浦賀道①(保土ヶ谷道)
保土ヶ谷駅(JR横須賀線)・・・東海道分岐地点(金沢横町)・・・(今井川)・・上岩間踏切(東海道線)・・(国道1号)・・・いわな坂・福聚寺・御所台地蔵尊・御所台の井戸・・北向地蔵尊・・・(南区)・・・出逢橋(神奈川3号狩場線)・・・清水ヶ丘公園・・・(京急本線ガード)・・・蒔田橋(大岡川)・・・(蒔田駅(横浜市営地下鉄))・・百段々下・・・(弘明寺駅)・・鎌倉街道碑・・旧道入口交差点・・・(最戸橋(大岡川)・・(港南区)・・・(京急本線ガード)・・・(上大岡駅)・・・関ノ下交差点・・・横浜刑務所・・・関の橋(笹下川)・・・打越交差点(環状2号)・・・(磯子区)・・・妙蓮寺・・・(JR根岸線ガード)・・・栗木交差点・・・(金沢区)・・・岩船地蔵尊・・・能見台北公園・・・(横浜横須賀道路)・・・能見堂緑地・・・能見堂跡・・六国峠ハイキングコース・・・能見台第2踏切(京急線)・・国道16号・・・(金沢文庫駅)・・・君ヶ崎稲荷神社・・・龍華寺・・・洲崎神社・・・洲崎町交差点・憲法草創之処碑・・瀬戸橋(宮川)・・琵琶島神社・・瀬戸神社・・・(金沢八景駅)・・・六浦交差点・鎌倉街道(下の道)分岐地点・・・内川橋(侍従川)・・・傍示堂石塔群(武蔵国と相模国境)・(横須賀市)・雷神社・・・(追浜駅)・・・(京急本線)・・浦郷陣屋跡・・・良心寺・・・首斬観音・・・(京急本線)・・国道16号・・・旧道・・・がらめき・・・(京急田浦駅)・・・(京急本線)・・・赤坂・・池の谷戸公園・・・盛福寺・・・(京急本線)・・・(JR横須賀線)・・静円寺・・御嶽稲荷神社・・・長善寺・・・太田坂・道六神・・・(のの字橋の坂)・・・(京急本線)・・・十三峠・・・按針塚・・・柿ノ谷の坂上・・・塚山公園・・・琵琶首坂・・道標・・・(京急本線)・・・鹿島神社・・・浄土寺・・・汀橋交差点・・逸見駅入口交差点・・・稲荷山の坂・逸見子育地蔵・・・(横須賀トンネル)・・・(汐入駅)・・・谷町坂・・・小屋の台・・・うぐいす坂・・・道路元標・・・池之端・・・聖徳寺坂・・聖徳寺・・(京急本線)・・永嶋家赤門・道標・・・(県立大学駅)・・・浄蓮寺・・・春日神社・・・砂坂・砂坂地蔵尊・・・(国道134号)・・・大津館跡・・・浦賀道(戸塚道)合流地点・・・(京急本線)・・・矢ノ津坂・・・(横浜横須賀道路)・・・(浦賀駅)・・・浦賀ドック・浦賀港・浦賀の渡し(浦賀海道)・・・(西)叶神社・・・愛宕山公園(浦賀園)・愛宕山の坂・・・常福寺・・・為朝神社・・・浦賀奉行所跡
三浦半島の浦賀へ至る道で、東海道の保土ヶ谷宿と戸塚宿からの東西2本の道がある。
*参考:『浦賀道を歩く』(横須賀市)
【ル-ト地図】(部分的に歩いた所をつなげたので、1日で歩いたのではない)
左右が東海道、手前に浦賀道が分岐する。左に道標が4基並ぶ。 「説明板」
いわな坂を上る。《地図》
途中に御所台地蔵、御所台の井戸(説明板)が、坂上の辻には北向地蔵堂がある。
北向地蔵(享保2年(1717))「説明板」
道標も兼ねていた。
鎌倉街道(下の道④)→(下の道③)と逆にたどる道筋だ。金沢八景駅の南の六浦交差点で分かれて鎌倉街道は西に、浦賀道は南に向かい和田山入口交差点の傍示堂石塔群(武蔵国と相模国境)で、横浜市から横須賀市に入る。
傍示堂石塔群 《地図》
六地蔵・庚申塔・馬頭観音・五輪塔など
祭神は「火雷(いなびかりの)神」
もとは天神崎にあった社を朝倉能登守が雷神社と改め、16世紀末にこの地に移転したと伝える。
良心寺の北側あたりが浦郷陣屋跡らしいが何の標示もなかった。戦国時代、朝倉能登守が開いた陣屋で、江戸末期まで使用されていたといい、京浜急行の踏切(追浜第一か第二踏切か?)付近が陣屋のあった所で、今も「大門」と呼ばれているそうだ。織田信長に滅ぼされた越前朝倉氏の一族が小田原北条氏の家臣になったと伝える。
朝倉能登守の夫人の墓がある。
首斬観音(碑)(中央・昭和3年) 《地図》
