東京散歩(平間道)
2014年9月9日
目黒駅(JR山手線)・・・行人坂・・目黒川架橋供養勢至菩薩像・・大円寺・・・お七の井戸・・太鼓橋(目黒川)・・・(山手通り)・・・蟠竜寺(岩屋弁財天)・・・青木昆陽の墓・・目黒不動(龍泉寺)・・・比翼塚・・・石古坂・・林試の森公園・・(品川区)・・・不動前緑道公園・(東急目黒線)・・・讃岐丸亀藩京極家抱屋敷跡(あさひ公園)・・・平塚橋交差点(中原街道)・・・仲通り(池上道)・・・延山くすのき公園・(東急池上線)・・・旗岡八幡神社・法蓮寺・・・東急大井町線踏切(荏原町駅)・・・池上道分岐地点(道標・庚申塔祠)・・・品川道(鎌倉街道下の道)交差地点・(大田区)・・夫婦坂・・・(環七通り)・・・貝塚坂上・・・稲荷坂上・・・大久保坂上・・・猿坂・・・長慶寺・・・(東海道新幹線)・・・道々橋(呑川)・・・樹林寺・・・末広稲荷・・・久が原出世観音・・・庚申塔祠・・・久が原3号踏切(東急池上線)・・・ぬめり坂・・・藤森稲荷神社・・藤森稲荷前交差点(環八通り)・・・(光明寺)・・・光明寺道標・・・下丸子1号踏切(東急多摩川線)・・・蓮光院・・・諏訪神社・・・六所神社・・・長福寺・・・平間の渡し跡あたり(多摩川)・ガス橋・・・円応寺・・・東八幡神社・矢口の渡し碑・矢口の渡し跡・・・延命寺・・・今泉神社・・・花光院・・・氷川神社・・・新田神社・・・下丸子3号踏切(東急多摩川線)・・・頓兵衛地蔵堂・・・武蔵新田駅(東急多摩川線)
平間道は中世の頃開発されたルートで、多摩川を渡り平間から鶴見を経て神奈川湊に至り、さらに程ヶ谷、帷子宿に達していたと思われる。(『中世を歩く』(北倉庄一)の「下の道」P198)
鵜ノ木・光明寺道とも呼ばれ、逆方向へは目黒不動参詣の「目黒道」の一つでもあった。目黒駅から行人坂を下って目黒不動に出て、平間の渡し跡あたりまで歩く。
【ル-ト地図】
写真をクリックすると拡大します。
行人坂を下る。《地図》
けっこうな急坂だ。出羽三山の一つ、湯殿山の修験僧たちが坂の途中に大日如来堂(現大円寺)を建て修行を始めたところ、多くの行者が集まり住むようになったのでこの坂名がつけられたという。江戸時代に権之助坂が開かれる前は、二子街道として、江戸市中から目黒筋に通じる大切な道路であった。
とろけ地蔵(大円寺石仏群の中)
江戸時代に漁師が海から引き上げたもので、昔から悩み事をとろけさせてくれる、ありがたいお地蔵様として信仰されてきたとか。
お七の井戸(右・目黒雅叙園前)
ここは八百屋お七の恋人の吉三が出家して西運と名を改め、お七の菩提を弔った明王院の跡地。
椎の木・太鼓橋(目黒川) 《地図》
広重の「名所江戸百景」に描かれている椎の木は枯れてきて、太鼓橋も全く風情のない橋になっている。
山手通りを横切る。
岩屋弁財天堂(蟠竜寺) 《地図》
「山手七福神」の弁財天
「甘藷先生墓」とある。房総往還の京成幕張駅そばには昆陽神社・甘藷試作地がある。
門前近くには白井権八と小紫の比翼塚がある。『目黒区の坂③』
石古坂を上る。《地図》
石ころの多い坂からともいい、江戸の「府内場末其他沿革図書」の「中下目黒滝泉辺之図」には、この坂を「石河坂」とあり、それが“イシコ坂”と転訛したともいわれている。
目黒区と品川区の境で右は林試の森公園。
品川区に入る。
中原街道を横切り、仲通り(池上道)に入る。
東急池上線の上を越えて行く。
長元3年(1030)平忠常の乱を平定すべく、朝命を奉した甲斐守源頼信が下総へ赴く際、この地に宿営し、戦勝を祈願したのがその発祥とされる源氏ゆかりの神社。
昔は池上線に旗ヶ岡駅があった。うっすらと記憶にある。
「しながわ百景」の一つ
この道筋も「鎌倉道」なのだ。
荏原町駅の東急大井町線踏切を渡る。
平間道と池上道の分岐点 《地図》
分岐の庚申塔の祠の横に道標(天明3年(1783)) がある。
「右 うの木光明寺道 左 池かミ道」で、右へ行くのが平間道。
「平間道」・「池上道」とある。
その向かい合う様子を夫婦にたとえてこう呼ぶようになったという。
この坂は昭和初期までは、今よりも道幅も狭く曲った坂道だった。環七通りもまだ開通せず、急な坂道で竹やぶ、雑木林などに囲まれ、昼なお暗い寂しい所だった。
環七通りを横切る。
