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2014年9月20日 (土)

東京散歩(平間道)

2014年9月9日

目黒駅(JR山手線)・・・行人坂・・目黒川架橋供養勢至菩薩像・・大円寺・・・お七の井戸・・太鼓橋(目黒川)・・・(山手通り)・・・蟠竜寺(岩屋弁財天)・・・青木昆陽の墓・・目黒不動(龍泉寺)・・・比翼塚・・・石古坂・・林試の森公園・・(品川区)・・・不動前緑道公園・(東急目黒線)・・・讃岐丸亀藩京極家抱屋敷跡(あさひ公園)・・・平塚橋交差点(中原街道)・・・仲通り(池上道)・・・延山くすのき公園・(東急池上線)・・・旗岡八幡神社・法蓮寺・・・東急大井町線踏切(荏原町駅)・・・池上道分岐地点(道標・庚申塔祠)・・・品川道(鎌倉街道下の道)交差地点・(大田区)・・夫婦坂・・・(環七通り)・・・貝塚坂上・・・稲荷坂上・・・大久保坂上・・・猿坂・・・長慶寺・・・(東海道新幹線)・・・道々橋(呑川)・・・樹林寺・・・末広稲荷・・・久が原出世観音・・・庚申塔祠・・・久が原3号踏切(東急池上線)・・・ぬめり坂・・・藤森稲荷神社・・藤森稲荷前交差点(環八通り)・・・(光明寺)・・・光明寺道標・・・下丸子1号踏切(東急多摩川線)・・・蓮光院・・・諏訪神社・・・六所神社・・・長福寺・・・平間の渡し跡あたり(多摩川)・ガス橋・・・円応寺・・・東八幡神社・矢口の渡し碑・矢口の渡し跡・・・延命寺・・・今泉神社・・・花光院・・・氷川神社・・・新田神社・・・下丸子3号踏切(東急多摩川線)・・・頓兵衛地蔵堂・・・武蔵新田駅(東急多摩川線)

  平間道は中世の頃開発されたルートで、多摩川を渡り平間から鶴見を経て神奈川湊に至り、さらに程ヶ谷、帷子宿に達していたと思われる。(『中世を歩く』(北倉庄一)の「下の道」P198)
  鵜ノ木・光明寺道とも呼ばれ、逆方向へは目黒不動参詣の「目黒道」の一つでもあった。目黒駅から行人坂を下って目黒不動に出て、平間の渡し跡あたりまで歩く。

  【ル-ト地図

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Img_3865行人坂を下る。《地図

けっこうな急坂だ。出羽三山の一つ、湯殿山の修験僧たちが坂の途中に大日如来堂(現大円寺)を建て修行を始めたところ、多くの行者が集まり住むようになったのでこの坂名がつけられたという。江戸時代に権之助坂が開かれる前は、二子街道として、江戸市中から目黒筋に通じる大切な道路であった。

Img_3867目黒川架橋供養勢至菩薩像(行人坂の途中)

Img_3866説明板

Img_3871とろけ地蔵(大円寺石仏群の中)

江戸時代に漁師が海から引き上げたもので、昔から悩み事をとろけさせてくれる、ありがたいお地蔵様として信仰されてきたとか。

Img_3878お七の井戸(右・目黒雅叙園前

ここは八百屋お七の恋人の吉三が出家して西運と名を改め、お七の菩提を弔った明王院の跡地。

Img_3877説明板

Img_3882椎の木・太鼓橋(目黒川) 《地図

広重の「名所江戸百景」に描かれている椎の木は枯れてきて、太鼓橋も全く風情のない橋になっている。

Img_3881説明板(椎の木)

Img_3880説明板(太鼓橋)

100_views_edo_111目黒太鼓橋夕日の岡(名所江戸百景)

山手通りを横切る。

Img_3891岩屋弁財天堂(蟠竜寺) 《地図

山手七福神」の弁財天

Img_3892木造弁財天(八臂(8本の腕)の天女像)

Img_3894青木昆陽の墓(龍泉寺墓地) 《地図

「甘藷先生墓」とある。房総往還の京成幕張駅そばには昆陽神社・甘藷試作地がある。

Img_3893説明板

Img_3902目黒不動(龍泉寺)の境内を北側から通り抜ける。

門前近くには白井権八と小紫の比翼塚がある。『目黒区の坂③

Img_3910石古坂を上る。《地図

石ころの多い坂からともいい、江戸の「府内場末其他沿革図書」の「中下目黒滝泉辺之図」には、この坂を「石河坂」とあり、それが“イシコ坂”と転訛したともいわれている。
目黒区と品川区の境で右は林試の森公園

品川区に入る。

Img_3917讃岐丸亀藩京極家抱屋敷跡(あさひ公園) 《地図

Img_3915説明板

Img_3920平塚橋交差点

中原街道を横切り、仲通り(池上道)に入る。

Img_3922仲通り(池上道)を南下する。

東急池上線の上を越えて行く。

Img_3928旗岡八幡神社 《地図

長元3年(1030)平忠常の乱を平定すべく、朝命を奉した甲斐守源頼信が下総へ赴く際、この地に宿営し、戦勝を祈願したのがその発祥とされる源氏ゆかりの神社。
昔は池上線に旗ヶ岡駅があった。うっすらと記憶にある。

