東京散歩(奥戸街道)
2014年7月21日
小岩駅(JR総武線)・・・蔵前橋通り・・・六軒橋交差点・奥戸街道・・・(新金貨物線)・・(葛飾区)・・奥戸新橋(新中川)・・・宝蔵院(式部薬師)・・・八剣神社・・・妙法寺・・(環七通り)・・・天祖神社・・・奥戸橋(中川)・・・熊野神社・・・宝泉寺・・・立石様・・・南蔵院・・・帝釈天道標・・・地蔵祠・・・本奥戸橋西詰(中川)・地蔵堂・奥戸道道標・・・西円寺・・・立石諏訪神社・・・喜多向観音・・・渋江公園・・・奥戸街道入口交差点・・・白髭神社・・・林柔寺・・・木下川薬師(浄光寺)・・・東四つ木避難橋・綾瀬川堤・・・(四ツ木駅)・・・西光寺・・葛西清重の墓・・・古東海道説明板・・・四ツ木駅(京成押上線)
奥戸街道は江戸川区の六軒橋交差点から葛飾区の奥戸街道入口交差点までの愛称道路名だが、本奥戸橋西詰の道標に「江戸みち おくとミち」とあるように、古くからの道筋である。さらに立石の地名由来となった「立石様」は、房総半島の鋸山付近から古墳の石室の石材として運ばれたものという。これが奈良時代以降には道標として転用されたというから、隅田から「立石」の前を通り小岩に抜け、房総半島へと向かう古代東海道の道筋とも一部では重なる。
また奥戸地域は、地名が室町時代の文書に記され、この地から古墳時代から奈良・平安時代の集落跡が発掘されていることから、古代から開発され栄えていた地域だったようだ。
【ル-ト地図】
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昭和初期の建物。「好文木」とは大阪の梅栄堂の線香の商品名。もとは《晋の武帝が学問に親しむと花が開き、怠ると開かなかったという故事から》梅の別名。
六軒橋交差点 《地図》
奥戸街道は右、蔵前橋通りは直進。
新金貨物線と新中川の間で江戸川区から葛飾区に入る。
奥戸新橋から新中川
左端に式部薬師(宝蔵院)の鐘楼「和光の鐘」が見える。
昭和38年の中川放水路(新中川)完成記念に建立。傍らに「式部薬師」の由来となった竹内式部門下で徳大寺公城の家臣本堂良喜と、公城の娘妙姫の慰霊と供養のための井上靖の記念碑が建てられた。
鐘楼再建賛歌碑(井上靖の撰文)
近くに2人(本堂良喜と妙姫)の菩提を弔う歌という柳原白蓮の歌碑、「衆生あり祈願成就のよろこびを代々に伝えし御仏ぞこれ」があるというが、どれか分からず。
妙姫が竹内式部から拝領した護持仏の薬師如来像。
寛永6年の棟札に「下総国葛西庄奥戸新田」とあるそうだ。まだ「武蔵国」ではなかったのだ。
明治の中頃までは柴又帝釈天の縁日には、帰途立ち寄る参詣人でかなりの賑わいだったという。
「大しめ縄」が掛けられている。
奥戸橋から蛇行する(旧)中川 《地図》
東京スカイツリーも見える。
陰陽師の安倍晴明が紀州の熊野権現を勧請したと伝える神社で、神体は古代の石剣。社殿の両側に神木の大クスノキがそびえる。
江戸時代には将軍家光、吉宗の鷹狩の際の御膳所だった。
肥前国平戸藩主松浦家の隠居寺。
「立石様」を祀る小公園 《地図》
鋸山付近から運搬してきた古墳の石室用の石材。奈良時代以降になって墨田から小岩に抜ける古代東海道の道しるべとして転用されたものと考えられている。この地は古墳時代以前からの重要な交通路沿いで、古代東海道から江戸道(奥戸道)、奥戸街道と時代を経て行く。
今では、数cmほどしか露出してないが、江戸時代には地上60cm以上も露出していたと言われ、住民の信仰の対象になっていた。
宝暦5年(1755)から徳川将軍の葛西方面の鷹狩の際の御膳所。
裏に土師器・須恵器や各種の埴輪などが出土した南蔵院裏古墳があったというが、人家が建て込んでいて跡形もないようだ。
正面に「帝釋天王」で、柴又帝釈天への道標。
地蔵堂 《地図》
永井荷風の「断腸亭日乗」にも記載されている地蔵と道標。
「右 江戸みち 左 おくとミち」
江戸時代末期には本堂で寺子屋が開かれ、明治7年には公立青砥学校堅石分校(現本田小学校)の仮校舎となった。
喜多向観音堂(東立石4-45) 《地図》あたり
目を見開いて人間の女人ぽい表情を浮かべている。
セルロイド工業発祥記念碑(渋江公園内) 《地図》
奥戸街道入口交差点で奥戸街道は終わるが寄り道する。
渋江村の鎮守で、江戸時代は葛西の「客人(まろうど)大権現」と呼ばれ、吉原、深川、千住などの遊郭や水茶屋、花柳界の人々の信仰が厚かった。子授け、花柳病に霊験あらたかといい、神体の一つは男根形の陽石とか。
江戸市中から寄進されたもので、すべて文政5年(1822)と刻まれている。今は境内に集められているが、もとは道端にあったのだろう。
7代将軍徳川家継の生母月光院(左京の局・お喜世の方)の位牌が安置されている。「江島生島事件」のヒロインの江島(絵島)の主人にあたる。
木下川(きねがわ)薬師(浄光寺) 《地図》
享保5年(1720)の将軍吉宗の鷹狩以来、御膳所に指定された。
将軍家光手植えの「登美の松」の2代目
傍らに勝海舟揮毫の石碑がある。
綾瀬川・かつしかハープ橋 (首都高速中央環状線)
東四つ木避難橋あたりから。土手の右は荒川。《地図》
夏休みに入り、少年野球場は賑わっている。
葛西三郎清重の居館跡と伝える。
清重塚を探すのに苦労した。
清重塚跡 《地図》
江戸時代に多くの武器類が収められていた石棺が発掘された塚があったようだ。
今は五輪塔(寛永8年(1631))・葛西清重の墓(記念碑)だけで塚はない。
鉛筆といえば「トンボ鉛筆」・「コーリン鉛筆」・「三菱鉛筆」だったが。
古代東海道の推定ルート 《地図》(設置場所)
隅田川を渡って、現在地から立石様(道標)の所を通り東へと向かい、房総半島を下総から上総、安房へと続く道筋だったのだろう。むろん荒川、新中川はなかった。
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