« 2013年11月 | トップページ | 2014年5月 »

2013年12月11日 (水)

山陽道(出雲街道分岐地点→相生駅)

2013年11月20日

出雲街道分岐地点(青山の道標)・・教専寺・・・内川橋(青山川)…稲岡神社・・・国道2号・・・旧道・・・(太子町)・・・順海寺・・・山田峠・・・明治天皇山田小休所跡・・・(姫路バイパス)・・・国道2号・・・原西交差点・旧道・・・原坂・・桜井の清水跡・・・黒岡神社鳥居・・・黒岡神社・黒岡神社古墳・・・太田地蔵・・・栄橋(大津茂川)・・・国道179号・・・旧道・・鵤宿・・斑鳩寺・・北向地蔵・・・阿宗神社標石・・・茶屋垣内地蔵尊・・・誉鳩橋(林田川)・(たつの市)・・旧道・・・乗願寺・・・皇神社・・・揖保小学校・・・揖保中交差点・国道2号・・・揖保川大橋(揖保川)・・旧道・・(山陽本線)・・正條の渡し跡・室津街道分岐地点・・・道標・正條宿・・浄栄寺・・本陣跡井口家・・・(竜野駅)・・・三枚橋(馬路川)・・・片島宿・・地蔵堂・・了福寺・・本陣跡・・荒神社・・荒神橋(馬路川)・・・西池・・(相生市)・・・(山陽新幹線)・・神戸若宮神社・・・岩谷川・・・古池大谷川・・・普光沢川橋・・・陸橋(鮎帰川)・・・道標・・・相生駅(JR山陽本線)

   【ル-ト地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_8580青山の道標(安政2年(1855))・出雲街道追分 《地図

「左 備前 九州 金毘羅 宮嶋往来」で、山陽道は左折。
「右 因州 伯州 作州 雲州 往来」で、出雲街道は直進。出雲街道は佐用宿までは因幡街道と同じ道筋で「因伯雲作往来」といった。

Img_8590
青山の家並み

Img_8594稲岡神社 《地図

ここは「播磨風土記」の十四の丘の一つ、「稲牟礼丘」の麓。

Img_8595説明板①

Img_8597説明板②

Img_8600お陰参り図絵馬(複製)(文政13年(1830))

絵の下の部分がお陰参りの様子。

国道2号に合流し、青山南で左に入り、順海寺の手前で太子町に入り、南に進み山田峠へと上る。

Img_8610順海寺 《地図

播磨四国八十八ヶ所の第12番

Img_8611山田峠 《地図

峠といっても高くはない。下り始めると左側に「山陽道山田峠」の標柱がある。

Img_8620「明治天皇山田御小休所跡碑」(左の民家内)

姫路バイパスをくぐり国道2号に出て、原西交差点で右に旧道に入る。

Img_8626旧家

Img_8628原坂を下る。《地図

Img_8634桜井の清水跡(原坂の途中の左側)

播磨十水というが、涸れているのか石の囲いと蓋がしてある。

Img_8631説明板

もう「薬」はおろか飲めもしない。

Img_8635城山楯岩城址」標識

赤松則弘が築いた北方の城山(250m)にある中世の山城。 姫路藩士の小屋左次右衛門が描いた見取り図によると、現在のテレビ塔の所が本丸で、南と西北に伸びる屋根上に、二の丸、三の丸を設けたかなり大規模な山城であったと記す。巨岩がのように立ち並んでいるところから、この名がつけられたという。『太子町観光協会』のHPより

Img_8637黒岡神社鳥居

Img_8641黒岡神社 《地図

祭神は新羅の大軍を討伐したという藤原貞国と、菅原道真。

Img_8647_2黒岡神社古墳

天神さんの牛が墓守をしている。

Img_8642説明板

Img_8644石室前

家型石棺の蓋に「藤原貞国掾塚」と刻まれている。この古墳を藤原貞国の墓として盗用(再利用?)したということ。

Img_8645片袖式石室

蓋と底石を持ち去られた家型石棺の無残な姿。

Img_8653太田地蔵堂

Img_8656子授け延命地蔵

行基の作とか。

国道179号に合流し、東俣交差点の先で旧道に入る。

Img_8662左へ旧道に入ると鵤宿だ。《地図

斑鳩寺の門前町として発展し、継立業務はなかった。本陣も街道沿いにはなく、門前の鵤新町にあった。

Img_8666斑鳩寺地図

Img_8669説明板

Img_8670三重塔

斑鳩寺の文化財

門前から街道に戻る。

Img_8685北向地蔵(正面)

Img_8689鵤宿の家並み 《地図

寂びしい通りになっている。この先に神戸燐寸の工場がある。

Img_8690阿宗神社標石

「従是北八丁廣山村鎮座」・「式内阿宗神社」で、北方の「たつの市」にある。

Img_8694茶屋垣内地蔵尊

Img_8696地蔵

にこやかというか、力んでいるようにも見える。

この先で林田川の土手に突き当たる。誉鳩橋(林田川)を渡ってたつの市に入る。

Img_8697誉鳩橋(林田川)

このあたりから渡し船で渡り、文久3年(1863)には橋が架けられたそうだ。

Img_8700橋を渡って土手を下り、旧道の続きを行く。《地図

乗願寺前で左に進む。

Img_8710桑の木(揖保小学校校庭) 《地図

龍野の生まれの詩人、三木露風の童謡♪「赤とんぼ」。これは「記念植樹」で、歌詞は「山の畑の桑の実」だから歌われたのはこの木ではなかろう。
三鷹市の大盛寺の墓地には墓がある。『人見街道』に記載。

Img_8709説明板

Img_8712播州手延そうめん工場

出雲街道の「そうめんの里」で「揖保之糸」を食べたことを思い出した。

山陽本線の踏切手前で右折し、国道2号の揖保中交差点に出る。《地図

Img_8717揖保川(揖保川大橋)を渡る。

街道は山陽本線の少し下流を、「正條の渡し跡」で渡っていた。出雲街道は「寝釈迦の渡し」で渡っていた。

Img_8722正條の渡し跡  《地図

室津街道(直進)と山陽道(右へ)とが交わる交通の要所で、数隻の高瀬舟が待機していた。西国の大名たちは瀬戸内海は航路を使い、室津港から室津街道を通って北上し、ここ正條宿から山陽道で姫路方面に向かった。大名行列ともなると舟が足りず、対岸の揖保村や真砂村から借りたという。
明日、室津街道を歩く予定だったのだが・・・・。(翌年の11月25日に歩いた)

