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2014年6月20日 (金)

下妻街道③(小山の渡し跡→中妻駅)

2014年6月13日

愛宕駅(東武野田線) バス(茨城急行)→芽吹橋北詰・・・小山の渡し跡あたり(坂東市側)・・・県道142号・・・馬頭観音・・・小山庚申塚板碑・・・香取神社(小山)・・・地蔵院・・・中川村道路元標・・・庚申塔・馬頭観音・・・来迎寺・・・香取神社(長谷)・・・長谷寺・・・仲町十字路・国道354号・・・松並木跡・・・香取神社・・・茶顛中山元成翁製茶紀功碑・・・西念寺・・・江川橋(江川)・・馬洗橋(飯沼川)・・旧道・・・国道354号・・・八坂神社・・・加波山大神塔・・・御嶽山大神塔・・・旧道・・・国道354号・・・豊神橋(東仁連川)・(常総市)・・馬頭バス停・馬頭観音・・・豊水橋(鬼怒川)・・・大楽寺・・八幡神社・・諏訪町交差点・・・明橋(新八間堀川)・・御城橋・御城公園・・・妻戸橋(千代田堀川)・・・馬頭観音・・・霊仙寺・・・中妻駅(関東鉄道常総線)

  【ル-ト地図】(3日目出発地点から69.6km地点まで。小山の渡し跡付近に橋はなく南の芽吹橋で迂回している)

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Img_1803小山の渡し跡あたり 《地図

海から107km地点あたりの利根川。

小山の集落の間を通り、コンビニの所で県道142号に出る。

Img_1812馬頭観音(明和4年(1767))

「小山下村七十七人」と刻む。

Img_1815小山庚申塚板碑(右) (小山中バス停手前右側)

標柱のみで何の説明もなく調べても分からず。左は庚申塔(天保6年(1835))

Img_1825中川村道路元標(左) 《地図

Img_1835ねぎ畑の向うは来迎寺 《地図

Img_1839香取神社(長谷)

Img_1847長谷観音堂

根元まで葉がびっしりとついている大イチョウ。

Img_1843説明板

仲町十字路でUターンするように進み、国道354号に入る。

Img_1851松並木跡 《地図

残る松も幹は細く樹皮は白っ茶けている。いずれ枯れてしまい、バス停「辺田並木」にその名を残すのみとなるだろう。

Img_1858茶顛中山元成翁製茶紀功碑

「ちゃてん」か「さてん」?、茶店(さてん)というから後者か?
猿島茶」は知らなかった。

Img_1859説明板

Img_1867西念寺 《地図

いちょうの垣根は珍しいか。

Img_1862説明板

Img_1872馬洗橋から飯沼川

左の旧道のような道に入った。

Img_1875国道歩きよりはずっといい気分の道だ。《地図

Img_1880神田山(かだやま)八坂神社

Img_1885加波山大神

右前は上部が欠けた石造物の残欠か?

Img_1888小矢バス停で左に入った。《地図

Img_1912筑波山の眺めがいい。

Img_1916馬頭観音(馬頭バス停の所) 《地図

3面が道標になっているようだが、何て刻まれているか読めず。

Img_1919_3背面

「いいぬま」(飯沼)か?

Img_1923鬼怒川・筑波山(豊水橋から)

豊水橋周辺は水海道の繁栄を支えた水海道河岸の跡。雨が続いて川幅は広く流れも急だ。

諏訪町交差点で左折し北上する。

Img_1937新八間堀川・御城(みじょう)橋

右が御城公園

Img_1940御城公園 《地図

水海道城跡というが説明板などは見当たらなかった。御城橋からの入口付近に「茨城百景 水海道近郊名所巡り碑」・「大洪水記録碑」が立つが。

Img_1943青柳製麺

Img_1955中妻駅(関東鉄道常総線)

1輛でも座れた。

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2014年6月19日 (木)

下妻街道②(吉川駅→小山の渡し跡)

2014年6月10日

吉川駅(JR武蔵野線)・・・鷲神社・・・智勝院・・・延命寺・・・さくら通り(二郷半領用水)・・・前新田橋(二郷半領用水)・県道326号・・・鍋小路交差点・・・玉葉橋(江戸川)・すさきの渡し跡・・・(千葉県野田市)・・・庚申塔・旧道・・・山崎交差点・日光東往還合流地点①・・山崎宿・・日光東往還分岐地点①・・・神明神社・・庚申塔・・・長命寺・・・須賀神社・・・キッコーマン野田本社・・・愛宕神社・・・清水橋(座生川)・・・(東武野田線)・・・香取大神社・・・日光東往還合流地点②・・・日光東往還分岐地点②・・・船形南交差点(春日部野田バイパス)・・・庚申塔道標・・・小船橋(関宿落)・小船橋水辺公園・・・野田小山橋(長堀)・・・小山の渡し跡あたり(利根川)

  吉川市を横切り、玉葉橋で江戸川を渡って千葉県野田市に入り、日光東往還の山崎宿へと進み、北上して利根川に突き当たった。近くに橋はなく次回は芽吹大橋を渡った所から歩き始め、利根川土手を遡り対岸地点へ向かうことにする。

