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2013年12月 9日 (月)

山陽道(加古川駅→出雲街道分岐地点)

2013年11月19日

加古川駅(JR山陽本線)・・・加古川宿・じけまち(寺家町)商店街・・本陣跡あたり・・陣屋(山脇邸)跡・・・国道2号・・・称名寺(加古川城跡)・・・加古川の渡し場跡・加古川橋(加古川)・・旧道・・国道2号・・旧道・・・妙見宮・・・福正寺・・・(高砂市)・・宝殿駅・尉と姥の像・・・道標・・・一の坪踏切(山陽本線)・・・一の鳥居(生石神社)・・・山片幡桃旧宅・・・道標・・・覚正寺・・・(国道2号)・・・道標・魚川橋(法華山谷川)・・阿弥陀町地区・・・安楽寺・・・旧魚橋郵便局舎・土田家住宅・・・正蓮寺・佐々木すぐる生育の地碑・・・魚橋西交差点(国道2号)・・・白森稲荷神社・・・地蔵院・明治天皇小休所跡・・・公民館・・・村南一踏切(山陽本線)・・・時光寺・・・不断寺・・・道標・・・(曽根駅)・・・大日池・・・豆崎交差点・国道2号・・・旧道・・・(姫路市)・・・播州倉庫・・国道2号・・佐突駅家跡・・旧道・・・六騎塚・・・大池・小林池・・・日吉神社参道・・・安養寺・・・弁慶地蔵堂・・・別所口西交差点・国道2号・・・佐土橋(佐土川)・・・(播但連絡道路)・・・御着宿(間の宿)・・福乗寺・・延命寺・明治天皇小休所跡碑・・本陣跡(御着公会堂)・・徳証寺・・小寺大明神(御着城本丸跡)・・御着城跡・黒田家廟所・・・天川橋(天川)・・・播磨国分寺跡・・・横田西踏切(山陽本線)・(山陽新幹線)・・・道標・・・一里塚跡標柱・・・道標・・・神明大神宮・・・日本廻国塔・・・(山陽新幹線・JR山陽本線)・・・一本松交差点・国道2号・・市川橋(市川・一本松の渡し跡)・・旧道・・・地蔵院・・・宝積寺・・九所御霊天神社・・・善休寺・・(播但線)・・・京口橋(外堀川)・・・外京口門跡(東光中学校)・・・内京口門跡(賢明女子学院)・・・寺町筋(五軒邸地区)・・・播磨国総社(射楯兵主神社)・・・二階町商店街・・(大手前通り)・・西二階町商店街・・姫路宿本陣跡・・・船場川・・・本徳寺・・・(国道2号)・・・船繋岩・・・初井家住宅・・・西国街道にしまちや・・・車崎東交差点(国道2号)・旧道・・・水尾川・・・東今宿地区・草上駅家跡あたり・・・今宿西交差点・国道2号・・・(JR姫新線)・・・旧道・・・国道2号・夢前橋(夢前川)・旧道・・・青山の道標・出雲街道追分

  【ル-ト地図

 写真をクリックすると拡大します。

Img_8250加古川宿 《地図

じけまち(寺家町)商店街を通って行く。

Img_8256説明板

光念寺の北側が本陣(中谷家)跡だが、説明板などは見当たらなかった。

Img_8252旧家

Img_8254陣屋跡(右)

「人形の店陣屋」の右隣。

Img_8255説明板

国道2号に出て、加古川橋を渡る前に加古川城跡の称名寺に寄る。

Img_8270称名寺地図

Img_8265説明板

Img_8266説明板(文化財)

Img_8269七騎供養塔

Img_8268説明板

Img_8271加古川を渡る。

左の川の中の石積みが復元された「加古川の渡し場」跡。

西詰から左に渡し場跡の続きの道に入り、国道2号に出る。

Img_8275平津交番の所で右に旧道入る。《地図

Img_8283尉と姥の像(宝殿駅前)

ここは高砂市で、「♪高砂や~」の発祥地ということ。

Img_8284碑文

Img_8286道標

「左石寶殿 コレヨリ十三丁」で、石の宝殿と呼ばれる巨大な石造物を神体とする、生石(おうしこ)神社への道標。

この先で一の坪踏切(山陽本線)を渡る。

Img_8292生石神社一の鳥居

鳥居をくぐっても道は続いていない。

Img_8294山片幡桃旧宅(左)