Img_8727道標(明治15年・揖保川郵便局脇)

「右飛免ぢかうべ 左た津の山さき 道」(姫路・神戸・龍野)で、街道は右折して正條宿へ入る。左折して浄栄寺に寄る。

Img_8734浄栄寺山門

龍野城の東門を明治7年に移築。別名を「すかし門」ともいい、見張り部屋がついた門で、閉門時にも城に近づく者を監視することができた。総けやき造り、釘を使っていないのが特長。

Img_8739本陣跡井口家

「明治天皇御駐輦趾」碑・「明治天皇正條行在所」碑が立つ。建物は、すべて建て替えられている。

Img_8743正條宿の家並み 《地図

Img_8744米穀店

竜野駅前を通り、馬路川を渡り、片島宿へ進む。

Img_8752左に片島宿に入る。《地図

Img_8756家並み

片島宿と正條宿の間は2kmほどで、継立て業務は、正條宿と有年宿、片島宿と姫路宿の間で行った。

Img_8758了福寺 《地図

本陣の門を移築。

Img_8760本陣跡山本家

左に「旧片島本陣趾」標柱

Img_8763荒神社(荒神橋(馬路川)の手前) 《地図

Img_8772天井の絵馬

「義経の鵯越」など

Img_8779西池 《地図

この先で相生市に入り、山陽新幹線をくぐる。

Img_8784神戸若宮神社 《地図

少し上に子守荒神の祠がある。

岩谷川→古池大谷川→普光沢川→鮎帰川を渡って行く。この間、見所は少ない。

Img_8798道標(正面のミラーの左) 《地図

「是より右さいこくみち」・「是より左あ加本城下みち」(赤穂城下道)で、右が山陽道(西国道)。
今回の山陽道歩きはここを終点とし、右へ相生駅に向かった。
明日は室津街道を歩く予定だったのだが、2、3日前から風邪気味でのどが痛く、その夜に発熱した。翌朝、やむなく姫路から新幹線で帰京した。家に着くまでの半日は街道歩きの難所よりきつかった。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年12月 9日 (月)

山陽道(加古川駅→出雲街道分岐地点)

2013年11月19日

加古川駅(JR山陽本線)・・・加古川宿・じけまち(寺家町)商店街・・本陣跡あたり・・陣屋(山脇邸)跡・・・国道2号・・・称名寺(加古川城跡)・・・加古川の渡し場跡・加古川橋(加古川)・・旧道・・国道2号・・旧道・・・妙見宮・・・福正寺・・・(高砂市)・・宝殿駅・尉と姥の像・・・道標・・・一の坪踏切(山陽本線)・・・一の鳥居(生石神社)・・・山片幡桃旧宅・・・道標・・・覚正寺・・・(国道2号)・・・道標・魚川橋(法華山谷川)・・阿弥陀町地区・・・安楽寺・・・旧魚橋郵便局舎・土田家住宅・・・正蓮寺・佐々木すぐる生育の地碑・・・魚橋西交差点(国道2号)・・・白森稲荷神社・・・地蔵院・明治天皇小休所跡・・・公民館・・・村南一踏切(山陽本線)・・・時光寺・・・不断寺・・・道標・・・(曽根駅)・・・大日池・・・豆崎交差点・国道2号・・・旧道・・・(姫路市)・・・播州倉庫・・国道2号・・佐突駅家跡・・旧道・・・六騎塚・・・大池・小林池・・・日吉神社参道・・・安養寺・・・弁慶地蔵堂・・・別所口西交差点・国道2号・・・佐土橋(佐土川)・・・(播但連絡道路)・・・御着宿(間の宿)・・福乗寺・・延命寺・明治天皇小休所跡碑・・本陣跡(御着公会堂)・・徳証寺・・小寺大明神(御着城本丸跡)・・御着城跡・黒田家廟所・・・天川橋(天川)・・・播磨国分寺跡・・・横田西踏切(山陽本線)・(山陽新幹線)・・・道標・・・一里塚跡標柱・・・道標・・・神明大神宮・・・日本廻国塔・・・(山陽新幹線・JR山陽本線)・・・一本松交差点・国道2号・・市川橋(市川・一本松の渡し跡)・・旧道・・・地蔵院・・・宝積寺・・九所御霊天神社・・・善休寺・・(播但線)・・・京口橋(外堀川)・・・外京口門跡(東光中学校)・・・内京口門跡(賢明女子学院)・・・寺町筋(五軒邸地区)・・・播磨国総社(射楯兵主神社)・・・二階町商店街・・(大手前通り)・・西二階町商店街・・姫路宿本陣跡・・・船場川・・・本徳寺・・・(国道2号)・・・船繋岩・・・初井家住宅・・・西国街道にしまちや・・・車崎東交差点(国道2号)・旧道・・・水尾川・・・東今宿地区・草上駅家跡あたり・・・今宿西交差点・国道2号・・・(JR姫新線)・・・旧道・・・国道2号・夢前橋(夢前川)・旧道・・・青山の道標・出雲街道追分

  【ル-ト地図

 写真をクリックすると拡大します。

Img_8250加古川宿 《地図

じけまち(寺家町)商店街を通って行く。

Img_8256説明板

光念寺の北側が本陣(中谷家)跡だが、説明板などは見当たらなかった。

Img_8252旧家

Img_8254陣屋跡(右)

「人形の店陣屋」の右隣。

Img_8255説明板

国道2号に出て、加古川橋を渡る前に加古川城跡の称名寺に寄る。

Img_8270称名寺地図

Img_8265説明板

Img_8266説明板(文化財)

Img_8269七騎供養塔

Img_8268説明板

Img_8271加古川を渡る。

左の川の中の石積みが復元された「加古川の渡し場」跡。

西詰から左に渡し場跡の続きの道に入り、国道2号に出る。

Img_8275平津交番の所で右に旧道入る。《地図

Img_8283尉と姥の像(宝殿駅前)

