山陽道(玖波駅→柱野駅)
2014年9月28日
玖波駅(JR山陽本線)・・・川本橋(恵川)・・・黒川橋(大善川)・・・黒川2丁目交差点・・・上河内第3踏切(山陽本線)・・・小方地区・・・(山陽本線ガード)・・・(新町川)・・・(山陽自動車道)・・小方一里塚跡あたり・・苦の坂入口・・・橘姫神社・・・全面通行止標識・・・苦の坂峠・・・ちきり池(勝池)神社・・・長州の役戦跡碑・・・太閤振舞い井戸跡・・・大元神社・・・善福寺・・・両国橋(小瀬川)・・木野川の渡し跡・・両国橋・・(山口県岩国市)・・・小瀬川の渡し跡・小瀬一里塚跡あたり・吉田松陰歌碑・・・小瀬峠・・・関戸宿・・本陣跡・・・関戸交差点・国道2号・・・(山陽自動車道)・・・多田一里塚跡・多田の渡り場跡標識・・・岩国IC入口交差点・・・本庄八幡宮・・・御庄大橋(錦川・御庄の渡し跡)・・・旧道・・・(山陽新幹線)・・・御庄宿・・蓮乗寺・・本陣跡・・多賀大明神・・(錦川鉄道)・・(山陽新幹線)・・(錦川鉄道)・・・県道1号・・・(山陽自動車道)・・・地蔵祠・・・(錦川鉄道)・・・思案橋(御庄川)・・・西氏橋(御庄川)・・・柱野駅(JR岩徳線)
苦の坂峠を越え小瀬川沿いを進み、両国橋を渡って安芸国(広島県)から周防国(山口県)に入る。さらに小瀬峠へ上り、関戸宿へ下って御庄宿を通り、御庄川沿いに柱野駅まで行った。
まだ2時半前で欽明路峠を越えて欽明路駅まで行ける時間ではあるが、2時間以上はかかるだろうし、気温は30度近くあってバテ気味だし、欽明路駅に着く時間によっては電車を2時間近くも待たねばならないことを考えてここまでとした。
【ル-ト地図】(玖波駅(124.8km)→柱野駅(145.6km))
写真をクリックすると拡大します。
厳島(宮島)方向の眺め(メープルヒル病院あたりから)
今日は厳島神社の祭神の市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)ゆかりの苦の坂に向かう。
広島岩国道路(右上)沿いを進む。《地図》
黒川橋(大善川)と山陽本線を渡り、右折して小方地区へ入るのだが、直進して大竹港の方へ行ってしまった。山陽本線の西側には亀居城跡がある。
山陽本線のガードをくぐって行く。《地図》
この手前には「けごろもの碑」があるのだが見落とした。
「けごろもに つつみて温(ぬくし)し 鴨の足」(元禄6年冬・「続猿蓑」)
山陽自動車道の手前で新町川を渡り、山陽道自動車道をくぐる。
苦の坂の上り口(左は山陽道自動車道) 《地図》
小方一里塚があったのはこのあたりか?緩やかな上りとなる。
橘姫神社 《地図》
せき・喘息にご利益あり。
平成17年の台風による土砂崩れで通行不能になったようだ。もう10年近くも復旧せずに放置してある。この道は廃道にしてしまうのだろうか。右の仮設の階段を上る。この先は私有地を通るようだ。
おまけに暑さで顔に噴き出た汗に蜘蛛の巣がからみつき、手で払うと納豆が糸を引いているようで気持ち悪くて参った。なるほど今でも市杵嶋姫命が言うように、「えらや苦しや この苦の坂は」だった。
郵便の集配施設と思ったが、昭和の初めに東京から続いた「長距離市外電話」ケーブルの中継基地だった。「装荷用(そうかよう)ケーブルハット」といい、全国でも数か所しか残っていないそうだ。〒マークは、逓信省(ていしんしょう)の「テ」からできた。
「えらや苦しや この苦の坂は金のちきりも要らぬもの」で、厳島神社の祭神である市杵嶋姫命の伝説の峠だ。
さっきの土砂くずれのことか?今更遅いよ。その上は「歴史の散歩道について」(大竹市教育委員会)の説明板。
ちきり池(勝池)神社 《地図》