  【ル-ト地図】(2日目出発地点から45.3km地点まで)

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Img_1597糀屋地図

創業から400年の老舗料亭。近藤勇、勝海舟、板垣退助らも「なまず料理」を食べたようだ。

Img_1593このあたりは古い家が残っている。

Img_1598米屋

吉川交番交差点で右折する。延命寺には「左こしがや 江戸道」と刻まれた庚申塔道標がある。『赤山街道(越谷道①)』に記載。吉川橋(架け替え工事中)を渡って来るのが本来の下妻街道の道筋。明治8年に平沼の徳江忠次郎が有料の徳江橋を架けるまでは「かご場の渡し」で渡っていた。

Img_1608二郷半領用水沿いの「さくら通り」を行く。《地図

ここの桜並木も見事だ。

前新田橋交差点で右折して行く。

Img_1620玉葉橋(江戸川) 《地図

県と千県の境。読みは「ぎょくよう」橋。本来の流れは右側だが、降り続いた雨でこちら(県営吉川公園)にも水が来ている。
下妻街道は吉川の中央部を東西に横断し八子新田に出て「すさきの渡し」(野田側では「ながれ(今上)の渡し」)で江戸川を渡った。
ここの渡しは寛永9年(1632)の関東郡代伊奈半十郎の書付には「江戸川作場渡し」とある渡し場で、昭和初期にはエンジン付きの船となって昭和40年頃まで続けられた。

Img_1624_2左に旧道が残り、庚申塔・甲子待塔などが立つ。《地図

バス停は「とんとんみずき橋」

Img_1634「甲子待塔」の大黒さん

下に「甲子講中」と刻む。甲子の夜、大黒天を祀り、講中で甲子待の供養行事のために造立したのだろう。大きな袋を背負い、打出の小槌を持っている。

野田市山崎交差点で日光東往還合流地点①に合流する。山崎宿は「山崎宿バス停」とその先の常夜灯に名残りがあるくらいか。『日光東往還①』に記載。

Img_1645日光東往還分岐地点① 《地図

日光東往還は右斜めに進んで行く。下妻街道は流山街道を進む。

Img_1657長命寺地図

太子堂句額

Img_1669猿田彦神像(文政6年(1823)・須賀神社境内) 《地図

約2mの丸彫の立像で、台座内に三猿の透かし彫りがある。いかめしくなく、にこやか顔なのがいいね。

キッコーマン野田本社の周囲を巡る。

Img_1672興風会館 《地図

Img_1680キッコーマン本社の現役の倉庫

Img_1682さらに続く昔風情の建物

Img_1685重厚な蔵

Img_1689醤油関係の旧家か? 《地図

 下妻街道に戻る。

Img_1704旧家

Img_1706千秋社(旧野田商誘銀行)

Img_1721愛宕神社鳥居(元禄7年(1694)) 《地図

野田市で2番目に古い鳥居。

Img_1731愛宕神社

Img_1726説明板

Img_1725雪見灯篭(文政12年(1829))

江戸の商人衆、43人の講中の造立。

Img_1723芭蕉句碑

「百年の気しきを庭の落ち葉かな」、野田市で3番目に古い句碑。

Img_1732長屋門の旧家

惜しいかなかなり傷んでいる。

Img_1784東武野田線をくぐって行く。

Img_1781香取大神社 《地図

Img_1779日光東往還合流地点② 《地図

この先で右から来る日光東往還と合流し、600mほどで分かれ右折して行く。

Img_1773バス停「米喊」(こめかみ)

どんな地名の由来なのか?

この先で船形南交差点(春日部野田バイパス)を横切る。

Img_1769道標(天明2年(1782)) 《地図》(このあたり)

道路と反対の面に「青面金剛」・右側面に「右 むしろうち つくば道」・左側面に「左 きまがせ道」

莚打(むしろうち)は利根川を渡った坂東市。《地図
「きまがせ」は北方向の木間ケ瀬のことだから、青面金剛庚申塔は後ろ向きにされてしまったのだろう。元の場所もここではないのでは。

Img_1768「左 きまがせ道」

Img_1759猿田彦神塔(嘉永7年(1854))・上部の欠けた二十三夜塔?(船形駐在所バス停そば)

Img_1754小船橋水辺公園 《地図

Img_1756周辺図

Img_1744利根川の土手が近づいて来た。

Img_1740小山の渡し跡あたり 《地図

ここは「海から107.0km」地点、河川敷が広がり利根川の流れはこちらからは見えない。
芽吹大橋で迂回して対岸の107km地点あたりまで行くことになる。

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2014年6月18日 (水)

下妻街道①(北千住駅→吉川駅)

