下妻街道①(北千住駅→吉川駅)
2014年6月9日
北千住駅(JR常磐線)・・・宿場町通り・日光街道千住宿・・水戸街道追分・・日光街道追分・・荒川土手・・千住新橋(荒川)・・・五反野駅(東武スカイツリーライン)・・・四家交差点・・・西加平町交差点(環七通り)・・・内匠橋(綾瀬川)・(首都高6号)・・赤稲荷神社・・・(八潮市)・・浮塚交差点・(首都高6号)・・・氷川神社(浮塚)・・・蓮台寺・・・福寿院・・・大曽根八幡神社・・・境橋(葛西用水)・・・円照寺・・・中央交番前交差点・・・土手供養碑・普門院・・二丁目交差点・・・中川土手・・・氷川神社(二丁目)・・・宝幢寺・・・下久伊豆神社・・・医薬寺・・・上久伊豆神社・・・八條村道路元標・・・稲荷宮・・・幸の宮橋(綾瀬川放水路)・・八潮排水機場・・・庚申塔道標・・・太田家住宅・・・清勝院・・・(外環自動車道)・・・大経寺・・・八條の渡し跡(八条橋・中川)・・・和井田家住宅・・・馬頭観音・・・八條殿社古墳・・・阿弥陀堂(清勝院)・・・八條八幡神社・・・(草加市)・・・女体神社・・・下妻街道道標・音店河岸跡あたり・・稲荷社・・・東漸院・・・(越谷市)・・・人道橋(中川)・・(吉川市)・・吉川道(岩槻慈恩寺道)・・・吉川駅(JR武蔵野線)
千住宿で水戸街道と日光街道と分かれ、荒川、中川、江戸川、利根川、鬼怒川を渡って下妻(茨城県下妻市)に通じ、さらに北上して喜連川宿で奥州街道と合流する下妻街道を歩く。
梅雨に入って降り続いた雨が上がった日に、足立区→八潮市→草加市→越谷市→吉川市へと進んだ。
【ル-ト地図】(23.6km地点(吉川駅)まで)
*参考:『八潮市の文化財』・『八潮市の昔話』・『草加市の文化財』
写真をクリックすると拡大します。
宿場町通り 《地図》
千住宿と水戸街道追分~日光街道追分までは、『日光街道(千住宿→草加宿)』と、『水戸街道(千住宿→松戸宿)』に記載。
日光街道追分 《地図》
分岐に道標「北へ 旧下妻道」・「北西へ 旧日光道中」
ここを左に進む。《地図》
五反野駅をくぐり、四家交差点で右斜めに入り、西加平町交差点で環七通りを横切って、綾瀬川に突き当たる。見所はない。
綾瀬川沿いを進む。《地図》
川の流れは見えず味気ない。上は首都高6号三郷線。
降り続いた雨のせいか水は濁っていた。「内匠(たくみ)」の由来は何か?
写真「内匠橋の今昔」(『綾瀬川の河岸場跡を訪ねて』の27頁)
このあたりはごちゃごちゃしている。「忠治河岸」(『綾瀬川の河岸場跡を訪ねて』の26頁)と呼ばれたようだ。関東郡代伊奈忠治の治水事業による名だろう。
八潮市に入った。
葛西用水(境橋から)は雑草に覆われている。
土手供養碑(右端・明暦元年(1655))・普門院(奥) 《地図》
もとは中川の土手上に建てられたもの。
八潮の昔話『土手まもり様』
中川土手に突き当たる。
このあたりの土手上に橋供養碑があったのだろう。共和橋の対岸は三郷市。
二丁目の地名は条里制の遺構という。
『二丁目の獅子舞』
八潮市のオビシャ(年頭の弓神事)の「弓ぶち」と「蛇捩り」
八條村道路元標(左下) 《地図》
左から2番目の庚申塔の左側面に「江戸道」、右側面に「野道」と刻まれている。下妻街道沿いからここへ移されたものだろう。《地図》
この先の右側が太田家住宅
江戸時代中期から続く河岸問屋で、二郷半領や八條領から買い集めた米を各地の米問屋などに販売していた。八條の下妻街道沿いは、上宿・中宿・下宿(新田丁)に分かれ、多くの店が軒を連ねていたそうだ。
「日光道中の脇往還である下妻道と成田道と八條の渡しの交差部に位置し・・・」とある。成田道とは中川対岸の吉川道(岩槻慈恩寺道)から続く佐倉道(成田街道)のことだろう。
「絹本着色虚空蔵菩薩像」
「絹本着色理趣会曼荼羅図」
「木造不動明王立像」
「紙本着色不動明王二童子像」
いずれも「八潮市指定文化財」
円空作の「木造千手観音立像」、
八潮の昔話『阿弥陀様と朱印状』
雨で水量が増え川幅がかなり広くなっている。
「八條遺跡」
この両側だが、長屋門のあるのは左側か?立ち入り禁止のロープや通行止め標識など入れずで分からず。 説明板も「和井田家住宅前」バス停もあるのだが。
馬頭観音(右) 《地図》
古墳の上あった八條殿社は明治42年に廃社となった。御神体として祭祀されてきた「板石塔婆(弘安7年(1284)銘)は八条八幡神社に保管されている。
「紙本着色八條殿社神像」
八潮の昔話『馬にまたがる八条様』
ここは見つけることができないと思っていたので、和井田家住宅の分を取り戻した感じだ。
ここは八條村(八潮市)と柿木村(草加市)との境で、両村は仲が悪く『大境道』という八潮の昔話がある。
草加市に入る。
この地の開発の祖と伝える豊田氏が、筑波山の女体神社を勧請したという、たどれば平将門につながる神社。
下妻街道道標(右) 《地図》
ここを右に入って行くのが旧道だが、河川改修工事?中で行止りとなる。
ここあたりは草加八景の「音店(おとだな)河岸と下妻街道」なのだが、そんな景観は失われている。音店河岸は古利根川(中川)への落とし(排水路)を利用した河岸。明治の後半まで栄え、渡し舟なども発着していたが、河川改修による水位の低下で廃止された。河岸場を偲ばせる石組み(石段)が今も残るというが、工事現場で川岸まで行けない。
「下妻街道」
下妻街道の起源は、平安時代の「奥州古道」に遡るとされている。前九年の役・後三年の役で源頼義・義家らの軍勢が通ったという古道だ。
ここを右に入って行くのが旧道だが、河川改修工事?中で行止りとなる。一般道に戻り東漸院に寄る。
手前の吉越橋は渡れるのだが、左の図に県道102号まで迂回するように書かれている。かなり遠回りになるので、歩行者・自転車専用橋で渡ることにした。
人道橋を渡って吉川市に入る。《地図》
正面がJR武蔵野線、その先が吉越橋、次が吉川橋で明治7年に架橋されるまでは「かご場の渡し」で渡っていた。橋の手前で西から来る赤山街道と合流する。
吉川道(岩槻慈恩寺道)に出て吉川駅に向かった。下妻街道は中川の東岸(左岸)を通った時もあるという。中川の流れの状況などでどちらかを歩いたのだろう。 《地図》
「なまずの里よしかわ」で、「吉川なまずの里マラソン」には何回か出場した。
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