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2014年10月16日 (木)

山陽道(廿日市駅→玖波駅)

2014年9月27日

廿日市駅(JR山陽本線)・・・常念寺・・・福佐売神社・・・可愛橋(可愛川)・・・可愛川西2踏切(広電)・・・道狭第4踏切(山陽本線)・・・(県道247号)・・・宮内串戸駅(山陽本線)・・・(国道2号)・・・(山陽新幹線)・・・宮内一里塚跡・・専念寺・・(県道30号)・・・砂原大橋(御手洗川)・・・県道30号・・佐原田公園・・佐原田権現神社・・四季が丘南口交差点・・・畑口橋交差点・津和野岐れ・・夜泣き石(道標)・・・(広島岩国道路)・・・エコセンターはつかいち・・・四郎峠・村境碑・・・(広島岩国道路)・・・疣観音堂・今川貞世歌碑・・戸石川橋・・・中山一里塚跡・・・(十郎原川)・・・(高見川)・・・三槍社・・・大野次郎宅跡・・・新宮神社・・・濃唹駅家跡・高庭駅家跡・山上憶良歌碑・・・孝子久蔵の遺跡・・・高畑溜池・・・陣場跡・・・中津岡大橋(中津岡川)・・・大野インター南交差点・・(山陽新幹線)・・(広島岩国道路)・・・大頭神社・妹背の滝・・・(広島岩国道路)・・(山陽新幹線)・・滝の下交差点・旧道・・・大野西小学校・道標・・・大野浦駅(山陽本線)・大野浦一里塚跡・今川貞世歌碑・・・向原バス停・・旧道・石畳・四十八坂・・・宮浜配水池・・・(広島岩国道路)・・・残念社・・・依田神社・松陰腰掛岩・・・(広島岩国道路)・・・八坂神社・・・(大竹市)・鳴川の石畳道・・鉾ノ峠(鳴川)一里塚あたり・・・(山陽本線)・・・唐船浜・・・玖波隧道(馬ためし峠)・・・玖波宿・・順広寺・・高札場跡・角屋釣井跡・・本陣跡あたり・・・玖波駅(山陽本線)

  今日は四郎峠、四十八坂、鉾ノ峠と起伏のある道のりだった。四十八坂では道を間違え、鉾ノ峠では蜘蛛の巣、やぶ蚊に苦労したが3時過ぎには玖波駅に着いた。日毎、暑さが増すにつれ、歩く距離が減っていくのは致し方なしか。

  【ル-ト地図】(廿日市駅(104.3km)→玖波駅(124.8km))

  写真をクリックすると拡大します。

Img_5172宮内一里塚跡 《地図

右の専念寺には旅人の休息所のお茶屋があったと伝える。

宮内交番前で県道30号を渡り、御手洗川に沿って進み砂原大橋を渡る。県道30号に出て、何度も渡り返し佐原田権現神社の先で県道30号に出て進む。【ル-ト地図】参照

Img_5192津和野岐れ(畑口橋交差点) 《地図

ここを左に進む。廿日市宿の石州津和野藩御船屋敷から山陽道と同じ道を進んだ津和野街道は直進して行く。道路向かいに「夜泣き石」(道標)がある。

Img_5193夜泣き石

江戸時代ここにあった三角形の自然石から毎夜赤ん坊の泣き声が聞こえてきたので、「南無阿弥陀仏」と彫った石塔を建てて供養したところ泣き声は聞こえなくなったという。
消えかけているが道標にもなっていて右下に「石州道」・左下に「九州道」のようで、津和野街道と山陽道の方向を示している。こちらの方が旅人には役立ったろう。

広島岩国道路をくぐり、道路沿いを南に四郎峠へ上って行く。

Img_5198四郎峠へ 《地図

歩道はついていない。車の通行はさほどでもないが味気ない道だ。四郎は5人兄弟の一人の名で、詳しくはこの先に記載。

Img_5202「宮内 大野 村境」碑(右)

