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2014年7月31日 (木)

東京散歩(六阿弥陀道①)

2014年7月28日

王子駅(JR京浜東北線)・・・庚申塔祠・・・1番西福寺・・・善光寺・・・清光寺・・・弥陀の渡し跡あたり・・・豊島橋(隅田川)・・・江北橋(荒川)・・・2番恵明寺・・・性翁寺(木余り寺)・・・江北橋(荒川)・・・氷川神社・宮城氏居館跡・・・小台橋(隅田川)・小台の渡し跡・・・寶蔵院・・馬場子育稲荷・・・小台駅(都電荒川線)・・小台本銀座通り・・・道標・・・JR宇都宮線ガード・第三下田端踏切・・・道標・・・車坂跨線橋(JR京浜東北線)・・・蝉坂下・上中里駅(JR京浜東北線)

 行基が一本の木から彫り上げたという六体の阿弥陀仏を安置する六ヶ寺を巡る六阿弥陀道を歩く。行基が六阿弥陀を彫ったいきさつは、ある長者の他家へ嫁いだ娘が荒川に身を投げ、侍女たちも娘の後を追って殉じたのを供養するために、長者が行基に依頼したというものだが、各寺の縁起や伝説には人物設定などで相違がある。太田蜀山人も『ひともと草』の中で、「・・・六の寺の縁起、いづれもその事同くして、その名の異なるこそあやしくおぼろしけれ。まづ一番にては・・・・・」と書いている。(後掲の『六阿弥陀の縁起・伝説』にまとめた)

 江戸市中からの巡拝ルートは、川柳の「五番目は一か六かに廻すなり」で上野(台東区)の五番の常楽院(調布市に移転)から始め、四番(与楽寺・北区)→三番(無量寺・北区)→二番(延命寺(現在は恵明寺)・足立区)→一番(西福寺・北区)→六番(常光寺・江東区亀戸)が多かったようだ。江戸市中の住人でもなく、あれこれルートを考えるのも面倒なので一番から順に巡ることにする。阿弥陀信仰などはなく、調布に移転した常楽院までは行かず、上野の五番の旧地近くにある小祠で間に合わす。(滝坂道を歩いた時に訪れた)

 「六阿弥陀詣」は、春秋の彼岸に盛んに行われた。「六つに出て六つに帰るは六あみだ」で昼と夜の時間が同じの彼岸の日に、明け六つから暮れ六つまでの丸一日がかりで巡拝したようだ。(お江戸の科学『江戸の時刻制度』”不定時法”)
 昼間は長いが真夏の暑さの中ではとても一日では無理というもの。木余り寺、木残り寺(末木観音)などにも寄りながら3日くらいかけて行くとしよう。

  参考:『古い道とみちしるべ』・『北区の札所』(いずれも北区教育委員会)

  翌年の秋の彼岸には、『新六阿弥陀』(越谷市)を巡った。

  【ル-ト地図】(12km地点の上中里駅まで)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_2863一番西福寺地図

「新編武蔵風土記稿」の西福寺の縁起に記すように、娘の父の豊島左衛門尉清光と六阿弥陀を彫ったという行基とは時代が違う。

参照:『六阿弥陀の縁起・伝説

門を入った左に♪「よさこい節」のヒロイン「お馬さん」の塚(墓)がある。

Img_2865お馬塚

お馬さんの故郷は『四国遍路道(高知県⑧」』、
「はりまや橋」は『四国遍路道(高知県⑭)』、
「かんざし騒動」の後で奉公していた旅籠「坂本屋」とその後の消息については『四国遍路道(高知県⑤)』、
大工と所帯を持って4人の子どもをもうけて暮らした須﨑市にある「お馬堂(神社)」は、『四国遍路道(高知県⑩)』に記載。

その後お馬さん夫婦は明治18年に東京に引越し、明治36年にこの豊島の地で没した。

Img_2868お馬塚由来記

Img_3178道標地蔵(明和7年(1770)・福性寺参道前) 《地図

後背の左に「六あミだ左一番目道」と刻まれている。「2017年1月4日撮影

Img_2871清光寺地図

豊島清光の開基という。『木造豊島清光坐像

Img_2886弥陀の渡し跡あたり(豊島橋(隅田川)から)

豊島村(北区)から沼田村(足立区)への渡船場があった。豊島の渡し・六阿弥陀の渡し・阿弥陀の渡し・中の渡し・原の渡しとも呼ばれていた。旧荒川(現隅田川)の流路は、現在の荒川まで大きく湾曲していて、この地形を「天狗の鼻」と呼んでいた。渡船場は湾曲の頂点よ り少し下流に位置していた。 文化11年(1814)頃に 当地を訪れた十方庵敬順(じゅっぽうあんけいじゅん)は、この渡船場付近の川端の様子を、 「荒川の長流にそひて、左右の渚の景望はいふもさらに、弓手は渺茫たる耕地を見わたし、心眼ともに打はれて、実に賞すべきの景地たり」と記し、こうした土地に住んで、花鳥風月になぐさめられて暮らしたならば、寿命も延びるであろうと賞賛している。明治44年から荒川の河川改修工事が始まり、この付帯事業として大正12年に荒川放水路 (現荒川)に江北橋が、同14年に荒川(現隅田川)に豊島橋が架橋され、この渡船場も姿を消した。 『北区の歴史と文化財』より

Img_2903江北橋から荒川

江戸時代の六阿弥陀詣りの頃にはこの川はなかった。正面奥は東京スカイツリー。

Img_2894二番恵明寺(えみょうじ) 《地図

明治維新後に六阿弥陀の二番延命寺を合寺し、阿弥陀堂を移設した。

Img_2896説明板

「阿弥陀如来像は等身大の寄木造り」とある。行基が一本の木から彫り上げたという六体の阿弥陀仏とは違うようだ。まあ伝説だから。

Img_4715道標「右 六阿弥陀道」・「弘法大師道」(胡録神社境内)                        