2014年6月9日

北千住駅(JR常磐線)・・・宿場町通り・日光街道千住宿・・水戸街道追分・・日光街道追分・・荒川土手・・千住新橋(荒川)・・・五反野駅(東武スカイツリーライン)・・・四家交差点・・・西加平町交差点(環七通り)・・・内匠橋(綾瀬川)・(首都高6号)・・赤稲荷神社・・・(八潮市)・・浮塚交差点・(首都高6号)・・・氷川神社(浮塚)・・・蓮台寺・・・福寿院・・・大曽根八幡神社・・・境橋(葛西用水)・・・円照寺・・・中央交番前交差点・・・土手供養碑・普門院・・二丁目交差点・・・中川土手・・・氷川神社(二丁目)・・・宝幢寺・・・下久伊豆神社・・・医薬寺・・・上久伊豆神社・・・八條村道路元標・・・稲荷宮・・・幸の宮橋(綾瀬川放水路)・・八潮排水機場・・・庚申塔道標・・・太田家住宅・・・清勝院・・・(外環自動車道)・・・大経寺・・・八條の渡し跡(八条橋・中川)・・・和井田家住宅・・・馬頭観音・・・八條殿社古墳・・・阿弥陀堂(清勝院)・・・八條八幡神社・・・(草加市)・・・女体神社・・・下妻街道道標・音店河岸跡あたり・・稲荷社・・・東漸院・・・(越谷市)・・・人道橋(中川)・・(吉川市)・・吉川道(岩槻慈恩寺道)・・・吉川駅(JR武蔵野線)

 千住宿で水戸街道と日光街道と分かれ、荒川、中川、江戸川、利根川、鬼怒川を渡って下妻(茨城県下妻市)に通じ、さらに北上して喜連川宿で奥州街道と合流する下妻街道を歩く。
 梅雨に入って降り続いた雨が上がった日に、足立区→八潮市→草加市→越谷市→吉川市へと進んだ。

  【ル-ト地図】(23.6km地点(吉川駅)まで)

 *参考:『八潮市の文化財』・『八潮市の昔話』・『草加市の文化財

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Img_1381宿場町通り 《地図

千住宿と水戸街道追分~日光街道追分までは、『日光街道千住宿→草加宿)』と、『水戸街道(千住宿→松戸宿)』に記載。

Img_1384日光街道追分 《地図

分岐に道標「北へ 旧下妻道」・「北西へ 旧日光道中」

Img_1390荒川土手へぶつかり、千住新橋で迂回する。

Img_1395旧道復活地点

ここを左に進む。《地図

五反野駅をくぐり、四家交差点で右斜めに入り、西加平町交差点で環七通りを横切って、綾瀬川に突き当たる。見所はない。

Img_1402綾瀬川沿いを進む。《地図

川の流れは見えず味気ない。上は首都高6号三郷線。

Img_1405内匠橋(綾瀬川)から 《地図

降り続いた雨のせいか水は濁っていた。「内匠(たくみ)」の由来は何か?

写真「内匠橋の今昔」(『綾瀬川の河岸場跡を訪ねて』の27頁)

Img_1406赤稲荷神社

Img_1408浮塚交差点

このあたりはごちゃごちゃしている。「忠治河岸」(『綾瀬川の河岸場跡を訪ねて』の26頁)と呼ばれたようだ。関東郡代伊奈忠治の治水事業による名だろう。

八潮市に入った。

Img_1410氷川神社(由緒に「浮塚」の地名由来が載っている) 《地図

Img_1413大曾根八幡神社 《地図

Img_1417葛西用水(境橋から)は雑草に覆われている。

Img_1420杵屋菓子店

Img_1431土手供養碑(右端・明暦元年(1655))・普門院(奥) 《地図

もとは中川の土手上に建てられたもの。
八潮の昔話『土手まもり様

Img_1432説明板

Img_1436中川土手に突き当たる。

このあたりの土手上に橋供養碑があったのだろう。共和橋の対岸は三郷市。

Img_1439氷川神社(二丁目) 《地図

二丁目の地名は条里制の遺構という。
二丁目の獅子舞

Img_1459下久伊豆神社

八潮市のオビシャ(年頭の弓神事)の「弓ぶち」と「蛇捩り」

Img_1461雨が降り出した静かな住宅街を行く。

Img_1473上久伊豆神社 《地図

Img_1476八條村道路元標(左下) 《地図

Img_1483_2綾瀬川放水路、八潮排水機場に突き当たる。

Img_1493左から2番目の庚申塔の左側面に「江戸道」、右側面に「野道」と刻まれている。下妻街道沿いからここへ移されたものだろう。《地図

この先の右側が太田家住宅

Img_1502太田家住宅

江戸時代中期から続く河岸問屋で、二郷半領八條領から買い集めた米を各地の米問屋などに販売していた。八條の下妻街道沿いは、上宿・中宿・下宿(新田丁)に分かれ、多くの店が軒を連ねていたそうだ。

Img_1503

Img_1506説明板

「日光道中の脇往還である下妻道と成田道と八條の渡しの交差部に位置し・・・」とある。成田道とは中川対岸の吉川道(岩槻慈恩寺道)から続く佐倉道(成田街道)のことだろう。

Img_1510綾瀬川放水路

Img_1492仕組み図

Img_1514清勝院山門 《地図

「絹本着色虚空蔵菩薩像」
「絹本着色理趣会曼荼羅図」
「木造不動明王立像」
「紙本着色不動明王二童子像」
いずれも「八潮市指定文化財

Img_1540大経寺山門と大イチョウ  《地図

円空作の「木造千手観音立像」、

八潮の昔話『阿弥陀様と朱印状

Img_1519八條の渡し跡あたり(八条橋から)

雨で水量が増え川幅がかなり広くなっている。

八條遺跡

Img_1528和井田家住宅 《地図

この両側だが、長屋門のあるのは左側か?立ち入り禁止のロープや通行止め標識など入れずで分からず。 説明板も「和井田家住宅前」バス停もあるのだが。

Img_1533構堀跡だろう。

Img_1532説明板

Img_1541馬頭観音(右) 《地図

Img_1545八條殿社古墳地図》(このあたりだったか?)