「幼時、父と酒屋を営んでいた家跡」とある。

Img_8295道標

「是より 石能ほう(でん)」で、これも石宝殿への道標。

Img_8301山片幡桃顕彰碑(覚正寺) 《地図

Img_8307道標(大正5年・魚川橋の東詰) 《地図

「左 志方 法花山 清水」で、西国三十三ヶ所の26番札所法華山一乗寺と、さらに北の25番札所御嶽山清水寺への道標。魚川橋は法華山谷川に架かる橋。

Img_8311旧魚橋郵便局舎・土田家住宅

洋風建築に建て替えられる前は、土田家住宅の一部だったようだ。

Img_8315土田家住宅

Img_8318正蓮寺 《地図

Img_8322佐々木すぐる生育の地碑(正蓮寺門前)

♪「月の沙漠」の作曲家、千葉県の御宿には月の沙漠記念館・記念像がある。『伊南房州通往還④』に記載。

Img_8320説明板

Img_8326魚橋西交差点で国道2号を横切り、左に入り阿弥陀町地区へと進む。 《地図

Img_8333地蔵院 

明治天皇小休所跡碑

Img_8336公民館

この手前で左折し、村南一踏切(山陽本線)を渡って時光寺に寄る。

Img_8343時光寺地図

「播磨善光寺」とも呼ばれ、阿弥陀村(町)の由来の寺だが、今はここは時光寺町。

Img_8350畧縁起

これで「畧」かね?

Img_8346宝篋印塔(康暦2年(1380))

時光寺の門前

Img_8344説明板

街道に戻る。

Img_8351不断寺

「正四位児嶋範長公之墓」(南朝の忠臣の児島高徳の父)があるそうだが、門は閉ざされていて入れず。

Img_8354道標5基(県道の高架下に移されたもの) 《地図

①「右 曽祢之松 道」は、曽根天満宮の曽根の松。
②「左 おうくわん」は、「往還」で山陽道(西国街道)のこと。
③「右 時光寺道」
④「右 高砂十輪寺道」は、圓光大師二十五番霊場の3番十輪寺。
後ろの⑤「是より ○○高砂 ○○ミち」

豆崎交差点手前で左折し国道2号を横切り、右に旧道に入ると姫路市になる。

Img_8360播州倉庫に突き当たって街道は途切れる。

手前の用水路の縁を歩いて国道2号に出る。雑草の朿がズボンや靴に刺さってしまい、取るのに一苦労した。

Img_8364佐突駅家(さつちのうまや)跡 《地図

古代山陽道の駅家跡。『古代山陽道の駅家(うまや)を辿る

播州倉庫の先の旧道の続きに戻る。

Img_8369六騎塚

ここも児嶋範長らの史跡。

Img_8367説明板

Img_8371大池

Img_8373日吉神社参道 《地図

遥拝のみ。

Img_8375安養寺

Img_8379弁慶地蔵堂

Img_8378弁慶地蔵(天文22年(1553))

弁慶がここを訪れた時は、地蔵堂はあったが地蔵はなかったということになるが。まあ伝承だからよろしかろ。

Img_8377説明板

弁慶、西行らの落し胤はあちこちにいたのだろう。

別所口西交差点(国道2号)を横切り、佐土川を渡り御着(ごちゃく)宿へと進む。

Img_8387御着宿(間の宿)

地名の由来は神功皇后が上陸したとか、国分寺造営時に聖武天皇の勅使が着いたなどの説があるそうだ。主として西国大名が東上の際宿泊した。

Img_8396旧家

Img_8397井内家住宅

Img_8398延命寺 《地図

右に「明治天皇御着御小休所跡」碑

Img_8401大歳神社

Img_8404小原家住宅

Img_8405本陣跡(御着公会堂の所)

天川家が勤めた。

Img_8406説明板

Img_8416御着城跡(天川城跡) 《地図

ここは本丸跡の小公園内の小寺大明神。黒田官兵衛は小寺氏の家臣だった。

Img_8415説明板

Img_8412天川城跡碑

「小寺城主の奥津城」とある。

Img_8419御着城跡(姫路市東出張所の建物)

前の広場は「ひめじ官兵衛」の幟がはためいている。来年のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』で盛り上がるか。