恵明寺、性翁寺への道と西新井大師道の分岐地点にあったものだろう。『西新井大師道・十条板橋道』に記載。

Img_5655「六阿弥陀伝説熊ノ木圦跡」碑 

地図》(神領堀緑道の熊之木橋そば)

六阿弥陀伝説熊野から霊が流れ着いた所。
(2017年2月15日撮影 『東京散歩(足立区③)』)

Img_5641熊之木圦

Img_2902性翁寺(しょうおうじ)(木余り寺) 《地図

六阿弥陀の余りの木で作られたという阿弥陀像を安置。伝説の「足立姫の墓」を探したが、警備が厳重な寺で途中で嫌気がさして止めた。

Img_5674足立姫の墓 (2017年2月15日撮影) 

足立姫伝説の縁起絵

再び江北橋を渡って行く。

Img_2905氷川神社地図

右隣は宮城公園

Img_2904宮城氏居館之址碑(氷川神社境内)

Img_2909小台橋から隅田川 《地図

六阿弥陀の参詣人たちも利用した「小台の渡し」があった。
正面に「あらかわ遊園」の観覧車が見える。隅田川沿いでも元は荒川なのだ。
あらかわ遊園の左(西)隣の船方神社に、荒川に身を投げた娘を追って身を沈めたという12人の侍女を供養する十二天塚がある。

Img_3194十二天塚

2017年1月4日撮影

Img_3189説明板

Img_2911寶蔵院地図

そばに馬場子育稲荷がある。

Img_2910説明板

Img_2916都電荒川線

唯一現存する都電の路線

Img_2917右に小台本銀座通りに入る。《地図

あまり活気のある商店街通りではないのは、何処も同じか。

Img_2921道標(昭和48年) 《地図

Img_2923「右 西新井大師道」で、今歩いて来た道。
「左 王子稲荷道」で、明治通りを王子稲荷神社へ向かう新しい道。

JR宇都宮線ガードをくぐり、第三下田端踏切を渡って行く。

Img_2926道標(文政11年(1828)) 《地図

Img_2931「右 六阿弥陀 西新井弘法大師道 ■先船わたし場十一丁」・「左 王子道」

これが本来の道筋で、今はJR京浜東北線の線路で遮断されるが、そこを横切り蝉坂を上り、日光御成道に出て、王子稲荷へと続いて行く。

Img_2933線路沿いを進んで、車坂跨線橋(JR京浜東北線)を渡って蝉坂下の上中里駅まで行った。

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2014年7月25日 (金)

東京散歩(奥戸街道)

2014年7月21日

小岩駅(JR総武線)・・・蔵前橋通り・・・六軒橋交差点・奥戸街道・・・(新金貨物線)・・(葛飾区)・・奥戸新橋(新中川)・・・宝蔵院(式部薬師)・・・八剣神社・・・妙法寺・・(環七通り)・・・天祖神社・・・奥戸橋(中川)・・・熊野神社・・・宝泉寺・・・立石様・・・南蔵院・・・帝釈天道標・・・地蔵祠・・・本奥戸橋西詰(中川)・地蔵堂・奥戸道道標・・・西円寺・・・立石諏訪神社・・・喜多向観音・・・渋江公園・・・奥戸街道入口交差点・・・白髭神社・・・林柔寺・・・木下川薬師(浄光寺)・・・東四つ木避難橋・綾瀬川堤・・・(四ツ木駅)・・・西光寺・・葛西清重の墓・・・古東海道説明板・・・四ツ木駅(京成押上線)

 奥戸街道は江戸川区の六軒橋交差点から葛飾区の奥戸街道入口交差点までの愛称道路名だが、本奥戸橋西詰の道標に「江戸みち おくとミち」とあるように、古くからの道筋である。さらに立石の地名由来となった「立石様」は、房総半島の鋸山付近から古墳の石室の石材として運ばれたものという。これが奈良時代以降には道標として転用されたというから、隅田から「立石」の前を通り小岩に抜け、房総半島へと向かう古代東海道の道筋とも一部では重なる。
 また奥戸地域は、地名が室町時代の文書に記され、この地から古墳時代から奈良・平安時代の集落跡が発掘されていることから、古代から開発され栄えていた地域だったようだ。

  【ル-ト地図

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Img_2709中島商店

昭和初期の建物。「好文木」とは大阪の梅栄堂の線香の商品名。もとは《晋の武帝が学問に親しむと花が開き、怠ると開かなかったという故事から》梅の別名。

Img_2710六軒橋交差点 《地図

奥戸街道は右、蔵前橋通りは直進。

Img_2711新金貨物線と新中川の間で江戸川区から葛飾区に入る。

Img_2713奥戸新橋から新中川

左端に式部薬師(宝蔵院)の鐘楼「和光の鐘」が見える。

Img_2721和光の鐘(宝蔵院) 《地図

昭和38年の中川放水路(新中川)完成記念に建立。傍らに「式部薬師」の由来となった竹内式部門下で徳大寺公城の家臣本堂良喜と、公城の娘妙姫の慰霊と供養のための井上靖の記念碑が建てられた。

Img_2718_2鐘楼再建賛歌碑(井上靖の撰文)

近くに2人(本堂良喜と妙姫)の菩提を弔う歌という柳原白蓮の歌碑、「衆生あり祈願成就のよろこびを代々に伝えし御仏ぞこれ」があるというが、どれか分からず。

Img_2716説明板

妙姫が竹内式部から拝領した護持仏の薬師如来像。

Img_2728八剣(やつるぎ)神社

寛永6年の棟札に「下総国葛西庄奥戸新田」とあるそうだ。まだ「武蔵国」ではなかったのだ。

Img_2727説明板

Img_2732妙法寺

明治の中頃までは柴又帝釈天の縁日には、帰途立ち寄る参詣人でかなりの賑わいだったという。

Img_2735天祖神社地図

「大しめ縄」が掛けられている。

Img_2734説明板

Img_2741奥戸橋から蛇行する(旧)中川 《地図

東京スカイツリーも見える。

Img_2757熊野神社

陰陽師の安倍晴明が紀州の熊野権現を勧請したと伝える神社で、神体は古代の石剣。社殿の両側に神木の大クスノキがそびえる。
江戸時代には将軍家光、吉宗の鷹狩の際の御膳所だった。