古墳の上あった八條殿社は明治42年に廃社となった。御神体として祭祀されてきた「板石塔婆(弘安7年(1284)銘)は八条八幡神社に保管されている。
紙本着色八條殿社神像

八潮の昔話『馬にまたがる八条様

ここは見つけることができないと思っていたので、和井田家住宅の分を取り戻した感じだ。

Img_1548説明板

Img_1552八條八幡神社地図

ここは八條村(八潮市)と柿木村(草加市)との境で、両村は仲が悪く『大境道』という八潮の昔話がある。

 草加市に入る。

Img_1557女体神社地図

この地の開発の祖と伝える豊田氏が、筑波山の女体神社を勧請したという、たどれば平将門につながる神社。

Img_1559説明板

Img_1560下妻街道道標(右) 《地図

ここを右に入って行くのが旧道だが、河川改修工事?中で行止りとなる。

ここあたりは草加八景の「音店(おとだな)河岸と下妻街道」なのだが、そんな景観は失われている。音店河岸は古利根川(中川)への落とし(排水路)を利用した河岸。明治の後半まで栄え、渡し舟なども発着していたが、河川改修による水位の低下で廃止された。河岸場を偲ばせる石組み(石段)が今も残るというが、工事現場で川岸まで行けない。

Img_1561下妻街道

下妻街道の起源は、平安時代の「奥州古道」に遡るとされている。前九年の役・後三年の役で源頼義・義家らの軍勢が通ったという古道だ。

ここを右に入って行くのが旧道だが、河川改修工事?中で行止りとなる。一般道に戻り東漸院に寄る。

Img_1565板碑型六地蔵(万治2年(1659)) 《地図

Img_1566説明板

Img_1572東漸寺山門

Img_1573説明板

Img_1527吉川橋は架け替え工事で渡れず。

手前の吉越橋は渡れるのだが、左の図に県道102号まで迂回するように書かれている。かなり遠回りになるので、歩行者・自転車専用橋で渡ることにした。

Img_1582人道橋を渡って吉川市に入る。《地図

Img_1585雨で水かさが増えている。

正面がJR武蔵野線、その先が吉越橋、次が吉川橋で明治7年に架橋されるまでは「かご場の渡し」で渡っていた。橋の手前で西から来る赤山街道と合流する。

Img_1586吉川道(岩槻慈恩寺道)に出て吉川駅に向かった。下妻街道は中川の東岸(左岸)を通った時もあるという。中川の流れの状況などでどちらかを歩いたのだろう。 《地図

Img_1590なまずのモニュメント(吉川駅前)

なまずの里よしかわ」で、「吉川なまずの里マラソン」には何回か出場した。

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2014年6月16日 (月)

奥州街道(三厩駅→竜飛崎)

2014年6月4日

三厩駅(JR津軽線)・・・増川橋(増川川)・・・三厩地区・・三厩橋(三厩川)・・(脇本陣跡)・・本陣跡・・三厩港・・義経寺・・厩石・松前街道終点之碑・国道339号・・・義経海浜公園・・・算用師橋(算用師川)・(みちのく松陰道入口)・・・藤島橋(藤島川)・・・四枚橋地区・・稲荷神社・・・釜の沢橋・・・宇鉄地区・・元宇鉄橋(元宇鉄川)・・・鐇泊橋(鐇泊川)・・鐇泊トンネル・・・洞門・・洞門・・・尻神地区・・・鳴神橋(鳴神川)・・・トンネル・・・旧道・・梹榔地区・・梹榔橋(梹榔沢)・・・国道339号・・・トンネル・・・洞門・・・龍飛漁港・・太宰治文学碑・・龍飛館(旧奥谷旅館)・・階段国道339号・・・龍飛崎灯台・・龍飛砲台跡・・吉田松陰詩碑・・・津軽海峡冬景色歌謡碑・・階段国道・・・龍飛漁港前バス停(外ヶ浜町営バス)→三厩駅

  【ル-ト地図】(3日目出発地点から竜飛崎まで)

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Img_1144三厩(みんまや)地区 《地図

Img_1152本陣跡

山田商店の所が本陣跡で、手前に脇本陣があったようだ。

Img_1154厩石(正面)・義経寺(左上)・三厩港(右)

Img_1161義経寺(ぎけいじ)

Img_1169三厩港(義経寺から)