Img_8423説明板

Img_8426黒田家廟所

官兵衛の廟ではない。

Img_8427説明板

御着宿を抜け、播磨国分寺跡に寄る。

Img_8463播磨国分寺跡  《地図

塔跡から燈籠(復元)・講堂・現国分寺方向。

Img_8448伽藍配置図

Img_8457築地塀(復元)

街道に戻る。

Img_8464山陽本線を渡り、山陽新幹線をくぐって行く。《地図

Img_8468道標(ミラー標識の右下)

振り返って見ている。「右かみすヾ 左うしどう山」で、「上鈴」と「うしどう山」は牛堂山国分寺(現国分寺)のこと。

Img_8469「山陽道 一里塚跡」標柱」(左)

ここは「姫路ヨリ一里、摂津西ノ宮ヨリ十四里」で、前後の一里塚は、東は高砂市豆崎、西は姫路市下手野にあったようだ。

Img_8471道標(安政6年(1859))・電柱右の草の中)

「右やかじぞう是より一リ」・「右ヒメジ 左神戸」で、八家地蔵は「播州名所巡覧図絵」にも描かれた名所だったそうだ。

Img_8479印鐸(いんたく)神社標識 《地図

左に入って行ってみる。

Img_8477太神宮(神明大神宮)

印鐸神社はここを西に上った所にあるようだ。印鐸は「印鑰」(いんにゃく)のことだろうか? 播磨国府跡(播磨国総社付近)とはだいぶ離れているが。

Img_8482日本廻国塔

Img_8481説明板

この先に左手に「山脇の溺死菩提碑」があるのだが、右にあると勘違いして見過ごした。
右折し山陽新幹線・JR山陽本線をくぐって一本松交差点(国道2号)に出る。

Img_8488市川橋を渡る。《地図

「一本松の渡し」で渡っていた。

橋を渡って右斜めに旧道は続いている。《地図

Img_8495宝積寺

左に石仏が並ぶ祠。

Img_8494豆大師たち

Img_8496九所御霊天神社 《地図

桂米朝の実家で、父親がこの神社の神主を務めていたそうだ。

Img_8500播但線をくぐって行く。

右は善休寺

Img_8505外京口門跡(東光中学校前) 《地図

姫路城の外濠の5つの門(外京口門、北条門、竹ノ門、飾万門、福中門)の1つで城下への東の入口。京都方面への道筋にあるのでこう呼ばれた。

Img_8506説明板

Img_8516内京口門跡(賢明女子学院前) 《地図

Img_8524寺町筋 《地図

五軒邸地区に「大法寺」、「圓光寺」など5寺が集まって、「寺町」を形成している。

Img_8530播磨国総社(射楯兵主(いたてひょうず)神社) 《地図

Img_8533鬼石(境内社の案内社八幡宮前)

源頼光が大江山の鬼(酒呑童子)を退治して、その首を埋めた所だとか。

街道に戻る。姫路城など姫路城下は、『出雲街道(①姫路→觜崎宿)』・『出雲街道②』に記載。

Img_8540二階町商店街→(大手前通り)→西二階町商店街へと進む。 《地図

ここも「官兵衛」だ。

Img_8543本陣三木家跡

西二階町の左の那波店の所。本陣は3軒あったようだ。

Img_8542説明板

Img_8546本徳寺(船場御坊) 《地図

Img_8550説明板

Img_8549境内図

Img_8552望郷塚

第一次世界大戦中、ドイツ軍捕虜の収容所として境内が使用されて、捕虜が作ったドイツの城の模型だそうだ。

国道2号を横切り、船場東ビルの間を抜けて行く。

Img_8557船繋ぎ岩 《地図

今は庭石となっている。ここは江戸時代には「せんざき屋」という大商家があった所。

Img_8556説明板

Img_8559初井家住宅

歌人・初井しづ枝の過ごした家。

Img_8565農人町の「のこぎり状」の家並み

姫路城の防衛のため、城下で数ケ所見られる特徴というが、「鋸状の家並み」は各地にあり、その理由も様々だ。

Img_8572「西国街道にしまちや」(右) 

左にカーブして国道2号の車崎交差点の方へ進む。

Img_8574旧家

Img_8577車崎東交差点(国道2号)前 《地図

旧道は左へ入って行く。東今宿(1~4丁目)あたりに草上(くさかみ)駅家跡があったようだ。。『古代山陽道の駅家(うまや)を辿る

この先、夢前橋→青山の道標(出雲街道追分)《地図》までは、『出雲街道①(姫路→觜崎宿)』に記載。

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