山陽道(海田市駅→廿日市駅)
2014年9月26日
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今日も晴天だ。海田町から広島市安芸区に入り、船越峠を越え府中町を通り抜け、広島市東区に入った。広島の中心街を通り、間の宿草津から龍神山の麓を上り下りして廿日市市に入った頃には暑さでバテ気味だった。
【ル-ト地図】(海田市駅(78km地点)から廿日市駅(104.3km地点)まで)
写真をクリックすると拡大します。
胡子神社(左・天保5年(1837)勧請)・荒神社(右・明治6年瀬野川の瀬替えに伴い建立) 《地図》
明顕寺の前で山陽道に出る。
江戸時代から安芸郡きっての大地主で有名な農業篤志家。
海田市一里塚跡(右に標柱) 《地図》
直径6mの塚上に松の木が植わっていたそうだ。塚は大正10年に撤去された。
この先で広島市安芸区に入る。
新宮古墳標識
船越最古の新宮社の隣にある古墳。横穴式石室から須恵器の坏(つき)、銀製の耳飾り、首飾りに使われたヒスイや水晶の玉類なども多く出土したそうだ。
新旧道分岐 《地図》
右へ市場坂を上るのが旧道で、左に曲がって行くのが新道で常夜灯の所で合流する。
けっこうな急坂だ。
常夜灯(明治5年) 《地図》
岩瀧神社の常夜灯で、今は、正月や祭りの際に灯がともる。
ここで左から来る新道と合流し、船越峠へ向かう。峠といっても今はただの坂上の車道だが。
的場坂を上って船越峠へ 《地図》
ちょうど通勤時間帯のせいか狭い道に車の往来が激しく、車がすれ違う時は道端に止まって除けるしかない。
船越峠から比丘尼坂を下って府中町に入り、左に旧道に入る。《地図》
平安時代から、安芸国の中心として国庁や総社が置かれたことによる町名。
ここに「ひくにの塚」と呼ばれた比丘尼の墓があったという。『郷土史解説(12.船越峠)』より
永田交差点で山陽新幹線をくぐり、右に入って行く。《地図》
上に周辺の案内地図が描かれている丸石は何のモニュメントか?
府中大橋から府中大川 《地図》
東岸(右)の電柱前に「多家神社参詣道」の標柱。ここから1.2kmほどだ。橋の下には群れをなした細身の魚が泳いでいた。そばで見ていた人に何の魚かと聞くと「イダ」という答えだった。ウグイの別名のようだ。食べられないと言っていた。
広島高速2号をくぐり、広島市東区に入る。矢賀新町3丁目に矢賀一里塚があったようだ。JR芸備線をくぐり、曙町5東交差点で左斜めに旧道に入る。突き当たって街道から離れ右に上って才蔵寺に寄る。
可児才蔵像
「藁にも味噌にもすがる」、合格祈願の受験生に人気だそうだ。
中山道の蕨宿には地蔵の目に味噌を塗ると目の病が治るという「目疾地蔵」があり、目に味噌がこってり塗られている。ここのも頭に味噌が塗られていると思っていたが、味噌の包みが行儀よく並べられて奉納されていた。
山陽道に戻って広島の中心街へと向かう。《地図》
三本松バス停・三本松湯もある。
ここに太田川が流れ、橋が架かっていて茶店があったという。川は暗渠になっている。
愛宕交番交差点を横切って愛宕町に入る。
愛宕神社 《地図》
左に愛宕地蔵が仲良く同居している。
JR線をくぐり、広電を横切って行く。
路面電車の広電
このあたりが広島宿の「東の宿場」で馬60匹を置いたという。
猿猴橋→京橋→元安橋→本川橋→天満橋→己斐橋と渡って広島城下を抜けて行く。
京橋(京橋川)を渡る。
渡った左の川岸に市杵嶋姫大明神が鎮座する。
慶長8年(1603)、商人の神様の胡子神社の鎮座を機に開かれた“市”がその発祥という、えびす通り商店街のビルの間に祀られている。
本通りを進む。《地図》
広電の走る鯉城(りじょう)通りを横切り、原爆ドーム・平和記念公園の見学者で賑わう元安橋(元安川)のたもとに出る。鯉城通りを北に行けば広島城(鯉城)に突き当たる。
広島市道路元標 《地図》
これを探すのに苦労した。元安橋のたもとを行きつ戻りつウロウロ。観光客も交通整理の人も何を探しているのか不審に思ったろう。西国街道(山陽道)沿いのこのあたりがかつては広島城下の中心部だったのだ。
ここあたりは外国人観光客が多い。
元安橋を渡り、平和記念公園を横目に見ながら本川橋を渡って行った。
頼山陽煎餅藝陽堂(左) 《地図》
明治44年創業の老舗。寛政12年(1800)9月、脱藩を決意した頼山陽は松子山峠を越えて京に向かった。『西国街道(本郷駅→西条駅)』
このあたりが「西の宿場」で御茶屋(本陣)は町の有力者の屋敷がその役割を勤めたそうだ。
天満橋(天満川)を渡れば天満町だ。
己斐(こい)橋(太田川)を渡る。《地図》
己斐はもとは「鯉」と書かれたという。
何の見所もない橋だが、由緒・いわれのある橋だ。
街道沿いの創業から57年のお好み焼き屋。目の前で焼いてくれるこの店の主人のおばさんと話しながら、ボリュームたっぷりのお好み焼きで腹ごしらえをした。
別れの茶屋(跡) 《地図》
広島城下から西に向かう旅人をここまで見送り、この茶店で別れを惜しんだという。今も手づくりの餅、赤飯を商っている。本業はパン屋らしい。
左を走る広電の踏切は「別れの茶屋踏切」
店内に「別れの茶屋」(灘尾弘吉の揮毫)の額
己斐西踏切(山陽本線)を渡り、国道2号をくぐって行く。高須1丁目に一里塚があったようだ。
道標「是ヨリぢぞう道」で、この地蔵のことなのか?
