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2014年10月21日 (火)

山陽道(玖波駅→柱野駅)

2014年9月28日

玖波駅(JR山陽本線)・・・川本橋(恵川)・・・黒川橋(大善川)・・・黒川2丁目交差点・・・上河内第3踏切(山陽本線)・・・小方地区・・・(山陽本線ガード)・・・(新町川)・・・(山陽自動車道)・・小方一里塚跡あたり・・苦の坂入口・・・橘姫神社・・・全面通行止標識・・・苦の坂峠・・・ちきり池(勝池)神社・・・長州の役戦跡碑・・・太閤振舞い井戸跡・・・大元神社・・・善福寺・・・両国橋(小瀬川)・・木野川の渡し跡・・両国橋・・(山口県岩国市)・・・小瀬川の渡し跡・小瀬一里塚跡あたり・吉田松陰歌碑・・・小瀬峠・・・関戸宿・・本陣跡・・・関戸交差点・国道2号・・・(山陽自動車道)・・・多田一里塚跡・多田の渡り場跡標識・・・岩国IC入口交差点・・・本庄八幡宮・・・御庄大橋(錦川・御庄の渡し跡)・・・旧道・・・(山陽新幹線)・・・御庄宿・・蓮乗寺・・本陣跡・・多賀大明神・・(錦川鉄道)・・(山陽新幹線)・・(錦川鉄道)・・・県道1号・・・(山陽自動車道)・・・地蔵祠・・・(錦川鉄道)・・・思案橋(御庄川)・・・西氏橋(御庄川)・・・柱野駅(JR岩徳線)

  苦の坂峠を越え小瀬川沿いを進み、両国橋を渡って安芸国(広島県)から周防国(山口県)に入る。さらに小瀬峠へ上り、関戸宿へ下って御庄宿を通り、御庄川沿いに柱野駅まで行った。
 まだ2時半前で欽明路峠を越えて欽明路駅まで行ける時間ではあるが、2時間以上はかかるだろうし、気温は30度近くあってバテ気味だし、欽明路駅に着く時間によっては電車を2時間近くも待たねばならないことを考えてここまでとした。

  【ル-ト地図】(玖波駅(124.8km)→柱野駅(145.6km))

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Img_5380厳島(宮島)方向の眺め(メープルヒル病院あたりから)

今日は厳島神社の祭神の市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)ゆかりの苦の坂に向かう。

Img_5382広島岩国道路(右上)沿いを進む。《地図

黒川橋(大善川)と山陽本線を渡り、右折して小方地区へ入るのだが、直進して大竹港の方へ行ってしまった。山陽本線の西側には亀居城跡がある。

Img_5388山陽本線のガードをくぐって行く。《地図

この手前には「けごろもの碑」があるのだが見落とした。
「けごろもに つつみて温(ぬくし)し 鴨の足」(元禄6年冬・「続猿蓑」)

山陽自動車道の手前で新町川を渡り、山陽道自動車道をくぐる。

Img_5392苦の坂の上り口(左は山陽道自動車道) 《地図

小方一里塚があったのはこのあたりか?緩やかな上りとなる。

Img_5394橘姫神社 《地図

せき・喘息にご利益あり。

Img_5395説明板

Img_5398全面通行止標識

平成17年の台風による土砂崩れで通行不能になったようだ。もう10年近くも復旧せずに放置してある。この道は廃道にしてしまうのだろうか。右の仮設の階段を上る。この先は私有地を通るようだ。

Img_5399蜘蛛の巣・やぶ蚊道を行く。

おまけに暑さで顔に噴き出た汗に蜘蛛の巣がからみつき、手で払うと納豆が糸を引いているようで気持ち悪くて参った。なるほど今でも市杵嶋姫命が言うように、「えらや苦しや この苦の坂は」だった。

Img_5400〒マーク

郵便の集配施設と思ったが、昭和の初めに東京から続いた「長距離市外電話」ケーブルの中継基地だった。「装荷用(そうかよう)ケーブルハット」といい、全国でも数か所しか残っていないそうだ。〒マークは、逓信省(ていしんしょう)の「テ」からできた。

Img_5402苦の坂峠に着く。

「えらや苦しや この苦の坂は金のちきりも要らぬもの」で、厳島神社の祭神である市杵嶋姫命の伝説の峠だ。

Img_5403説明板

Img_5405土砂崩れの所もある。

Img_5411ハチ・マムシもいるのだ。

Img_5412通行止だと。(振り返って見ている)

さっきの土砂くずれのことか?今更遅いよ。その上は「歴史の散歩道について」(大竹市教育委員会)の説明板。

Img_5415ちきり池(勝池)神社 《地図

Img_5416汐湧石

旧暦6月17日、厳島神社の管弦祭の夜には、この岩穴から汐水が湧き出るとか。

Img_5417長州の役戦跡

慶応2年(1866)6月14日、苦の坂では、幕府軍と長州軍の激しい白兵戦が行われた。戦いを制したのは新式装備の長州軍。

Img_5421太閤振舞い井戸

太閤秀吉が名護屋城(佐賀県唐津市)からの帰途、木野村で休息をした際、村人がこの井戸の湧き水で茶を振る舞ったところ、秀吉はたいそう気に入ったと伝えられている。今も水は湧いているようだ。

Img_5422大元神社 《地図

Img_5424旧家

Img_5428両国橋(小瀬川) 《地図

新しい橋に架け替え工事中。

両国橋を渡らず少し下流に進む。

Img_5430木野川(このがわ)の渡し跡

安芸・周防の国境を流れる小瀬(おぜ)川(木野川)の船渡し場。24時間体制だった。当時の川幅は約22m。川には洪水から村を守るために、三角和久(巨大な岩を三角に積み重ねて水の流れを反らす)、巻き石護岸(福島正則が築いたといわれる「福島堤防」)が築かれた。
名曲「矢切りの渡し」は、大竹市出身の作詞家 石本美由起が、ふるさとのこの渡し場を思い描いて作ったという。(正式な川名は小瀬川)

Img_5434両国橋を渡る。

広島県大竹市から山口県岩国市へ入る。

Img_5436小瀬川の渡し跡(岩国市川) 《地図

右に旧山陽道跡の説明板と、吉田松陰の歌碑がある。このあたりに小瀬一里塚があったようだ。

ここを右折して行くのだが直進してかなり進んでしまった。

Img_5437説明板

Img_5438吉田松陰歌碑

Img_5439説明板

Img_5440小瀬峠へ向かう。

Img_5442旧山陽道の標柱(正面) 《地図

直進して旧道に入る。

Img_5444旧道をしばらく行くと舗装道に出る。

Img_5447小瀬峠近く

右に旧山陽道跡の標柱が倒れている。ここを右に入って車道の上沿いを行くのが旧道だろう。近くにいた不法投棄パトロールの連中に聞いたが、はっきりした返事ではなかった。蜘蛛の巣とやぶ蚊道はもう十分なので、このまま車道を下った。

Img_5451峠から下る。

Img_5454前方に関関バイパスが見えて来た。

日向に出ると夏の陽射しと暑さだ。

Img_5457関戸宿に入る。《地図

右は客人神社参道の標柱。

Img_5458説明板

Img_5460右の草むらが庄屋の村尾家が勤めていた本陣跡。

客人神社は右奥の小高い所

関戸交差点で国道2号に出て右折して行く。途中右上に旧道が一部残るのだが、入口を見落として通り過ぎた。関戸から多田一里塚跡までは岩国往来と重なって行く。

Img_5469旧道は右の石段を下ってここへ出て来るようだ。

藤河郵便局の手前

Img_5473多田一里塚跡 《地図

錦川の「多田の渡り場跡」は少し離れている。多田側に記念碑が立っているようだ。

Img_5476御庄大橋(錦川)を渡る。《地図

水はきれいで橋の下では鮎を網で獲っていた。山陽道は御庄の渡しで渡っていた。正面は山陽自動車道の橋。

橋を渡って右に旧道に入り山陽新幹線をくぐる。

Img_5480御庄宿に入る。《地図

錦川の河止の時の止宿用に作られた宿場。御庄は中世の石国(いわくに)庄の荘域の一部だったこと由来する地名という。右は蓮乗寺

Img_5483本陣跡?