貝塚坂上から左に入る。《地図》
貝塚を伴う集落遺跡のあった所。
猿坂を下る。《地図》
『新編武蔵風土記稿』の林昌寺の項に「境内墓所の側に坂あり、猿坂と呼、昔山林茂りて猿多く住せし故是名あり。」と記されている。
昔、子安八幡神社、林昌寺からこの猿坂にかけての台地は森林が続き、猿が多く生息していたともいわれ、坂名はそれにちなむものという。
長慶寺に寄り、東海道新幹線をくぐる。
道々橋を渡る。《地図》
道々橋村は江戸寛政以前に独立した村となった。池上町史によると、呑川に架かる橋の修繕負担の事から、独立して一村を作り、道々橋と名付けたという。ドドの詰まり、ドド橋、何時からか道々橋となったとか。
呑川(道々橋から)
小学生の頃、級友が川沿いのアパートに住んでいた。大雨が降ると氾濫して床下・床上浸水した。
道々橋村には寺が無く、村人達は寺の建立されることを熱願していた。江戸城に奉公した土地の棉屋の娘が将軍の側室の腰元になり、側室の計らいで一寺を建立したのが当寺の開創と伝える。
このあたりにはよく遊びに来た。今でも小学生の頃の級友たちの家がある。
末広稲荷神社 《地図》
子どもの頃はこんな所に神社があるとは知らなかった。興味もなかったが。
伊藤博文と少しは縁があるようだ。観音像は拝めない。もう出世は望まず縁もないからどうでもいいが。
池上線を渡る。《地図》
ずいぶんと洒落た車両になったもんだ。
ぬめり坂を下る。《地図》
昔は、多摩川は東急多摩川線のあたりを流れていたらしく、このあたりは低湿地で大雨が降ればすぐに坂がぬめったのだろう。
人柱伝説のある坂で、「鵜の木に用水を渡ってうっそうとした樹下を登るなだらかな坂がある。なだらかな坂ではあるが、ぬめって上れなかった。付近の豪家に美しい娘があった。娘は人々の難渋を気の毒に思い、自ら望んでその坂に生き埋めとなった。以来、その坂の通行は容易となり、大いに付近は繁盛したという」(「大森区史」)
藤森稲荷神社(ぬめり坂の坂下)
藤森稲荷前交差点で環八通りを渡る。光明寺は昨日(鎌倉街道下の道)で寄っているのでパスした。
光明寺道標(左・嘉永4年(1851)) 《地図》
上部欠損(光明寺に保管)の正面に「(善導)大師靈場」・正面右隅に「是より右へ三丁」・正面左隅に「うの木 光明寺」
江戸時代の名主家。日光例幣使街道の天明宿の天明家がこの地(鵜の木村)に移り住んだという。
下丸子駅前の踏切(東急多摩川線)を渡って行く。
もとは池田山(品川区の池田山公園)にあった岡山藩池田家の下屋敷の門。(品川区東五反田5-4-35)
玉川八十八ヶ所霊場の59番
玉川八十八ヶ所霊場の60番
平間の渡し跡あたり 《地図》
ガス橋のあたりだが説明板・石碑などはない。
対岸は川崎市の上平間で平間駅(JR南武線)も近い。
平間道歩きの予定コースは終了したが、多摩川の土手を下流に進み、新田義興が謀殺された矢口の渡し跡から、義興を祀る新田神社へと向かう。
少しは涼しいか。
ガス橋を通り越していく。
庚申供養塔(円応寺) 《地図》
寛文12年(1672)の造立で、青面金剛像の庚申塔では大田区最古。大田区最古の庚申供養塔は昨日の鎌倉街道下の道沿いの密蔵院の地蔵菩薩像庚申供養塔で寛文元年(1661)の造立。
矢口の渡し跡あたり
渡し場の最後の場所は、多摩川大橋の少し上流のこの付近にあった。
「火雷除子安地蔵尊」を安置。聖徳太子の作とか。
今泉神社、花光院、氷川神社に寄りながら進む。
祭神はむろん新田義興
落雷や戦災で大きく裂けた幹だが、触れると御神木の霊力で御利益が大きいと。賽銭も上げないで触ってもだめだろうが、やっぱり触ってみた。
戦災で相棒が壊れてこんな片隅に追いやられてしまって、無念の唸り声をあげているか。
頓兵衛地蔵堂 《地図》
新田義興の謀殺に加担した矢口の渡しの船頭の頓兵衛が、義興の供養のために建立したと伝える地蔵。頓兵衛は平賀源内の浄瑠璃「神霊矢口渡」の登場人物。
倒壊防止?のロープで縛られている。義興殺しで逮捕され連行されて行くのかも。砂岩で作られていて、昔は地蔵の砂を削ってイボにつけて治したといわれている、『いぼとり地蔵』だったそうだ。
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