Img_3931説明板

Img_3930しながわ百景」の一つ

この道筋も「鎌倉道」なのだ。

荏原町駅の東急大井町線踏切を渡る。

Img_3935平間道と池上道の分岐点 《地図

分岐の庚申塔の祠の横に道標(天明3年(1783)) がある。
「右 うの木光明寺道 左 池かミ道」で、右へ行くのが平間道。

Img_3337説明板

「平間道」・「池上道」とある。

Img_3936品川道を横切り大田区に入る。《地図

Img_3939夫婦坂を下って上る。

その向かい合う様子を夫婦にたとえてこう呼ぶようになったという。
この坂は昭和初期までは、今よりも道幅も狭く曲った坂道だった。環七通りもまだ開通せず、急な坂道で竹やぶ、雑木林などに囲まれ、昼なお暗い寂しい所だった。

環七通りを横切る。

Img_3940貝塚坂上から左に入る。《地図

貝塚を伴う集落遺跡のあった所。

Img_3947猿坂を下る。《地図

『新編武蔵風土記稿』の林昌寺の項に「境内墓所の側に坂あり、猿坂と呼、昔山林茂りて猿多く住せし故是名あり。」と記されている。
昔、子安八幡神社、林昌寺からこの猿坂にかけての台地は森林が続き、猿が多く生息していたともいわれ、坂名はそれにちなむものという。

長慶寺に寄り、東海道新幹線をくぐる。

Img_3958道々橋を渡る。《地図

道々橋村は江戸寛政以前に独立した村となった。池上町史によると、呑川に架かる橋の修繕負担の事から、独立して一村を作り、道々橋と名付けたという。ドドの詰まり、ドド橋、何時からか道々橋となったとか。

Img_3959呑川(道々橋から)

小学生の頃、級友が川沿いのアパートに住んでいた。大雨が降ると氾濫して床下・床上浸水した。

Img_3965樹林寺

道々橋村には寺が無く、村人達は寺の建立されることを熱願していた。江戸城に奉公した土地の棉屋の娘が将軍の側室の腰元になり、側室の計らいで一寺を建立したのが当寺の開創と伝える。

Img_3966道々橋八幡神社

Img_3969このあたりにはよく遊びに来た。今でも小学生の頃の級友たちの家がある。

Img_3970末広稲荷神社 《地図

子どもの頃はこんな所に神社があるとは知らなかった。興味もなかったが。

Img_3975久が原出世観音 《地図

伊藤博文と少しは縁があるようだ。観音像は拝めない。もう出世は望まず縁もないからどうでもいいが。

Img_3972由来

Img_3987池上線を渡る。《地図

ずいぶんと洒落た車両になったもんだ。

Img_3990ぬめり坂を下る。《地図

昔は、多摩川は東急多摩川線のあたりを流れていたらしく、このあたりは低湿地で大雨が降ればすぐに坂がぬめったのだろう。
人柱伝説のある坂で、「鵜の木に用水を渡ってうっそうとした樹下を登るなだらかな坂がある。なだらかな坂ではあるが、ぬめって上れなかった。付近の豪家に美しい娘があった。娘は人々の難渋を気の毒に思い、自ら望んでその坂に生き埋めとなった。以来、その坂の通行は容易となり、大いに付近は繁盛したという」(「大森区史」)

Img_3992藤森稲荷神社(ぬめり坂の坂下)

藤森稲荷前交差点で環八通りを渡る。光明寺は昨日(鎌倉街道下の道)で寄っているのでパスした。

Img_3995光明寺道標(左・嘉永4年(1851)) 《地図

上部欠損(光明寺に保管)の正面に「(善導)大師靈」・正面右隅に「是より右へ三丁」・正面左隅に「うの木 光明寺」

Img_3999天明(てんみょう)家(道標の向い側)

江戸時代の名主家。日光例幣使街道の天明宿の天明家がこの地(鵜の木村)に移り住んだという。

下丸子駅前の踏切(東急多摩川線)を渡って行く。

Img_4006蓮光院山門 《地図

もとは池田山(品川区の池田山公園)にあった岡山藩池田家の下屋敷の門。(品川区東五反田5-4-35)
玉川八十八ヶ所霊場の59番

Img_4005説明板

Img_4011六所神社

Img_4009長福寺

玉川八十八ヶ所霊場の60番

Img_4016平間の渡し跡あたり 《地図

ガス橋のあたりだが説明板・石碑などはない。
対岸は川崎市の上平間で平間駅(JR南武線)も近い。

平間道歩きの予定コースは終了したが、多摩川の土手を下流に進み、新田義興が謀殺された矢口の渡し跡から、義興を祀る新田神社へと向かう。

Img_4017土手の木陰道を行く。

少しは涼しいか。

ガス橋を通り越していく。

Img_4030庚申供養塔(円応寺) 《地図

寛文12年(1672)の造立で、青面金剛像の庚申塔では大田区最古。大田区最古の庚申供養塔は昨日の鎌倉街道下の道沿いの密蔵院の地蔵菩薩像庚申供養塔で寛文元年(1661)の造立。