Img_2752由緒

Img_2759宝泉寺地図

肥前国平戸藩主松浦家の隠居寺。

Img_2763「立石様」を祀る小公園 《地図

Img_2762立石の祠

Img_2760説明板

Img_2761立石

鋸山付近から運搬してきた古墳の石室用の石材。奈良時代以降になって墨田から小岩に抜ける古代東海道の道しるべとして転用されたものと考えられている。この地は古墳時代以前からの重要な交通路沿いで、古代東海道から江戸道(奥戸道)、奥戸街道と時代を経て行く。
今では、数cmほどしか露出してないが、江戸時代には地上60cm以上も露出していたと言われ、住民の信仰の対象になっていた。

Img_2764南蔵院

宝暦5年(1755)から徳川将軍の葛西方面の鷹狩の際の御膳所。

裏に土師器・須恵器や各種の埴輪などが出土した南蔵院裏古墳があったというが、人家が建て込んでいて跡形もないようだ。

Img_2768道標(文政3年(1820)・立石8丁目)

正面に「帝釋天王」で、柴又帝釈天への道標。

Img_2773地蔵堂 《地図

永井荷風の「断腸亭日乗」にも記載されている地蔵と道標。

Img_2775地蔵(貞享2年(1685))

Img_2779道標(宝暦5年(1755))

「右 江戸みち 左 おくとミち

Img_2774説明板

Img_2783西円寺

江戸時代末期には本堂で寺子屋が開かれ、明治7年には公立青砥学校堅石分校(現本田小学校)の仮校舎となった。

Img_2784立石諏訪神社

Img_2785喜多向観音堂(東立石4-45) 《地図》あたり

Img_2787観音(寛保元年(1741))

目を見開いて人間の女人ぽい表情を浮かべている。

Img_2786由来

Img_2791セルロイド工業発祥記念碑(渋江公園内) 《地図

Img_2789説明板

奥戸街道入口交差点で奥戸街道は終わるが寄り道する。

Img_2802白髭神社地図

渋江村の鎮守で、江戸時代は葛西の「客人(まろうど)大権現」と呼ばれ、吉原、深川、千住などの遊郭や水茶屋、花柳界の人々の信仰が厚かった。子授け、花柳病に霊験あらたかといい、神体の一つは男根形の陽石とか。

Img_2796道標

江戸市中から寄進されたもので、すべて文政5年(1822)と刻まれている。今は境内に集められているが、もとは道端にあったのだろう。

Img_2805林柔寺

7代将軍徳川家継の生母月光院(左京の局・お喜世の方)の位牌が安置されている。「江島生島事件」のヒロインの江島(絵島)の主人にあたる。

Img_2816木下川(きねがわ)薬師(浄光寺) 《地図

享保5年(1720)の将軍吉宗の鷹狩以来、御膳所に指定された。

Img_2810将軍家光手植えの「登美の松」の2代目

傍らに勝海舟揮毫の石碑がある。

Img_2823綾瀬川・かつしかハープ橋 (首都高速中央環状線)

東四つ木避難橋あたりから。土手の右は荒川。《地図

Img_2838荒川から東京スカイツリー

夏休みに入り、少年野球場は賑わっている。

Img_2851西光寺

葛西三郎清重の居館跡と伝える。

Img_2852説明板

清重塚を探すのに苦労した。

Img_2857清重塚跡 《地図

江戸時代に多くの武器類が収められていた石棺が発掘された塚があったようだ。

今は五輪塔(寛永8年(1631))・葛西清重の墓(記念碑)だけで塚はない。

Img_2856説明板

Img_2854北星鉛筆

鉛筆といえば「トンボ鉛筆」・「コーリン鉛筆」・「三菱鉛筆」だったが。

Img_2842古代東海道の推定ルート 《地図》(設置場所)

隅田川を渡って、現在地から立石様(道標)の所を通り東へと向かい、房総半島を下総から上総、安房へと続く道筋だったのだろう。むろん荒川、新中川はなかった。

Img_2840説明板

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2014年7月21日 (月)

東京散歩(元佐倉道)

2014年7月14日

東大島駅(都営新宿線)・・・逆井の渡し跡・逆井橋(旧中川)・・・小松川神社・・・京葉道路(国道14号)・・・小松川橋(荒川・中川)・・(四股跡あたり)・・・元佐倉道・五分一通り・・光福寺(銀杏寺)・・・五分一橋跡・・・八蔵橋・・八蔵橋交差点・千葉街道(国道14号)・・香取神社・・・菅原橋交差点・・・(環七通り)・・・小岩大橋(新中川)・・・二枚橋跡・・・(柴又街道)・・・大鷲神社・稲荷神社・・・一里塚交差点・小岩一里塚跡あたり・・(JR総武線)・・江戸川交差点・・・佐倉道(成田街道)合流地点・岩槻慈恩寺道道標・御番所町跡説明板・・・小岩市川関所跡・小岩市川渡し場跡・・・江戸川駅(京成線)

 元佐倉道は両国で隅田川を渡り、竪川北岸を通り、逆井の渡しで旧中川を渡り、北東に進んで小岩一里塚の先で佐倉道(成田街道)と合流し、小岩市川関所から小岩市川の渡しで江戸川を渡って成田方面へ続いていた。

 逆井の渡し跡から小岩市川の渡し跡までの江戸川区内の元佐倉道を歩く。八蔵橋交差点から江戸川交差点までは千葉街道(国道14号)と重なって行く。

  【ル-ト地図

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Img_2657元佐倉道地図(八蔵橋に設置)

Img_2656説明板

Img_2616逆井の渡し跡・逆井橋(旧中川) 《地図

逆井橋のすぐ上流に渡し場があった。

Img_2618説明板(江東区側)