茶道「上田宗箇流]家元の屋敷らしい。
草津踏切(山陽本線)を渡って「間の宿草津」に入る。
鷺森神社 《地図》
被爆建物で爆心地から4930mの地。
慈光寺 (草津の妙見さん)
ここは石鳥居が同居だ。
小泉本店 《地図》
桟瓦ぶき、平入り中二階建て、屋根の上に「煙り出し」。
ここも小泉本店の敷地。
草津の港は神功皇后伝説では軍津浦輪(いくさつうらわ)と呼ばれ、新羅に出兵する軍船が集結した所とされている。
「皆賀峠は山陽道中第一の難所」とある。この先の龍神山(小己斐山)を越える道のことだろう。
この左方に地蔵堂があるようだが見逃した。
草津南町踏切(広電)の手前の左側あたりか。
今は草津町交流広場に移設してある。
草津南町踏切(広電)を渡り、草津沼田道路をくぐる。
ここを右に行き、龍神山沿いの上りとなる。
長い上り坂が続く。《地図》
龍神山への道が整備されているようだが、知らずに麓沿いの道を行った。往時は山越えの難所で、山頂からの瀬戸内海の島々の景観が見事だったという。今はその眺めは望めないようだ。井口一里塚は山中にあったのだろうか。
その向こうに瀬戸内海が広がる。
昔は小山の険しいのを「がき」といい、鈴峯女子短大南西の山の突端に、かつて椀を伏せたような小山があり、それが首に見立てられて「餓鬼の首」と呼ばれたという。今はここの井口と五日市の境に移動し、「境地蔵」となっている。
八幡橋(八幡川)から 《地図》
五つ神社 《地図》
祭神が五柱で「えびすさん」として親しまれ、五日市の名前の出所になったともいわれている。
安土桃山時代の天正年間(1573~91)に現在地に移ってきたという、旧佐伯郡最大規模の寺院。山門と唐門が当初からの建物で、境内には住職に仕えた覚潭(かくたん)が、体を鍛えるために使用したといわれる手水鉢や、延宝7年(1679)、廿日市鋳物師の第18代山田貞栄が鋳造した佐伯区最古の梵鐘があるそうだ。
石井兄弟の仇討の誓いの松だが、東海道亀山宿の亀山城内の石坂には、仇討を果たした「石井兄弟敵討の碑」がある。
古浜第5踏切(山陽本線)を渡り、山陽本線と広電宮島線の間を行く。
今は名残りの五本松だけと説明板にあるが、5本もあったっけ?
岡の下川に突き当たる。
壹里標「従是元安橋東詰三里」で、通って来た元安橋の「広島市道路元標」の所から。
御筋橋の親柱(右) 昔はここに御筋橋が架っていて街道は直行していたのだろう。今は海老橋の下流に三筋橋がある。
ここを左折し、一本松踏切(広電)と海老橋(岡の下川)を渡る。西隅の浜交差点(国道2号)を横切ると廿日市市に入る。
右に大きな「西国街道壱里塚跡」の標柱のみ。
廿日市市内では貴重な1本のみの街道松。
桂公園で上はグラウンドになっていて、説明板などはない。西南の角に「石州津和野藩御船屋敷旧趾」の石碑が立つようだ。そこが津和野街道の起点で、この先の道標(夜泣き石)のある津和野岐れまで山陽道と同じ道筋をたどる。
廿日市宿に入る。《地図》
右は正蓮寺から廿日市天満宮・左は薬師堂で右に枡形にカーブして行く。
社殿は上の方だ。暑さと右足首の痛さでかなり疲れてきたのでここから遥拝で済ます。瀬戸内海の景観を望むことができるそうだ。惜しいことをした。
左の中央公民館の所だが工事中で、「芸州廿日市御本陣旧趾」碑は取り払われたのか、囲いの中か見つからなかった。
第二次長州戦争で広島藩が火を放し、町屋は3日間燃え続けたという。
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