ここは高砂市で、「♪高砂や~」の発祥地ということ。

Img_8284碑文

Img_8286道標

「左石寶殿 コレヨリ十三丁」で、石の宝殿と呼ばれる巨大な石造物を神体とする、生石(おうしこ)神社への道標。

この先で一の坪踏切(山陽本線)を渡る。

Img_8292生石神社一の鳥居

鳥居をくぐっても道は続いていない。

Img_8294山片幡桃旧宅(左)

「幼時、父と酒屋を営んでいた家跡」とある。

Img_8295道標

「是より 石能ほう(でん)」で、これも石宝殿への道標。

Img_8301山片幡桃顕彰碑(覚正寺) 《地図

Img_8307道標(大正5年・魚川橋の東詰) 《地図

「左 志方 法花山 清水」で、西国三十三ヶ所の26番札所法華山一乗寺と、さらに北の25番札所御嶽山清水寺への道標。魚川橋は法華山谷川に架かる橋。

Img_8311旧魚橋郵便局舎・土田家住宅

洋風建築に建て替えられる前は、土田家住宅の一部だったようだ。

Img_8315土田家住宅

Img_8318正蓮寺 《地図

Img_8322佐々木すぐる生育の地碑(正蓮寺門前)

♪「月の沙漠」の作曲家、千葉県の御宿には月の沙漠記念館・記念像がある。『伊南房州通往還④』に記載。

Img_8320説明板

Img_8326魚橋西交差点で国道2号を横切り、左に入り阿弥陀町地区へと進む。 《地図

Img_8333地蔵院 

明治天皇小休所跡碑

Img_8336公民館

この手前で左折し、村南一踏切(山陽本線)を渡って時光寺に寄る。

Img_8343時光寺地図

「播磨善光寺」とも呼ばれ、阿弥陀村(町)の由来の寺だが、今はここは時光寺町。

Img_8350畧縁起

これで「畧」かね?

Img_8346宝篋印塔(康暦2年(1380))

時光寺の門前

Img_8344説明板

街道に戻る。

Img_8351不断寺

「正四位児嶋範長公之墓」(南朝の忠臣の児島高徳の父)があるそうだが、門は閉ざされていて入れず。

Img_8354道標5基(県道の高架下に移されたもの) 《地図

①「右 曽祢之松 道」は、曽根天満宮の曽根の松。
②「左 おうくわん」は、「往還」で山陽道(西国街道)のこと。
③「右 時光寺道」
④「右 高砂十輪寺道」は、圓光大師二十五番霊場の3番十輪寺。
後ろの⑤「是より ○○高砂 ○○ミち」

豆崎交差点手前で左折し国道2号を横切り、右に旧道に入ると姫路市になる。

Img_8360播州倉庫に突き当たって街道は途切れる。

手前の用水路の縁を歩いて国道2号に出る。雑草の朿がズボンや靴に刺さってしまい、取るのに一苦労した。

Img_8364佐突駅家(さつちのうまや)跡 《地図

古代山陽道の駅家跡。『古代山陽道の駅家(うまや)を辿る

播州倉庫の先の旧道の続きに戻る。

Img_8369六騎塚

ここも児嶋範長らの史跡。

Img_8367説明板

Img_8371大池

Img_8373日吉神社参道 《地図

遥拝のみ。

Img_8375安養寺

Img_8379弁慶地蔵堂

Img_8378弁慶地蔵(天文22年(1553))

弁慶がここを訪れた時は、地蔵堂はあったが地蔵はなかったということになるが。まあ伝承だからよろしかろ。

Img_8377説明板

弁慶、西行らの落し胤はあちこちにいたのだろう。

別所口西交差点(国道2号)を横切り、佐土川を渡り御着(ごちゃく)宿へと進む。

Img_8387御着宿(間の宿)

地名の由来は神功皇后が上陸したとか、国分寺造営時に聖武天皇の勅使が着いたなどの説があるそうだ。主として西国大名が東上の際宿泊した。

Img_8396旧家

Img_8397井内家住宅

Img_8398延命寺 《地図

右に「明治天皇御着御小休所跡」碑

Img_8401大歳神社

Img_8404小原家住宅

Img_8405本陣跡(御着公会堂の所)

天川家が勤めた。

Img_8406説明板

Img_8416御着城跡(天川城跡) 《地図

ここは本丸跡の小公園内の小寺大明神。黒田官兵衛は小寺氏の家臣だった。

Img_8415説明板

Img_8412天川城跡碑

「小寺城主の奥津城」とある。

Img_8419御着城跡(姫路市東出張所の建物)

前の広場は「ひめじ官兵衛」の幟がはためいている。来年のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』で盛り上がるか。

Img_8423説明板

Img_8426黒田家廟所

官兵衛の廟ではない。

Img_8427説明板

御着宿を抜け、播磨国分寺跡に寄る。

Img_8463播磨国分寺跡  《地図

塔跡から燈籠(復元)・講堂・現国分寺方向。

Img_8448伽藍配置図

Img_8457築地塀(復元)

街道に戻る。

Img_8464山陽本線を渡り、山陽新幹線をくぐって行く。《地図

Img_8468道標(ミラー標識の右下)

振り返って見ている。「右かみすヾ 左うしどう山」で、「上鈴」と「うしどう山」は牛堂山国分寺(現国分寺)のこと。

Img_8469「山陽道 一里塚跡」標柱」(左)

ここは「姫路ヨリ一里、摂津西ノ宮ヨリ十四里」で、前後の一里塚は、東は高砂市豆崎、西は姫路市下手野にあったようだ。

Img_8471道標(安政6年(1859))・電柱右の草の中)

「右やかじぞう是より一リ」・「右ヒメジ 左神戸」で、八家地蔵は「播州名所巡覧図絵」にも描かれた名所だったそうだ。

Img_8479印鐸(いんたく)神社標識 《地図

左に入って行ってみる。

Img_8477太神宮(神明大神宮)