何の標示もない。

Img_5488多賀大明神

境内は大名などの通行に際し、人馬の集積場所に使われたという。

Img_5490錦川鉄道(錦川清流線)をくぐる。《地図

この先で2回くぐるが通過する電車の雄姿?は見られなかった。清流錦川が売り物のようで、御庄駅も清流新岩国駅になってしまった。嘆かわしいねえ。

Img_5491御庄の家並み

山陽新幹線・錦川鉄道をくぐり、県道1号に出る。

Img_5497県道1号を御庄川に沿って南下する。《地図

正面は山陽自動車道

Img_5498大歳神社

御庄川の対岸で遥拝のみ。

Img_5500地蔵の祠がぽつんと。

全身に赤布をまとい、頭にも赤い鉢巻?を巻いた地蔵が立っていた。

Img_5503思案橋(旧西氏橋) 《地図

各地にある思案橋の一つ。橋を渡って「遊郭に行こうか、戻ろうか」が思案の一番手だが、ほかの思案もある。ここのは「錦帯橋に行こうか、どうしようか」とか。
西詰あたりに西氏一里塚があったようだ。

西氏橋(御庄川)を渡って柱野駅に向かった。「西」は地名にもなっていて、大内氏が山口に移った時ここを京都の宇治に見立てたとか、このあたりが茶の名所だからとか。

Img_5508柱野駅(JR岩徳線)

時計を見間違え、駅前の広場の木陰でのんびり休憩していたら14時45分発の岩国駅行きに乗り損ねそうになった。次は16時52分まで電車は来ないのだ。危なかった。
ここを今回の山陽道歩きの打ち止めとした。

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2014年10月16日 (木)

山陽道(廿日市駅→玖波駅)

2014年9月27日

廿日市駅(JR山陽本線)・・・常念寺・・・福佐売神社・・・可愛橋(可愛川)・・・可愛川西2踏切(広電)・・・道狭第4踏切(山陽本線)・・・(県道247号)・・・宮内串戸駅(山陽本線)・・・(国道2号)・・・(山陽新幹線)・・・宮内一里塚跡・・専念寺・・(県道30号)・・・砂原大橋(御手洗川)・・・県道30号・・佐原田公園・・佐原田権現神社・・四季が丘南口交差点・・・畑口橋交差点・津和野岐れ・・夜泣き石(道標)・・・(広島岩国道路)・・・エコセンターはつかいち・・・四郎峠・村境碑・・・(広島岩国道路)・・・疣観音堂・今川貞世歌碑・・戸石川橋・・・中山一里塚跡・・・(十郎原川)・・・(高見川)・・・三槍社・・・大野次郎宅跡・・・新宮神社・・・濃唹駅家跡・高庭駅家跡・山上憶良歌碑・・・孝子久蔵の遺跡・・・高畑溜池・・・陣場跡・・・中津岡大橋(中津岡川)・・・大野インター南交差点・・(山陽新幹線)・・(広島岩国道路)・・・大頭神社・妹背の滝・・・(広島岩国道路)・・(山陽新幹線)・・滝の下交差点・旧道・・・大野西小学校・道標・・・大野浦駅(山陽本線)・大野浦一里塚跡・今川貞世歌碑・・・向原バス停・・旧道・石畳・四十八坂・・・宮浜配水池・・・(広島岩国道路)・・・残念社・・・依田神社・松陰腰掛岩・・・(広島岩国道路)・・・八坂神社・・・(大竹市)・鳴川の石畳道・・鉾ノ峠(鳴川)一里塚あたり・・・(山陽本線)・・・唐船浜・・・玖波隧道(馬ためし峠)・・・玖波宿・・順広寺・・高札場跡・角屋釣井跡・・本陣跡あたり・・・玖波駅(山陽本線)

  今日は四郎峠、四十八坂、鉾ノ峠と起伏のある道のりだった。四十八坂では道を間違え、鉾ノ峠では蜘蛛の巣、やぶ蚊に苦労したが3時過ぎには玖波駅に着いた。日毎、暑さが増すにつれ、歩く距離が減っていくのは致し方なしか。

  【ル-ト地図】(廿日市駅(104.3km)→玖波駅(124.8km))

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Img_5172宮内一里塚跡 《地図

右の専念寺には旅人の休息所のお茶屋があったと伝える。

宮内交番前で県道30号を渡り、御手洗川に沿って進み砂原大橋を渡る。県道30号に出て、何度も渡り返し佐原田権現神社の先で県道30号に出て進む。【ル-ト地図】参照

Img_5192津和野岐れ(畑口橋交差点) 《地図

ここを左に進む。廿日市宿の石州津和野藩御船屋敷から山陽道と同じ道を進んだ津和野街道は直進して行く。道路向かいに「夜泣き石」(道標)がある。

Img_5193夜泣き石

江戸時代ここにあった三角形の自然石から毎夜赤ん坊の泣き声が聞こえてきたので、「南無阿弥陀仏」と彫った石塔を建てて供養したところ泣き声は聞こえなくなったという。
消えかけているが道標にもなっていて右下に「石州道」・左下に「九州道」のようで、津和野街道と山陽道の方向を示している。こちらの方が旅人には役立ったろう。

広島岩国道路をくぐり、道路沿いを南に四郎峠へ上って行く。

Img_5198四郎峠へ 《地図

歩道はついていない。車の通行はさほどでもないが味気ない道だ。四郎は5人兄弟の一人の名で、詳しくはこの先に記載。

Img_5202「宮内 大野 村境」碑(右)

四郎峠から下って広島岩国道路をくぐって行く。

Img_5206疣(いぼ)観音堂 《地図

Img_5208疣観音

Img_5209今川貞世歌碑

足利義満に九州探題に任ぜられ下る途中、ここ中山を通った時の歌で、紀行文『道ゆきぶり』に所載。

ここから右方向に入って、しばし中山川沿いを行く。

Img_5214中山一里塚跡

ガードレールの左に「史跡 一里塚跡」標柱。塚には松が植わっていたそうだ。

車も通らない静かな道を行く。

Img_5217ここは直進し細い道に入る。《地図

Img_5220ここも直進だ。

Img_5223高見川を渡る。

Img_5224案内板

Img_5226民家の裏の崖下の道を進む。

Img_5231三槍社

大頭神社四末社の一つ

Img_5234大野次郎宅跡

推古天皇の時代にまで遡る話で恐れ入る。

Img_5235説明板

五人兄弟のことが書かれている。

Img_5240新宮神社 《地図

大野次郎を祀った社で、地元では「新宮さん」と呼ぶ。

Img_5241急な石段を上ると意外に小祠だった。

Img_5242集落の上を細い道が続いている。

ここが往時の山陽道、西国街道だったのだ。

Img_5247高庭駅家跡

平安時代には濃唹(のお)駅となる。後ろは山上憶良の万葉歌碑で、「出でて行きし日を数へつつ 今日今日と 吾を待たすらむ 父母らはも」

Img_5246説明板

Img_5253木陰の道を行く。

Img_5256孝子久蔵の遺跡碑

高畑貝塚跡に行こうとしたらここに出てしまった。

寛政の頃、高畑に住んでいた孝行息子の久蔵さんは、広島藩主から米3俵を賜り、孝子の鑑とされたそうな。いつの世も親不孝者ばかりだから、孝行者が目立つのだろう。

Img_5261高畑溜池 《地図

文政8年(1825)の「芸藩通志」に載る大野で最も古い溜池。

Img_5262陣場跡

長州征討の時の幕府軍の検問所跡で、このあたりは今も陣場という地名。この先で車道へ出るが古代には筏津という海の入江だったそうだ。

Img_5264説明板

Img_5265山陽新幹線を進む。

大野インター南交差点で街道から離れ、毛保川沿いの大頭神社・妹背の滝に寄る。途中に第二次長州戦争の千人塚があるようだが見逃した。

Img_5272大頭(おおがしら)神社

Img_5271由緒碑

Img_5273妹背の滝(雄滝)

Img_5277滝壺近くから

雌滝は写真を取り損ねた。雄滝より高いが水は余り流れていないようだ。

街道に戻り、山陽新幹線をくぐり右に入って行く。

Img_5280道標(右の大野西小学校前の角) 《地図

「右 宮島廣島道」・「左 宮内道 妹背瀧道」

Img_5286大野浦一里塚跡(大野浦駅前)

今川貞世歌碑「おおのうらを これかととえば やまなしの かたえのもみじ 色に出でつつ」で、大野浦の駅名はこの歌からつけられた。

向原バス停の所で四十八坂の旧道に入る。

Img_5299四十八坂入口 《地図

ここを右に入って行く。

Img_5296説明板

Img_5302少しの間石畳が残る。

Img_5303今川貞世歌碑

この先で広島岩国道路の高架下で道を間違え、経小屋山への登山道に入ってしまい引き返す。かなりのロスタイムとなった。

Img_5317宮浜温泉海望の源泉地

この下一帯が宮浜温泉

Img_5316説明碑

この左下から源泉が流れ出ているようだが気づかなかった。

Img_5323残念社へ向かう。

Img_5325残念社(残念さん)

Img_5324説明板

Img_5326気分のいい道だ。

Img_5327依田神社 《地図

神社の本体は修復のためしばらく撤去してある。木々に遮られて腰掛け岩からの眺望はない。

Img_5328説明板

この文章はおかしくないか。

広島岩国道路をくぐり南に下って行く。

Img_5338瀬戸内海・大竹港・大竹の工場の煙突群の眺め。《地図

Img_5343八坂神社(お祇園さん)