隣に「逆井の渡し跡碑」が立つ。

Img_2624説明板(江戸川区側)

100_views_edo_058「逆井の渡し」(名所江戸百景・広重)

Img_2614逆井橋付近

Img_2626小松川神社

樹木がないと殺風景で、威厳がない感じだ。

Img_2627説明板

京葉道路(国道14号)に出て小松川橋(荒川・中川)を渡る。

Img_2638四股跡あたり 《地図

四股は、元佐倉道と元行徳道の交差点で、江戸・浅草・行徳・市川へ分かれる交通の要衝だったが荒川と中川(放水路)の開さくで消滅した。四股の道標は天祖神社に移設された。

Img_2521四股にあった道標(文化2年(1805))

四面の下部に市川道・浅草道・行徳道・両国道と刻む。市川道と両国道が元佐倉道のこと。

小松川橋を渡って四股跡から続く元佐倉道の「五分一通り」に入る。

Img_2646光福寺(銀杏寺)の大イチョウ

不動堂に「五分一不動」と称される不動明王と、住職一代に一度しか開帳できず、その度に衣の色が変わっているという「衣替観音」と呼ばれる正観世音菩薩像を祀る。里見家の落武者が護持していたものとか。
大イチョウは樹齢300年以上で、明治大正の頃までは浅草観音あたりからでもよく見えたほどそびえていたという。

Img_2643説明板

Img_2651旧家

Img_2653五分一橋跡 《地図

五分一川とか舟入川とか呼ばれていた川が流れていた。
「五分一」の由来については諸説あるようだ。『まちづくりニュース』の「小岩コラム」

Img_2652説明板

Img_2658八蔵橋 《地図

以前は下を小松川が流れていた。今は小松川境川親水公園になっている。『八蔵橋の由来話

八蔵橋交差点から千葉街道(国道14号)となる。

Img_2661香取神社

旧東小松川の鎮守。境内に大イチョウが2本、「葛西囃子之碑」がある。

神社の裏側は貝殻、土師器片、須恵器片、土錐などが出土した東小松川香取神社遺跡。

Img_2664菅原橋交差点 《地図

鹿骨街道・千葉街道・同潤会通り・中井堀通りの交差地。

Img_2667小岩大橋から新中川 《地図

Img_2668二枚橋跡

橋も川もないが、二枚橋交差点・二枚橋バス停にその名を残す。

Img_2678一里塚交差点 《地図

小岩一里塚跡は総武線のガードの南側にあったようだ。塚上に榎が生え、須賀神社の小祠(北野神社に合祀)があったそうだ。説明板や一里塚跡碑を探すが見当たらず。一里塚バス停そばの小岩保健所前ポケットパークの碑に「・・・・昔、この先の千葉街道沿いに一里塚がありました。・・・」と記されていたのみ。

JR総武線をくぐると千葉街道は江戸川交差点で右折して市川橋を渡って行くが、元佐倉道は交差点を横切って直進する。

Img_2698佐倉街道(成田街道)合流地点 《地図

左のブロック塀の前に(岩槻)慈恩寺道道標が立つ。ここを右折すれば小岩市川関所跡・小岩市川の渡し跡だ。斜め向かいの角屋旅館(跡)?前には「御番所町跡」の説明板がある。

Img_2697説明板

Img_2699小岩市川の渡し跡・小岩市川関所跡へ 《地図

正面の江戸川土手に説明板が立つ。

Img_2701説明板

Img_2705江戸川河川敷・市川橋

今は元佐倉道と合流した佐倉道(成田街道)は、市川橋を渡って行く。

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2014年7月20日 (日)

東京散歩(江戸川区③)

2014年7月11日

船堀駅(都営新宿線)・・・光明寺・・日枝神社・・法龍寺・・・一之江境川親水公園・・陣屋橋交差点・陣屋橋通り・・・(船堀街道)・・・法然寺・・・新川・・・宇喜田橋(新川)・船堀街道(都道308号)・・・安楽寺・・・宇喜田公園・・・水神宮・・・行船公園・・・(葛西橋通り)・・・(東京メトロ東西線)・・・新長島川親水公園・・・葛西かもめ橋・・・(湾岸道路)・(JR京葉線)・・葛西臨海公園・・・葛西臨海公園駅(JR京葉線)

  台風一過の猛暑だが、もう船堀街道も距離はわずかだ。

  【ル-ト地図】(船堀駅→葛西臨海公園駅)

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Img_2540光明寺 《地図

「横道の不動様」と呼ばれ、本尊の雲切不動尊は眼病にご利益あり。(横道の不動様)

Img_2541説明板

Img_2549日枝神社

左が「乾海苔創業記念碑」、境内左奥に「船堀の富士塚」がある。

Img_2545説明板

Img_2554法龍寺地図

右が「食用蛙供養塔」・左は庚申塔(寛文4年(1664))

Img_2551説明板

Img_2560陣屋橋交差点

このあたりは国府台合戦で里見軍を攻めた北条氏の陣屋があったと所という。右は一之江境川親水公園

Img_2567法然寺 《地図

右の笠付庚申塔(万治2年(1659))は区内で最も古い物の一つ。

左の青面金剛像庚申塔(寛文6年(1666))はショケラ(上半身裸の女人像)の頭髪をつかんで左手にぶら下げている。

Img_2564説明板

Img_2574新川沿いを宇喜田橋(この先の橋)まで行き、船堀街道に出る。

Img_2577安楽寺地図

二階建ての鐘楼門は山梨県石和から移築。

Img_2578説明板

Img_2587東西線をくぐって左折し、新長島川親水公園を通って葛西臨海公園に向かった。

Img_2590木陰の道は少しは涼しい。《地図

Img_2595葛西かもめ橋

下は新左近川親水公園

Img_2609葛西臨海公園

ここを3日間かかった鹿骨街道(河原道)・篠崎街道(市川道)・今井街道(行徳道)・船堀街道歩きの終点とした。



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2014年7月17日 (木)