印鐸神社はここを西に上った所にあるようだ。印鐸は「印鑰」(いんにゃく)のことだろうか? 播磨国府跡(播磨国総社付近)とはだいぶ離れているが。

Img_8482日本廻国塔

Img_8481説明板

この先に左手に「山脇の溺死菩提碑」があるのだが、右にあると勘違いして見過ごした。
右折し山陽新幹線・JR山陽本線をくぐって一本松交差点(国道2号)に出る。

Img_8488市川橋を渡る。《地図

「一本松の渡し」で渡っていた。

橋を渡って右斜めに旧道は続いている。《地図

Img_8495宝積寺

左に石仏が並ぶ祠。

Img_8494豆大師たち

Img_8496九所御霊天神社 《地図

桂米朝の実家で、父親がこの神社の神主を務めていたそうだ。

Img_8500播但線をくぐって行く。

右は善休寺

Img_8505外京口門跡(東光中学校前) 《地図

姫路城の外濠の5つの門(外京口門、北条門、竹ノ門、飾万門、福中門)の1つで城下への東の入口。京都方面への道筋にあるのでこう呼ばれた。

Img_8506説明板

Img_8516内京口門跡(賢明女子学院前) 《地図

Img_8524寺町筋 《地図

五軒邸地区に「大法寺」、「圓光寺」など5寺が集まって、「寺町」を形成している。

Img_8530播磨国総社(射楯兵主(いたてひょうず)神社) 《地図

Img_8533鬼石(境内社の案内社八幡宮前)

源頼光が大江山の鬼(酒呑童子)を退治して、その首を埋めた所だとか。

街道に戻る。姫路城など姫路城下は、『出雲街道①(姫路→觜崎宿)』・『出雲街道②』に記載。

Img_8540二階町商店街→(大手前通り)→西二階町商店街へと進む。 《地図

ここも「官兵衛」だ。

Img_8543本陣三木家跡

西二階町の左の那波店の所。本陣は3軒あったようだ。

Img_8542説明板

Img_8546本徳寺(船場御坊) 《地図

Img_8550説明板

Img_8549境内図

Img_8552望郷塚

第一次世界大戦中、ドイツ軍捕虜の収容所として境内が使用されて、捕虜が作ったドイツの城の模型だそうだ。

国道2号を横切り、船場東ビルの間を抜けて行く。

Img_8557船繋ぎ岩 《地図

今は庭石となっている。ここは江戸時代には「せんざき屋」という大商家があった所。

Img_8556説明板

Img_8559初井家住宅

歌人・初井しづ枝の過ごした家。

Img_8565農人町の「のこぎり状」の家並み

姫路城の防衛のため、城下で数ケ所見られる特徴というが、「鋸状の家並み」は各地にあり、その理由も様々だ。

Img_8572「西国街道にしまちや」(右) 

左にカーブして国道2号の車崎交差点の方へ進む。

Img_8574旧家

Img_8577車崎東交差点(国道2号)前 《地図

旧道は左へ入って行く。東今宿(1~4丁目)あたりに草上(くさかみ)駅家跡があったようだ。。『古代山陽道の駅家(うまや)を辿る

この先、夢前橋→青山の道標(出雲街道追分)《地図》までは、『出雲街道①(姫路→觜崎宿)』に記載。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年12月 6日 (金)

山陽道(朝霧駅→加古川駅)

2013年11月18日

朝霧駅(JR神戸線)・・・朝霧橋(朝霧川)・・・旧道・・明石宿(大蔵谷宿)・・題目塔・・明石藩大砲練習場あたり・・穂蓼八幡宮・・受持姫大明神・大蔵会館・本陣跡・・稲爪神社・・大蔵院・・枡形・・道標・・忠度塚・・人丸前交差点・国道2号・道標・・腕塚神社・・(山陽電鉄・JR線ガード)・両馬川旧跡碑・・馬塚跡・・長寿院・・柿本神社・・月照寺・・国道2号・・休天神社・・枡形・道標・日本標準時子午線通過地標・・・朝顔光明寺・・・明石駅・・明石城跡・・・本町1番街・・高札場跡あたり・・・大観橋(明石川)・・・山陽電鉄踏切・・JR神戸線ガード・・・十輪寺・・・和坂(かにがさか)・・坂上寺・・・西明石町5丁目交差点・国道2号・・・旧道・・・割池跡あたり・・・西明石駅(山陽新幹線)・・・雲楽池・・(国道2号)・旧道・・大久保宿(間の宿)・・住吉神社・・常徳寺・・本陣跡安藤家・・大久保橋(谷八木川)・・・大谷橋(東川)・・・明治天皇小休所跡・・・(JR大久保駅)・・・大久保西交差点・国道2号・・・富士通工場・・・西脇橋(赤根川)・・・大池東交差点・旧道・・・金崎宮鳥居・・金崎宮・・・道標・・・正覚寺・・・亥ノ池・・・長坂・・・古前中池・・・大道池・邑美駅家跡あたり(長坂寺遺跡)・・・長池・・・水争い記念碑?・・・五輪塔・・・清水神社・・・西福寺・道標・・・瀬戸川橋・・・清水橋(清水川)・・・道標・・・稲荷社・・・(加古川市)・・・土山橋(喜瀬川)・・・土山薬師・・・勝負下踏切(JR神戸線)・・・五社大神社・・・高畑薬師堂・・・長松寺・・・国道2号・・・旧道・・・西谷八幡神社・・・新在家第2公園・・・五輪塔・・イオン加古川・・東加古川ハイタウン・・・道標・野口神社・・・教信寺・・・(国道2号)・・駅ケ池・・賀古駅家跡(古大内遺跡・大歳神社)・・・宝篋印塔(伝和泉式部墓)・・・おりい坂・おりいの清水跡・観音堂?・・・二号橋(別府川)・・・平野東交差点・国道2号・・・旧道・・・龍泉寺・・・胴切れ地蔵・・・加古川駅(JR山陽本線)

  【ル-ト地図

 写真をクリックすると拡大します。

Img_7929明石宿(大蔵谷宿)へ入る。《地図

江戸時代には山陽道屈指の宿場として栄えたという。

Img_7935説明板(大蔵会館前に設置)

Img_7933穂蓼(ほたて)八幡神社

推古天皇の頃、三韓から侵攻してきた不死身の鉄人を討った越智益躬(おちのますみ)を祀る。
神社の東側に明石藩大砲練習場があったそうだ。

Img_7931説明板

Img_7934本陣跡(右の大蔵会館の向い側あたり)

