前田家邸宅跡公園) 《地図》
ここは西須磨の旧家の前田家跡で、古代山陽道の須磨駅家跡とされる。『古代山陽道の駅家を辿る』
須磨寺など須磨地区は『神戸市の坂』で歩いているので今回は割愛し、国道2号を進む。
フルマラソンのランナーがまだ歩いている。
こんなタイムでよくレースに出る気になるよ。フルマラソンはそんなに甘いものやおまへんのや。
一の谷から西一帯の海岸は「一ノ谷の戦い」の激戦地で、「戦の濱」と言われ、須磨浦公園の東端に石碑が立つ。一ノ谷の逆落としがあった旧暦2月7日早朝には馬のいななきが聞こえるとか。
敦盛塚 《地図》
熊谷直実に討たれた平敦盛の供養塔であると言われる。そばに「敦盛そば」屋がある。
マラソンの交通規制はまだ解除されてなく、国道はガラガラだ。
須磨区から垂水区に入り、塩屋谷川、福田川を渡って行く。
福田橋(福田川) 《地図》
大正15年の竣工
福田橋と垂水駅の間にあると思い込んでいて、何往復もしてしまった。
赤子に授乳中の狛犬と、赤子をおんぶしている狛犬
左に地蔵さん
兵庫県下最大の前方後円墳で、きれいに復元整備されている。
国道2号に戻り、舞子公園へと進む。
根上りの松(再生、生育事業中)・旧武藤邸 《地図》
舞子砲台跡 《地図》
俗称「たたき地蔵」で木槌が置いてあるが、手で叩くくらいならともかく、木槌は勘弁してと言っていた。
左に旧道入る。 《地図》
境内社にある大黒像・戎像を見逃した。
この先で国道2号に出る。
山田橋から明石海峡、淡路島。《地図》
その向こうに見えるのは四国か?
朝霧駅の手前で神戸市から明石市に入る。
朝霧歩道橋を渡れば朝霧駅だ。
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