東京散歩(江戸川区②)

2014年7月9日

瑞江駅(都営新宿線)・・・篠崎街道・・・宿川親水緑道・・・地蔵堂・・・道六神祠・・・明福寺・・・山王神社・・・安養寺(こんにゃく閻魔)・・・鎌田川親水緑道・・・八雲神社・・・金蔵寺・・・浄興寺・・・円照寺(赤門寺)・・・地蔵祠・・・香取神社・今井の富士塚・・・誠心寺・・・今井橋(旧江戸川)・今井の渡し跡・・ねね塚の旧跡・・今井橋・・・瑞穂大橋(新中川)・・・熊野神社・・・古川親水公園・・蓮華寺(虫除不動)・・妙勝寺(黒門寺)・・二之江神社・・・西光寺・・・真福寺・・・瑞江大橋(新中川)・今井街道(行徳道)・・・一之江駅・・・白髭神社①・・・感応寺・・・申孝園(国柱会)・・・長勝寺・・・妙覚寺・・一之江境川親水公園・・・(船堀街道)・・・西蓮寺・・・小松川境川親水公園・・仲台院・・・水神宮・・・仲之庭地蔵堂・・源法寺(堀まき寺)・・・寿光院・・・永福寺・・・宝積院・・・天祖神社・・・善照寺(相撲寺)・・・白髭神社②・・・小松川南公園・・・船堀街道・・・船堀駅(都営新宿線)

  今日は梅雨空に戻って雨模様だが、気温が低めで歩き安かった。

  【ル-ト地図】(瑞江駅→船堀駅)

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Img_2366地蔵堂 《地図

Img_2708_2観音庚申塔(享保5年(1720)・堂内)

34体の観音像の下に三猿と脇侍の二童子が向き合って彫られている珍しい物。

Img_2362説明板

Img_2372_2道六神(道祖神)の祠(右)

Img_2370説明板

Img_2377鏡ヶ池(明福寺境内) 《地図

親鸞上人が常陸国の笠間から京都に向かう途中、旱天に苦しむこの地で雨乞いをする時に、自らの姿を映した池という。今は鏡にはほど遠い。

Img_2378親鸞上人袈裟掛けの松

二代目の松というが、枯れてきていて元気がない。

Img_2382説明板

Img_2384安養寺

「こんにゃく閻魔」といえば文京区の源覚寺が有名だが。

Img_2385説明板

Img_2387鎌田川親水緑道

Img_2389八雲神社 《地図

笹団子行事」の旗が立つ。今年は5年に一度の本祭か。満月が見えればよいが。

Img_2388説明板

Img_2393浄興寺地図

北条氏康が「武蔵野紀行」で、「夜に入り風ひややかに吹きたり。松風入琴といふことをおもひ出て、”松風の 吹くこえきけば よもすがら しらべことなる 音こそかはらね”」と詠んだ、「琴弾松」(江戸名所図会)の何代目か?

永禄7年(1564)の国府台の合戦の時には、北条氏の兵がこの松に上って里見軍の様子を探ったので「物見の松」とも呼ばれた。

Img_2394円照寺(今井の赤門寺)

香取神社の別当寺だった。

Img_2404香取神社

本地仏として十一面観音を奉安する。右後方が「今井の富士塚」

Img_2399説明板

篠崎街道から今井街道(行徳道)に入る。

Img_2406今井の渡し跡あたり 《地図

今井橋(旧江戸川)から。「江戸名所図会」の「今井の渡し場

Img_2410説明板(千葉県の行徳側に設置)

ここから上流に行けば説明板の(行徳新河岸)常夜灯が立ち、木下(きおろし)街道から成田街道(佐倉街道)、東金御成街道へと続いている。徳川家康も東金へ鷹狩に行く時に、ここを渡った。

Img_2412説明板

今井側(江戸側)に渡ろうとして捕まり、ここで磔(はりつけ)の刑に処せられた「ねね」の墓跡というが、塚も石地蔵も今はない。

今井橋を渡り返し、近辺を寄り道する。

Img_2417新中川が旧江戸川(左)に合流する所(瑞穂大橋から) 《地図

Img_2420熊野神社 《地図

「おくまんさま」と呼ばれた旧下今井村の鎮守。

Img_2421芭蕉句碑

「茶水汲むおくまんだしや松の花」

「だし」は旧江戸川の水流を和らげる「だし杭」で、このあたりの水はこなれて、きれいで、茶の湯や醤油の製造などに使われたそうだ。

Img_2419
説明板

Img_6230 真福寺

Img_6229説明板

Img_2426宇田川家長屋門地図

取り壊されて新しくなったようだ。宇田川家の先祖は宇田川喜兵衛定氏で、宇喜新田三千石の開拓者。同家は代々、当地(二之江村)の村役人を務めていた。宇喜田町にその名が残る。

Img_2432古川親水公園・行徳道道標(右) 《地図

元々は、江戸時代(二之江神社の説明板ではそれ以前の天正年間(1573~91))に行徳塩田から江戸へ塩を運ぶために掘られた船堀川で、後に水運ルートが南側へと変更となった際、新しい運河を新川と呼ぶのに対して、旧船堀川を古川と呼び残された。

道標は突留橋(古川)の東のたもと→宇田川家長屋門前→ここに移された。突留橋はこの古川に架かっていた橋で、宇田川家長屋門のすぐ西側にあったようだ。正面に「是ヨリ左リ 行徳道」で、古くはこの古川(船堀川)から新川沿いの新川河岸道が(元)行徳道だった。

鴨たちは人馴れしているのか、かなり近づいても逃げない。

Img_2431説明板

Img_2437蓮華寺(虫除不動)  

Img_2438説明板>

Img_2441妙勝寺(黒門寺)

「江戸名所図会」の「妙勝寺

Img_2442説明板

Img_2451大ケヤキ(二之江神社) 《地図

Img_2448説明板

Img_6293妙光寺(赤門寺)