鳥居は受持姫大明神

Img_7937稲爪神社地図

三韓から侵攻してきた不死身の鉄人の討伐を命じられた越智益躬は、故郷伊予の大山祇神社(三嶋大明神)に成就を祈った。鉄人が明石に着いた時、大山祇神が姿を現し、鉄人の弱点の足の裏を射よと告げた。お告げにより益躬は鉄人を矢で射殺した。 益躬は感謝して、この地に大山祇神社を勧請したという。
秋の大祭には、鉄人が乗って来たという牛に因んだ、「大蔵谷の牛乗り」が行われる。

Img_7940旧家

Img_7943大蔵院

嘉吉の乱の赤松満祐の弟の赤松祐尚夫妻の墓がある。

Img_7942説明板

Img_7945桝形 《地図

街道はここを左折しすぐ右折して行くのだが、右折して源平のゆかりの所などに寄り道する。正面は明石人丸教会。

Img_7946道標

南面:「左たゞのり道」、北面:「右へ 半丁 忠度塚」 (『山陽道の道標』による)

ここを左に入って忠度塚へ。

Img_7948忠度塚

中山道深谷宿の先に、平忠度の供養塔(清心寺境内)、忠度を討った岡部六弥太忠澄の墓が普済寺近くの墓地にある。『中山道(熊谷宿→本庄宿)』に記載。

Img_7949説明板

Img_7950道標(万延元年(1860)) 《地図

東面:「右 人磨山三丁」、南面:「正一位柿本大明神道」、西面:「左 人丸山三丁」で、柿本神社への道標。

Img_7955腕塚神社

祭神は岡部六弥太に右腕を斬り落されたという平忠度で、腕・腰の病にご利益ありという。

Img_7956由緒碑

Img_7958両馬川旧跡碑(山陽電鉄ガード下)

平忠度と岡部六弥太が馬を並べて戦ったため「両馬川」と呼ばれた川があった。

Img_7959説明板

Img_7966馬塚跡標柱

琵琶の名手の平経正の馬を埋めた所という。背後は明石藩主松平家廟所で、その向うが東経135度日本標準時子午線の真上の明石市立天文科学館

Img_7974柿本神社地図

Img_7972由緒

Img_7977門前から明石海峡

水平日時計・右は芭蕉句碑「蛸壺やはかなき夢を夏の月」(『笈の小文』の最後の句)で、背後に天文科学館の塔がそびえる。

Img_7980子午線標示柱

Img_7979説明板

Img_7982月照寺山門

もとは伏見城の薬医門→明石城の切手門.

Img_7983説明板

Img_7987本堂

右は八つ房の梅

Img_7986説明板

800mほど北方の高家寺(太寺廃寺跡)あたりが、古代山陽道の明石駅家跡という。「菅公旅次遺跡」碑もあるそうだ。《地図》 『古代山陽道の駅家(うまや)を辿る

「途に在りて、明石の駅亭に到る。駅亭の長、見て驚く。驚くことなかれ 時の変改するを 一栄一落 是れ春秋」(『菅家後集』)

Img_7990休天(やすみてん)神社道標

Img_7991休天神社 《地図

鳥居をくぐった右側に「菅公駐駕驛長宅址」の石柱がある。ここが大宰府へ左遷される途中の菅原道真が休んだ(泊まった)明石の駅長宅跡ということか。明石駅家跡とされる高家寺からはかなり離れてはいるが。

枡形へ戻って街道を行く。

Img_7999枡形

右に道標(慶応元年(1865))
東面:「右 か古川 ひ免ぢ 道」、北面:「左 ひゃうご 大阪 道」

中央に「日本標準時子午線通過地標」

Img_7998説明板

Img_8004光源氏月見の池(朝顔光明寺) 《地図

まあこんなもんとは思っていたが、せめて水くらい張って欲しいね。

すこし離れているが明石駅の北側の明石公園に寄る。

Img_8010明石城巽櫓 《地図

Img_8018案内図

街道に戻り本町一番街を進む。

Img_8028高札場跡(本町2丁目交差点) 《地図

Img_8031大観橋を渡り、右に入って行く。

明石川は徒渡りで、橋の西詰に姫路門が設置されていた。

山陽電鉄踏切を渡り、JR神戸線ガードをくぐって行く。

Img_8038焼け残った杉(十輪寺) 《地図

「太閤さんの木やで」の老人の一言で、残ったという。

Img_8037説明板

Img_8040和坂かにがさか)の上りとなる。《地図

道行く人に悪さをしていた古狐を、大池に棲む大蟹が退治した。今度はその大蟹が驕り高ぶって、この坂を行き交う人たちを襲った。諸国巡礼中の弘法大師が大蟹を岩(蟹塚)に封じ込めたという伝説の「蟹が坂」で、大蟹が棲んでいた池は、埋めたてられて浄水場になり、池の中の島にあった「蟹塚碑」が近くの公園に移され残っているそうだ。

Img_8043坂上方向

途中の右側に坂上寺がある。このあたりの地名は「和坂」で、今は「わさか」と読んでいる。

Img_8041坂上寺

「かにがさかのお大師さん」で、右は鯖をぶらさげている弘法大師像。四国八十八札所には鯖大師(番外霊場別格第四番)があり、近くの馬ひき坂には、鯖大師伝説がある。『四国遍路道(徳島県②)』に記載。

西明石町5丁目交差点で国道2号に出て、松の内交差点の先で左に旧道に入る。

Img_8049旧道に入り西明石駅をくぐって行く。

Img_8050割池跡あたり

正面が山陽新幹線の西明石駅

Img_8051説明板

これを書いたのは沢地小学校の6年生。

西明石駅をくぐって行く。

Img_8055雲楽池 《地図

水面が見えない。

国道2号に出て、斜め左に入ると大久保宿だ。

Img_8059大久保宿(間の宿) 《地図

右は住吉神社

Img_8064家並み

左の東蔵は住吉神社の屋台蔵。谷八木川の先に西蔵があるようだ。先の右側は常徳寺。

Img_8070本陣跡(安藤家)