ここが陸路の奥州街道(松前街道)の終点で、ここから北海道の松前には船で渡った松前道となる。松前も『松前町の坂』で少し歩いている。

Img_1177松前街道終点之碑(厩石公園内)

後ろが厩石

Img_1178厩石

三厩の地名の由来ともなった、義経渡海伝説の三つの岩穴だが、左の岩穴は崩れて今は二つだけ。この前に「源義経龍神塔」と「静御前龍神塔」が立つ。

Img_1176説明板

Img_1185甲岩(義経海浜公園から)

源義経が無事北海道に渡れるようにと、大切にしていた甲(かぶと)を海神にささげた場所にある岩だとか。確かに甲(兜)に似ている。

Img_1188算用師橋から算用師川 《地図

みちのく松陰道入口」の標柱が立つ。嘉永5年(1852)、津軽海峡の防衛検分のために歩いたとされる道。小泊から海岸沿いに北上し、途中から山道に入り、算用師峠を越えて、ここへ出て海岸沿いを南下し「いんくぐり」(昨日に記載)をくぐったのだろう。平舘からは舟で青森に向かったそうだ。竜飛崎へは行っていないようだ。

Img_1200四枚橋地区 《地図

かつては海辺の断崖の岩から岩へ、4つの橋が渡されていたという。

Img_1223立派な保育園があるが園児は3,4人しかいないようだ。《地図

Img_1231このあたりからトンネル、洞門が多くなる。

左は鐇泊(さかどまり)トンネル 《地図

Img_1243洞門が続く

宇鉄漁業組合長の牧野逸蔵がアワビ採取事業で得た莫大な益金で大正12年に開削に着手した「アワビ道路」。(説明板より)

Img_1292説明板(ここは第10号洞門ではない)

Img_1251海はきれいだ。

Img_1253竜飛崎も近づいたか。

右遠方は鎧島で、義経が島の神に鎧を捧げて風が吹かないように祈願したという、義経渡海伝説の地の一つ。

Img_1260現代的な空洞門もある。

Img_1276左に梹榔(ひょうろう)地区に入る。《地図

後方は竜飛ウインドパークだが、風が弱くてプロペラの回りはのろく、力が弱い。今でも電力を供給しているのだろうか?

Img_1278梹榔地区を抜けて行く。

この先で再び国道339号に出る。

Img_1295使われなくなった洞門

Img_1297牧野逸蔵胸像・太宰治文学碑(左奥)

Img_1305小説「津軽」(太宰治)の一節。

Img_1306旧奥谷旅館(龍飛岬観光案内所の龍飛館

太宰治と友人のN君が泊まった部屋で記念写真を撮ってもらった。

Img_1314龍飛案内図

太宰が「・・・鶏小屋に似た不思議な世界・・・」と書いている階段国道339号へと進もう。

Img_1315階段国道339号入口

すぐに右折して行く。

Img_1316この先で左折する。

Img_1319龍飛崎灯台へと上って行く階段国道339号

今ではすっかり観光名所になっている。

Img_1327ここからは「階段村道」だと。

三厩村は合併して外ヶ浜町になっているから正確には「町道」だ。

Img_1351この龍見橋(太宰の道)を渡って行くと、津軽要塞重砲兵連隊龍飛砲台跡・吉田松陰詩碑・大町桂月文学碑・佐藤佐太郎歌碑・川上三太郎句碑などがある。

Img_1336龍飛埼灯台

Img_1331龍飛漁港・帯島(左)

帯島は義経が蝦夷へ渡る時に帯を締め直した所という。ここで義経はアイヌの酋長から巻物をもらい、それに記されていることをもとに蝦夷に渡ったとか。渡海伝説は果てしなく、際限なく続くのだ。

Img_1339さすがこのあたりは風が強く白波が立っている。

Img_1337津軽海峡の向うに渡島半島

自衛隊の監視施設が邪魔くさい。

Img_1368♪「津軽海峡冬景色」♪歌謡碑

前のボタンを押して石川さゆりの歌を聞きながら、売店で買った大きないか焼きを食べて、東日本大震災で中断して足掛け6年かかった奥州街道歩きの旅を終えた。

Img_1377外ヶ浜町営バス

龍飛から三厩駅まで30分ほどかかるが100円とは安いね。一日6便しかないが。

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2014年6月11日 (水)

奥州街道(平舘→三厩駅)

