山陽道(朝霧駅→加古川駅)
2013年11月18日
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【ル-ト地図】
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明石宿(大蔵谷宿)へ入る。《地図》
江戸時代には山陽道屈指の宿場として栄えたという。
推古天皇の頃、三韓から侵攻してきた不死身の鉄人を討った越智益躬(おちのますみ)を祀る。
神社の東側に明石藩大砲練習場があったそうだ。
鳥居は受持姫大明神
三韓から侵攻してきた不死身の鉄人の討伐を命じられた越智益躬は、故郷伊予の大山祇神社(三嶋大明神)に成就を祈った。鉄人が明石に着いた時、大山祇神が姿を現し、鉄人の弱点の足の裏を射よと告げた。お告げにより益躬は鉄人を矢で射殺した。 益躬は感謝して、この地に大山祇神社を勧請したという。
秋の大祭には、鉄人が乗って来たという牛に因んだ、「大蔵谷の牛乗り」が行われる。
嘉吉の乱の赤松満祐の弟の赤松祐尚夫妻の墓がある。
桝形 《地図》
街道はここを左折しすぐ右折して行くのだが、右折して源平のゆかりの所などに寄り道する。正面は明石人丸教会。
南面:「左たゞのり道」、北面:「右へ 半丁 忠度塚」 (『山陽道の道標』による)
ここを左に入って忠度塚へ。
中山道深谷宿の先に、平忠度の供養塔(清心寺境内)、忠度を討った岡部六弥太忠澄の墓が普済寺近くの墓地にある。『中山道(熊谷宿→本庄宿)』に記載。
道標(万延元年(1860)) 《地図》
東面:「右 人磨山三丁」、南面:「正一位柿本大明神道」、西面:「左 人丸山三丁」で、柿本神社への道標。
祭神は岡部六弥太に右腕を斬り落されたという平忠度で、腕・腰の病にご利益ありという。
平忠度と岡部六弥太が馬を並べて戦ったため「両馬川」と呼ばれた川があった。
琵琶の名手の平経正の馬を埋めた所という。背後は明石藩主松平家廟所で、その向うが東経135度日本標準時子午線の真上の明石市立天文科学館。
水平日時計・右は芭蕉句碑「蛸壺やはかなき夢を夏の月」(『笈の小文』の最後の句)で、背後に天文科学館の塔がそびえる。
月照寺山門
もとは伏見城の薬医門→明石城の切手門.
右は八つ房の梅
800mほど北方の高家寺(太寺廃寺跡)あたりが、古代山陽道の明石駅家跡という。「菅公旅次遺跡」碑もあるそうだ。《地図》 『古代山陽道の駅家(うまや)を辿る』
「途に在りて、明石の駅亭に到る。駅亭の長、見て驚く。驚くことなかれ 時の変改するを 一栄一落 是れ春秋」(『菅家後集』)
休天神社 《地図》
鳥居をくぐった右側に「菅公駐駕驛長宅址」の石柱がある。ここが大宰府へ左遷される途中の菅原道真が休んだ(泊まった)明石の駅長宅跡ということか。明石駅家跡とされる高家寺からはかなり離れてはいるが。
枡形へ戻って街道を行く。
右に道標(慶応元年(1865))
東面:「右 か古川 ひ免ぢ 道」、北面:「左 ひゃうご 大阪 道」
中央に「日本標準時子午線通過地標」
光源氏月見の池(朝顔光明寺) 《地図》
まあこんなもんとは思っていたが、せめて水くらい張って欲しいね。
すこし離れているが明石駅の北側の明石公園に寄る。
街道に戻り本町一番街を進む。
高札場跡(本町2丁目交差点) 《地図》
明石川は徒渡りで、橋の西詰に姫路門が設置されていた。
山陽電鉄踏切を渡り、JR神戸線ガードをくぐって行く。
焼け残った杉(十輪寺) 《地図》
「太閤さんの木やで」の老人の一言で、残ったという。
和坂(かにがさか)の上りとなる。《地図》
道行く人に悪さをしていた古狐を、大池に棲む大蟹が退治した。今度はその大蟹が驕り高ぶって、この坂を行き交う人たちを襲った。諸国巡礼中の弘法大師が大蟹を岩(蟹塚)に封じ込めたという伝説の「蟹が坂」で、大蟹が棲んでいた池は、埋めたてられて浄水場になり、池の中の島にあった「蟹塚碑」が近くの公園に移され残っているそうだ。
途中の右側に坂上寺がある。このあたりの地名は「和坂」で、今は「わさか」と読んでいる。
「かにがさかのお大師さん」で、右は鯖をぶらさげている弘法大師像。四国八十八札所には鯖大師(番外霊場別格第四番)があり、近くの馬ひき坂には、鯖大師伝説がある。『四国遍路道(徳島県②)』に記載。
西明石町5丁目交差点で国道2号に出て、松の内交差点の先で左に旧道に入る。
正面が山陽新幹線の西明石駅
これを書いたのは沢地小学校の6年生。