浦郷陣屋で裁かれ、処刑された罪人の「首斬観音」と書かれた供養塔で、左右に念仏塔と題目塔が並ぶ。
がらめき(浦郷トンネル上)から追浜町方面 《地図》
「がらめき」は「からめき」とも。からからと鳴り響く意味とか。落石か、ほとばしる水の流れか。標高60mで横須賀市内の浦賀道で最初の難所だったに違いない。(『坂道風土記 三浦半島』)
京急田浦駅を過ぎ、赤坂を下り、盛福寺~静円寺~御嶽稲荷神社~長善寺と進む。
永禄元年(1558)に開山という、本尊が阿弥陀如来像の浄土宗の寺。戦国時代、三浦半島を支配した三浦道寸義同(三浦大介義明の子孫)ゆかりの不動明王立像を安置する。
浦賀道の難所の十三峠越えに備え、往来する旅人が道中の安全を願ってお参りしたという。
太田(おった)坂 長善寺の南側から北東に上る浦賀道。《地図》
途中に道六神(天保12年(1841))が立つ。さらに急なつづら折の石段となって上って行く。
坂上に鎌倉幕府の家臣、秋田城之介景盛、義景親子の屋敷があった。このあたりを「城の台」地元では「しろんだ」(城の台)と呼ぶ。
「浦賀道」の標柱(左)。坂上を右に行けば浦賀道の最大の難所だった十三峠へ上って行く。左に行けば「のの字橋の坂」を下って田浦駅方向へ。
十三峠あたりから横須賀港 《地図》
十三峠の由来は、①保土ヶ谷より13番目の峠 ②十三仏を祀った寺が峠付近にあった。 ③十三塚の信仰による。 などの説がある。
右の塔が三浦按針(本名ウイリアム・アダムス、英国人の航海士。江戸時代初期に九州に漂着し、家康の外交顧問となった) 左が妻、お雪(マリア)の墓。
琵琶首坂の途中から横須賀港方向 《地図》
以前は曲がりくねって、琵琶の形に似ていたからだろうか。市内岩戸には小字琵琶首、長沢に「ビャクビ」がある。(『坂道風土記 三浦半島』)
「按針塚へ約5町」? 日本語(左面)と英語(右面) 明治から大正にかけて行われた按針塚修理事業の際に建てられた。
鹿島神社は三浦按針の屋敷があった所、浄土寺は菩提寺で、按針が持ち歩いたという念持仏も安置されている。
逸見駅入口交差点から稲荷山の坂を上ると、途中に逸見子育地蔵(元禄11年(1698))の祠がある。横須賀線の横須賀トンネルの上を越えて、汐入駅そばを通って行く。汐入小学校の近くの浦賀道にあった「洞ノ口地蔵尊」は、本町3丁目のドブ板通りに移されて延命地蔵尊として祀られている。『横浜市の坂②』
谷町坂(坂下方向) 汐入2丁目の汐入小学校の南側を北東に上る浦賀道。《地図》
このあたりは昭和24年まで「谷町」だった。(『坂道風土記 三浦半島』)
うぐいす坂(坂上から) 汐入町2丁目から上町1-29と1-36の間を南東に下る浦賀道。《地図》
「戦後も長い間、木々が生い茂り、昼なお暗い坂道でした。昔は、うぐいすの鳴き声が絶えなかったそうです」(古老の話) 坂上は咸臨丸の副艦長格の浜口英幹が住んでいて「花屋敷」と呼ばれていた。(『坂道風土記 三浦半島』)
坂下を進んだ平坂の坂上近くに道路元標がある。
右側が聖徳寺
京急線のガードをくぐる。
永嶋家赤門・道標(文久2年(1862))
江戸時代の名主、永嶋家の赤塗りの長屋門。永嶋家は三浦一族の子孫という。
前の円柱形の道標には、「右 大津 浦賀道」・「左 横須賀 金沢道」
砂坂を下る。三春町4-24あたりから大津町1-3あたりへ東方向へ下る浦賀道。《地図》
昔は近くに白須川が流れていて大正時代までは満潮時には潮がこの先まで遡上した。坂に川が運んできた川砂や砂利が被っていたので砂坂と呼ぶようになったのだろう。坂下近くに砂坂地蔵尊(由来)ある。
京急大津駅の北側で、右から来る戸塚からの浦賀道と合流する。 《地図》
馬堀海岸駅の手前で京急線をくぐった浦賀道は矢ノ津坂を上り、浦賀駅のそばを通り、浦賀港の浦賀の渡船場近くから浦賀道の終点とした浦賀奉行所跡へと通じている。それは『横須賀市の坂⑧』で歩いた道筋とほぼ重なっている。
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