2014年6月3日

北田旅館・・・平舘神社・・・おかりや公園(弘前藩陣屋跡)・・国道280号・・田の沢橋(田の沢川)・・松並木・・長寿の松・夫婦松・・・平舘砲台跡・平舘灯台・・・石崎沢(1)遺跡・・・石崎橋(石崎沢川)・・・石崎沢(2)遺跡・・・弥蔵釜地区・石崎漁港・・・須々川橋(須々川)・・・元宇田地区・・聞法寺・・胸肩神社・・・(今別町)・・・綱不知海岸・・・岩屋観音・・・鬼泊橋(鬼泊川)・・鬼泊トンネル・・だるま滝・・だるま滝沢・・・稲荷神社・・・一本木漁港・・奥平部橋(奥平部川)・・・赤根沢の赤岩・・・神社の沢橋・・稲荷神社・・・大沢橋(砂ヶ森川)・・・高野崎・・・袰月地区・・袰月橋・・伊能忠敬止宿標柱・・釈迦橋(釈迦滝沢)・・海雲洞・・・袰月海岸・・鋳釜崎・吉田松陰碑・・・岩木山神社鳥居・・・旧道・・・稲荷神社鳥居・・・いんくぐり(松陰くぐり岩)・・・国道280号・・与茂内橋(与茂内川)・・・中美田橋(中宇田川)・・・山崎地区・・山崎橋・・・玉吉橋・・今別海岸・・・旧道・・稲荷神社・・あすなろ橋(今別川)・・・八幡神社・・・今別地区・・・本覚寺・・・長川橋・・正行寺・・・中宇田沢・・寺小橋(寺小川)・・・浜名橋(黒崎川)・・・今別漁港・・・(外ヶ浜町)・・・古川橋(古川川)・・旧道・・・三厩駅(JR津軽線)

  今日も快晴で陽射しはきついが、やわらかい北風で心地よい。三厩まで進みたいので7時前には宿を出る。ゆっくり、のんびりと平舘海峡の下北半島の眺めを楽しみながら、岩屋観音の手前で今別町に入った。高野崎、鋳釜崎へと進み、浜沿いの旧道を下り、図らずもいんくぐりを抜けることができた。今日はこれが最大の収穫だろう。
 今別の中心部を過ぎて再び外ヶ浜町に入り、あすなろ大橋の手前で旧道に入った所を今日の終点とし3時前には三厩駅に着いた。
 

  【ル-ト地図】(2日目出発地点から46.5km地点まで)

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Img_0825おかりや公園 《地図

弘前藩陣屋跡で御仮屋、「おがりや」と言ったようだ。街道沿いに「御棟屋前」バス停がある。

Img_0824説明板

Img_0845見事な松並木が残っている。

両側に「津軽国定公園入口」の標柱

Img_0852長寿の松

根元がどっしりとした樹齢600年ほどの松並木の中の最高齢のクロマツ。

Img_0850夫婦松

ちょっと分かりにくいが自転車で通りかかった地元の女性に聞いて確認したから間違いないだろう。

Img_0849説明板

Img_0857平舘砲台跡 《地図

弘化4年(1847)にオランダの捕鯨船が現れ、8人の船員が上陸して大騒ぎになり、弘前藩は砲台場を築いたという。

Img_0858説明板

Img_0866平舘灯台

Img_0862説明板

Img_0865朝陽に輝く平舘海峡の彼方にうっすらと浮かぶ下北半島。

Img_0876石崎沢(2)遺跡

左の説明板に「発掘調査は実施されていないが、縄文時代の土器片が見つかっている」とある。この手前に「石崎沢(1)遺跡」がある。
説明板の向う側は地蔵の小祠と百万遍供養塔で、街道沿いにこの組み合わせと幾つも出会う。正面の塔は?

Img_0887弥蔵釜(やぞうがま)地区・石崎漁港 《地図

製塩に由来する地名で、蟹田の塩越での製塩が享保年間(1716~35)の水害でダメになり、弥蔵釜の釜師が引き継いだという。弘前藩に納める特上の塩で、一般の塩は瀬戸内海から日本海経路で移入されていた。ここの製塩も天明の飢饉で釜師が北海道に去ってしまい途絶えたという。

Img_0894聞法寺  《地図

右は日持上人と船頭蠣崎甚兵衛の銅像。永仁3年(1295)日蓮宗の北方への布教のため、故郷の静岡を旅立ちこの地に入った日持上人は、船で蝦夷地(北海道)に渡ったという。説明碑によると中国の万里の長城近くの宣化府(宣化市)にも遺跡があるという。義経の蝦夷~大陸渡海伝説みたいな坊さんだ。

Img_0899胸肩神社

意外と小さな社だった。宗像三女神を祀る地元の航海・漁業安全の守り神だろう。

Img_0906元宇田地区の家並み

Img_0919今別町に入り、綱不知海岸沿いを行く。

Img_0926だるま滝をモチーフにしたトイレ

Img_0930岩屋観音堂(右の岩下) 《地図

Img_0937岩屋観音(津軽三十三観音霊場第21番札所)

鬼泊岩寛延巡礼記に、「海の中に岩あり。船にて参詣する所なり」とあるそうだ。風波にさらされ堂宇は傷みが激しく、享保年中(1716~35)には、半壊していたという。そして明治元年の神仏分離令によりここ鬼泊の岩屋観音は消滅したが、明治20年代にこの先の袰月(ほろづき)に滝見観音海雲洞が21番として再興された。だが昭和30年代に入ってこの地に岩屋観音堂が再建され、21番霊場が2つになったそうだ。札所といってもここには札を受ける所はない。

Img_0933説明板

鬼泊トンネルを抜ける。

Img_0951だるま滝

水は少し流れ落ちているのだが、写真では分からない。

Img_0925写真(トイレの所に設置)

