2014年6月3日
北田旅館・・・平舘神社・・・おかりや公園(弘前藩陣屋跡)・・国道280号・・田の沢橋(田の沢川)・・松並木・・長寿の松・夫婦松・・・平舘砲台跡・平舘灯台・・・石崎沢(1)遺跡・・・石崎橋(石崎沢川)・・・石崎沢(2)遺跡・・・弥蔵釜地区・石崎漁港・・・須々川橋(須々川)・・・元宇田地区・・聞法寺・・胸肩神社・・・(今別町)・・・綱不知海岸・・・岩屋観音・・・鬼泊橋(鬼泊川)・・鬼泊トンネル・・だるま滝・・だるま滝沢・・・稲荷神社・・・一本木漁港・・奥平部橋(奥平部川)・・・赤根沢の赤岩・・・神社の沢橋・・稲荷神社・・・大沢橋(砂ヶ森川)・・・高野崎・・・袰月地区・・袰月橋・・伊能忠敬止宿標柱・・釈迦橋(釈迦滝沢)・・海雲洞・・・袰月海岸・・鋳釜崎・吉田松陰碑・・・岩木山神社鳥居・・・旧道・・・稲荷神社鳥居・・・いんくぐり(松陰くぐり岩)・・・国道280号・・与茂内橋(与茂内川)・・・中美田橋(中宇田川)・・・山崎地区・・山崎橋・・・玉吉橋・・今別海岸・・・旧道・・稲荷神社・・あすなろ橋(今別川)・・・八幡神社・・・今別地区・・・本覚寺・・・長川橋・・正行寺・・・中宇田沢・・寺小橋(寺小川)・・・浜名橋(黒崎川)・・・今別漁港・・・(外ヶ浜町)・・・古川橋(古川川)・・旧道・・・三厩駅(JR津軽線)
今日も快晴で陽射しはきついが、やわらかい北風で心地よい。三厩まで進みたいので7時前には宿を出る。ゆっくり、のんびりと平舘海峡の下北半島の眺めを楽しみながら、岩屋観音の手前で今別町に入った。高野崎、鋳釜崎へと進み、浜沿いの旧道を下り、図らずもいんくぐりを抜けることができた。今日はこれが最大の収穫だろう。
今別の中心部を過ぎて再び外ヶ浜町に入り、あすなろ大橋の手前で旧道に入った所を今日の終点とし3時前には三厩駅に着いた。
【ル-ト地図】(2日目出発地点から46.5km地点まで)
写真をクリックすると拡大します。
おかりや公園 《地図》
弘前藩陣屋跡で御仮屋、「おがりや」と言ったようだ。街道沿いに「御棟屋前」バス停がある。
説明板
見事な松並木が残っている。
両側に「津軽国定公園入口」の標柱
長寿の松
根元がどっしりとした樹齢600年ほどの松並木の中の最高齢のクロマツ。
夫婦松
ちょっと分かりにくいが自転車で通りかかった地元の女性に聞いて確認したから間違いないだろう。
説明板
平舘砲台跡 《地図》
弘化4年(1847)にオランダの捕鯨船が現れ、8人の船員が上陸して大騒ぎになり、弘前藩は砲台場を築いたという。
説明板
平舘灯台
説明板
朝陽に輝く平舘海峡の彼方にうっすらと浮かぶ下北半島。
石崎沢(2)遺跡
左の説明板に「発掘調査は実施されていないが、縄文時代の土器片が見つかっている」とある。この手前に「石崎沢(1)遺跡」がある。
説明板の向う側は地蔵の小祠と百万遍供養塔で、街道沿いにこの組み合わせと幾つも出会う。正面の塔は?