Img_6309左に小さな稲荷神社

Img_6311水神宮

古川はこの先で新川に合流していた。

今井街道に戻る。

Img_2463行徳道(今井街道)説明板(一之江駅前に設置)

四股にあった道標は、天祖神社に移されている。(後掲)

Img_2458説明板の地図

「元佐倉道」も歩く。

Img_2469感応寺梵鐘(元禄11年(1698))

戦時中の供出を免れた名鐘という。

Img_2476_2大賀ハス申孝園国柱会) 《地図

宮澤賢治も会員だった。大霊廟の前に「辞世の歌碑」もあるようだ。

Img_2471説明板

Img_2493一之江境川親水公園

Img_2494ハナミズキ通り(今井街道)

電線がない。歩いている時は気づかなかったが。

Img_2495船堀街道との交差地点 《地図

左折して行くのが船堀街道だが、横切って寄り道しながら南下する。

Img_2497小松川境川親水公園

Img_2498仲台院地図

八代将軍徳川吉宗の代より将軍の鷹狩の御膳所となっていた寺。

Img_2499説明板

Img_2506仲之庭地蔵堂 《地図

Img_2505説明板

Img_2507延命地蔵

Img_2512源法寺

防火用に堀を巡らしたので「堀まき寺」。
宇喜新田三千石の開拓者の宇田川喜兵衛定氏の菩提寺。

Img_2511庚申塔(寛文3年(1663))

青面金剛像(合掌)は江戸川区内で最古だそうだ。

Img_2509説明板

Img_2519天祖神社

Img_2521四股の道標(参道の秋元家の敷地内に移設)

元は行徳道(今井街道)と元佐倉道の交差する四股にあったもの。《地図》あたり

Img_2518説明板

「行徳道」と「浅草道」が今井街道、「市川道」と「両国道」が元佐倉道(千葉街道)

Img_2529善照寺

通称は「相撲寺」で、初代横綱明石志賀之助が元禄12年(1699)に境内で引退相撲を行ったのをきっかけに、毎年不動尊の縁日には草相撲が行われていたことによる。草相撲は昭和29年に一時復活したが、それ以後は廃止されてしまった。

Img_2531説明板

Img_2535小松川南公園 《地図

涼しげなシャワーカーテン。子どもはここで水遊びができるようだ。

Img_2537船堀街道を船堀駅まで進んだ。

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2014年7月13日 (日)

東京散歩(江戸川区①)

2014年7月8日

新小岩駅(JR総武線)・・・於玉稲荷神社・・・鹿骨街道・・・光照寺・・・北野神社・道標・・・菅原橋交差点・・・松本弁天(寿昌寺)・臥龍の松・・・(環七通り)・・・鹿本橋(新中川)・・・密蔵院・・・本城寺・庚申塔道標・・・鹿見塚神社・・・(柴又街道)・・・弥陀堂跡・・・篠崎街道・・・本郷用水親水緑道・・・(京葉道路)・・・篠崎ポニーランド・庚申塔道標・・旧江戸川土手・・・江戸川水門・・・篠崎街道・・・篠田堀親水緑道・庚申塔・・・西光寺・・・天祖神社・・・庚申塔道標・・・成田不動道標・・・豊田神社・下鎌田の富士塚・・・瑞江駅(都営地下鉄新宿線)

  江戸川区内の①鹿骨(ししぼね)街道・②篠崎街道・③今井街道・④船堀街道・⑤千葉街道を歩く。街道と言っても通称道路名で、①は行徳の河原村への道で「河原道」、②は市川道、③は行徳道、⑤は佐倉街道(成田街道)の旧道で「元佐倉道」と呼ばれていた。

  今日は梅雨の晴れ間の蒸し暑い日で、今井街道に入って一之江駅までの予定だったがバテ気味で篠崎街道の途中で切り上げた。

  【ル-ト地図】(新小岩駅から瑞江駅まで)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_2239於玉稲荷神社 《地図

神田お玉が池にあった本社を、この地にあった分社に遷座した。

Img_2240由緒

Img_2241鹿骨街道(河原道)に入る。《地図

Img_2288鹿骨の由来(鹿見塚神社前の説明板)

戦国時代の話としているが、奈良時代の藤原氏が春日大社へ鹿島大神の分霊を迎える時のこととする話もある。藤原氏の始祖の中臣(藤原)鎌足は父の中臣御食子が鹿島神宮の祭祀者として大和から派遣された時に大伴夫人との間にできた子という説からだろう。

Img_2249道標(文政2年(1819)・北野神社境内) 《地図

説明板には、右面に市川道とあるが左面の間違いだ。もとはすぐ北の本一色郵便局の角に立っていたという。

Img_2246説明板

「右新宿道」は、水戸街道成田街道(佐倉街道)が分岐する葛飾の新宿(にいじゅく)への道のこと。

Img_2245菅原橋交差点

鹿骨街道・千葉街道・同潤会通り・中井堀通りの交差地。菅原は菅原神社(北野神社)による名だろう。

Img_2260臥龍の松(寿昌院の松本弁天堂の所から) 《地図

外装は立派で華やかだが。

Img_2264下では痛々しい姿で支えている。

Img_2254説明板

環七通りを横切って行く。

Img_2270鹿本(しかもと)橋(新中川

Img_2284庚申塔道標(文化11年(1814)・本城寺境内) 《地図

正面に「西 江戸道」、左面に「北浅間道」、右面に「南かわら道」で、河原道(鹿骨街道)のこと。もとは鹿骨3丁目の浅間道にあり、河原道に移され、ここに移されたそうだ。「浅間道」は上篠崎の浅間神社のことか? 鹿骨3丁目からは北方向ではないが。

Img_2289鹿見塚(ししみづか)神社地図

右に鹿骨発祥の地「鹿見塚」碑。説明板は前掲。

鹿骨は鹿骨卜占に使われた骨という説もある。

Img_2291小鹿像

柴又街道を渡った篠崎公園内。

Img_2297右は(伝)弥陀堂の和尚(安心法印)の墓(延享2年(1745)) 

