奥州街道(清水川駅→野内駅)
2013年10月20日
清水川駅(青い森鉄道)・・・国道4号・・・旧道・・・清水川漁港・・・清水川八幡宮・・・国道4号・・・清水川大橋(清水川)・・・平内パーキング・奥州街道標柱・案内板・・・堀替川・・・(青い森鉄道)・・県道9号・・・神明宮・・・庚申塔・・・小湊橋(小湊川)・・・浄専寺・・御家中の松・・高橋竹山碑・平内代官所跡・歴史民俗資料館・・・竹内家跡(明治天皇行在所跡)・平内町役場・・かどや久末商店・・・(国道4号)・・・天明飢饉供養塔・・・奥州街道標柱・・・人形坂・・・藤沢交差点・国道4号・・・(西平内駅)・・・(青い森鉄道)・・・旧国道4号・・・ほたて広場・土屋番所跡・・・鍵懸坂跡・(青森市)・・・八大龍神宮・・・奥州街道標柱・案内板・・・浅虫温泉・・足湯公園・・椿館・・夢宅寺・・柳の湯(本陣跡)・・浅虫川・高札場跡・・・国道4号・・・うとう坂跡・・・善知鳥崎・(善知鳥トンネル)・古戦場標柱・明治天皇御休所跡碑・うとうまいの梯跡・・・久栗坂交差点・・稲荷神社・とうまい坂・・県道259号・・・根井橋(根井川)・・久栗坂漁港・・・観音寺・錦木之塚・・不動尊・・県道259号・・久栗坂・・川上神社・・・(青い森鉄道)・・・貴船川・・・(青い森鉄道)・・・野内番所跡・・当古寺・・松並木跡・・野内駅(青い森鉄道)
【ル-ト地図】
途中から雨となったが予定通り青森市に入り、野内駅まで進んだ。
写真をクリックすると拡大します。
清水川八幡宮 《地図》
かわいい狛馬が出迎えてくれた。陸奥では馬を大切にしているのが分かる。
上着を着て歩いているとちょっと暑いくらいだ。
ミニ松並木と街道碑
狩場沢と土屋の間の旅籠は、小湊に1軒あるだけだったようだ。
堀替川を渡り、浜子地区を過ぎ、青い森鉄道を越えた先で国道4号から離れ右へ入り、県道9号を沼館、小湊へと進む。
この先で右折して県道9号を北上すれば、小湊の白鳥渡来地で、夏泊半島の先端には椿自生北限地帯も椿山がある。白鳥は10月上旬頃から渡来するとは知らなかった。ここから近いのに惜しいことをした。
街道は直進する。
七戸隼人が慶長年間(1596~1614)に浜子村に創建し、寛永8年(1631)に藩命で当地に移転したという。
ちゃんと鳥居がついている。
小湊の町並み 《地図》
いずこも同じ秋の夕暮、シャッター通り商店街か。日曜日のせいもあるかも。突き当りを右折する。
このあたりは蝦夷のチャシ(砦・館)があったといわれている所で、藩政時代の明暦2年(1656)以降は津軽家黒石藩領で平内代官所が置かれ、その周辺に武家屋敷を配したことで御家中と呼ばれる小城下町を形成していた。左は浄尊寺。
推定樹齢300年のクロマツ
高橋竹山碑
津軽三味線の名人は、ここ平内町の生まれ。
右は歴史民俗資料館で「初代高橋竹山資料展示室」を兼ねている。
豪商竹内与右衛門家跡(平内町役場) 《地図》
明治天皇行在所(後ろに碑)にもなった。
寛政10年(1798)正月にこの地に滞在していた菅江真澄の『津軽のつと』に出てくる、小湊の酒屋の「久末」だそうだ。
国道4号を横切り、その先で右折して行く。
東福寺は町役場の西側にある。「昔の奥州街道」とある。
平内町が去年の10月に設置したもの。標柱に沿って西へ進む。
人形坂 《地図》
人形送り行事の人形を捨てた所という。上って下って藤沢の人形坂地区を抜ける。
藤沢交差点で国道4号に出る。《地図》
西平内駅の手前。
西平内駅を過ぎ、青い森鉄道を越え、県道9号との分岐の先で左側の旧国道を進む。
旧国道を行く。 《地図》(道の標示はない)
右上を国道4号が通っている。
車もほとんど通らない静かな道を下る。《地図》
雨が降り出してきた。
津軽家黒石藩の弘前藩領との境の番所。
今は「ほたて広場」で、ここで雨宿りで一休み。
鍵懸坂(跡) 《地図》
天明8年(1788)7月6日に菅江真澄がこの坂を越えた時にはたいそう険しい道で、大木に木の鍵が懸っていた。これは、恋する人を思いながら、縁結びの神に祈り、鍵になった切り枝を投げ、それがうまく木に懸れば思いが叶うというもので、陸奥には所々にある習俗だと記す。『外ヶ浜づたい』から