弥蔵釜(やぞうがま)地区・石崎漁港 《地図》
製塩に由来する地名で、蟹田の塩越での製塩が享保年間(1716~35)の水害でダメになり、弥蔵釜の釜師が引き継いだという。弘前藩に納める特上の塩で、一般の塩は瀬戸内海から日本海経路で移入されていた。ここの製塩も天明の飢饉で釜師が北海道に去ってしまい途絶えたという。
聞法寺 《地図》
右は日持上人と船頭蠣崎甚兵衛の銅像。永仁3年(1295)日蓮宗の北方への布教のため、故郷の静岡を旅立ちこの地に入った日持上人は、船で蝦夷地(北海道)に渡ったという。説明碑によると中国の万里の長城近くの宣化府(宣化市)にも遺跡があるという。義経の蝦夷~大陸渡海伝説みたいな坊さんだ。
胸肩神社
意外と小さな社だった。宗像三女神を祀る地元の航海・漁業安全の守り神だろう。
元宇田地区の家並み
今別町に入り、綱不知海岸沿いを行く。
だるま滝をモチーフにしたトイレ
岩屋観音堂(右の岩下) 《地図》
岩屋観音(津軽三十三観音霊場第21番札所)
鬼泊岩寛延巡礼記に、「海の中に岩あり。船にて参詣する所なり」とあるそうだ。風波にさらされ堂宇は傷みが激しく、享保年中(1716~35)には、半壊していたという。そして明治元年の神仏分離令によりここ鬼泊の岩屋観音は消滅したが、明治20年代にこの先の袰月(ほろづき)に滝見観音海雲洞が21番として再興された。だが昭和30年代に入ってこの地に岩屋観音堂が再建され、21番霊場が2つになったそうだ。札所といってもここには札を受ける所はない。
説明板
鬼泊トンネルを抜ける。
だるま滝
水は少し流れ落ちているのだが、写真では分からない。
写真(トイレの所に設置)
「赤根沢の赤岩 30m先←」標識 《地図》
左に入ってかなり探したが、草に埋もれた採掘坑跡のような所はあったが、赤い岩らしきはっきりとしたものは分からなかった。あきらめてここに引き返したら電柱の後ろに見本?が置いてあった。
赤岩
建造物の朱塗りなどに使われるベンガラの原料で、岩木山神社や日光東照宮、江戸城の修復にも使われたという。弘前藩は17世紀に赫土(あかつち)奉行を設け番所を置いた。ここを左に入った採掘坑跡そばの山神社?あたりが赤根沢御番所跡らしい。
高野崎への上りとなる。
高野崎灯台 《地図》
文化5年(1808)に砲台場が築かれた。
大石・袰月海岸・鋳釜崎方向
袰月地区に入る。
伊能忠敬止宿地 《地図》
数軒先に湊番所と陣屋があったようだ。
「津軽方言詩人」の高木恭造詩碑
「今日は陽コあだりすぎるガジャ」で暑いが。
高野崎にもこの詩全文の文学碑が立つ。
袰月海雲洞
ここが新しい津軽三十三観音第21番の袰月滝見の観音堂で奥に小さな滝が見える。
鋳釜崎 《地図》
吉田松陰碑『東北遊日記』
嘉永5年(1852)、津軽海峡の防衛検分のために、日本海沿いの小泊から海岸沿いに北上し、途中から山道に入り、算用師峠を越えて、三厩に出て海岸沿いを南下した。その時通ったのが「みちのく松陰道」、この先の「松陰くぐり岩」(いんくぐり)としてその名を残している。平舘からは舟で青森に向かったそうだ。竜飛崎へは行っていないようだ。
下北半島の眺め
右に旧道を下る。 《地図》
海岸沿いの集落を通って「いんくぐり」(松陰くぐり岩)に向かうのだが、どこで浜に下りるのか分からずきょろきょろと歩いていたら、後ろから浜沿いの民家?のおじさんが、「いんくぐりに行くのか」と声を掛けてくれた。今日は波もなく、ちょうど干潮時でくぐれると言い、敷地内を通してくれた。ラッキーとグッドタイミングが重なって嬉しくなった。
正面左の岩が陰くぐりだが、ここからは見えない。 《地図》(このあたりだろう)
ゴロゴロした石で足元がだんだん悪くなる。
岩穴が見えて来た。あそこをくぐるのだ。
滑らぬよう転ばぬよう慎重にくぐって行く。
干潮で波もなくよかった。吉田松陰は向う側からくぐったのだ。
ここで162年の時空を超え、吉田松陰とすれ違う。若き23歳の憂国の士の風を感じ・・・・。てなことは全くなかった。足元に気を取られ松陰のことなど頭から消えていた。
くぐって振り返る。
浜から上がって与茂内橋で国道280号に出る。
右へ今別海岸沿いに今別地区に向かう。 《地図》
今別橋(今別川)の手前で左に入り、枡形のように進み、あすなろ橋を渡る。
あすなろ橋から今別川(上流方向) 《地図》
八幡神社で一休みしよう。
参道下を津軽線が通る。
今別の中心部へと入って行く。
小説『津軽』に登場する家
説明板
旧家
本覚寺 《地図》
第五世住職貞伝上人は、地域の産業振興にも尽くし、経を書いた石を念仏読経とともに、海に投げ入れ昆布を根付けさせたという。当地方では、今別昆布は貞伝上人からの賜わり物とされている。
説明板
この寺も「津軽」に登場する。
青銅塔婆
貞伝上人が生前、鋳物師小原安兵衛を招いて制作させ自らは塔婆下の墓穴に入滅したとも伝える。
説明板
今別大仏(本覚寺境内)
三厩地区へ向かう。《地図》
左は津軽線の線路、右は三厩湾。
再び外ヶ浜町となる。
三厩村は合併して外ヶ浜町になったが、今別町を間に挟んで飛地になっている。
翌桧(あすなろ)大橋(増川)を渡らずに左に入って行く。 《地図》
今日はここまでとし三厩駅に向かう。
三厩駅
津軽線で青森駅まで戻ってビジネスホテルに泊まる。一輛でもこの時間はガラガラだ。
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