東京散歩(六阿弥陀道②)
2014年8月12日
上中里駅(JR京浜東北線)・・蝉坂・・平塚神社・・城官寺・・・本郷通り(日光御成道)・・・3番無量寺・・・昌林禅寺(末木の観音)・・・霜降橋交差点(本郷通り)・・・(JR山手線)・・・(田端銀座)・・・谷田川通り・・・田端不動尊・・・水神稲荷・・・谷田橋交差点・・・与楽寺坂下・4番与楽寺・・幽霊坂下・・・向陵稲荷坂下・・・道灌山通り・・西日暮里4交差点・六阿弥陀通り・・青雲寺・・修性院・・富士見坂下・・南泉寺・道標(ろくあみだみち)・・夕焼けだんだん下・(谷中銀座)・・七面坂下・・宗林寺・・・岡倉天心記念公園・・・(三崎坂)・・・真島坂上・・・赤字坂上・・・大名時計博物館(勝山藩下屋敷跡)・・三浦坂・・・臨江寺・・・(言問通り・善光寺坂)・・・不忍池・・・(横山大観記念館)・・・東天紅ビル・・・無縁坂下・・称迎院・・5番常楽院旧地の小祠・・・不忍通り・・・常楽院旧地あたり・・・(上野駅)・・・(昭和通り)・・・(清洲橋通り)・・・長遠寺・・・柄井川柳碑(菊屋橋公園)・・・不動院・・・(国際通り)・・・宗吾殿・・・黒船神社・・・江戸通り(日光街道)・(駒形どぜう店)・・・駒形堂・・駒形橋(隅田川)・・・清澄通り・・・浅草通り・・・北十間川沿い・・(東京スカイツリー)・・・(横十間川)・・・福神橋(北十間川)・・・6番常光寺・・・亀戸駅(JR総武線)
*坂は『東京23区』(坂道散歩)の北区・荒川区・台東区・文京区で。
【ル-ト地図】(12km地点の上中里駅から)
写真をクリックすると拡大します。
蝉坂を上る。《地図》
今日はどんよりした曇り空で、平塚神社(右一帯)の蝉しぐれも弱々しく聞こえる。平塚城伝承地で本殿裏手に平塚の地名の由来となった甲冑(かっちゅう)塚(鎧塚)がある。
春秋の彼岸の六阿弥陀詣りの時には、湯茶を接待したという。
平塚神社の前で本郷通り(日光御成道)を横切る。
六阿弥陀三番無量寺標石(安永9年(1780)) 《地図》
ここは裏門跡あたりで、秋には駒込名産のナスを焼いて鰹節をかけて売る「しがらき茶屋」が出たという。
3番無量寺
説明板の右に六阿弥陀三番標石、左に末木観音昌林寺への道標。ここには春には田楽の店が出たそうだ。
「六阿弥陀すゑ木のくわんをん江 是より左江一町 補陀落山昌林寺」で、六阿弥陀詣りの賽銭に目をつけた昌林寺の住職が六阿弥陀の末木(残りの木)で彫られた観音を安置するということにして、参拝者を当寺へ引き込もうとした計画だ。一町はまっかな嘘で三町以上はある。いつの世にも知恵者、抜け目のないちゃっかり者はいるということか。
阿弥陀像は平安時代後期の作というから、行基の作の伝説の六阿弥陀とは時代が合わず。
年号を記す標石では北区内で最も古い物という。
樹木が多く涼しく感じる。
百寿観音像の右に「南無末木観世音菩薩」の標石が立つ。
霜降橋交差点(本郷通り)を渡り、JR山手線のガードをくぐり、田端銀座商店街を横切って行く。
田端不動尊(北区田端3-14) 《地図》
不動坂(田端駅前)の由来の不動明王で、ここへ移された。小柄だが精悍な顔立ち。「山椒は小粒でも・・・・」だ。
水神と稲荷の取り合わせは珍しいか? 前が谷田川通りで谷田川が流れていた。
谷田橋交差点を横切り、与楽寺坂下に出る。
右に六阿弥陀四番標石。阿弥陀如来像は境内阿弥陀堂に安置。
左側面に「右ハ六阿弥陀三番目道 左ハ六阿弥陀一番目道」で、近くの分岐点から移されたのだろう。
道灌山通りに出て西日暮里4交差点から六阿弥陀通りに入る。《地図》
この先の富士見坂下の修性院も「花見寺」。
道標(南泉寺前) 《地図》
正面に「ろくあみだみち」、左側面に「左 たばた」、右側面に「右 やなか」。
夏休み中でもあり賑わっている。
「大名時計博物館」なのだが門は閉まっている。7月1日~9月30日は休館のようだ。なぜ学校が夏休みの間を休館にするのか、腑に落ちない。
右が勝山藩(真島藩)三浦家下屋敷。この手前の谷中小学校の南側沿いに真島坂がある。岡山県の出雲街道沿いの勝山宿にも三浦坂がある。
「蒲生君平勅旌碑」は日光街道の宇都宮宿の手前にもある。
大黒屋 《地図》
外人親子が「昔せんべい」を買っていた。
弁財天堂の屋根上から突き出た相輪のように見える?