Img_4029説明板

Img_4032東八幡神社

Img_4033矢口の渡し碑(神社境内)

Img_4036矢口の渡し跡あたり

渡し場の最後の場所は、多摩川大橋の少し上流のこの付近にあった。

Img_4037延命寺地図

「火雷除子安地蔵尊」を安置。聖徳太子の作とか。

今泉神社、花光院、氷川神社に寄りながら進む。

Img_4046新田神社

祭神はむろん新田義興

Img_4048大ケヤキ

落雷や戦災で大きく裂けた幹だが、触れると御神木の霊力で御利益が大きいと。賽銭も上げないで触ってもだめだろうが、やっぱり触ってみた。

Img_4047説明板

Img_4051うなる狛犬

戦災で相棒が壊れてこんな片隅に追いやられてしまって、無念の唸り声をあげているか。

Img_4050説明板

Img_4057頓兵衛地蔵堂 《地図

Img_4059頓兵衛地蔵

新田義興の謀殺に加担した矢口の渡しの船頭の頓兵衛が、義興の供養のために建立したと伝える地蔵。頓兵衛は平賀源内の浄瑠璃「神霊矢口渡」の登場人物。

倒壊防止?のロープで縛られている。義興殺しで逮捕され連行されて行くのかも。砂岩で作られていて、昔は地蔵の砂を削ってイボにつけて治したといわれている、『いぼとり地蔵』だったそうだ。

Img_4060説明板

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2014年9月16日 (火)

浦賀道①(保土ヶ谷道)

保土ヶ谷駅(JR横須賀線)・・・東海道分岐地点(金沢横町)・・・(今井川)・・上岩間踏切(東海道線)・・(国道1号)・・・いわな坂・福聚寺・御所台地蔵尊・御所台の井戸・・北向地蔵尊・・・(南区)・・・出逢橋(神奈川3号狩場線)・・・清水ヶ丘公園・・・(京急本線ガード)・・・蒔田橋(大岡川)・・・(蒔田駅(横浜市営地下鉄))・・百段々下・・・(弘明寺駅)・・鎌倉街道碑・・旧道入口交差点・・・(最戸橋(大岡川)・・(港南区)・・・(京急本線ガード)・・・(上大岡駅)・・・関ノ下交差点・・・横浜刑務所・・・関の橋(笹下川)・・・打越交差点(環状2号)・・・(磯子区)・・・妙蓮寺・・・(JR根岸線ガード)・・・栗木交差点・・・(金沢区)・・・岩船地蔵尊・・・能見台北公園・・・(横浜横須賀道路)・・・能見堂緑地・・・能見堂跡・・六国峠ハイキングコース・・・能見台第2踏切(京急線)・・国道16号・・・(金沢文庫駅)・・・君ヶ崎稲荷神社・・・龍華寺・・・洲崎神社・・・洲崎町交差点・憲法草創之処碑・・瀬戸橋(宮川)・・琵琶島神社・・瀬戸神社・・・(金沢八景駅)・・・六浦交差点・鎌倉街道(下の道)分岐地点・・・内川橋(侍従川)・・・傍示堂石塔群(武蔵国と相模国境)・(横須賀市)・雷神社・・・(追浜駅)・・・(京急本線)・・浦郷陣屋跡・・・良心寺・・・首斬観音・・・(京急本線)・・国道16号・・・旧道・・・がらめき・・・(京急田浦駅)・・・(京急本線)・・・赤坂・・池の谷戸公園・・・盛福寺・・・(京急本線)・・・(JR横須賀線)・・静円寺・・御嶽稲荷神社・・・長善寺・・・太田坂・道六神・・・(のの字橋の坂)・・・(京急本線)・・・十三峠・・・按針塚・・・柿ノ谷の坂上・・・塚山公園・・・琵琶首坂・・道標・・・(京急本線)・・・鹿島神社・・・浄土寺・・・汀橋交差点・・逸見駅入口交差点・・・稲荷山の坂・逸見子育地蔵・・・(横須賀トンネル)・・・(汐入駅)・・・谷町坂・・・小屋の台・・・うぐいす坂・・・道路元標・・・池之端・・・聖徳寺坂・・聖徳寺・・(京急本線)・・永嶋家赤門・道標・・・(県立大学駅)・・・浄蓮寺・・・春日神社・・・砂坂・砂坂地蔵尊・・・(国道134号)・・・大津館跡・・・浦賀道(戸塚道)合流地点・・・(京急本線)・・・矢ノ津坂・・・(横浜横須賀道路)・・・(浦賀駅)・・・浦賀ドック・浦賀港・浦賀の渡し(浦賀海道)・・・(西)叶神社・・・愛宕山公園(浦賀園)・愛宕山の坂・・・常福寺・・・為朝神社・・浦賀奉行所跡

 三浦半島の浦賀へ至る道で、東海道の保土ヶ谷宿と戸塚宿からの東西2本の道がある。
 参考:『浦賀道を歩く』(横須賀市)