西明石駅をくぐって行く。
雲楽池 《地図》
水面が見えない。
国道2号に出て、斜め左に入ると大久保宿だ。大久保宿(間の宿) 《地図》
右は住吉神社
左の東蔵は住吉神社の屋台蔵。谷八木川の先に西蔵があるようだ。先の右側は常徳寺。
JR大久保駅前を通り、大久保西交差点で国道2号に出る。
富士通工場 《地図》
街道は工場の敷地内を斜めに横切っていた。
大池東交差点で右折し、旧道の続きを行く。
金崎宮鳥居 《地図》
もとは約1.8mの黒岩を神体とする「黒岩神社」だった。住吉神社を合祀して改称した。
街道に戻らず金崎宮の前の道(大山寺道)を進むと西国街道(山陽道)との分岐に出る。
道標「左 大山寺道」で太山寺(神戸市西区)への道。 《地図》
振り返って見ている。右が西国街道(山陽道)で鳥居前からの道はここへ通じている。
長坂を上る。《地図》
左は亥の池
道標(古前中池前) 《地図》
「魚住之太子道」・「小式部内侍祷之松」らしいが、かすれていて判読困難。
①「魚住之太子」は南方の遍照寺のこと。
②和泉式部が娘の小式部内侍の死を悼んで植えた「祷(いのり)の松」が街道付近にあったそうだ。(『和泉式部の足跡を訪ねる』の「山陽道に沿って」)
この先、加古川市に入ると和泉式部の墓だとされる宝篋印塔がある。(後述)
発掘調査で寺院跡ではなく、古代山陽道の駅家跡と推定されている。ただし早くに廃止されたらしく、その名前は記録に残っていない。そこで古代の地名の「邑美郷」や聖武天皇が行幸したという「邑美頓宮」にちなんで(仮称)「邑美駅家」(おうみのうまや)と呼んでいる。参考:『古代山陽道の駅家(うまや)を辿る』
「長坂寺遺跡」の標柱を探して池の回りをうろついたが見つからず。
弘化年間(1844~47)の水争いの勝訴記念碑?
清水神社手前の左側の墓地の中。
「清水のオクワハン」
東面:「是よ里 者り満名所道」(是よりまりま名所道)
南面:「左 別府手まくらの松 をのへの可年(かね) 高砂相生末川(松)」
西面:「右 岩岡 あかし 道」
北面:「世話方 松葉屋長・・・」
『山陽道の道標』(西福寺前の道標)による。
東面:「左 二見」、西面:「右 江井ヶ島」、北面:「右 三木」
稲荷社(右) 《地図》
この先で加古川市に入る。
JR神戸線の踏切を渡って行く。
五社大神社 《地図》
天童山老典座和尚と若き日の道元禅師の像(長松寺) 《地図》
国道2号に出て平岡小学校の先で右に旧道に入る。
西谷八幡神社(右) 《地図》
新在家第2公園前の二又を左に進む。
イオン加古川の敷地を突っ切って行く。《地図》
手前右に五輪塔
足利左馬頭義氏の墓が何故ここに? 義氏の墓は足利市の法楽寺にある。まあ墓はいくつあっても構わないが。
旧道の続きとなる。《地図》
主神は日吉(ひえ)大神で、比叡山延暦寺の守護神日吉大社から分霊を迎え、のちに四柱の神を合わせ祀ったという説もある。
角に道標がある。東面:「東 大野村在」 、南面:「南 式内日岡神社」、西面:「西 廿五丁」。
近くの野口城では秀吉の播磨攻めの時、黒田官兵衛が指揮する秀吉軍と、野口城の城兵・教信寺の僧兵が戦い落城した。
教信寺の開基の教信が地元の人々と造った溜池という。
大歳神社 《地図》
古大内遺跡で賀古駅家(かこのうまや)跡
駅馬40匹を常備した当時の日本最大の駅家だったそうだ。
街道に戻る。
和泉式部の墓は兵庫県伊丹市の西国街道沿い、京都府木津川市の山背古道沿い、中山道の御嵩宿の手前にもある。全国に15ケ所くらいあるそうだ。
おりい坂を下る。《地図》
今は傾斜はゆるい。右に「おりいの清水」の説明板がある。坂名はそれで知った。
平野東交差点で国道2号に出て直進し、旧道に入る。
旧道 《地図》
康永3年(1344)の銘があるそうだが、暗くて分からず。
西国街道を通る大名行列の前を横切った男が侍に斬られたが、ふと気がつくと何事もなく無事だった。あたりを見回すと、普段お参りしている地蔵の胴が2つに割れていた。地蔵が男の身代わりになったのだ。以来、地元の人々は、この地蔵を「胴切れのお地蔵さん」と呼ぶようになったとさ。
もうあたりは暗くなって不審者と思われそうで、切られた胴は確認しなかった。後ろに回れば見られたようだ、残念。
聖徳太子建立七大寺の一つともいう鶴林寺にも寄りたかったが、もう5時半を過ぎていてあきらめた。
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