四郎峠から下って広島岩国道路をくぐって行く。

Img_5206疣(いぼ)観音堂 《地図

Img_5208疣観音

Img_5209今川貞世歌碑

足利義満に九州探題に任ぜられ下る途中、ここ中山を通った時の歌で、紀行文『道ゆきぶり』に所載。

ここから右方向に入って、しばし中山川沿いを行く。

Img_5214中山一里塚跡

ガードレールの左に「史跡 一里塚跡」標柱。塚には松が植わっていたそうだ。

車も通らない静かな道を行く。

Img_5217ここは直進し細い道に入る。《地図

Img_5220ここも直進だ。

Img_5223高見川を渡る。

Img_5224案内板

Img_5226民家の裏の崖下の道を進む。

Img_5231三槍社

大頭神社四末社の一つ

Img_5234大野次郎宅跡

推古天皇の時代にまで遡る話で恐れ入る。

Img_5235説明板

五人兄弟のことが書かれている。

Img_5240新宮神社 《地図

大野次郎を祀った社で、地元では「新宮さん」と呼ぶ。

Img_5241急な石段を上ると意外に小祠だった。

Img_5242集落の上を細い道が続いている。

ここが往時の山陽道、西国街道だったのだ。

Img_5247高庭駅家跡

平安時代には濃唹(のお)駅となる。後ろは山上憶良の万葉歌碑で、「出でて行きし日を数へつつ 今日今日と 吾を待たすらむ 父母らはも」

Img_5246説明板

Img_5253木陰の道を行く。

Img_5256孝子久蔵の遺跡碑

高畑貝塚跡に行こうとしたらここに出てしまった。

寛政の頃、高畑に住んでいた孝行息子の久蔵さんは、広島藩主から米3俵を賜り、孝子の鑑とされたそうな。いつの世も親不孝者ばかりだから、孝行者が目立つのだろう。

Img_5261高畑溜池 《地図

文政8年(1825)の「芸藩通志」に載る大野で最も古い溜池。

Img_5262陣場跡

長州征討の時の幕府軍の検問所跡で、このあたりは今も陣場という地名。この先で車道へ出るが古代には筏津という海の入江だったそうだ。

Img_5264説明板

Img_5265山陽新幹線を進む。

大野インター南交差点で街道から離れ、毛保川沿いの大頭神社・妹背の滝に寄る。途中に第二次長州戦争の千人塚があるようだが見逃した。

Img_5272大頭(おおがしら)神社

Img_5271由緒碑

Img_5273妹背の滝(雄滝)

Img_5277滝壺近くから

雌滝は写真を取り損ねた。雄滝より高いが水は余り流れていないようだ。

街道に戻り、山陽新幹線をくぐり右に入って行く。

Img_5280道標(右の大野西小学校前の角) 《地図

「右 宮島廣島道」・「左 宮内道 妹背瀧道」

Img_5286大野浦一里塚跡(大野浦駅前)

今川貞世歌碑「おおのうらを これかととえば やまなしの かたえのもみじ 色に出でつつ」で、大野浦の駅名はこの歌からつけられた。

向原バス停の所で四十八坂の旧道に入る。

Img_5299四十八坂入口 《地図

ここを右に入って行く。

Img_5296説明板

Img_5302少しの間石畳が残る。

Img_5303今川貞世歌碑

この先で広島岩国道路の高架下で道を間違え、経小屋山への登山道に入ってしまい引き返す。かなりのロスタイムとなった。

Img_5317宮浜温泉海望の源泉地

この下一帯が宮浜温泉

Img_5316説明碑

この左下から源泉が流れ出ているようだが気づかなかった。

Img_5323残念社へ向かう。

Img_5325残念社(残念さん)

Img_5324説明板

Img_5326気分のいい道だ。

Img_5327依田神社 《地図

神社の本体は修復のためしばらく撤去してある。木々に遮られて腰掛け岩からの眺望はない。

Img_5328説明板

この文章はおかしくないか。

広島岩国道路をくぐり南に下って行く。

Img_5338瀬戸内海・大竹港・大竹の工場の煙突群の眺め。《地図

Img_5343八坂神社(お祇園さん)

Img_5344説明板

Img_5347橋を渡って直進する。

Img_5348民家の庭のような所を通る抜ける。

Img_5349鳴川の石畳道から鉾(ほこ)ノ峠へ上る。

蜘蛛の巣・やぶ蚊道でおまけに蒸し暑くて参った。ここは大竹市だ。

Img_5350説明板

鉾ノ峠には一里塚があった。

Img_5351山陽本線を越える。

この先の道は少し崩れかけていて歩きにくい。

Img_5353唐船浜(とうせんはま)に出てほっとした。

秀吉が朝鮮に渡る船を造らせせたという。

Img_5354玖波(くば)隧道をくぐる。《地図

街道はこの上の馬ためし峠を越えていた。

Img_5357玖波宿に入る。《地図

本陣などは長州戦争で焼かれてしまったが、宿場の面影は残っている。

Img_5366説明板

Img_5362家並み

Img_5363高札場・角屋釣井跡

Img_5364説明板

Img_5368本陣跡

左の広島信用金庫あたりらしい。

Img_5370家並み

Img_5371材木店

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