Img_5344説明板

Img_5347橋を渡って直進する。

Img_5348民家の庭のような所を通る抜ける。

Img_5349鳴川の石畳道から鉾(ほこ)ノ峠へ上る。

蜘蛛の巣・やぶ蚊道でおまけに蒸し暑くて参った。ここは大竹市だ。

Img_5350説明板

鉾ノ峠には一里塚があった。

Img_5351山陽本線を越える。

この先の道は少し崩れかけていて歩きにくい。

Img_5353唐船浜(とうせんはま)に出てほっとした。

秀吉が朝鮮に渡る船を造らせせたという。

Img_5354玖波(くば)隧道をくぐる。《地図

街道はこの上の馬ためし峠を越えていた。

Img_5357玖波宿に入る。《地図

本陣などは長州戦争で焼かれてしまったが、宿場の面影は残っている。

Img_5366説明板

Img_5362家並み

Img_5363高札場・角屋釣井跡

Img_5364説明板

Img_5368本陣跡

左の広島信用金庫あたりらしい。

Img_5370家並み

Img_5371材木店

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2014年10月14日 (火)

山陽道(海田市駅→廿日市駅)

2014年9月26日

海田市駅(JR山陽本線)・・・胡子神社・荒神社・・・三宅家住宅・・・大師寺参道・・・海田市の一里塚跡・清正寺・・(広島市安芸区)・・・光明寺・・新旧道分岐・市場坂(旧道)・・・常夜灯・新旧道合流地点・県道151号・・的場坂・・・船越峠・(府中町)・比丘尼坂・・旧道・・・地蔵堂・・・(山陽新幹線)・永田交差点・・・恵比須神社・・・多家神社道標・府中大橋(府中大川)・県道84号・・・(広島高速2号)・(広島市東区)・・・矢賀一里塚跡あたり・・・(JR芸備線)・・・曙町5東交差点・旧道・・・才蔵寺・・・三本松跡・・・我羅我羅橋跡・・・愛宕神社・愛宕地蔵・・・(山陽新幹線・山陽本線)・・(広電・鯉城通り)・・猿侯橋(猿侯川)・・・京橋(京橋川)・・市杵嶋姫大明神・・・(広電)・・・胡子神社(えびす通り)・・・本通り・・・(広電・鯉城通り)・・・広島市道路元標・・原爆ドーム・・元安橋(元安川)・・平和記念公園・・本川橋(本川・旧太田川)・・・(広電)・・・天満橋(天満川)・・・天満宮・・・己斐橋(太田川)・・・(JR西広島駅)・・(広電西広島駅)・・・源左衛門橋(八幡川)・・・別れの茶屋跡・(別れの茶屋踏切)・・・己斐西踏切(山陽本線)・・・(国道2号)・・・高須一里塚跡あたり・・・道標・延命地蔵・・・(古江駅・広電)・・・草津踏切(山陽本線)・・間の宿草津・・鷺森神社・・慈光寺・・小泉酒造・・行幸橋(御幸川)・・草津町交流広場・・草津本町踏切(広電)・・大釣井跡・・大石餅跡あたり・・草津南町踏切(広電)・・・(草津沼田道路)・・・西原ヶ尻踏切(山陽本線)・・・新井口駅(山陽本線)・・・正順寺・・龍神山沿い・・・餓鬼の首地蔵・・・八幡橋(八幡川)・・・五つ神社・・・光禅寺・・・古浜第5踏切(山陽本線)・・・松並木跡・・・壹里標・・一本松踏切(広電)・・・海老橋(岡の下川)・・・西隅の浜交差点(国道2号)・・(廿日市市)・・・佐方一里塚跡・・・街道松・・・佐方中橋(佐方川)・・桜尾城址(桂公園)・・・廿日市宿・・薬師堂・・天満宮・・本陣跡(中央公民館)・・平良踏切(広電)・・廿日市駅(山陽本線)

  今日も晴天だ。海田町から広島市安芸区に入り、船越峠を越え府中町を通り抜け、広島市東区に入った。広島の中心街を通り、間の宿草津から龍神山の麓を上り下りして廿日市市に入った頃には暑さでバテ気味だった。

  【ル-ト地図】(海田市駅(78km地点)から廿日市駅(104.3km地点)まで)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_4915_2胡子神社(左・天保5年(1837)勧請)・荒神社(右・明治6年瀬野川の瀬替えに伴い建立) 《地図

明顕寺の前で山陽道に出る。

Img_4907_2三宅家住宅

江戸時代から安芸郡きっての大地主で有名な農業篤志家。

Img_4912_2海田市一里塚跡(右に標柱) 《地図

直径6mの塚上に松の木が植わっていたそうだ。塚は大正10年に撤去された。

この先で広島市安芸区に入る。

Img_4917_2新宮古墳標識

船越最古の新宮社の隣にある古墳。横穴式石室から須恵器の坏(つき)、銀製の耳飾り、首飾りに使われたヒスイや水晶の玉類なども多く出土したそうだ。

Img_4918新旧道分岐 《地図

右へ市場坂を上るのが旧道で、左に曲がって行くのが新道で常夜灯の所で合流する。

Img_4919_2市場坂を上る。

けっこうな急坂だ。

Img_4921_2坂上から左へ下って行く。

Img_4923_2常夜灯(明治5年) 《地図

岩瀧神社の常夜灯で、今は、正月や祭りの際に灯がともる。

ここで左から来る新道と合流し、船越峠へ向かう。峠といっても今はただの坂上の車道だが。

Img_4927_2的場坂を上って船越峠へ 《地図

ちょうど通勤時間帯のせいか狭い道に車の往来が激しく、車がすれ違う時は道端に止まって除けるしかない。

Img_4930_2船越峠から比丘尼坂を下って府中町に入り、左に旧道に入る。《地図

平安時代から、安芸国の中心として国庁や総社が置かれたことによる町名。

Img_4931_2地蔵堂

ここに「ひくにの塚」と呼ばれた比丘尼の墓があったという。『郷土史解説(12.船越峠)』より

Img_4938_2永田交差点で山陽新幹線をくぐり、右に入って行く。《地図

上に周辺の案内地図が描かれている丸石は何のモニュメントか?

Img_4943府中大橋から府中大川 《地図

東岸(右)の電柱前に「多家神社参詣道」の標柱。ここから1.2kmほどだ。橋の下には群れをなした細身の魚が泳いでいた。そばで見ていた人に何の魚かと聞くと「イダ」という答えだった。ウグイの別名のようだ。食べられないと言っていた。

広島高速2号をくぐり、広島市東区に入る。矢賀新町3丁目に矢賀一里塚があったようだ。JR芸備線をくぐり、曙町5東交差点で左斜めに旧道に入る。突き当たって街道から離れ右に上って才蔵寺に寄る。

Img_4956才蔵寺地図

可児才蔵

Img_4961味噌地蔵

「藁にも味噌にもすがる」、合格祈願の受験生に人気だそうだ。
中山道の蕨宿には地蔵の目に味噌を塗ると目の病が治るという「目疾地蔵」があり、目に味噌がこってり塗られている。ここのも頭に味噌が塗られていると思っていたが、味噌の包みが行儀よく並べられて奉納されていた。

Img_4954説明板

Img_4965山陽道に戻って広島の中心街へと向かう。《地図

Img_4969三本松

三本松バス停・三本松湯もある。

Img_4968説明板

Img_4974我羅我羅橋跡

ここに太田川が流れ、橋が架かっていて茶店があったという。川は暗渠になっている。

Img_4972説明板

愛宕交番交差点を横切って愛宕町に入る。

Img_4975愛宕神社 《地図

左に愛宕地蔵が仲良く同居している。

Img_4976由来

JR線をくぐり、広電を横切って行く。

Img_4982路面電車の広電

Img_4984猿侯橋(猿侯川)を渡る。《地図

このあたりが広島宿の「東の宿場」で馬60匹を置いたという。

猿猴橋→京橋→元安橋→本川橋→天満橋→己斐橋と渡って広島城下を抜けて行く。

Img_4986説明板

Img_4990京橋(京橋川)を渡る。

渡った左の川岸に市杵嶋姫大明神が鎮座する。

Img_4998胡子神社

慶長8年(1603)、商人の神様の胡子神社の鎮座を機に開かれた“市”がその発祥という、えびす通り商店街のビルの間に祀られている。

Img_5000本通りを進む。《地図

広電の走る鯉城(りじょう)通りを横切り、原爆ドーム・平和記念公園の見学者で賑わう元安橋(元安川)のたもとに出る。鯉城通りを北に行けば広島城(鯉城)に突き当たる。

Img_5002広島市道路元標 《地図

これを探すのに苦労した。元安橋のたもとを行きつ戻りつウロウロ。観光客も交通整理の人も何を探しているのか不審に思ったろう。西国街道(山陽道)沿いのこのあたりがかつては広島城下の中心部だったのだ。