Img_8082明治天皇大久保小休所建物

Img_8086旧家

JR大久保駅前を通り、大久保西交差点で国道2号に出る。

Img_8089富士通工場 《地図

街道は工場の敷地内を斜めに横切っていた。

大池東交差点で右折し、旧道の続きを行く。

Img_8097金崎宮鳥居 《地図

Img_8099金崎宮

もとは約1.8mの黒岩を神体とする「黒岩神社」だった。住吉神社を合祀して改称した。

街道に戻らず金崎宮の前の道(大山寺道)を進むと西国街道(山陽道)との分岐に出る。

Img_8101道標「左 山寺道」で太山寺(神戸市西区)への道。 《地図

振り返って見ている。右が西国街道(山陽道)で鳥居前からの道はここへ通じている。

Img_8109長坂を上る。《地図

左は亥の池

Img_8116道標(古前中池前) 《地図

「魚住之太子道」・「小式部内侍祷之松」らしいが、かすれていて判読困難。
①「魚住之太子」は南方の遍照寺のこと。
②和泉式部が娘の小式部内侍の死を悼んで植えた「祷(いのり)の松」が街道付近にあったそうだ。(『和泉式部の足跡を訪ねる』の「山陽道に沿って」)
この先、加古川市に入ると和泉式部の墓だとされる宝篋印塔がある。(後述)

Img_8118大道池(長坂寺(ちょうはんじ)遺跡・邑美駅家あたり)

発掘調査で寺院跡ではなく、古代山陽道の駅家跡と推定されている。ただし早くに廃止されたらしく、その名前は記録に残っていない。そこで古代の地名の「邑美郷」や聖武天皇が行幸したという「邑美頓宮」にちなんで(仮称)「邑美駅家」(おうみのうまや)と呼んでいる。参考:『古代山陽道の駅家(うまや)を辿る

長坂寺遺跡」の標柱を探して池の回りをうろついたが見つからず。

Img_8126記念碑

弘化年間(1844~47)の水争いの勝訴記念碑?

Img_8132五輪塔(貞和2年(1346))

清水神社手前の左側の墓地の中。

Img_8131説明板

Img_8134清水神社地図

Img_8137説明板

清水のオクワハン

Img_8139道標(左の民家前)、右は西福寺。

東面:「是よ里 者り満名所道」(是よりまりま名所道)
南面:「左 別府手まくらの松 をのへの可年(かね) 高砂相生末川(松)」
西面:「右 岩岡 あかし 道」
北面:「世話方 松葉屋長・・・」
『山陽道の道標』(西福寺前の道標)による。

Img_8147道標

東面:「左 二見」、西面:「右 江井ヶ島」、北面:「右 三木」

Img_8149稲荷社(右) 《地図

この先で加古川市に入る。

Img_8153土山地区を進む。

Img_8157土山薬師

Img_8158薬師像

JR神戸線の踏切を渡って行く。

Img_8161五社大神社 《地図

Img_8163平岡町の家並み

Img_8168天童山老典座和尚と若き日の道元禅師の像(長松寺) 《地図

Img_8167碑文

国道2号に出て平岡小学校の先で右に旧道に入る。

Img_8174西谷八幡神社(右) 《地図

Img_8177説明板

新在家第2公園前の二又を左に進む。

Img_8183イオン加古川の敷地を突っ切って行く。《地図

手前右に五輪塔

Img_8186五輪塔(室町時代初期)

Img_8184説明板

足利左馬頭義氏の墓が何故ここに? 義氏の墓は足利市の法楽寺にある。まあ墓はいくつあっても構わないが。

Img_8188東加古川ハイタウンを抜けて行く。

Img_8190旧道の続きとなる。《地図

Img_8191野口神社(五社宮)

主神は日吉(ひえ)大神で、比叡山延暦寺の守護神日吉大社から分霊を迎え、のちに四柱の神を合わせ祀ったという説もある。
角に道標がある。東面:「東 大野村在」 、南面:「南 式内日岡神社」、西面:「西 廿五丁」。

近くの野口城では秀吉の播磨攻めの時、黒田官兵衛が指揮する秀吉軍と、野口城の城兵・教信寺の僧兵が戦い落城した。

Img_8200随身門(大門)

Img_8197説明板

Img_8208教信寺

Img_8207説明板

Img_8215駅ケ池(うまやがいけ)

教信寺の開基の教信が地元の人々と造った溜池という。

Img_8213大歳神社 《地図

古大内遺跡で賀古駅家(かこのうまや)跡

Img_8212説明板(賀古駅家跡)

駅馬40匹を常備した当時の日本最大の駅家だったそうだ。

街道に戻る。

Img_8220宝篋印塔(伝和泉式部墓) 墓地の先の右側。

和泉式部の墓は兵庫県伊丹市の西国街道沿い、京都府木津川市の山背古道沿い、中山道の御嵩宿の手前にもある。全国に15ケ所くらいあるそうだ。

Img_8221説明板

Img_8225おりい坂を下る。《地図

今は傾斜はゆるい。右に「おりいの清水」の説明板がある。坂名はそれで知った。

Img_8223説明板

平野東交差点で国道2号に出て直進し、旧道に入る。

Img_8233旧道 《地図

Img_8240五輪塔(龍泉寺)

康永3年(1344)の銘があるそうだが、暗くて分からず。

Img_8236説明板

Img_8242胴切れ地蔵堂

Img_8244胴切れ地蔵

西国街道を通る大名行列の前を横切った男が侍に斬られたが、ふと気がつくと何事もなく無事だった。あたりを見回すと、普段お参りしている地蔵の胴が2つに割れていた。地蔵が男の身代わりになったのだ。以来、地元の人々は、この地蔵を「胴切れのお地蔵さん」と呼ぶようになったとさ。
もうあたりは暗くなって不審者と思われそうで、切られた胴は確認しなかった。後ろに回れば見られたようだ、残念。

Img_8246「うだつ」が2階の中央にある旧家

聖徳太子建立七大寺の一つともいう鶴林寺にも寄りたかったが、もう5時半を過ぎていてあきらめた。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2013年12月 1日 (日)

山陽道(神戸駅→朝霧駅)

