山陽道(加古川駅→出雲街道分岐地点)
2013年11月19日
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【ル-ト地図】
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加古川宿 《地図》
じけまち(寺家町)商店街を通って行く。
光念寺の北側が本陣(中谷家)跡だが、説明板などは見当たらなかった。
「人形の店陣屋」の右隣。
国道2号に出て、加古川橋を渡る前に加古川城跡の称名寺に寄る。
左の川の中の石積みが復元された「加古川の渡し場」跡。
西詰から左に渡し場跡の続きの道に入り、国道2号に出る。
平津交番の所で右に旧道入る。《地図》
ここは高砂市で、「♪高砂や~」の発祥地ということ。
「左石寶殿 コレヨリ十三丁」で、石の宝殿と呼ばれる巨大な石造物を神体とする、生石(おうしこ)神社への道標。
この先で一の坪踏切(山陽本線)を渡る。
鳥居をくぐっても道は続いていない。
山片幡桃旧宅(左)
「幼時、父と酒屋を営んでいた家跡」とある。
「是より 石能ほう(でん)」で、これも石宝殿への道標。
山片幡桃顕彰碑(覚正寺) 《地図》
道標(大正5年・魚川橋の東詰) 《地図》
「左 志方 法花山 清水」で、西国三十三ヶ所の26番札所法華山一乗寺と、さらに北の25番札所御嶽山清水寺への道標。魚川橋は法華山谷川に架かる橋。
旧魚橋郵便局舎・土田家住宅
洋風建築に建て替えられる前は、土田家住宅の一部だったようだ。
正蓮寺 《地図》
佐々木すぐる生育の地碑(正蓮寺門前)
♪「月の沙漠」の作曲家、千葉県の御宿には月の沙漠記念館・記念像がある。『伊南房州通往還④』に記載。
魚橋西交差点で国道2号を横切り、左に入り阿弥陀町地区へと進む。 《地図》
明治天皇小休所跡碑
この手前で左折し、村南一踏切(山陽本線)を渡って時光寺に寄る。
「播磨善光寺」とも呼ばれ、阿弥陀村(町)の由来の寺だが、今はここは時光寺町。
これで「畧」かね?
時光寺の門前
街道に戻る。
「正四位児嶋範長公之墓」(南朝の忠臣の児島高徳の父)があるそうだが、門は閉ざされていて入れず。
道標5基(県道の高架下に移されたもの) 《地図》
①「右 曽祢之松 道」は、曽根天満宮の曽根の松。
②「左 おうくわん」は、「往還」で山陽道(西国街道)のこと。
③「右 時光寺道」
④「右 高砂十輪寺道」は、圓光大師二十五番霊場の3番十輪寺。
後ろの⑤「是より ○○高砂 ○○ミち」
豆崎交差点手前で左折し国道2号を横切り、右に旧道に入ると姫路市になる。
手前の用水路の縁を歩いて国道2号に出る。雑草の朿がズボンや靴に刺さってしまい、取るのに一苦労した。
佐突駅家(さつちのうまや)跡 《地図》
古代山陽道の駅家跡。『古代山陽道の駅家(うまや)を辿る 』
播州倉庫の先の旧道の続きに戻る。
ここも児嶋範長らの史跡。
日吉神社参道 《地図》
遥拝のみ。
弁慶がここを訪れた時は、地蔵堂はあったが地蔵はなかったということになるが。まあ伝承だからよろしかろ。
弁慶、西行らの落し胤はあちこちにいたのだろう。
別所口西交差点(国道2号)を横切り、佐土川を渡り御着(ごちゃく)宿へと進む。
地名の由来は神功皇后が上陸したとか、国分寺造営時に聖武天皇の勅使が着いたなどの説があるそうだ。主として西国大名が東上の際宿泊した。
延命寺 《地図》
右に「明治天皇御着御小休所跡」碑
天川家が勤めた。
ここは本丸跡の小公園内の小寺大明神。黒田官兵衛は小寺氏の家臣だった。
「小寺城主の奥津城」とある。
前の広場は「ひめじ官兵衛」の幟がはためいている。来年のNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』で盛り上がるか。
官兵衛の廟ではない。
御着宿を抜け、播磨国分寺跡に寄る。
塔跡から燈籠(復元)・講堂・現国分寺方向。
街道に戻る。
山陽本線を渡り、山陽新幹線をくぐって行く。《地図》
振り返って見ている。「右かみすヾ 左うしどう山」で、「上鈴」と「うしどう山」は牛堂山国分寺(現国分寺)のこと。
ここは「姫路ヨリ一里、摂津西ノ宮ヨリ十四里」で、前後の一里塚は、東は高砂市豆崎、西は姫路市下手野にあったようだ。
「右やかじぞう是より一リ」・「右ヒメジ 左神戸」で、八家地蔵は「播州名所巡覧図絵」にも描かれた名所だったそうだ。
印鐸(いんたく)神社標識 《地図》
左に入って行ってみる。
印鐸神社はここを西に上った所にあるようだ。印鐸は「印鑰」(いんにゃく)のことだろうか? 播磨国府跡(播磨国総社付近)とはだいぶ離れているが。
この先に左手に「山脇の溺死菩提碑」があるのだが、右にあると勘違いして見過ごした。
右折し山陽新幹線・JR山陽本線をくぐって一本松交差点(国道2号)に出る。
市川橋を渡る。《地図》
「一本松の渡し」で渡っていた。
橋を渡って右斜めに旧道は続いている。《地図》
左に石仏が並ぶ祠。
桂米朝の実家で、父親がこの神社の神主を務めていたそうだ。
右は善休寺
外京口門跡(東光中学校前) 《地図》
姫路城の外濠の5つの門(外京口門、北条門、竹ノ門、飾万門、福中門)の1つで城下への東の入口。京都方面への道筋にあるのでこう呼ばれた。
内京口門跡(賢明女子学院前) 《地図》
寺町筋 《地図》
五軒邸地区に「大法寺」、「圓光寺」など5寺が集まって、「寺町」を形成している。
源頼光が大江山の鬼(酒呑童子)を退治して、その首を埋めた所だとか。
街道に戻る。姫路城など姫路城下は、『出雲街道(①姫路→觜崎宿)』・『出雲街道②』に記載。
二階町商店街→(大手前通り)→西二階町商店街へと進む。 《地図》
ここも「官兵衛」だ。
西二階町の左の那波店の所。本陣は3軒あったようだ。
第一次世界大戦中、ドイツ軍捕虜の収容所として境内が使用されて、捕虜が作ったドイツの城の模型だそうだ。
国道2号を横切り、船場東ビルの間を抜けて行く。
船繋ぎ岩 《地図》
今は庭石となっている。ここは江戸時代には「せんざき屋」という大商家があった所。
歌人・初井しづ枝の過ごした家。
姫路城の防衛のため、城下で数ケ所見られる特徴というが、「鋸状の家並み」は各地にあり、その理由も様々だ。
左にカーブして国道2号の車崎交差点の方へ進む。
車崎東交差点(国道2号)前 《地図》
旧道は左へ入って行く。東今宿(1~4丁目)あたりに草上(くさかみ)駅家跡があったようだ。。『古代山陽道の駅家(うまや)を辿る 』
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