Img_5001説明板

Img_5008原爆ドーム

ここあたりは外国人観光客が多い。

Img_5007被爆前の写真

元安橋を渡り、平和記念公園を横目に見ながら本川橋を渡って行った。

Img_5013頼山陽煎餅藝陽堂(左) 《地図

明治44年創業の老舗。寛政12年(1800)9月、脱藩を決意した頼山陽は松子山峠を越えて京に向かった。『西国街道(本郷駅→西条駅)

このあたりが「西の宿場」で御茶屋(本陣)は町の有力者の屋敷がその役割を勤めたそうだ。

天満橋(天満川)を渡れば天満町だ。

Img_5017天満宮(右)

Img_5019由緒

Img_5025己斐(こい)橋(太田川)を渡る。《地図

己斐はもとは「鯉」と書かれたという。

Img_5026広電の西広島駅を過ぎる。

Img_5028源左衛門橋(八幡川)を渡る。《地図

何の見所もない橋だが、由緒・いわれのある橋だ。

Img_5030さざんか(三々賀)

街道沿いの創業から57年のお好み焼き屋。目の前で焼いてくれるこの店の主人のおばさんと話しながら、ボリュームたっぷりのお好み焼きで腹ごしらえをした。

Img_5033別れの茶屋(跡) 《地図

広島城下から西に向かう旅人をここまで見送り、この茶店で別れを惜しんだという。今も手づくりの餅、赤飯を商っている。本業はパン屋らしい。
左を走る広電の踏切は「別れの茶屋踏切」

Img_5034店内に「別れの茶屋」(灘尾弘吉の揮毫)の額

己斐西踏切(山陽本線)を渡り、国道2号をくぐって行く。高須1丁目に一里塚があったようだ。

Img_5043延命地蔵堂(高須3-6)

道標「是ヨリぢぞう道」で、この地蔵のことなのか?

Img_5045茶道「上田宗箇流]家元の屋敷らしい。

Img_5048旧家

草津踏切(山陽本線)を渡って「間の宿草津」に入る

Img_5055鷺森神社 《地図

被爆建物で爆心地から4930mの地。

Img_5054由緒

Img_5057慈光寺 (草津の妙見さん)

ここは石鳥居が同居だ。

Img_5056説明板

Img_5065小泉本店地図

桟瓦ぶき、平入り中二階建て、屋根の上に「煙り出し」。

Img_5062「置鳳輦止處」碑

ここも小泉本店の敷地。

Img_5063説明板

Img_5068草津町交流広場(御幸橋を渡った所)

草津の港は神功皇后伝説では軍津浦輪(いくさつうらわ)と呼ばれ、新羅に出兵する軍船が集結した所とされている。

Img_5073案内図

Img_5069説明板

「皆賀峠は山陽道中第一の難所」とある。この先の龍神山(小己斐山)を越える道のことだろう。

Img_5080大釣井跡

この左方に地蔵堂があるようだが見逃した。

Img_5078説明板

Img_5082大石餅跡あたり 《地図

草津南町踏切(広電)の手前の左側あたりか。

Img_5071石臼・石燈籠

今は草津町交流広場に移設してある。

草津南町踏切(広電)を渡り、草津沼田道路をくぐる。

Img_5085山陽本線沿いを行く。

Img_5090正順寺(正面) 

ここを右に行き、龍神山沿いの上りとなる。

Img_5095長い上り坂が続く。《地図

龍神山への道が整備されているようだが、知らずに麓沿いの道を行った。往時は山越えの難所で、山頂からの瀬戸内海の島々の景観が見事だったという。今はその眺めは望めないようだ。井口一里塚は山中にあったのだろうか。

Img_5094説明板

Img_5091説明板

Img_5093龍神山(標高58.5m・正面)の写真

その向こうに瀬戸内海が広がる。

Img_5097下りとなって鈴峯女子高・中の前を通って行く。

Img_5098餓鬼の首地蔵(右)

昔は小山の険しいのを「がき」といい、鈴峯女子短大南西の山の突端に、かつて椀を伏せたような小山があり、それが首に見立てられて「餓鬼の首」と呼ばれたという。今はここの井口と五日市の境に移動し、「境地蔵」となっている。

Img_5099説明板

Img_5103八幡橋親柱

Img_5101説明板

Img_5105八幡橋(八幡川)から 《地図

Img_5110五つ神社 《地図

祭神が五柱で「えびすさん」として親しまれ、五日市の名前の出所になったともいわれている。

Img_5112説明板

Img_5115光禅寺

安土桃山時代の天正年間(1573~91)に現在地に移ってきたという、旧佐伯郡最大規模の寺院。山門と唐門が当初からの建物で、境内には住職に仕えた覚潭(かくたん)が、体を鍛えるために使用したといわれる手水鉢や、延宝7年(1679)、廿日市鋳物師の第18代山田貞栄が鋳造した佐伯区最古の梵鐘があるそうだ。

Img_5118誓いの松(光禅寺)

石井兄弟の仇討の誓いの松だが、東海道亀山宿亀山城内の石坂には、仇討を果たした「石井兄弟敵討の碑」がある。

Img_5114説明板

古浜第5踏切(山陽本線)を渡り、山陽本線と広電宮島線の間を行く。

Img_5122松並木跡

今は名残りの五本松だけと説明板にあるが、5本もあったっけ?

Img_5123説明板

岡の下川に突き当たる。

Img_5126壹里標「従是元安橋東詰三里」で、通って来た元安橋の「広島市道路元標」の所から。

御筋橋の親柱(右) 昔はここに御筋橋が架っていて街道は直行していたのだろう。今は海老橋の下流に三筋橋がある。

ここを左折し、一本松踏切(広電)と海老橋(岡の下川)を渡る。西隅の浜交差点(国道2号)を横切ると廿日市市に入る。

Img_5134佐方一里塚跡(廿日市町との境あたり)

右に大きな「西国街道壱里塚跡」の標柱のみ。

Img_5135名残りの松

廿日市市内では貴重な1本のみの街道松。

Img_5136説明板

Img_5140桜尾城址(前方) 《地図

桂公園で上はグラウンドになっていて、説明板などはない。西南の角に「石州津和野藩御船屋敷旧趾」の石碑が立つようだ。そこが津和野街道の起点で、この先の道標(夜泣き石)のある津和野岐れまで山陽道と同じ道筋をたどる。

Img_5141廿日市宿に入る。《地図

右は正蓮寺から廿日市天満宮・左は薬師堂で右に枡形にカーブして行く。

Img_5144廿日市天満宮

社殿は上の方だ。暑さと右足首の痛さでかなり疲れてきたのでここから遥拝で済ます。瀬戸内海の景観を望むことができるそうだ。惜しいことをした。

Img_5145由緒

Img_5152本陣跡地図

左の中央公民館の所だが工事中で、「芸州廿日市御本陣旧趾」碑は取り払われたのか、囲いの中か見つからなかった。

Img_5146廿日市町屋跡説明板

第二次長州戦争で広島藩が火を放し、町屋は3日間燃え続けたという。

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2014年10月10日 (金)

山陽道(西条駅→海田市駅)

2014年9月25日

西条駅(JR山陽本線)・・・西条四日市宿脇本陣跡あたり・・(半尾川)・・賀茂郡役所跡・・真光寺・・・国道486号・・・友待橋交差点・旧道・・・時友一里塚跡・・・時友橋(黒瀬川)・・・飢坂・・・中の垰池・・・八本松材修場跡碑・・・シャープ工場迂回・・・須久茂池移転碑・・・清水川神社・・・妙福寺・・・八本松八十八石仏・・・八本松駅(山陽本線)・・・沓掛第3踏切・・・溝迫交差点・国道2号・・・長尾一里塚跡・・・県道83号ガード・・・大山駅跡・・・大山峠・・代官おろし・・・大山清水跡・・・大山刀鍛冶の墓・・・賀茂・安芸郡境碑・(広島市安芸区)・・・大山の滝標識・・・代官おろし跡標柱・・瀬野馬子唄発祥の地説明板・・・山陽本線ガード・・・国道2号・・瀬野川沿いの道・・・久井原橋(瀬野川)・・(山陽本線)・・・三本松・吉田松陰詩詠の地・・・凉木の一里塚跡・・・清水第5踏切(山陽本線)・・・大山刀鍛冶市左衛門之碑・・・清水第7踏切・・・国道2号・・旧道・・・一貫田(間の宿)・・道標・・・下一貫田交差点(国道2号)・・・中原第1踏切(山陽本線)・・・辰の口第1踏切(山陽本線)・・・国道2号・・・旧道・・・道標・・・(榎山川)・・落合の一里塚跡・道標・・・瀬野大橋東詰交差点(国道2号)・・・山陽本線ガード・・・安芸山陽道・・・中野東駅(山陽本線)・・・鳥上一里塚跡・・矢口神社参道・・・安芸中野駅(山陽本線)・・・京田第三踏切・・・出迎えの松・・・(海田町)・・砂走橋(畑賀橋)・・・(山陽新幹線)・・・大力第一踏切(山陽本線)・・・春日神社・・・海田町ふるさと館・海田観音免の大楠・・・名残りの一本松跡・・海田市宿・・熊野神社・・御茶屋本陣跡・・恵比須神社・・脇本陣跡・・明顕寺・・千葉家住宅・・・胡子神社・・・海田市駅(山陽本線)