旧暦6月17日、厳島神社の管弦祭の夜には、この岩穴から汐水が湧き出るとか。
慶応2年(1866)6月14日、苦の坂では、幕府軍と長州軍の激しい白兵戦が行われた。戦いを制したのは新式装備の長州軍。
太閤秀吉が名護屋城(佐賀県唐津市)からの帰途、木野村で休息をした際、村人がこの井戸の湧き水で茶を振る舞ったところ、秀吉はたいそう気に入ったと伝えられている。今も水は湧いているようだ。
大元神社 《地図》
両国橋(小瀬川) 《地図》
新しい橋に架け替え工事中。
両国橋を渡らず少し下流に進む。
安芸・周防の国境を流れる小瀬(おぜ)川(木野川)の船渡し場。24時間体制だった。当時の川幅は約22m。川には洪水から村を守るために、三角和久(巨大な岩を三角に積み重ねて水の流れを反らす)、巻き石護岸(福島正則が築いたといわれる「福島堤防」)が築かれた。
名曲「矢切りの渡し」は、大竹市出身の作詞家 石本美由起が、ふるさとのこの渡し場を思い描いて作ったという。(*正式な川名は小瀬川)
広島県大竹市から山口県岩国市へ入る。
小瀬川の渡し跡(岩国市川) 《地図》
右に旧山陽道跡の説明板と、吉田松陰の歌碑がある。このあたりに小瀬一里塚があったようだ。
ここを右折して行くのだが直進してかなり進んでしまった。
旧山陽道の標柱(正面) 《地図》
直進して旧道に入る。
右に旧山陽道跡の標柱が倒れている。ここを右に入って車道の上沿いを行くのが旧道だろう。近くにいた不法投棄パトロールの連中に聞いたが、はっきりした返事ではなかった。蜘蛛の巣とやぶ蚊道はもう十分なので、このまま車道を下った。
日向に出ると夏の陽射しと暑さだ。
関戸宿に入る。《地図》
右は客人神社参道の標柱。
客人神社は右奥の小高い所
関戸交差点で国道2号に出て右折して行く。途中右上に旧道が一部残るのだが、入口を見落として通り過ぎた。関戸から多田一里塚跡までは岩国往来と重なって行く。
藤河郵便局の手前
多田一里塚跡 《地図》
錦川の「多田の渡り場跡」は少し離れている。多田側に記念碑が立っているようだ。
御庄大橋(錦川)を渡る。《地図》
水はきれいで橋の下では鮎を網で獲っていた。山陽道は御庄の渡しで渡っていた。正面は山陽自動車道の橋。
橋を渡って右に旧道に入り山陽新幹線をくぐる。
御庄宿に入る。《地図》
錦川の河止の時の止宿用に作られた宿場。御庄は中世の石国(いわくに)庄の荘域の一部だったこと由来する地名という。右は蓮乗寺
何の標示もない。
境内は大名などの通行に際し、人馬の集積場所に使われたという。
この先で2回くぐるが通過する電車の雄姿?は見られなかった。清流錦川が売り物のようで、御庄駅も清流新岩国駅になってしまった。嘆かわしいねえ。
山陽新幹線・錦川鉄道をくぐり、県道1号に出る。
県道1号を御庄川に沿って南下する。《地図》
正面は山陽自動車道
御庄川の対岸で遥拝のみ。
全身に赤布をまとい、頭にも赤い鉢巻?を巻いた地蔵が立っていた。
思案橋(旧西氏橋) 《地図》
各地にある思案橋の一つ。橋を渡って「遊郭に行こうか、戻ろうか」が思案の一番手だが、ほかの思案もある。ここのは「錦帯橋に行こうか、どうしようか」とか。
西詰あたりに西氏一里塚があったようだ。
西氏橋(御庄川)を渡って柱野駅に向かった。「西氏」は地名にもなっていて、大内氏が山口に移った時ここを京都の宇治に見立てたとか、このあたりが茶の名所だからとか。
時計を見間違え、駅前の広場の木陰でのんびり休憩していたら14時45分発の岩国駅行きに乗り損ねそうになった。次は16時52分まで電車は来ないのだ。危なかった。
ここを今回の山陽道歩きの打ち止めとした。
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