  【ル-ト地図】(部分的に歩いた所をつなげたので、1日で歩いたのではない)

Img_4926_2金沢横町(浦賀道起点)

左右が東海道、手前に浦賀道が分岐する。左に道標が4基並ぶ。

Iwanazakaいわな坂を上る。《地図

途中に御所台地蔵御所台の井戸説明板)が、坂上の辻には北向地蔵堂がある。

Kitamukijizou北向地蔵(享保2年(1717))

道標も兼ねていた。

鎌倉街道(下の道④)→(下の道③)と逆にたどる道筋だ。金沢八景駅の南の六浦交差点で分かれて鎌倉街道は西に、浦賀道は南に向かい和田山入口交差点の傍示堂石塔群(武蔵国と相模国境)で、横浜市から横須賀市に入る。

Img_7192傍示堂石塔群 《地図

六地蔵・庚申塔・馬頭観音・五輪塔など

Img_7188説明板(一部)

Ikazutijinnjya雷神社

祭神は「火雷(いなびかりの)神」
もとは天神崎にあった社を朝倉能登守が雷神社と改め、16世紀末にこの地に移転したと伝える。

良心寺の北側あたりが浦郷陣屋跡らしいが何の標示もなかった。戦国時代、朝倉能登守が開いた陣屋で、江戸末期まで使用されていたといい、京浜急行の踏切(追浜第一か第二踏切か?)付近が陣屋のあった所で、今も「大門」と呼ばれているそうだ。織田信長に滅ぼされた越前朝倉氏の一族が小田原北条氏の家臣になったと伝える。

Img_7171良心寺

朝倉能登守の夫人の墓がある。

Img_7172首斬観音(碑)(中央・昭和3年) 《地図

浦郷陣屋で裁かれ、処刑された罪人の「首斬観音」と書かれた供養塔で、左右に念仏塔と題目塔が並ぶ。

Img_7175新聞記事(「追浜の歴史探訪」)

Garameki3がらめき(浦郷トンネル上)から追浜町方面 《地図

「がらめき」は「からめき」とも。からからと鳴り響く意味とか。落石か、ほとばしる水の流れか。標高60mで横須賀市内の浦賀道で最初の難所だったに違いない。(『坂道風土記 三浦半島』)

Garameki2「がらめき」の切通しから国道16号、船越町方向へ下る。

京急田浦駅を過ぎ、赤坂を下り、盛福寺静円寺~御嶽稲荷神社~長善寺と進む。

Tyouzennji長善寺

永禄元年(1558)に開山という、本尊が阿弥陀如来像の浄土宗の寺。戦国時代、三浦半島を支配した三浦道寸義同(三浦大介義明の子孫)ゆかりの不動明王立像を安置する。
浦賀道の難所の十三峠越えに備え、往来する旅人が道中の安全を願ってお参りしたという。

Ottazaka太田(おった)坂 長善寺の南側から北東に上る浦賀道。《地図

途中に道六神(天保12年(1841))が立つ。さらに急なつづら折の石段となって上って行く。

坂上に鎌倉幕府の家臣、秋田城之介景盛、義景親子の屋敷があった。このあたりを「城の台」地元では「しろんだ」(城の台)と呼ぶ。

Ottazaka2坂上から

「浦賀道」の標柱(左)。坂上を右に行けば浦賀道の最大の難所だった十三峠へ上って行く。左に行けば「のの字橋の坂」を下って田浦駅方向へ。

13touge十三峠あたりから横須賀港 《地図

十三峠の由来は、①保土ヶ谷より13番目の峠 ②十三仏を祀った寺が峠付近にあった。 ③十三塚の信仰による。 などの説がある。

Annjinn按針塚(塚山公園内・国指定史跡)

右の塔が三浦按針(本名ウイリアム・アダムス、英国人の航海士。江戸時代初期に九州に漂着し、家康の外交顧問となった) 左が妻、お雪(マリア)の墓。

Biwa琵琶首坂の途中から横須賀港方向 《地図

Biwakubizaka坂下方向

以前は曲がりくねって、琵琶の形に似ていたからだろうか。市内岩戸には小字琵琶首、長沢に「ビャクビ」がある。(『坂道風土記 三浦半島』)

Douhyou1道標(琵琶首坂の坂下)

「按針塚へ約5町」? 日本語(左面)と英語(右面) 明治から大正にかけて行われた按針塚修理事業の際に建てられた。

鹿島神社は三浦按針の屋敷があった所、浄土寺は菩提寺で、按針が持ち歩いたという念持仏も安置されている。

逸見駅入口交差点から稲荷山の坂を上ると、途中に逸見子育地蔵(元禄11年(1698))の祠がある。横須賀線の横須賀トンネルの上を越えて、汐入駅そばを通って行く。汐入小学校の近くの浦賀道にあった「洞ノ口地蔵尊」は、本町3丁目のドブ板通りに移されて延命地蔵尊として祀られている。『横浜市の坂②

Tanimatizaka谷町坂(坂下方向) 汐入2丁目の汐入小学校の南側を北東に上る浦賀道。《地図

このあたりは昭和24年まで「谷町」だった。(『坂道風土記 三浦半島』)