  台風16号の雨も上がって晴れ間が広がってきたが、気温が上がり始めた。今日は28度くらいだが、日曜には30度を超すようだ。瓦坂峠で痛めた右足首もだんだんとむくんできたが歩けない状態ではない。今日の飢坂、大山峠越えも大したことはあるまい。急ぐ旅でもなし、ゆっくらのんびりと行こう。  

  【ル-ト地図】(西条駅(50.5km地点)から海田市駅(78km地点)まで)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_4650西条四日市脇本陣跡 《地図

「ふじたストアー」あたり

Img_4651太田家(右)

この先の少し高くなっている所で半尾川を渡る。

Img_4652小倉屋ビル

ここは石井家住宅(西条町下見に移築)の跡地で、屋根は同じ兜造りにしている。

Img_4654賀茂郡役所跡(真光寺の手前右側・右のブロック塀の脇に標柱)

広島藩の代官所で、代官不在時は御役所と呼ばれた。

Img_4656真光寺・賀茂輝酒造(左)

国道486号に出る。左側に2か所旧道が残る。

Img_4660友待坂交差点で左に入って行く。《地図

Img_4662時友一里塚跡

ごみ置き場の右に説明板がある。

Img_4663説明板

時友橋(黒瀬川)を渡り、住宅地を抜けて行く。

Img_4671飢坂(かつえざか)の上りとなる。《地図

Img_4676由来

2つの由来話が書かれている。①は昨日の牛万長者によるものだ。

Img_4678中の垰(たお)池の間を通って行く。

金網フェンスで池の姿が見えにくい。

Img_4679中の垰池

サイジョウコウホネ(絶滅危惧種)の群生地。6~9月に水面上に花径を伸ばして径3~6cmの花を咲かせる。ハスのように池面に浮かんでいるのがそれだろうか? 黄色の花も見える?

Img_4680山道となる。

Img_4681飢坂標柱

ここから下りとなってシャープ工場に突き当たり迂回して行く。下った所に八本松材修場跡碑が立っている。

Img_4684八本松材修場跡碑

戦時中、陸軍八本松兵器補給廠の跡に材修場開設。日本で初めてのロングレールを溶接したそうだ。

Img_4685須久茂池移転碑(右) 《地図

右は今も池だが地図では錦鯉飼育池となっている。

この先で山陽道の続きの出る。街道は須久茂池の堤上を通っていたようだ。

Img_4689清水川神社 《地図

文明18年(1486)創建。神殿が北向きで西国街道に面していたため、この前を馬で通るとどんな偉い人でも必ず落馬したので、西向きに変えたという。

Img_4691妙福寺 《地図

大イチョウがそびえる。

Img_4692説明板

Img_4697八本松八十八石仏の56番地蔵菩薩

四国八十八札所になぞられた88体の舟形光背の石仏の一つ。四国札所の56番泰山寺の本尊は地蔵菩薩。

八本松駅の北側に出て、沓掛第3踏切で山陽本線を渡り返し、溝迫交差点(国道2号)に出た。沓掛は大山峠へ向かう旅人が草鞋(わらじ)を履き替えたことによる地名という。

Img_4703長尾一里塚跡(ミスター・マックスの敷地内) 《地図

道路の向い側から旧道に入る。

Img_4704旧道(左)

Img_4709県道83号をくぐる。《地図

向いの壁に「西国街道(旧山陽道)」の道標がついている。

Img_4711大山峠への道標(左)

Img_4715大山駅跡の立札(正面)

古代山陽道の駅跡で、ここを右に行く。

Img_4717分岐を右に進む。

ここも大山峠の道標が立つ。

Img_4721蜘蛛の巣・やぶ蚊道だが、瓦坂峠、松子山峠の難路に比べれば道筋もはっきりしていてなんてことはない。

Img_4722大山峠へ着いた。

県道83号をくぐってから15分もかからなかった。

Img_4723説明板

峠からは代官おろしで下って行く。今は急坂の難所ではない。

Img_4726大山清水跡

旅人の喉を潤した名水も今は昔だ。

Img_4728倒木やぬかるんでいる所もあるが、普通の山道だろう。

Img_4732大山刀鍛冶の墓標柱

ここを入って行って見る。

Img_4733正面の小さな石積み(五輪塔)が墓か?

説明板には、「この付近に刀鍛冶の屋敷跡があってたたらなどが出土していた・・・」とある、参勤交代の大名行列も通った西国街道大山峠も当時はもっと開けていた所だったのだろう。今は往時を偲ぶよすがもないが。

Img_4731説明板

「大山宗重」作の刀が『渓流詩人の徒然日記』に載っている。

Img_4736賀茂・安芸郡境碑

ここから東広島市から広島市安芸区に入る。

Img_4741代官おろし跡碑から振り返る。

Img_4743説明板(瀬野馬子唄)

Img_4744由来

Img_4747下って山陽本線をくぐる。《地図

その先で道を間違えたようだ。本来の道筋は瀬野川と山陽本線の間の道のようだ。地図にも山陽道の記載がある。《地図

Img_4754国道2号と山陽本線の間の瀬野川沿いを進んでしまった。《地図

前方は民家の敷地みたいで、その先は行き止まりのような感じで、通っていいのか通れるのか近くにいたおじさんに聞くとOKで久井原橋まで行けるというので突き進んだ。でもやはりここは道ではないのだろう。
【ル-ト地図】には正しい(と思う)道筋を記載した。違っているかも。

Img_4757久井原橋をくぐって渡って、再び川沿いを進んだ。《地図

Img_4765三本松(二代目)

ここは安政6年(1859)5月29日、江戸に護送される吉田松陰が胸中を詠んだ地でもある。

Img_4767吉田松陰の詩

Img_4768評釈

Img_4771凉木(すずむぎ?)一里塚跡(右の石垣前に標柱)

右上は山陽本線の線路。

Img_4775国道2号に出るがすぐ右に分かれて行く。《地図

ここは中大山バス停のそば。

清水第5踏切(山陽本線)を渡って行く。

Img_4780「先祖 大山鍛冶市左衛門之碑」

清水第7踏切で再び山陽本線を渡る。

Img_4785長屋門、赤瓦の旧家の前を下って国道2号を横切って行く。《地図

Img_4790一貫田(間の宿)に入る。

左に道標(大正甲子(13年))「右ハ 海田市 廣島 左ハ熊野跡村 呉 方面」・「右ハ熊野跡村 呉 左ハ八本松西條 方面」

Img_4794一貫田の家並み

Img_4795山頭火の句

昭和8年一貫田に一泊した時の句。この左側に句碑があるようだ。気がつかなかった。

下一貫田交差点で国道2号を横切り、中原第1踏切で山陽本線を渡り、再び辰の口第1踏切で渡る。《地図

Img_4808道標(明治24年・右)

「右ハ 國道 左ハ 縣道」

この先で小さな榎山川を渡ると平山歯科医院に突き当たる。

Img_4809落合一里塚跡・道標 《地図

突き当たった右側にある。山陽道は左へ進む。

Img_4812道標・落合一里塚跡標柱(ゴミ箱の向う側)

道標には、「右ハ四日市 左ハ志わ みち」

瀬野大橋東詰交差点(国道2号)を横切り、山陽本線のガードをくぐって行く。《地図

Img_4820「安芸山陽道」(標識)となる。

Img_4822山陽本線沿いの道を進む。

中野東駅を過ぎて行く。

Img_4825鳥上の一里塚跡標柱(ブロック塀の脇) 《地図

すぐ先の左側のミラー標識に「矢口神社参道→」の標識が架かっている。

安芸中野駅を過ぎて京田第三踏切を渡る。貫道橋を渡らず瀬野川沿いを進む。《地図

Img_4836出迎えの松

Img_4832説明板

海田(かいた)町に入る。

Img_4838砂走橋(畑賀橋)を渡る。《地図

橋の手前右に「旧山陽道蓮華寺登口跡」碑と旧砂走橋の親柱(一部しか写らず)がある。

山陽新幹線をくぐり大力第一踏切を渡る。

Img_4866海田観音免の大楠 《地図

樹齢400年以上の巨木。右下が観音堂? ここは「海田町ふるさと館」の裏手で、畝観音免古墳や復元住居の古墳公園になっている。

Img_4857説明板

Img_4873名残りの一本松跡あたり

どこもかしこも街道の松は松くい虫にやられてしまっている。

Img_4869説明板

Img_4874海田市宿に入る。

家々が斜交いに建っているのは多くの宿場町などで見られる光景。その理由も所によりまちまちで、いくつかの説がある。

Img_4878説明板

Img_4875旧家

Img_4879熊野神社 《地図

承応3年(1654)に庄屋の猫屋次郎兵衛が願主となって拝殿が再建された時の棟札が残るという。現在の拝殿は文政8年(1825)の建立。同時期に奉納された「三十六歌仙絵馬