2013年11月17日

神戸駅(JR神戸線)・・・兵庫宿湊口惣門跡・湊八幡神社・・・(国道2号)・・七宮神社・・岡方惣会所跡・・札の辻跡・道標・・大和田泊の石椋・・新川運河・・来迎寺・・兵庫城跡碑・・住吉神社・・清盛塚・琵琶塚・・真光寺・・和田の笠松歌碑(須佐野公園)・・能福寺(兵庫大仏)・・(国道2号)・・福海寺・・柳原蛭子神社・柳原惣門跡・・・兵庫駅北口交差点・・・長田交差点・・長田橋(新湊川)・・長田神社・・苅藻川・・・県道21号・・・蓮の池跡(西代蓮池公園)・・・道標4基(蓮池小学校内)・・・三の井橋(妙法寺川)・・・須磨橋・(阪神高速神戸3号線)・・・浄徳寺・・・厄除八幡神社標柱・・・山陽電鉄踏切・・松風村雨堂・・・元宮長田神社・菅の井跡・須磨駅家跡・・・国道2号・・須磨駅(JR神戸線)・・村上帝社・・・源平史蹟戦の濱碑・・・敦盛塚・・・塩屋橋(塩屋谷川)・・・福田橋(福田川)・・・玉林禅寺・・・海神社・・・(JR神戸線)・地蔵・・・山陽電鉄踏切・・・五色塚古墳・小壺古墳…国道2号・・・舞子公園・・(明石海峡大橋)・・舞子砲台跡・・・国道2号・・・舞子延命地蔵尊・・・旧道・・・舞子六神社・・・国道2号・・・山田橋(山田川)・・・(明石市)・・・大蔵海岸公園・・朝霧歩道橋・・朝霧駅(JR神戸線)

 兵庫宿は見所が多く時間を費やした。須磨地区は『神戸市の坂』で歩いているので、街道筋を通り抜ける。途中、神戸マラソンのランナーたちとすれ違った。ランナーではなく、ウォーカーだったが。
 五色塚古墳から明石海峡の眺めを楽しん後、若者たちで賑わう舞子公園に寄り、明石市に入り夕暮れせまる頃に朝霧駅に着いた。

  【ル-ト地図

  写真をクリックすると拡大します。

Img_7623湊口惣門跡 《地図

湊八幡神社前で、ここが兵庫宿の東の出入口。門があり、番所が置かれ、高札場があった。湊口の東は旧湊川で、慶応元年(1865)まで橋は架けらず、降雨のあと水量が増えると通行止になり、参勤交代の一行や旅人が兵庫津の町にあふれたという。

Img_7621説明板①

Img_7622

Img_7616迷い子しるべ石(明治10年)

警察活動の行き届かない時代に、迷子探しの方法として建てられた石。もとは神社の塀の外に建っていた。子どもが迷子になった家ではここに来て、子どもの特徴・年齢・住所・氏名を紙に書いて、この石に張りつけておく。また、子どもを発見した人は、ここへ連れてきて、尋ねる家の人に会えば、すぐ引き渡し、会えなければ、石に住所・氏名などを書いた紙を張りつけておく。双方がここへ来るのだから、たいていの場合はすぐ解決する仕組みで重宝がられていたそうだ。
東京中央区の一石橋(日本橋川)のたもと、岡山県の牛窓往来の京橋(旭川)のたもとにもあった。『甲州街道(日本橋→新宿追分)』・『牛窓往来①』に記載。

Img_7627七宮神社

高田屋嘉兵衛は寛政11年(1799)に幕府の命に応じて巨船を造り、クナシリ・エトロフに向った。この時この神社に模型船3隻を献納して海上安全を祈願した。嘉兵衛は西出町(現在の公社入江住宅(旧入江小学校跡地)のあたり)に住んでいた。邸宅跡に建てられた「高田屋嘉兵衛顕彰碑」は近くの竹尾稲荷神社に移設されている。鎮守稲荷神社には嘉兵衛が奉納した一対の石灯籠が残されている。

Img_7626築造伝説

Img_7634

岡方惣会所跡

この建物は昭和2年に兵庫商人が社交場として建てた。今は「兵庫津歴史館 岡方倶楽部」で、「よみがえる兵庫津連絡協議会」の活動拠点。

Img_7633由緒碑

Img_7636札の辻(札場の辻)跡  《地図

兵庫宿の高札場は、ここと東西の惣門と来迎寺(築島寺)前の四ヵ所にあったという。街道はここを右折するが、あちこち寄り道する。

Img_7637説明板

Img_7639道標(札の辻跡の説明板の所)

「右 和田」・「左 築」(和田御崎と築島寺)で、街道筋を離れ築島寺、新川運河方向へ寄り道。

Img_7652新川運河・築島水門

Img_7657説明板

Img_7642大輪田泊の石椋

石を積み上げた防波堤(波消し)や突堤の基礎などの港湾施設。

Img_7641説明板

Img_7649来迎寺 《地図

「松王丸入海の碑・墓」と妓王・妓女の塚(右後ろ)。
野洲市の『朝鮮人街道』沿いには、妓王井川・妓王屋敷跡・妓王寺がある。

Img_7646説明板

Img_7655清盛くんと新川運河(兵庫運河の一つ)

Img_7653説明板

Img_7662仲良く並んで日向ぼっこのカモメちゃん。

これ以上近づこうとすると、リーダー(見張りかも)かもめが警告の鳴き声をあげ、一斉に飛び立つ用意をする。

Img_7665兵庫城跡碑(右) 《地図

今の新川運河の中之島の地から北の切戸町にかけて、天正9年(1581)池田信輝が落城した花熊城の資材を使って兵庫城を築いた。

Img_7675住吉神社

祭神は上筒之男命、中筒之男命、底筒之男命、神功皇后で航海安全、陸上交通安全の守り神。
なぜ象が?