Img_0975_2「赤根沢の赤岩 30m先←」標識 《地図

左に入ってかなり探したが、草に埋もれた採掘坑跡のような所はあったが、赤い岩らしきはっきりとしたものは分からなかった。あきらめてここに引き返したら電柱の後ろに見本?が置いてあった。

Img_0981赤岩

建造物の朱塗りなどに使われるベンガラの原料で、岩木山神社や日光東照宮、江戸城の修復にも使われたという。弘前藩は17世紀に赫土(あかつち)奉行を設け番所を置いた。ここを左に入った採掘坑跡そばの山神社?あたりが赤根沢御番所跡らしい。

Img_0991高野崎への上りとなる。

Img_0994高野崎灯台 《地図

文化5年(1808)に砲台場が築かれた。

Img_0999大石・袰月海岸・鋳釜崎方向

Img_1008袰月地区に入る。

Img_1011伊能忠敬止宿地 《地図

数軒先に湊番所と陣屋があったようだ。

Img_1013「津軽方言詩人」の高木恭造詩碑

「今日は陽コあだりすぎるガジャ」で暑いが。
高野崎にもこの詩全文の文学碑が立つ。

Img_1018袰月海雲洞

ここが新しい津軽三十三観音第21番の袰月滝見の観音堂で奥に小さな滝が見える。

Img_1032鋳釜崎 《地図

Img_1033吉田松陰碑『東北遊日記

嘉永5年(1852)、津軽海峡の防衛検分のために、日本海沿いの小泊から海岸沿いに北上し、途中から山道に入り、算用師峠を越えて、三厩に出て海岸沿いを南下した。その時通ったのが「みちのく松陰道」、この先の「松陰くぐり岩」(いんくぐり)としてその名を残している。平舘からは舟で青森に向かったそうだ。竜飛崎へは行っていないようだ。

Img_1040下北半島の眺め

Img_1041右に旧道を下る。 《地図

海岸沿いの集落を通って「いんくぐり」(松陰くぐり岩)に向かうのだが、どこで浜に下りるのか分からずきょろきょろと歩いていたら、後ろから浜沿いの民家?のおじさんが、「いんくぐりに行くのか」と声を掛けてくれた。今日は波もなく、ちょうど干潮時でくぐれると言い、敷地内を通してくれた。ラッキーとグッドタイミングが重なって嬉しくなった。

Img_1045正面左の岩が陰くぐりだが、ここからは見えない。 《地図》(このあたりだろう)

ゴロゴロした石で足元がだんだん悪くなる。

Img_1047岩穴が見えて来た。あそこをくぐるのだ。

Img_1048滑らぬよう転ばぬよう慎重にくぐって行く。

干潮で波もなくよかった。吉田松陰は向う側からくぐったのだ。

Img_1051ここで162年の時空を超え、吉田松陰とすれ違う。若き23歳の憂国の士の風を感じ・・・・。てなことは全くなかった。足元に気を取られ松陰のことなど頭から消えていた。

Img_1052くぐって振り返る。

浜から上がって与茂内橋で国道280号に出る。

Img_1066右へ今別海岸沿いに今別地区に向かう。 《地図

今別橋(今別川)の手前で左に入り、枡形のように進み、あすなろ橋を渡る。

Img_1078あすなろ橋から今別川(上流方向) 《地図

Img_1080八幡神社で一休みしよう。

Img_1081参道下を津軽線が通る。

今別の中心部へと入って行く。

Img_1086小説『津軽』に登場する家

Img_1085説明板

Img_1089旧家

Img_1098本覚寺 《地図

第五世住職貞伝上人は、地域の産業振興にも尽くし、経を書いた石を念仏読経とともに、海に投げ入れ昆布を根付けさせたという。当地方では、今別昆布は貞伝上人からの賜わり物とされている。

Img_1092説明板

Img_1093この寺も「津軽」に登場する。

Img_1095青銅塔婆

貞伝上人が生前、鋳物師小原安兵衛を招いて制作させ自らは塔婆下の墓穴に入滅したとも伝える。

Img_1096説明板

Img_1097今別大仏(本覚寺境内)

Img_1115三厩地区へ向かう。《地図

左は津軽線の線路、右は三厩湾。

Img_1121再び外ヶ浜町となる。

三厩村は合併して外ヶ浜町になったが、今別町を間に挟んで飛地になっている。

Img_1125翌桧(あすなろ)大橋(増川)を渡らずに左に入って行く。 《地図

今日はここまでとし三厩駅に向かう。

Img_1132三厩駅

Img_1135津軽線で青森駅まで戻ってビジネスホテルに泊まる。一輛でもこの時間はガラガラだ。

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2014年6月 6日 (金)

奥州街道(蟹田駅→平舘)