Uguisuzakaうぐいす坂(坂上から) 汐入町2丁目から上町1-29と1-36の間を南東に下る浦賀道。《地図

「戦後も長い間、木々が生い茂り、昼なお暗い坂道でした。昔は、うぐいすの鳴き声が絶えなかったそうです」(古老の話) 坂上は咸臨丸の副艦長格の浜口英幹が住んでいて「花屋敷」と呼ばれていた。(『坂道風土記 三浦半島』)

坂下を進んだ平坂の坂上近くに道路元標がある。

Seitokuzaka聖徳寺坂の坂下近く

右側が聖徳寺

京急線のガードをくぐる。

Akamon永嶋家赤門・道標(文久2年(1862))

江戸時代の名主、永嶋家の赤塗りの長屋門。永嶋家は三浦一族の子孫という。
前の円柱形の道標には、「右 大津 浦賀道」・「左 横須賀 金沢道」

Sunazaka砂坂を下る。三春町4-24あたりから大津町1-3あたりへ東方向へ下る浦賀道。《地図

昔は近くに白須川が流れていて大正時代までは満潮時には潮がこの先まで遡上した。坂に川が運んできた川砂や砂利が被っていたので砂坂と呼ぶようになったのだろう。下近くに砂坂地蔵尊由来)ある。

Img_7165京急大津駅の北側で、右から来る戸塚からの浦賀道と合流する。 《地図

馬堀海岸駅の手前で京急線をくぐった浦賀道は矢ノ津坂を上り、浦賀駅のそばを通り、浦賀港の浦賀の渡船場近くから浦賀道の終点とした浦賀奉行所跡へと通じている。それは『横須賀市の坂⑧』で歩いた道筋とほぼ重なっている。

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2014年9月15日 (月)

東京散歩(鎌倉街道下の道)

2014年9月8日

沼部駅(東急多摩川線)・・・中原街道・桜坂下・・六郷用水跡(女堀のみち)・・・(東海道新幹線)・・・密蔵院・・・嶺村の庚申塔・・・観蔵院・・・河原坂上・・鵜の木松山公園・鵜の木一丁目横穴墓群6号墓・・・増明院・・・光明寺・・(環八通り)・・ぬめり坂下・・下丸子への分水口跡・・南北引き分け跡・北堀の道・・・久が原7号踏切(東急池上線)・・・千鳥いこい公園・・・(第二京浜国道)・・・題目塔・御嶽神社碑・・・六郷田無道合流地点・道標・・六郷田無道分岐地点(池上本門寺参道)・・・妙見堂道標・・・浄国橋(呑川)・・・子母沢児童公園・・・臼田坂下・田無街道交差地点・旧新井宿出土橋跡碑・・春日神社・・・(都道318号)・・根ヶ原神社・・・池上通り・・・善慶寺・熊野神社・・・闇坂下・・・八景坂・・天祖神社・・(大森駅)・・・大森貝墟碑・・・日枝神社・・円能寺・・・(品川区)・・大森貝塚遺跡庭園・・・鹿嶋神社・・・来迎院・・・光福寺・大井跡・・・滝王子通り・・・滝王子稲荷神社・・・西光寺・・・作守稲荷神社・・・大井三ツ又交差点・・・品川道踏切・・・大井町駅(JR京浜東北線)

  中原街道と重なって多摩川を渡った鎌倉街道下の道は沼部の桜坂下から中原街道を進む北回りルートと、桜坂下で右折し六郷用水跡沿いを進み、池上~大森を通る南回りルートが考えられていて大井三ツ又で合流する。むろん鎌倉街道の方が中原街道・六郷用水より古いのはいうまでもないが。
 今回は南回りで大井三ツ又先の大井町駅まで歩く。

  【ル-ト地図

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Img_3632中原街道の桜坂下 《地図

北回りルートは直進して桜坂を上り、中原街道を洗足坂上交差点まで進む。
今回歩く南回りルートは右折して六郷用水跡沿いを行く。

Img_3634案内図

現在地から「女堀のみち」(六郷用水跡)を行き、「南北引き分け」から「北堀のみち」へ進む。

Img_3636六郷用水跡だが、遊歩道となってきれいな水が流れている。

Img_3658説明板

Img_1875湧き水が流れ落ちている。

この先で東海道新幹線・横須賀線をくぐる。

Img_3643密蔵院

大田区最古の庚申供養塔の場所が分からず、清掃している女性に尋ねたら、住職に聞きに行ってくれた。

Img_3641庚申供養塔(寛文元年(1661))

庚申塔の初期の形態の地蔵菩薩像を彫ったもの。

Img_3639説明板

Img_3650六郷用水女堀には大きな鯉が沢山泳いでいる。

Img_3660説明板

Img_1888嶺村の庚申塔

Img_3675観蔵院 《地図

「峯の薬師」として信仰を集めた。山門の塀の右端に「峯の薬師道」と彫られた道標が立つ。参詣道沿いから移設されたものだろう。
境内に樹齢300年以上というツゲの巨木( 大田区の天然記念物)があるというが、尋ねる人もなくどれか分からず。