Img_7680琵琶塚・清盛像・清盛塚十三重塔(弘安9年(1286)) 《地図

Img_7677説明板

Img_7679説明板

Img_7691真光寺

清盛御前水の井戸・道標(中央)

道標は「左 京大坂道 右 は里満ミち」で、街道沿いから移されたものだろう。

Img_7682説明板

Img_7688一遍上人廟所

Img_7687説明板

Img_7694和田の笠松歌碑(須佐野公園)

須佐の入江の浜にそびえ、入港船の目印になっていた松だった。
歌碑「秋風に吹きくる峰の村雨にさして宿かる和田の笠松」(藤原為家

Img_7693説明板

Img_7702兵庫大仏(2代目・能福寺) 《地図

Img_7703清盛廟(平相国廟)

Img_7704説明板

Img_7707滝善三郎供養塔(神戸事件)

Img_7701説明板

札の辻に戻って兵庫宿を進む。神明町に井筒屋(衣笠)又兵衛の本陣があり、本陣に南接して脇本陣の明石屋宗兵衛、小路を隔てて西側の小広町に豊島屋宗兵衛、同町の東側に桝屋長兵衛(または長左衛門)、その南隣に三木屋作右衛門の4軒があったというが、新しい建物ばかりで往時の面影はない。
また兵庫宿には本陣の他に浜本陣(出在家町)があった。

Img_7718柳原惣門跡 《地図

兵庫宿の西の出入口。左は柳原蛭子神社(柳原のえべっさん)、右は福海寺で「平清盛公遺愛の時雨の松」碑がある。(松は太平洋戦争の火災で枯れ、残っていた切り株も阪神大震災で無くなってしまった)

Img_7726説明板①

Img_7727

Img_7724柳原惣門(推定図)

兵庫宿は見所が多く、湊口惣門からここまで1.2kmほどに2時間近くを費やした。

JR神戸線をくぐり、兵庫駅北口交差点→長田交差点→長田神社へ向かう。

Img_7729長田神社鳥居

Img_7735長田(ながた)神社 《地図

拝殿横の弘安9年(1286)奉納の銘のある石灯籠(雨乞の石灯籠)を見落とした。『長田神社文化財

Img_7737説明板

Img_7734根がくっついている2本のクスノキ(境内)

県道21号に戻り西進する。

Img_7740蓮の池跡(西代蓮池公園) 《地図

行基が造ったと伝える農業用のため池跡。『平家物語』にも登場し、池の北側の蓮の宮の小祠には「丑の刻参り」が行われていたそうだ。

Img_7743説明板

Img_7746道標(蓮池小学校内)

左端は北西の妙法寺毘沙門堂(須磨区妙法寺字毘沙門山)、その右は北の観音山、右端は「従是大山寺道」で太山寺(西区伊川谷町)への道標だが、こんな所に集められていても何の意味・価値もないと思うが。

三の井橋(妙法寺川)を渡り、須磨橋を渡って行く。

Img_7757一石五輪塔(浄徳寺) 《地図

地輪部分地蔵像を刻む。

Img_7760厄除八幡神社標柱(明治17年) 《地図

「右 多井畑村迄距離三十三丁」で、須磨区多井畑の厄除八幡宮への道標。

ここを右折し山陽電鉄の踏切を渡ると、右に松風村雨堂がある。

Img_7763松風村雨

須磨に流されていた在原行平に仕えていた、この土地の松風と村雨姉妹の庵跡という伝承の地で、今は観音堂。
「立ち別れ いなばの山の 峰に生ふる 待つとし聞かば いま帰り来む」(百人一首)の歌は、都へ帰る行平が離別の際に詠んだものとされる。

Img_7764説明板

Img_7766衣掛の松(磯馴松の3代目の切り株)

Img_7765説明板

Img_7776元宮長田神社・菅の井跡・菅公手植えの松跡(旧前田家邸宅跡公園) 地図

ここは西須磨の旧家の前田家跡で、古代山陽道の須磨駅家跡とされる。『古代山陽道の駅家を辿る

Img_7771説明板

須磨寺など須磨地区は『神戸市の坂』で歩いているので今回は割愛し、国道2号を進む。

Img_7780神戸マラソン

フルマラソンのランナーがまだ歩いている。

Img_778225k地点で4時間7分とは情けない。

こんなタイムでよくレースに出る気になるよ。フルマラソンはそんなに甘いものやおまへんのや。

Img_7788「源平史蹟戦の濱碑」から須磨の浦

一の谷から西一帯の海岸は「一ノ谷の戦い」の激戦地で、「戦の濱」と言われ、須磨浦公園の東端に石碑が立つ。一ノ谷の逆落としがあった旧暦2月7日早朝には馬のいななきが聞こえるとか。

Img_7792敦盛塚 《地図

熊谷直実に討たれた平敦盛の供養塔であると言われる。そばに「敦盛そば」屋がある。

Img_7793説明板

Img_7800右に山陽電鉄、左に国道、JR神戸線、海岸。

マラソンの交通規制はまだ解除されてなく、国道はガラガラだ。

須磨区から垂水区に入り、塩屋谷川、福田川を渡って行く。

Img_7809福田橋(福田川) 《地図

大正15年の竣工

Img_7814海神社  《地図

福田橋と垂水駅の間にあると思い込んでいて、何往復もしてしまった。

赤子に授乳中の狛犬と、赤子をおんぶしている狛犬

Img_7815

Img_7816_2

Img_7846JR神戸線をくぐり五色塚古墳へ向かう。

左に地蔵さん

Img_7819五色塚古墳 《地図

兵庫県下最大の前方後円墳で、きれいに復元整備されている。

Img_7824説明板

Img_7821小壺古墳

Img_7822説明板

Img_7830五色塚古墳の墳頂から明石海峡大橋、淡路島。

国道2号に戻り、舞子公園へと進む。

Img_7860根上りの松(再生、生育事業中)・旧武藤邸 《地図

Img_7857根上りの松・舞子浜の松

Img_7870孫文記念館

Img_7873明石海峡大橋の真下から

Img_7875舞子砲台跡 《地図

Img_7878説明板

Img_7898舞子延命地蔵尊(国道2号に出た右側)

俗称「たたき地蔵」で木槌が置いてあるが、手で叩くくらいならともかく、木槌は勘弁してと言っていた。

Img_7899左に旧道入る。 《地図

Img_7901舞子六神社

境内社にある大黒像・戎像を見逃した。

この先で国道2号に出る。

Img_7908山田橋から明石海峡、淡路島。《地図

その向こうに見えるのは四国か?

朝霧駅の手前で神戸市から明石市に入る。

Img_7919大蔵海岸海水浴場 《地図

朝霧歩道橋を渡れば朝霧駅だ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2013年11月 | トップページ | 2014年5月 »