2014年6月2日

蟹田駅(JR津線)・・・蟹田町奉行所跡・・・国道280号(松前街道)・・・長楽寺・・・蟹田橋(蟹田川)・・・中貞商店・・・観瀾山公園(蟹田台場跡・太宰治文学碑)・・・旧道・・稲荷神社・・塩越地区・・塩越橋(滝の沢川)・・水汲沢橋(水汲沢川)・・・国道280号・・・旧道・・磯山地区・・磯山橋(口広川)・・・国道280号・・・船岡橋・・・龍神宮・・・旧道・・久須志神社・・・湯の滝橋(小湯の沢川)・・・船岡郵便局・・国道280号・・尻高橋(尻高川)・・旧道・・今津地区・・・釜の沢橋(釜の沢)・・稲荷神社・・・間沢橋(間沢川)・・・才の神橋(才の神川)・・・滝沢橋・・・野田地区・・玉川橋(玉川)・・・根岸地区・・・湯の沢橋(湯の沢川)・・・稲荷神社・・・平舘漁港・・北田旅館

 奥州街道(松前街道)の続きを蟹田から終着地の三厩まで行き、竜飛崎まで足を延ばす。太宰治が小説『津軽』で「津軽の旅行は、五、六月に限る」と言っているように、好天に恵まれ奥州街道歩きの絶好の締めくくりの3日間となるだろう。

  奥州街道奥内駅→蟹田駅)』の続きです。

  【ル-ト地図】(17.6km地点まで)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_0655蟹田町奉行所跡(外ヶ浜町商工会館の所) 《地図

Img_0656説明板

国道280号(松前街道)に突き当たり左折し、北上する。

Img_0659長楽寺 《地図

平成13年に総青森ひば(ヒノキアスナロ)で本堂・山門が再建された。天井、壁、柱、床や屋根裏までにも青森ひばが使われているそうだ。

Img_0664蟹田川

前方右のこんもりしている所が観瀾山公園。

Img_0667中貞商店

太宰治の青森中学時代の友人の中村貞次郎氏宅で、「津軽」ではN君で登場する。

Img_0678蟹田港(観瀾山公園の太宰治文学碑の前から)

ちょうど下北半島の脇野沢へ向かう「むつ湾フェリー」が出航した。右の塔は蟹田フェリーターミナルのトップマスト。

Img_0680太宰治文学碑 

司馬遼太郎は『街道をゆく41(北のまほろば)』の「蟹田の蟹」で、この碑文のことを誤解して書いている。まさに「双方にとって、無残というほかない」だ。

Img_0674説明板

Img_0681蟹田台場跡(観瀾山公園内)

ここはアイヌのチャシ跡という。

Img_0683説明板

蟹田地区を抜けて、石浜で左に旧道に入る。

Img_0689塩越地区

揚浜式塩田開発に成功した津軽藩の塩焼場があったという。

Img_0693車は通らない静かな道を行く。

Img_0699塩越地区の家並み

Img_0707小高い所まで上って行く。ここは新しく造られた道かも。下に国道280号が通る。

Img_0713塩越神社

国道に出て、今度は右に海寄りの道を進む。

Img_0717磯山地区を通って行く。

再び国道に出る。

Img_0730龍神宮

この地区の海の守り神でだろう。

Img_0733左に入って行く。

国道に「龍飛 46km 外ヶ浜(三厩)34km 今別29km」の道路標識が架かる。

Img_0735久須志神社鳥居 《地図

この付近に二ツ家一里塚があったようだが。

Img_0737久須志神社

背後の森一帯は、「杉の子わんぱくの森公園」になっている。

船岡郵便局の先で国道280号に出て、尻高橋(尻高川)を渡って右に旧道に入る。

Img_0754稲荷神社(今津地区) 《地図

街道沿いに多くある稲荷神社の社殿はこの形式だ。

Img_0755海を眺めて小休止

日影の風は冷たく長くは居られない。

Img_0759才の神橋(才の神川)

塞ノ神(道祖神)のことだろう。バス停(停留場はない)も「今津才の神」だが、どこに才の神があるか分からず。聞く人もいない。

Img_0768海岸沿いを進む。

Img_0779玉川 《地図

『奥州街道 歴史探訪・全宿場ガイド』は、この川を順徳院が「陸奥(みちのく)の野田の玉川見渡せば塩(汐)風こして氷る月かげ」と詠んだ歌枕の「野田の玉川」としているが間違いだろう。
「井出の玉川」は『山背古道①』で、「野路(萩)の玉川」は『東海道(石部宿→草津宿)』で歩いている。

Img_0780街道の名残り松か。

Img_0783海鳥と一緒に下北半島を眺めいたら、すぐに強い陽射しでじりじりと焦げそうになってきた。水を浴びないと焼き鳥になるぞ。

Img_0786たまには山の方も見ながら行こう。

Img_0797_2ちゃぽらっと(外ヶ浜町営の温泉)

雁風呂伝説」・落語にも水戸黄門と淀屋辰五郎が登場する『雁風呂』がある。

Img_0794不老ふ死温泉(山居山(244m)の麓) 《地図

当初はここに泊まろうと思ったのだが。

Img_0843平舘漁港

下北半島がよく見える。

Img_0807北田旅館 《地図

JR津軽線は蟹田駅から今別駅の間は海岸沿いを離れ内陸部を走る。この先今別までに宿はなく、まだ3時と早いが今日はここで一泊して明日、三厩を目指す。ビールと海の幸の夕食で満腹となり、静かな部屋でぐっすり眠った。

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