Img_3665道標(明和3年(1766))

「峯之薬師道 新田ミち

Img_3667薬師堂

戦災で焼失し昭和35年の再建。

Img_3664説明板

Img_3677旧家

敷地内には広い屋敷林があるようだ。

Img_3679河原坂上 《地図

昔は鵜の木2・3丁目付近は多摩川の河川敷で「河原」という地名で呼ばれていた。現在は切通しになって緩やかだが、昔は道幅も狭く急な坂道で、河原の畑を往来する荷車などは大変難儀をしたそうだ。

Img_3689鵜の木一丁目横穴墓群6号墓

一帯は鵜の木松山公園になっている。(河原坂の北側)

Img_3688説明板

Img_36863段積切石

墓道と墓室の間の羨門の仕切り石。

Img_3698旧家

増明院の手前で環八通りを斜めに横切って行くのが本来の道筋だが、増明院と光明寺に寄って藤森稲荷前交差点で環八を渡った。

Img_3700増明院

山門は備前池田家の表門と伝えられる武家屋敷門。

Img_3703光明寺地図

光明寺池は高い金属塀に囲われて全く姿が見えない。地図にはちゃんと載っている。昔はザリガニがウヨウヨといてわざわざ自転車で御嶽山駅(池上線)近くの自宅から「ぬめり坂」を下って遊びに来た記憶があるのだが。豊かな自然を覆い隠してしまうとは仏の慈悲もどこへやらか。

Img_3707環八通りの藤森稲荷前交差点 《地図

六郷用水の下丸子方面への分水口跡あたりで、平間道のぬめり坂下でもある。

Img_3708説明板

Img_1911_2六郷用水の南北引き分け跡(右に説明板) 《地図

Img_1910_2説明板

Img_3712左に北堀の道を進む。 

Img_3713池上線(千鳥町駅)を渡って行く。

Img_3716北堀跡沿いの崖下の道 《地図

左側は千鳥いこい公園

この先で第二京浜国道を横切る。

Img_3728池上警察署の脇の道へと続く。《地図

ここも六郷用水跡沿いだ。

Img_3740千本松原跡・乗合馬車の発着所跡あたり(池上3-16)

明治から大正にかけて池上駅~大森駅間を走っていたそうだ。

Img_3743六郷田無道合流地点 《地図

ここは枡形になっている。右が相模屋ですぐ先の左角の萬屋酒店で六郷田無道は左折し池上本門寺へと進む。

Img_3744葛餅の相模屋

創業は享保年間(1716~35)という老舗。

右端に題目塔道標(元禄9年(1696))で、右面に「是よりひたり かわさきみち 古川道」、裏面に「是よりみき こすきみち 新田道」で、古川薬師(安養寺)から六郷の渡しで川崎に続く六郷田無道と、新田神社から矢口の渡しへ続く道、丸子の渡しから中原街道の小杉へ通ずる今歩いて来た鎌倉街道下の道のこと。

Img_3749萬屋酒店

明治8年(1875)の建築。当初は茶店で、店先に荷車などを止めることができるように工夫され、井戸もある。

Img_3751池上本門寺参道を横切る。

この道は総門から表参道の石段の此経難持坂(シキョウナンジザカ)、仁王門へと通じている。

Img_3756中村精米店 《地図

少し手前の四つ角に妙見堂への道標がある。

Img_3759浄国橋から呑川 《地図

昔は大雨が降るとすぐに氾濫し、周辺の家が床下・床上浸水した川だ。

Img_3768子母沢児童公園 《地図

右端の「いにしえの東海道」碑には、「この道は時代によって奥州街道、相州鎌倉街道、平間街道、池上往還などと呼ばれていた古道です。」とある。
子母澤寛がこのあたりに住んでいたことによる公園名と思ったら逆で、ここはかつては大森区新井宿子母沢(現在は大田区中央4丁目で味も素っ気もない地名だ)で、それをペンネームにしたそうだ。

Img_3770_2田無街道交差地点 《地図

田無街道は左へ臼田坂を上って行く。交差点の向いの左側に「いにしえの東海道」碑と「旧新井宿出土橋跡碑」が立つ。江戸時代この付近は荏原郡新井宿村で川が流れ、出土橋(でどばし)が架かっていたそうだ。

Img_3775春日神社

このあたりが新井宿の中心だったようだ。

都道318号を横切る。

Img_3781根ヶ原神社地図

もとは第六天社と呼ばれていて、「六天 根ヶ原神社」の標石が立つ。

この先で池上通りに出る。

Img_3784善慶寺

境内の背後が熊野神社

Img_3788新井宿義民六人衆の墓

村人が父母の墓という名目で建てた墓石で、六人の名前が刻まれた裏面がこちらを向いている。

Img_3786説明板

Img_3799八景坂を上る。《地図

今でも長い坂だが傾斜は緩い。昔はもっと急坂で江戸湾の眺めもよかったようだ。

Img_3805説明板

100_views_edo_026八景坂鎧掛松(名所江戸百景)

Img_3807大森貝墟(貝塚)碑(大田区側) 《地図

Img_3809山王日枝神社

この先で品川区となる。

Img_3819大森貝塚遺跡庭園(品川区)