今は切り通されて傾斜はほとんどなくなってしまった。
黒石領(平内町)から弘前領(青森市)に入る。
浅虫温泉へと入って行く。平成16年9月に道の駅「ゆーさ浅虫」の展望浴場で温泉を楽しんだことがある。むろんその時には、東京から歩いて再来するとは夢にも思わなかったが。
とふ(う)まい坂の途中に一里塚があったようだ。
飲泉場と温泉玉子が作れる「温泉たまご場」もあるようだ。
棟方志功の常宿
菅江真澄が訪れた頃は夢宅庵だった。津軽三十三観音の第23番
津軽家弘前藩本陣跡
街道は、①陸奥湾沿いに進み、「うとうまいの梯」を通る。②山越えの「うとう坂」を上り、「とうまい坂」を下る。2つの道筋があったが、山越えのルートは山崩れのため全部は通じていないようだ。
善知鳥神社の「うとう考」の『烹雑の記』(滝沢馬琴)に記すように、海辺の出崎の坂。 『うとう坂表』
この下を街道が通っていたのだろう。
海沿いを善知鳥崎へと進む。
古戦場跡・善知鳥トンネル・うとうまいの梯(かけはし)跡 【ル-ト地図】の236
トンネル手前で右へ小道(うとうまいの梯跡)に入る。
『外ヶ浜づたい』(菅江真澄)には、「道は山路があってそこを馬がかよい、浜辺の道は人が磯をつたって歩いている。うとうまいの梯を渡った。岸から高い岩の上に、六尺ほどの板を渡してあり、いかにも危なそうである。」で、越後の「親不知・子不知」とともに二大険路だったという。
源頼朝に滅ぼされた奥州藤原氏の残党、大河兼任等が鎌倉軍に対して最期の防戦をした地と伝える。
この先、海岸沿いの小道を進むと、左に明治天皇御休所跡碑がある。その先は背丈ほどもある雨に濡れた雑草にふさがれて進みづらいが、戻ってトンネルを抜けるのも癪だし強行突破した。おかげで全身濡れねずみとなった。海が荒れている時は今でも通れないだろう。
振り返って見ている。
うとう坂を越えた山越えの道は、ここへ通じていた。
右へ上るのが「とうまい坂」。
浅虫の八幡宮からの道筋だ。街道は「うとう坂」を上り、「卍高野山」の左側を通って、自然歩道の道筋に合流していたのだろう。
草深く雨で靴の中はすぐにびしょ濡れだ。途中で引き返す。
久栗坂交差点から県道259号に入り、久栗坂の集落から右に入って観音寺に寄る。
錦木之塚(観音寺境内) 《地図》
①善知鳥中納言安方(青森の善知鳥神社を創建したと伝える)の妻の錦木が夫のあとを慕ってここまで来て病歿し、村人が憐れんで埋葬した墓。
②旅の途中で行き倒れになった娘の墓、供養塔。とも伝わるそうだが、①は時代が古過ぎやしないか?
また、菅江真澄は「けふのせば布」で、「錦木塚」の伝説・風習を記しているが、①・②とも全く異なる内容で、この塚とは無縁か?
久栗坂を上る。《地図》
右が川上神社で急な石段を上る。
慶長元年(1596)、当村開発の折、田地から発見された観世音像を祀る観音堂(先ほどの観音寺か?)を建立。明治初年の神仏分離の際、高龗神(たかおかみのかみ)を勧請し、川上神社と改称したそうだ。社殿の右隣に山頂薬師堂がある。
久栗坂トンネル(青い森鉄道)を越え、浦島地区から野内地区へ下って行く。
貴船川を渡り、青い森鉄道をくぐる。
津軽三関の一つ。左の松あたりに黒石藩、向かい側に弘前藩の番所があった。
ひと月の通行者が100人程度というから、番人も暇をもて余していただろう。
本尊の木彫阿弥陀如来像は県の重宝。津軽八十八カ所の第24番。
野内駅(青い森鉄道)
旧野内駅は1.6km手前にあった。2011年3月に青森駅寄りのここに移転した。駅舎は新しいが無人駅。
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コメント
はじめまして、石木別荘やうとう坂ははじめて知りました。ありがとうございます。
投稿: archscanty | 2018年4月 5日 (木) 10:06