奥州街道(奥内駅→蟹田駅)
2013年10月22日
奥内駅(JR津軽線)・・・国道280号・・・天満宮標柱・・・内真部橋(内真部川)・・・大山祇神社標柱・・・稲荷神社標柱・・(左堰駅)・・・左堰橋(左堰川)・・・六枚橋(六枚橋川)・・昇龍の松・赤平家・・・熊野宮神社標柱・・・(後潟駅)・・・馬頭観音神社・・・後潟神社・・・稲荷神社・・・四戸橋(四戸橋川)・・(蓬田村)・・・地蔵堂・・・傘松観世音・・・中沢小学校記念館・・・長科橋(長科川)・・・(蓬田駅)・・・正法院・・・阿弥陀橋(阿弥陀川)・・稲荷神社・・・八幡宮標柱・・・蓬田橋(蓬田川)・・・蓬田漁港・・・(郷沢駅)・・・浜田橋(郷沢川)・・・玉松園入口標識・・津軽線線路・・玉松台・・・国道280号・・・玉松橋(板木沢川)・・・(瀬辺地駅)・・・天満宮・・・地蔵祠・・・広瀬橋(広瀬川)・・・田中邸跡?・・・(外ヶ浜町)・・・津軽藩蔵屋敷跡(青森法務局蟹田出張所跡)・・・八幡宮・・・蟹田駅(JR津軽線)
【ル-ト地図】(18.1km)
陸奥湾沿いを北上し、青森市から蓬田村、外ヶ浜町の蟹田へと進んだ。
この先、奥州街道歩きの終点する三厩から竜飛崎まではたいした距離ではないが、太宰治が小説『津軽』で「津軽の旅行は、五、六月に限る」と言っているように、来年の5、6月の楽しみとしよう。
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左堰橋を渡った右手。
盆栽の化け物か。赤平家は松前藩主の参勤交代の際の宿泊所だった。
尻八城址標識
安東氏が築いたという本州最北端にある本格的な山城。
狛馬・鳥居・観音堂、まさに神仏混交(習合)だ。
後潟神社 《地図》
旧郷社、祭神は伊邪那岐命・伊邪那美命。
四戸橋(四戸橋川)河口 《地図》
「しのへ」ではなく「しと」、風が強く白波が立っている。
橋を渡って青森市から蓬田村に入る。
地蔵(天保12年(1841))は天明飢饉の犠牲者供養のため建立されたと伝える。
百万遍供養塔(左)・右の猫が浮彫されているのは、猫の墓か動物の供養塔か?
鳥居の左側の傘を拡げたような老松が傘松のようだ。本尊は聖観音で嘉永2年(1849)、中沢村有志が発起人となり、無病息災、部落民安泰を祈願し建立、安置したもので、変事に際には黒色に変じ、ついには漆黒となり露をもらすという。
ここも馬頭観音神社と同じで、観音堂と鳥居だ。
校舎にしては小さいが。
松前藩主の参勤交代の休憩所だった。
旧村社
阿弥陀橋(阿弥陀川) 《地図》
金光上人が阿弥陀如来像(県重宝・弘前市の西光寺に安置)を掘り上げたことに由来する。
天明8年(1788)、この地を通り北海道へ渡った菅江真澄は、「さらに行くと郷沢(蓬田村)という村のあとがある。卯辰の飢饉(天明飢饉)に、漁をしても魚さえなく、犬を料理したり馬を殺して食ったころ、住む人も死にたえ、家々も焼けてしまったのだという。瀬辺地をへて広瀬(蓬田村)というところの細い流れにのぞんで「ひろせ川袖つくはかりあさきをやこころふかめてわかおもへらん」(万葉集巻七、読人知らず)と、大和とおなじ地名があるので、ここで口ずさんでみて、蟹田の宿駅を越えると川があった。綱舟をたぐってわたしている」と記す。『外ヶ浜づたい』より
フェンスの脇から線路を渡る。
江戸時代、青森港や油川港へ向かう舟は、ここの松を見て何時頃湊へ着けるかを目算し、地元の船は灯台代わりの目印にしたと伝える。
枝が円を描いていて「玉」だそうだ。
あっさりとあきらめてしまうとは人のいい庄屋だ。
玉松台から玉松海水浴場 《地図》
「たままつ海の情報館」もある。
終点が近づいてきてなんとなく寂しい感じだ。今回行かないが。
旧道は天満宮の丘よりの斜面を通っていたようだ。
標高25m
回りには百万遍供養塔
かもめが群れて、頭上を舞う。
海からの風で体感温度は低く感じる。上着を着ないと寒い。
無住のようだ。明治から大正にかけての海運業で財をなしたそうだ。
このあたりは潮が引くと海岸を歩き、海が荒れると山側を歩いたそうだ。
後で蟹田駅から青森まで乗るつもりだ。
2005年3月に蟹田町・平舘村・三厩村が新設合併して誕生した町。
津軽藩蔵屋敷跡(左・青森法務局蟹田出張所跡) 【ル-ト地図】の⑤
この先、街道は海岸沿いを行くが、津軽線は北西に離れて行く。今回の奥州街道歩きはここまでとし、この先、三厩から龍飛崎までは、来年の5月の楽しみとしよう。
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