Img_3817想像図

現代よりずっと楽しそうで縄文時代に戻りたくなる。

Img_3822鹿嶋神社地図

大井囃子が節分祭・7月の中祭・10月の大祭などの際に、神楽殿で演奏されている。

Img_3823説明板

鎌倉街道は鹿嶋神社の東側を通り、昔は入口も社殿も東向きだったという。

Img_3828来迎院

将軍家光の頃の鷹狩の休息所だったという。

Img_3829念仏講供養塔など

もとは来迎院の境内で、車道を挟んだ向かい側にある。

Img_3830説明板

Img_3835念仏講供養塔(三基)

Img_3836光福寺地図

左は沖合の漁師たちの目印になったという大イチョウで、麻布の善福寺の「逆さイチョウ」と兄弟という。

Img_3837説明板

Img_3838「大井」の地名の由来という横穴式井戸(光福寺墓地内)

今でも少し水が湧いているようだ。そばに「開基了海上人産湯井」碑があるというが、気づかなかった。昔、この寺に身を寄せていた了海上人の父が子授けを祈願したところ男の子を授かり、そのとき寺の境内から忽然と泉が湧き出したので、この水で産湯をつかわせたと伝える。
ここあたりに古代の大井駅があったともいう。

Photo_2大井(江戸名所図会)

Img_3848滝王子稲荷神社地図

タブノキと大イチョウの間の社殿は小さい。

Img_3854西光寺地図

左は稚児桜

Img_3852石造供養塔

最前列左の延命地蔵菩薩像(明暦元年(1655)
右端の阿弥陀如来像(寛文9年(1669))
その左の阿弥陀如来庚申供養塔(寛文13(1673))

Img_3851説明板

Img_3855作守稲荷神社 《地図

もとは薩摩藩のお抱え屋敷にあったとか。

Img_3862大井三ツ又交差点

鎌倉街道下の道(北回りルート・品川道)と合流して大井町駅へと向かった。

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2014年9月 3日 (水)

東京散歩(滝坂道②)

2014年8月27日

豪徳寺駅(小田急線)・・・地蔵祠・・・旧尾崎行雄邸・・・宮の坂3号踏切(東急世田谷線)・・・常徳院・・・村道・本道分岐地点・地蔵と庚申塔祠・・・庚申塔道標・農大通り・・・経堂本村稲荷・・・経堂駅・・・福昌寺・・・馬頭観音道標・・小田急線ガード・・・子育地蔵堂・・・稲荷社・・・本道合流地点・・・道標・・・古府中道分岐地点・・・道標?(荒玉水道道路交差点)・・・八幡社・・・明大八幡山グラウンド・・・(烏山川)・・千歳台交差点(環八通り)・・・千歳台小学校・・・東覚院・・・廻沢稲荷神社・・・東京中央農協交差点・・・榎交差点・六郷田無道交差地点・・・安穏寺坂・・安穏寺・・・地蔵堂・・・類さん川跡・・・宮下橋(仙川)・・神明社・・・庚申塔祠・・・(調布市)・・・大正橋(京王線)・・売地の坂上・・・仙川2丁目交差点(国道20号・甲州街道)・・馬宿川口屋跡・滝坂(旧甲州街道)・・・国道20号・・・つつじヶ丘1号踏切(京王線)・・・金子稲荷・・・常楽院・・・つつじヶ丘駅(京王線)

  今日は小ぬか雨が降り続き、肌寒いような天気だった。滝坂まで行き江戸六阿弥陀の五番で上野不忍池のほとりから調布に移転した常楽院を訪れ、滝坂道歩きを終えた。

  【ル-ト地図】(豪徳寺駅(11km地点あたり)から)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_3507滝坂道は梅ヶ丘2丁目と豪徳寺1丁目の境で左折し南下し、枡形の名残りのように右から左にカーブして、豪徳寺1-1で直角に右折して行く。世田谷城の防衛上のためだろうか? 《地図

この付近は松原宿といって松原村の飛地だった。宿といっても宿場とは限らず人家が二、三軒それに飴菓子でも売っておれば宿と名づけた。『武蔵野歴史地理』(昭和4年)

世田谷城址・豪徳寺・世田谷代官屋敷・世田谷八幡宮などは、『大山街道』・『鎌倉街道中の道』・『世田谷区の坂②』で訪れているので割愛した。

Img_3511ここを右折 《地図

右は地蔵(宝暦6年(1756))の祠

Img_3513尾崎行雄旧邸(豪徳寺2-30)

今は個人の現住住宅。

宮の坂3号踏切(東急世田谷線)を渡る。

Img_3519常徳院

世田谷城の守護寺。山門の左側に「敷石供養塔」(天保2年(1831))

Img_3523本道(滝坂道)・村道分岐地点 《地図

分岐点の祠に地蔵(宝暦11年(1761))と庚申塔(正徳元年(1711))

昔の面影が残るという村道(左)を進む。

Img_3525まあこの程度だろう。

Img_3529旧家

Img_3530庚申塔祠(右) 《地図

Img_3531庚申塔(文政9年(1826))