左は地蔵庚申塔(寛文5年(1665)) 《地図》(共同墓地内にある)

Img_2300説明板

民謡「弥陀堂の和尚」の歌詞の一部:「かかる所に 葛西領なる篠崎村の弥陀堂の坊さまは、雨降りあげくに修業と出かけ 右に数珠を持ち 左の肩には大きな木魚おや横たにかかえて・・・・(略)・・・・なんのかんのと修業はよけれど はるか向こうから十六、七なるあねさんなんぞを ちょっとまた見そめた・・・・・アヨイヨイヨイ ヨットコナ よっぽど女にゃ のら和尚」(『江戸川区史跡散歩』より)

鹿骨街道から篠崎街道に入り南下する。北に向かえば小岩一里塚跡あたりで千葉街道(元佐倉道)に合流し、佐倉街道(成田街道)と岩槻街道(岩槻慈恩寺道)へ続いて行く。《地図

Img_2307本郷用水親水緑道

水を見ると少しは涼しさを感じる。江戸川区では総延長18km近くの18本の親水緑道を整備している。

京葉道路をくぐって行く。

Img_2318河原渡場道の庚申塔道標(文政8年(1825)) 《地図

正面下部に「此方 江戸道」、(右面)「此みち かわら渡シ場道」のようだ。

Img_2319河原の渡し跡あたり

ポニーランド・江戸川

江戸川土手を少し進む。

Img_2322江戸川水門 《地図

Img_2336石造線刻地蔵立像(西光寺) 《地図

Img_2338地蔵庚申塔(万治3年(1660)・中)

Img_2337説明板

Img_2342天祖神社地図

Img_2343上鎌田の行徳道庚申塔道標(文政9年(1826))

右面に「右 ぎやうとくミち」

Img_2349成田不動道標 《地図

台石正面に「右 行徳 左 市川」、右面に「是より左 江戸道」

伊勢屋村(江戸川水門のあたり)から「河原の渡し」で江戸川を渡るか、すぐ江戸川方向に曲がり「前野の渡し」(篠崎ポンプ所あたり)で江戸川を渡り、木下(きおろし)街道を進み、成田街道(佐倉街道)と合流し、鬼越2丁目交差点で木下街道と分かれ、成田山へ向ったと思われる。

Img_2351説明板

Img_2353豊田神社

神木の大ケヤキがそびえる。奥に下鎌田の富士塚がある。

Img_2356説明板

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2014年7月 8日 (火)

下妻街道⑤(下妻駅→下館駅)

2014年7月2日

下妻駅(関東鉄道常総線)・・・枡形①・・・下妻不動尊・・枡形②・・林翁寺・・・下妻神社・・・上宿踏切・・・下妻警察所南交差点・県道357号・多宝院・・・宝橋(糸繰川)・・・大宝八幡宮・大宝城跡・・・大井口用水・・・県道357号・・・(騰波ノ江駅)・・・(筑西市)・・・梶内観音・・・飯田軍蔵の墓所標識・・・(県道54号)・・・野殿橋(大谷川)・・・(常総バイパス)・・・下妻街道踏切(関東鉄道常総線・JR水戸線・真岡鐵道線)・・・下館駅(関東鉄道常総線)

  【ル-ト地図】(5日目出発地点から108.5km地点まで)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_2168枡形②を曲がって行く。《地図

Img_2172大ケヤキ(下妻神社) 《地図

樹齢500年以上で樹高約20m。根元は空洞化が進んでいる。神社の創立年代は不詳だが、正徳年間(1711~15)に下妻藩主の井上遠江守正長が社殿を再建したという。

上宿踏切を渡り、下妻警察所南交差点で県道357号に出る。

Img_2180宝橋(糸繰川)から筑波山

Img_2182この標識で県道を離れ大宝八幡宮へ向かう。

Img_2185大宝城跡土塁跡 《地図

Img_2190説明板

Img_2192大宝八幡宮神門

Img_2189説明板

Img_2198あじさい祭り

NHKTVのニュースでも紹介されたが、それほどのものでもなかった。
奥に大宝城跡の搦め手の土塁跡が残っている。

Img_2208大宝駅

むろん無人駅

県道に戻って進むが見所はなく、ひたすら北上する。

Img_2209騰波ノ江駅

「関東の駅百選」認定駅だそうだが、大宝駅の方が気に入った。
騰波ノ江(とばのえ)の由来は、古くこの地に騰波の江(鳥羽の淡海)があったことによる。筑波島(村)はこの湖沼中の島だったそうだ。

Img_2212筑西市に入った。

Img_2220梶内観音(福蔵院) 《地図

Img_2219由来

Img_2222旧家

Img_2223飯田軍蔵の墳墓」標識

尊王攘夷派の志士。墳墓とは大げさな、墓所でいいだろうに。

野殿橋(大谷川)を渡り、常総バイパスを横切って行く。見所はなく、ただただ蒸し暑いだけ。

Img_2236下妻街道踏切 《地図

ここで右折すれば下館駅だ。

Img_2238派手な車輛で広告収入も「バッチリ」か。

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2014年7月 4日 (金)

下妻街道④(中妻駅→下妻駅)

2014年6月30日

中妻駅(関東鉄道常総線)・・・県道357号・大師堂・鬼怒川土手・・・醫王閣・県道357号・・旧道・・・浅間神社・・・道標・・・観音堂?・・・(中妻神社)・・・三嶋神社・・・(中妻バイパス)・・・十家公民館・道標(十家渡船場入口)・・・三妻小学校・鬼怒中学校・・県道123号・・・生駒神塔・・・県道357号・・・豊受神社・・・鬼怒川土手・・・(三坂神社)・・・常総鬼怒大橋(アグリロード)・・県道357号・・・不動堂・・・大房八幡神社・・・東弘寺・・・地蔵堂・・・石毛稲荷神社・・山中酒造・・・原宿天満宮・・・(下妻市)・・・県道357号・・・江連用水神社・・・宗道十字路・・・宗道神社・・・薬王寺・・・宗任神社・江連用水旧溝・・・島屋百貨店・・・田下稲荷神社・道標(二本紀渡船場)・・・稲荷社・・・愛国橋(江連用水)・・・(国道125号)・・・枡形・・・下妻第一高校・・城山稲荷神社・下妻陣屋土塁跡・・・(下妻駅)・・・多賀谷城跡公園・本丸跡・・下妻駅(関東鉄道常総線)