Img_4880御茶屋跡(本陣)標識

Img_4883ここが敷地770坪もの御茶屋跡(本陣)

遺構は何も残らずか。

Img_4881説明板

Img_4889脇本陣跡あたり 《地図

海田公民館あたりで、広島の猫屋町からやって来た「加藤(猫屋)新太郎宅」

Img_4888説明板

Img_4910
明顕寺梵鐘 《地図

Img_4909説明板

Img_4906千葉家住宅

先祖は平忠常という旧家。栃木→長野→広島へと移ってきたのだ。
ここには御茶屋(本陣)や脇本陣の代わりとして上級役人などが休泊することもあったという。見事な庭園(広島県名勝)もある。

Img_4892説明板

Img_4905胡子神社 《地図

文政年間(1818~19)以前の勧請という。

海田市駅から広島駅に出た。

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2014年10月 6日 (月)

山陽道(本郷駅→瓦坂峠→松子山峠→西条駅)

2014年9月23日

本郷駅(JR山陽本線)・・・寂静寺・・・大渡大師堂・本郷橋(沼田川)・県道33号・・・旧道・・・甑天満宮・・・専教寺・・・心光寺・・・芽の市の道標・・・横見廃寺道標・・・横見廃寺跡・・・宮川神社・・・梅木平古墳・梅慶庵・・・ふたばや橋(梨和川)・・・(尾原一里塚跡あたり)・・・梨羽高等小学校跡標柱・・・南方村村役場跡・・・御年代古墳・・・大日堂・貞丸古墳・・・宗長神社・二本松古墳・・・国道2号・・・旧道・・・国道2号・・・サテライト山陽・・日名内一里塚跡あたり・・日名内上交差点・県道49号・・・旧道・・・(県道49号)・・・瓦坂峠・(竹原市)・・・横大道古墳群標識・・・雨乞い地蔵祠・道標・・(国道432号)・・・横大道橋(葛子川)・・・地蔵祠・船谷一里塚跡・・・西野小学校跡・・・(国道2号)・・・大橋(田万里川)・・・末徳師古城跡標柱・・・茗荷の清水①・・・田万里市(間の宿)・・本陣跡・・市恵美須神社・・・瀧の荒神社・荒神の瀧・・・黄幡坂一里塚跡・オオバンサン祠・・・畠谷坂・・・堀坂道分岐・・・(田万里橋交差点)・・・石立神社・・・風呂ケ迫縄文遺跡標識・・・赤瓦釉薬原料油土の製造所跡・・・茗荷清水跡②・・・薬師橋(国道2号)・・(国道2号)・・三永の石門・・・大明神社・・・大多池・・・東広島呉道ガード・・日向の一里塚跡・・・松子山峠・(東広島市)・・・カゴ松之碑・・・松子山浄水場・・・今宮橋(原比川)・・・今宮神社・・・歌謡坂一里塚跡・・・吉土実交差点(国道375号)・・・土与丸交差点(国道375号)・・・西条四日市宿・・賀茂泉酒造・・くぐり門(西条酒造通り観光案内所)・・亀鈴酒造・・御茶屋本陣跡・・賀茂鶴酒造・・(山陽本線)・・・安芸国分寺跡・・・石清水八幡宮・・・(西条駅)・・・三ツ城古墳・中央図書館前バス停→西条駅(山陽本線)

 今日は難所の瓦坂峠と松子山峠を越えて西条駅までの30kmほどある行程なので、道を迷ったり間違えたりすることも考慮して、本郷駅を6時半頃には出発した。難所といっても標高が高いわけでも、傾斜がきついわけでもなく、道が荒れて分かりにくく、歩きづらいだけなのだが。

  【ル-ト地図】(本郷駅(19km地点)→西条駅(51.5km地点))

  写真をクリックすると拡大します。

Img_4153大渡大師堂(奥) 《地図

沼田川の渡し(大渡)の安全の守りだったか。

Img_4161高山城址(右)・新高山城址(左) 本郷橋から

沼田小早川氏と沼田と竹原小早川氏を統合した小早川隆景の居城跡

Img_4165甑(こしき)天満宮 《地図

菅原道真が大宰府に赴く途中、日照り続きの水不足で困っていた村人たちのために自ら井戸を掘った。村人はその水で道真ので飯を蒸して差し出した。その後、恩を受けた村人たちが道真の残した甑を祀ったという。
街道の旅人の咽喉を潤わせたという、「菅公手掘り井戸」があるはずだが、見逃したようだ。

Img_4167急な石段を上った境内から

社殿は期待外れだった。

Img_4171下北方(芽の市)の家並み

昔この一帯は茅の原野があり、「茅原」と呼ばれていたが、屋根葺用の茅草を売買する人々が集まり、 市が立つようになり、「芽の市」と呼ばれるようになった。

Img_4174心光寺

白壁と穴太積み?の石垣が少しだけ見える。

Img_4176芽の市の道標

重なっていて判読困難だが、小さな道標には三面に、「東 本郷 三原」・「西 竹原 呉 西条 広島」・「南 小泉 忠海」と刻まれているようだ。小泉、忠海に通じる道は三次浅野氏が飛地の忠海に港を設け、藩の役人たちがここ茅の市を通っていたことから「三次往還」の名がついたという。
大きな道標は、「これより・・・・」?

Img_4180横見廃寺道標(本郷中学校手前の右側)

「よこみ寺址 右は高木山城址」とある。

Img_4182横見廃寺跡 《地図

Img_4184説明板

Img_4187宮川神社(山王社)

Img_4186説明板

Img_4189梅木平古墳(ばいきひらこふん)石室 《地図

Img_4192石室内

Img_4188説明板

Img_4194墳丘上の梅慶庵の平安時代の仏像2体

Img_4196梨羽城跡標識

かなり距離がある。

ふたばや橋を渡った先あたりに(尾原)一里塚跡があったというが、何の標示もなかった。

Img_4204野仏が並ぶのどかな道

Img_4205南方村

村役場・農業会・農協跡

Img_4211御年代古墳石室 《地図

花こう岩製のくり抜式家形石棺が納められている。

Img_4209説明板

Img_4226大日堂境内から 《地図

Img_4225大日如来像ではなく、かやの木の阿弥陀如来像が安置されている。

Img_4222貞丸古墳横穴石室(大日堂隣)

Img_4221くり抜き式家形石棺

蓋石はない。

Img_4219説明板

Img_4216大乗妙典日本回国供養塔

台石は貞丸古墳の上方にあった貞丸2号墳の蓋石が使われている。右の石は石棺の一部のようだ。

Img_4227宗長神社(南方神社)・二本松古墳 《地図

Img_4229家形石棺

Img_4230説明板

Img_4232未舗装道をしばらく進み、国道2号に出る。

Img_4234国道2号から左へ旧道に入る。

この道はサテライト山陽まで続いているはずだが、途中で国道2号に出てしまった。地図にも記載されているのだが。

Img_4237サテライト山陽(左上) 

旧道はこの前に続いているのだが。《地図

この先の日名内上交差点で標識の県道49号に入る。日名内一里塚跡もそのあたりだろう。

Img_4238県道49号をしばらく進み右に旧道に入る。《地図

Img_4239少し草深い道となるが、この先に比べればなんてことはない。

Img_4240県道49号をくぐる。《地図

ここから難路が始まる。地図には道筋が記載されているが道とは呼べない有様だ。

Img_4241雑草、熊笹が覆い、蜘蛛の巣だらけの中を行く。

Img_4242ここが道筋かどうか全然分からない。

回りは全然見えず、標識も案内板も何もない。進むのも引き返すのも不安だが、ここは突き進むしかないと腹をくくる。

Img_4244この下に道はあるのだろうか?

ぬかるんでいる所もあり、右足首をひねったようだが、痛さを感じている余裕はなかった。

Img_4245石畳道らしき所に出た。瓦坂峠か?