下部は道標で、正面に「南 二子道」・右面に「東 青山道」で滝坂道のこと。「西 ふちうミち」で、滝坂から府中への道筋。

右折して農大通りを本道の方へ行って見る。

Img_3534経堂本村稲荷 《地図

Img_3536本道は経堂駅北口からすずらん(通り)商店街へと入って行く。《地図

左側の島田履物店は、昭和2年に小田急線が開通した時に開店したそうだ。
「経堂は小田急が通じたばかりのときで、商店も数えるほどしかなく、町の両側の裏は農家と田圃で、手前の小川では魚を取って遊ぶ子どもたちの姿も見られた」(高群逸枝の「日常生活」の一節) 小川は村道の経堂駅の北側あたりを流れて烏山川へ通じていた川のことか? 高群逸枝は四国遍路をして、「娘巡礼記」を書いた。

村道へ戻る。

Img_3537福昌寺地図

経堂の地名の由来の一つの説がある寺。

Img_3539馬頭観音(右) 《地図

Img_3540三面の馬頭観音の下は道標

正面は「西ふちう道」・右面に「南ふたこ道」・左面に「北たかいど道」

Img_3542右の経堂西通り商店街へと入って行く。

Img_3543子育地蔵堂(正徳5年(1715)) 《地図

ここは右に進む。

Img_3544説明板

Img_3546稲荷社 《地図

この先で本道と合流する。

Img_3547本道との合流地点 《地図

Img_3549交差点を渡った左側に小さな道標がある。《地図

Img_3550道標

探すのに苦労した。「向右千歳役場・左宮坂停留場」と刻まれているという。千歳(村)役場はこの先の滝坂道沿いの、現在の東京中央農協千歳支店の所にあり、宮坂停留所は滝坂道が世田谷線を渡る(現在の宮の坂3号踏切)近くにあった宮の坂駅だそうだ。

Img_3551滝坂道(左)・古府中道(右)分岐地点 《地図

古府中道(仮称)は、大化の改新の頃には既にあったと考えられる古い道で、武蔵国の府中に通じる重要道路だった。現在の「赤堤通り」

Img_3552荒玉水道道路を横切る。《地図

電柱の右に住所表示のプレートを縛られた石柱がある。これも道標のようだが?

Img_3554「・・道・・・」?

Img_3557八幡社地図

区画整理前には滝坂道は鳥居前に直接つながり、小さな茶店があったという。

北側の八幡山小学校の南斜面に八幡山遺跡がある。縄文中期の竪穴式住居跡や石器・土器が発掘された。またこの付近は中世には鍛冶山村と呼ばれていて、江戸期以前から炭焼きが行われていて、炭焼きの窯跡も見つかっているそうだ。

明大八幡山グラウンドに沿って下り、烏山川(暗渠)を渡り、千歳台交差点(環八通り)を横切る。

Img_3568壁画「芽生え」(千歳台小学校) 《地図

廻沢北遺跡(2頁・千歳台遺跡)をイメージしたもので、世田谷区に在住していた画家谷内六郎が原画を描いた。右側には「芽生え碑」もある。

Img_3565廻沢のガスタンク『せたがや百景』

ガスタンクというより助平親爺にはミルクタンクに見える。

北側に蘆花恒春園がある。

Img_3571東覚院 《地図

Img_3574廻沢稲荷神社 《地図

滝坂道に戻る。

Img_3579東京中央農協交差点

向い側の東京中央農協千歳支店が先ほどの道標に記された千歳村役場跡という。

Img_3581榎交差点 《地図

六郷田無道と交差する。この道もいずれ歩くだろう。

Img_3588安穏寺坂 《地図

歩道が無く車の往来が激しく、今はとても安穏には歩けない坂道だ。右が安穏寺。

Img_3584安穏寺

「虫の音の他に一番嬉しいのは安穏寺の鐘」と徳富蘆花が愛した寺。

武家屋敷風の安穏寺」(せたがや百景)

Img_3590坂下の地蔵堂・庚申塔・馬頭観音

Img_3595類さん川跡 《地図

「類さん」は村人の名前

Img_3594説明板

Img_3599宮下橋から仙川

Img_3602上祖師谷神明社地図

神明造りの土蔵のような社殿。ここも『せたがや百景

Img_3605庚申塔の祠 《地図

この先で調布市若葉町に入り、大正橋で京王線を越える。

Img_3615売地の坂上 《地図

旧京王線の線路跡の坂。線路跡が売りに出されたことがあったことによる坂名。『調布市の坂⑤

Img_3617甲州街道(国道20号)の滝坂

右に入って下るのが旧甲州街道の旧滝坂 《地図

Img_3621馬宿川口屋跡(旧滝坂上)

Img_3622標石

ここで滝坂道は終わるが旧滝坂を下り、つつじヶ丘駅の南側の江戸六阿弥陀の五番だった常楽院に寄る。

Img_3629金子稲荷神社

Img_3631常楽院 《地図

江戸六阿弥陀の一つだったことを表示するものは何もない。あてがはずれ拍子抜けの締めくくりとなった。

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