  【ル-ト地図】(4日目出発地点から91.6km地点まで)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_1970大師堂の小祠 《地図

後ろに庚申塔(宝永3年(1706))・馬頭観音(正徳6年(1716)などが並ぶ。

ここで鬼怒川の土手に上って少し進む。

Img_1978鬼怒川

Img_1982醫王閣 《地図

すぐ先で左に旧道に入る。

Img_1983土手と県道の間の旧道

Img_1986道標(左)

昭和3年の御大典記念に地元の青年会が設置したので、「南 水海道 中妻停車場 北 石下町 本村役場」などと刻むようだ。

Img_1993県道を横切って行く。《地図

Img_1995三嶋神社 《地図

Img_2004十家(とうけ?)公民館 《地図

右に道標(昭和3年御大典記念・三妻村青年会)

左は大輪町の安楽寺元三大師堂への道標で、正面の建物は大師堂ではないのだろう?

Img_2005右の道標の正面

指差し道標になっている。

Img_2006左側面

「← 十家渡船場入口 対岸大花羽村大輪」で、ここを入った鬼怒川の岸に十家渡船場があったのだろう。今でも対岸は大輪町だ。

Img_2001「安楽寺元三大師」?

十家渡船場で鬼怒川を渡って行ったということか。

Img_2011イチョウ(三妻小学校の所)

根元までびっしり葉がついている。糸杉みたいに見える?

Img_2015生駒神塔

馬の守り神か? 生駒神塔は始めて見るような気がする。

Img_2017旧家

この先で県道357号に出る。

Img_2022豊受神社 《地図

車の通行が多く、歩道ついていない県道を避けて鬼怒川の土手を行く。

Img_2034常総きぬ大橋(アグリロード) 《地図

アグリロードとは「下総広域農道」のことらしい。

Img_2047東弘寺地図

親鸞聖人二十四輩第9番

Img_2055石毛稲荷神社 《地図

この地は砂丘で、神社一帯は陣屋敷という地名で陣屋があったという。(説明板より)
石下地区は、はじめ「イシケ」と呼ばれ、「イシ」は砂河原、「ケ」は作物・食物の意味があり、農耕に適した土地であったと考えられます。5世紀頃から「伊師毛」と記され、和銅6年(713)に「石毛」に変わり、江戸時代の寛永7年(1630)の検地により「石下」と改められました。(常総市のHPより)

Img_2056説明板

Img_2061山中酒造地図

清酒「一人娘」の煙突。

石下駅の先で左折し県道357号に出るのが下妻街道の道筋のようだが、直進してしまってそのまま進んだ。

Img_2063原宿天満宮 《地図

建治2年(1276)、京都の北野天満宮の神霊を遷祀した。明治42年に八坂神社を合併。 社殿は平成18年再建。境内にある八坂神社の社殿内には神輿がある。

Img_2069常総線・筑波山

晴れて蒸し暑いがいい眺めだ。

この先で突き当たった所を左折して、県道357号に出た。

Img_2074江連(えづれ)用水神社 《地図

江連用水を完成させた三義人ほかを祀る。

Img_2076記念碑

Img_2092宗道神社 《地図

Img_2094宗道河岸跡説明板(宗道神社の裏)

Img_2088薬王寺

Img_2087説明板

Img_2097宗任(むねとう)神社

前九年の役(1051~62年)で源頼義の軍勢に敗れた安倍宗任を祀った神社。
宗任の霊が、「天の道、人の道を行くを宗とする意味で宗道と地名を改めれば、人はすこやかに、地は栄えるようになるであろう」と告げ、以来この地は宗道(そうどう)となったという。

Img_2105江連用水旧溝(「宮裏両樋」・宗任神社裏) 《地図

明治31年(1898)建造の旧江連用水のレンガ堰。レンガは当市の鯨で製造。界隈で残存する唯一のレンガ樋門。

Img_2098説明板

Img_2111島屋百貨店 《地図

宗道河岸に面していた。まだ営業しているのだろうか?
宗道神社からここへ出るのが本来の道筋か。

Img_2112田下稲荷神社

Img_2113説明板

Img_2118左端に道標(大正7年) 《地図

Img_2121右側面に、「←下栗ヲ経テ二本紀渡船場ニ至ル約廿町」か?

ここから西に向かえば下栗地区で、その先の二本紀地区で鬼怒川を渡ったのだろう。ここから直線距離で1.6km位か。(廿町は約2.2km)

道標の正面には指差しで、「→石下町ヲ経テ水海道町ニ至ル 約五里 ←下妻町ヲ経テ下館町ニ至ル 約五里」のようだ。

Img_2123内田肥料店

Img_2129江連用水(愛国橋から) 《地図

このすぐ先にも田んぼのそばを流れている。

Img_2134見世蔵の商家

Img_2141飼料店

この先で常陽銀行に突き当たり、枡形を左折してすぐに右折して行くのだが、ここまでとし下妻駅に向かう。

Img_2150栗山公民館 《地図

レトロな建物だが取り壊されるのか?

Img_2160下妻陣屋土塁跡(城山稲荷神社境内) 《地図

隣接の下妻第一高校が下妻藩の陣屋跡

Img_2157多賀谷城(下妻城)本丸跡 《地図

多賀谷氏は石下の平将門につながる豊田氏の城を攻め陥した。豊田氏の遺族は柿木(草加市の中川沿い)に落ち延びた。(下妻街道①の女体神社の所に記載)

Img_2156説明板

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