何の標示もない。県道49号をくぐってから20分くらい悪戦苦闘の行進だった。ここが瓦坂峠なら三原市から竹原市に入ることになる。《地図

急坂のために雨の後には、峠道が河原となるため「河原坂峠」、広島城下から13番目の峠で「十三峠」、地形から「チョンマゲ峠」、明治時代に当地の赤土で瓦を焼いた跡があり「瓦坂峠」で、峠の西斜面には駕籠場が、明治20年頃までは峠の茶屋があったという。

Img_4246人家が見える所へ出て来たが、ここが山陽道の道筋の所かまだ分からない。

Img_4248標識(左)がある。

これが「横大道古墳群」《地図》の標識であればOKだ。当たり!でほっと一息だが、まだ2つめの松子山峠の難所が待っている。

Img_4250雨乞い地蔵(寛政7年(1795))の祠 《地図

斜め向いに道標(明治32年)「東大阪 西廣島 道」・「南竹原 北三次 道」

すぐ先で国道432号を横切る。

Img_4260船谷一里塚跡(右に標柱だが写真には写らず)

左の祠の地蔵の台座は道標で、「右竹原道 左上方道」と刻むというが、はっきりとは読めず。地蔵は山陽道に背を向けて座っている。逆向きに移されてしまったのだろう。

Img_4266彼岸花の季節だ。

Img_4267西野小学校跡

このあたりは見事な石垣が多い。

国道2号を横切り、大橋を渡り田万里川沿いの道となる。

Img_4274田万里往還の標柱

Img_4276田万里川沿いを行く。

Img_4277末徳師古城跡

山頂が中世の城址らしいが詳しくは分からず。

Img_4279ちょっとだけコスモス街道だ。

Img_4280茗荷の清水①(左)

水はきれいだが飲めないだろう。

Img_4285本陣跡伊東家(右)

田万里市は本郷と西条四日市宿の間の宿だった。

Img_4287説明板

Img_4288市恵美須神社

Img_4290田万里市の家並みを抜けて行く。

Img_4291荒神の瀧の標柱

左に入って見る。期待はしていないが。

Img_4294まあこんなものだろう。

Img_4298黄幡(おうばん)坂の一里塚跡

右の畑の中に「オオバンサン」の小祠がある。昔はこのあたりに大きな松があったそうだ。

Img_4297説明板

Img_4302「藤ヶ平古城跡・畠谷坂のお地蔵さん」の標識(左)

藤ヶ平古城跡は郭・竪堀・堀切・石垣が残る中世の城跡のようだ。地蔵さんはどこか?

Img_4305堀坂道分岐標柱

「高屋溝口への間道」とある。田万里町堀坂から高屋溝口《地図》へ通ずる道だろう。

Img_4311

死んでいると思って近づくと、鎌首をもたげ舌をチョロチョロと出し始めた。青い透き通ったきれいな蛇だ。今日は4,5匹の蛇に出くわした。山道などでは足元にその何倍かいたのだろう。「知らぬが仏」、「○蛇におじず」とはよく言ったものだ。

Img_4314石立神社 《地図

落石の縁起伝説:「寛永4年(1627)3月頃から、石立山一帯に昼夜、地鳴りが響き渡った。調べると山腹の巨岩が縦に裂けかけていた。昔はここに石立権現があったが何時の頃か西に移されてしまっていた。神託によると巨岩は割れて落ちると宣せられた。麓は山陽道と田万里川に挟まれ、巨岩が落ちれば道は塞がり川はあふれてしまう。他所に道を付け替えようと工事を始めたが一向に進まない。ある風雨の激しい夜、地響きとともについに巨岩は崩れ落ちた。だがよく見ると巨岩は小さく割れ山腹や道傍に散り、街道や川の流れの妨げとはならなかった。住民は神徳を感じ新たに祠堂を建てて祀った」

Img_4319風呂ケ迫縄文遺跡

石刀・石鏃が出土した遺跡

Img_4321赤瓦釉薬原料油土の製造所跡

「文政年間 西条赤瓦のルーツ」とある。前の写真の民家の屋根は赤瓦だ。

Img_4322茗荷の清水跡

標柱に「音に聞こえし 茗荷の清水 三原御前 酒におとるまい」とあるが、遠い昔の話よ。このあたりの山林が賀茂泉酒造の所有であったことから、酒銘を賀茂泉と名づけたそうだ。

Img_4325薬師橋で国道2号を越える。

その先で国道2号をくぐる。

Img_4328三永(みなが)の石門(せきもん) 《地図

Img_4330説明板

Img_4333大明神社 《地図

一休みして難所の松子山峠へいざ出発だ。

Img_4334大多池?沿いを進む。《地図

ここでも道を間違え北方向へ少し進んでしまった。

Img_4335東広島・呉道をくぐる。

くぐったすぐ先の左側に日向一里塚跡が復元されている。

Img_4336日向一里塚跡(復元)

山陽道はこの間を通って松子山峠に向かっていた。

Img_4337すぐに草深い道になる。《地図

Img_4339倒木・蜘蛛の巣・やぶ蚊道を進む。

それほど暑くないのが救いだ。

Img_4340下はぬかるんでぐちゃぐちゃだ。

靴を包むビニールのレジ袋を持ってきたが、着けるのも面倒で、(余裕がなくか)突き進む。靴もズボンの裾も泥んこになったが。

Img_4343道標「田万里へ← →西条へ」で一安心、元気が出た。

Img_4347コンクリートの壁?で行止りで左は池だ。

ここは下調べ済みで、よじ上れば道は続いている。

Img_4348左下の池沿いに道は続く。

Img_4350松子山峠に着いた。

日向一里塚跡から30分近くかかった。西国街道(山陽道)の中でも特に険しく、西の小箱根の異名があるほどの峠越えだったという。それほどでもないだろうが、箱根越えの方が道は整備されている。『箱根(旧東海道)の坂①』・『箱根(旧東海道)の坂②
寛政12年(1800)9月、脱藩を決意した頼山陽は乞食姿に変装し、この峠を越えて京に向かったという。

Img_4352油と水が浮いている道を下る。

上りなら嫌になる道だ。

ここから10分ほどで舗装道に出た。

Img_4359かご松之碑

ここに高さ40m、幹回り6mの大きな松があり西国の大名たちが駕籠を止めて木陰で休憩した。この松は昭和18年頃枯れてしまった。枯れたかご松は、賀茂泉酒造の門の扉になっているそうだ。

Img_4361松子山浄水場 《地図

Img_4367今宮神社 《地図

牛万長者の伝説:「昔、焙烙(ほうろく)を商う男が松子山峠越えの折、ここにいた弱った牛を介抱したが、牛はその甲斐もなく死んでしまった。男は哀れに思って牛の腹をなでると、牛は金に変った。牛万長者と呼ばれるようになった男が建てたのがこの神社で牛宮神社とも呼ばれている」

Img_4368歌謡(うたうたい)坂の一里塚跡(左に標柱)

坂といっても傾斜はほとんどない。牛万長者が朝早く、ここから田植唄を歌いながら田植えをし、夕方ようやく西の方の飢坂(かつえ)坂にたどり着いたという。その出発地点を、田植唄にちなんで「歌謡坂」と呼ぶようになったとか。

吉土実交差点・土与丸交差点(国道375号)を渡って西条四日市宿に入る。

Img_4371西条四日市宿の家並み

酒蔵通りを進む。けっこう見学者が多い。《地図

Img_4373賀茂泉酒造

Img_4380くぐり門

昭和初期に賑わった芝居小屋「朝日座」への入口だった。現在は観光案内所。

Img_4381亀鈴酒造

Img_4391御茶屋本陣跡 《地図

Img_4388説明板

Img_4393酒造の間の道を行く。

Img_4395白い空間を抜けて行く。

Img_4596安芸国分寺仁王門 《地図

Img_4610金堂

Img_4608説明板

Img_4606伽藍配置図

Img_4607伽藍配置図の現在地あたりから

Img_4613七重塔跡

Img_4614説明板

かなり疲れてきて、ひねった右足首が痛くなってきたが、まだ時間に余裕があるので、西条駅南方の三ツ城古墳へ足を延ばした。

Img_4647三ツ城(みつじょう)古墳 《地図

全長92mの広島県最大の前方後円墳

Img_4619説明板

Img_4620墳丘図

Img_46291号墳の後円部の埋葬施設(3基)から前方部方向

Img_4628説明板

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2014年10月 1日 (水)

山陽道(三原駅→本郷駅)