ここで暮らし、制作活動をしていた家。
この裏に調布市に移転した5番の常楽院の小祠がある。
左は岩崎邸庭園
5番常楽院跡の小祠 《地図》
「五番目は同じ作でも江戸生まれ」(同じ作=行基の作)
「六あみだ五番ばかりが米の飯」
「五番目の弥陀は麦めしきらひ也」
「五番目の外は糞寺ばかり也」
「一体は地ものぎらひの弥陀もあり」など、数多くの川柳に詠まれた五番は江戸っ子の自慢で、他の阿弥陀は田舎者扱いで小馬鹿にしていた。ところが皮肉なもので時は流れて、五番常楽院は調布の田舎に引っ越してしまった。負けず嫌いの江戸っ子は何と詠むだろうか?
今では阿弥陀像が拝めるのはここだけだろう。貴重な存在だ。
隣の敷地に移転したそうです。(下記の苅谷様からのコメント)
5番常楽院の旧地という。《地図》
「南無AB陀仏」と手を合わせよう。
5番から6番常光寺まではかなり距離があるのは何故だろうか?
ここからは東へ昭和通り、清洲橋通り、国際通りを横切り、駒形橋で隅田川を渡る道筋を進んだ。
常光寺への行き来には竪川の水路や北岸の元佐倉道も利用されたようだ。
六阿弥陀詣りの主役は女の年寄連中で、川柳にも多く詠まれている。
「六あみだみんな廻るは鬼ばばあ」
「あしたに道を聞く六あみだ婆あ連」
「木あまりを入れて婆あは七あみだ」
「六あみだ嫁の噂のいいはじめ」etc、切りがない。
義民佐倉惣五郎を祀る。江戸末期以降、惣五郎は芝居や講談の題材となった。横の門柱には「歌舞伎座」、縦の門柱には「明治座」とある。寄進されたものだろう。
『宗吾街道』 平将門の乱を平定した平貞盛・藤原秀郷が天慶3年(940)に創建したという。江戸通り(日光街道)に突き当たる。
一昔前に入ったきりだ。
江戸時代の六阿弥陀詣りの婆あ連が見たらびっくりする景観だろう。
東京スカイツリーの根元の北十間川沿いの遊歩道を進む。《地図》
中央の川が北十間川、絵の下の川が横十間川、左上に筑波山。『名所江戸百景』(広重)
福神橋から 《地図》
亀戸七福神に由来する橋名か?
左に道標(延宝7年(1679))で六阿弥陀の道標では最古、江東区内の道標でも最古という。「自是右六阿弥陀道」で参詣道沿いから境内に移されたもの。亀戸七福神の寿老人でもある。
婆さんの姿は見えるが婆あ連は描かれていないようだ。絵のモデルにはふさわしくないからか。
以上で六阿弥陀詣りを終える。調布に引っ越した5番の常楽院に行くつもりはなかったが、滝坂道(大山街道の道玄坂上→甲州街道の滝坂)を歩く時に参るとしよう。信心深いねえ、俺も?
(調布市の常楽院へは『滝坂道②』で訪れた)
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コメント
5番のお堂と上野東天紅とは改築して隣の敷地に移動しました。お堂も改築?して新しく建て替えらレました。岩崎邸の近い方に。
投稿: 苅谷 恒雄 | 2016年1月20日 (水) 10:35