2014年9月24日

三原駅(山陽新幹線)・・三原城船入櫓跡・聖トマス小崎少年像・・旧藩校明善堂跡・・本丸中門跡・・臨海一番櫓跡・・三原港・・大師堂・・甚五郎神社・・ヘビ石(西野川)・・臥龍橋(西野川)・・・西浜むかし町・・(JR線)・・西大手門跡・・桜橋(河原谷川)・・成就寺・・妙正寺坂・・本町中央公園・・大島神社・・峠の地蔵・阿房坂・・明真寺・・宗光寺坂・・鍵型小路・・香積寺小路・・香積寺・・極楽橋跡(恵下谷川)・・一畑薬師堂・・大善寺小路・・浄念寺・・舩木邸・・山陽道・・順勝寺・・三原城西惣門跡・西之宮一里塚跡・・三原八幡宮・・(宮浦橋)・・・法常寺・・・八神社・・・梅観橋(西野川)・・・(山陽新幹線・山陽本線)・・・頼兼公園・・・備後・安藝国境石・・・定屋大橋北詰交差点・国道2号・・・旧道・・・(三原バイパス)・・・(木之浜一里塚跡)・・・新橋(本谷川)・国道2号・・・七宝橋北詰交差点・・旧道・・・伯母ヶ崎第一踏切(山陽本線)・・・八重神社・・・長谷宮第5踏切(山陽本線)・・・長谷橋(仏通寺川)・・・国道2号・・・納所(のうそ)橋北詰交差点・米山寺道標・・・旧道・・・吉国神社・・・(県道50号)・・・本郷宿・・西念寺・・三界萬霊地蔵・・仏通寺道標・・恵美須神社・・国行第2踏切(山陽本線)・・本郷宿御茶屋本陣跡・・・本郷駅(山陽本線)

  山陽道の続きを三原宿から山口県岩国市の御庄宿まで行く。台風16号の接近で今日から明日にかけて雨になるらしいので、難所の瓦坂峠と松子山峠を越える行程を前日(23日)にこなし、今日は三原城下周辺を散策してから山陽道を本郷宿へと向かった。

  *『山陽道尾道駅→三原駅)』の続きです。

  【ル-ト地図】(本郷駅(19km地点)まで)

  写真をクリックすると拡大します

Img_4075三原城船入櫓跡 《地図

往時は海だったが今は水堀になっている。かつての規模は、櫓台石垣の高さ4間(7.2m)、船入りの幅12間(21.6m)、広さ20間(36m)、深さ1丈(3m)だったそうだ。

Img_4072聖トマス小崎少年像(船入櫓の東側)

日本26聖人殉教者の一人。長崎の西坂に日本二十六聖人殉教碑がある。『長崎市の坂①

Img_4073碑文

Img_4078旧藩校明善堂跡 《地図

Img_4083本丸中門跡 《地図

南側に「臨海一番櫓跡碑」が立つ。

Img_4092三原港

向田港行のフェリーが出港した。(正面奥)

Img_4100甚五郎神社 《地図

左甚五郎に縁のある神社と思っていたが、干拓工事の人柱にされた哀れな甚五郎さんだった。左奥が何代目かの甚五郎松だろう。

Img_4098説明板

Img_4102ヘビ石 《地図

江戸時代に西野川の中に作られた石の導流堤。水尾(みお)と呼ばれていた。石積みが蛇のウロコように見えるのでこう呼ばれた。

臥龍橋を渡って「西浜むかし町」へ向かう。

Img_4111西浜むかし町の土蔵(勝村商店) 《地図

Img_4108なまこ小路

Img_4112がんぎ通り

右が勝村商店

三原駅の北側に出る。

Img_4404西大手門跡 《地図

電柱の前に「三原城 西大手門跡」の標柱。ここは山陽道沿いではない。

Img_4407清水歯科醫院

レトロチックな歯医者さんだ。

Img_4411桜橋(河原谷川) 《地図

往時の風景は薄れてしまったようだ。

Img_4413成就寺

人形浄瑠璃の黄金時代を築いた並木宗輔が断継の名で修業した寺。

Img_4416説明板

淡島神社は境内社

Img_4414説明板

Img_4419旧家

Img_4421妙正寺坂を上る。《地図

Img_4423三原城天守台跡・瀬戸内海方向(坂の途中から)

さらに瀬戸内海の島々から遠く四国連山まで見える眺望絶景の地と言うが今日は無理だ。

Img_4425妙正寺

三原城主浅野家(元和5年(1619)、福島正則が改易となった後、紀伊和歌山藩主浅野長晟の一門で筆頭家老の浅野忠長が紀伊新宮より入った)の菩提寺として、延宝2年(1674)東町米田山の麓に創建されが、当時の山陽道から墓が下に見えるという理由により現在の地に移された。現在の地は城と城下を眼下におさめられる要所で、敵が占拠した場合、戦略上不利益になると反対があったという。

Img_4426説明板

Img_4432大島神社参道

Img_4434大島神社

Img_4435由来書

Img_4443峠の地蔵 《地図

大島神社参道下の阿房坂の坂上で、峠状になっている。NHK大河ドラマで、『春日局』が夫の(稲葉)正成の無事を祈った「峠の地蔵」だそうだ。主演の大原麗子も佳人薄命だった。寂しく悲しいねえ。

Img_4446阿房坂

峠の地蔵から東に下る坂。

Img_4451西へ下る阿房坂。

秦の始皇帝の阿房宮に由来? どこを阿房宮に見立てたのか?
坂標には「中世山陽道説あり」と記す。

Img_4459宗光寺坂を上る。

Img_4465宗光寺山門(境内から)

小早川隆景が築いた新高山城の城門をここに移築したとされているが、説明板には「福島氏が現在地に新築した可能性が高い」と書かれている。

Img_4463説明板(山門)

Img_4461説明板(吉田石痴)

幕末に山陽路で初めて三原地方の人々に種痘を施した医者。

Img_4470鍵型小路を曲がる。《地図

香積寺小路を北に向かう。

Img_4474入口の民家の「笑うブロック塀」

Img_4480香積寺・極楽橋跡標柱 《地図

明応3年(1494)、小早川十四代興平の誕生祈願により、高坂町の高山城北麓に建立。文禄2年(1593)、三原城築城に伴い現在地に移される。その際、本尊の十一面菩薩観音像も移そうとするも、石のように重くなり、移すことができなかったことから、高坂町にある同名の寺となったという。

Img_4481恵下谷川

ここに極楽橋が架っていたのだろう。右が油屋小路・左が河原小路だが、今は小路風情はない。

Img_4496大善寺小路を下る。《地図

三原で一番長い小路で、左の浄念寺は童謡詩人・作詞家の武内俊子の生誕地で境内に碑が立っている。♪『かもめの水平さん』♪

Img_4502舩木邸 (大善寺小路の途中の左側)

庭園は国登録記念物(非公開)

Img_4505やっと山陽道に戻った。

Img_4506順勝寺山門 《地図

14の城門の一つの御作事奉行所門を移築。

Img_4507説明板

Img_4508三原城西惣門跡 《地図

少し先の道の向い側に「西之宮一里塚跡」標柱が立つ。

Img_4515三原八幡宮

Img_4521
法常寺

竹原小早川氏の菩提所。小早川隆景が死去したとき葬儀が行われ、この境内において火葬された。境内の右手に隆景の小祠がある。

宮浦橋を渡らず右折し、八阪神社の先で梅観橋を渡り、三原バイパス沿いを進み、山陽新幹線・山陽本線をくぐって行き、頼兼公園沿いを過ぎて行く。

Img_4529備後・安芸国境石 《地図

右は明治11年のもので、「従是東 備後國 従是西 安藝國」、
左は大正3年のもので、「従是 東備後国御調郡西野町 西安芸国豊田郡長谷町」らしい。

定屋大橋北詰交差点で国道2号に出て右折する。

Img_4541右に旧道に入る。《地図

前方の三原バイパスをくぐり、国道2号と山陽本線の間を西に進み、新橋(本谷川)で国道2号に出た。この間の道筋ははっきりしない。途中に「木之浜一里塚跡」の標柱が立っているようだが見逃した。一本南側の道沿いかも?

Img_4546七宝橋北詰交差点の先で右に旧道に入る。

伯母ヶ崎第一踏切(山陽本線)を渡って長谷(ながたに)地区に入る。

Img_4551刈入れ前と刈り取られた田んぼの間を行く。

Img_4556八重神社境内で一休み。《地図

参道は山陽本線で分断されている。

長谷宮第5踏切(山陽本線)を渡る。

Img_4562長谷橋を渡り、仏通寺川沿いを行く。《地図

再び国道2号に出て、沼田(ぬた)川沿いを進む。

Img_4569米山寺(べいさんじ)道標 《地図

「川向 米山寺」で沼田川を渡った南の1.5kmくらいか。小早川家の菩提寺で、隆景の墓もある。

すぐ先で右斜めに旧道に入る。右側に3体の石地蔵?とその先に吉国神社がある。《地図
県道50号を横切って本郷宿へと入った。

Img_4580西念寺 《地図

Img_4583三界萬霊地蔵(天保6年(1835))・西念寺の向い側)

Img_4134酒店

Img_4585本郷宿の家並み

右にカーブする角に道標

Img_4588道標(文化6年(1809)) 《地図

佛通寺はかなり遠い。《地図
稲荷社はどこか?

Img_4144恵美須神社

鳥居の扁額には2匹の鯛が腹を付き合わせている。

Img_4145本郷醤油醸造

Img_4401御茶屋本陣跡 《地図

広島藩主の別荘を本陣にあてたという。山陽道からは少し離れている。

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