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2014年11月30日 (日)

山陽道(小月駅→長府駅)

2014年11月23日

小月駅(JR山陽本線)・・・孝行塚・・・清末八幡宮・・・道祖神・・・橋本家長屋門・・・神田橋(神田川)・・・(国道491号)・・・宇部一里塚跡・・・才川踏切(山陽本線)・・・国道491号ガード・駕籠立場跡あたり・・・長府駅(山陽本線)

  今日と明日で山陽道も終わる。早朝に自宅を出て小月駅に着いたのが午後の1時頃。11月も末というのに歩いているとまだ暑い。今日は長府駅までとし明日、最後の山陽道を楽しもう。

  【ル-ト地図】(小月駅→長府駅(7.7km地点))

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Img_7217孝行塚(清末鞍馬4-6)

これで周防三孝女の阿米・阿石・お政が出揃った。『山陽道(高水駅→福川駅)』・『山陽道(福川駅→大道駅)

清末は長州藩の孫藩「清末藩一万石」(長州藩の支藩の長府藩の支藩)の領地で、清末藩邸(陣屋)跡の東部中学校には石碑が立つ。

昔は孝行塚の手前に「乱れ橋」と呼ばれる石橋があり、小月村と清末村の村境になっていたそうだ。二股を左に進む。

Img_7218説明板

Img_7222清末八幡宮 《地図

建武年間(1334~5)の創建という。荒廃していた社を寛文2年(1662)に初代の清末藩主毛利元知が、藩の守護神として再建した。

Img_7230清末八幡宮境内の護国神社の土塀

Img_7223清末八幡宮から周防灘方向

Img_7240橋本家長屋門(清末千房一丁目)

清末藩邸の第一裏門で、明治6年の藩邸処分の際に買い取られ移築された。

Img_7247神田川(神田橋から) 《地図

カモちゃんは昼寝タイムだ。

Img_7252神田橋

文化8年(1811)の石橋(昭和8年に改修)が保存されている。ここが清末藩と長府藩の境。

国道491号を横切って、国道と山陽本線の間を行く。

Img_7264宇部一里塚跡 《地図

左に標柱で赤間関までわずか3里だが、あちこち寄るからもっとかかる。右は出征兵士の記念碑

Img_7272畑の間の道を行く。

この先で才川踏切を渡り、国道491号のガードをくぐる。そのあたりに駕籠立場があったようだ。長府駅まで見所はなかった。
駅の隣の長府東公民館で「下関観光ガイドブック」をもらい明日に備えた。

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2014年11月21日 (金)

山陽道(厚狭駅→小月駅)

2014年10月31日

厚狭駅(JR山陽本線)・・・寝太郎橋(桜川)・・・石丸橋(大正川)・・・大師堂・・・道標・吉田道・埴生道分岐地点・・・幸神・・・(大正川)・・山野井八幡宮・・・(県道225号)・・・金錆第2踏切(山陽本線)・・・石炭跨線橋(山陽本線)・・・(石炭隧道上)・・・境国第2踏切・・福田八幡宮・・・道標・・吉田方面標識・蓮台寺峠入口・・・庚申塔・開作記念碑・・・蓮台寺峠・(下関市)・・哲学の道・・蓮台寺・哲学の道・・・道標・・・(山陽自動車道)・・・庚申塔・猿田彦塔・・・吉田宿・・高札場跡・道標・恵比須神社・・長慶寺・・末富家・・三界万霊地蔵・吉田一里塚跡・県道26号・・勘場跡・御茶屋跡・・晋作橋(埴生口橋)・・東行庵・高杉晋作の墓・・・小川橋・・吉田大橋(木屋川)・・・大師祠・旧道・・・県道33号・・・(山陽新幹線)・・・旧道・・・京泊池・・・旧国道碑・・・小月神社・・・(国道491号)・・・庚申塚(小月神社御旅所)・・庚申橋(浜田川)・・小月宿・・高札場跡・・小月一里塚跡・・道標・・見廻り通り・・観音寺参道・・・小月駅(JR山陽本線)

  山陽道で最後の峠、蓮台寺峠への道でちょっとトラブって時間をロスしたが、雨が降り出す前に峠を越えて下関市に入り、奇兵隊・高杉晋作ゆかりの吉田宿から木屋川沿いを進み小月宿まで行った。

  【ル-ト地図】(厚狭駅(136.5k)から小月駅(155.2km)まで)

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Img_7028条里制の遺構という直線道路 《地図

こんなに拡幅されては分かりにくいが、地図を見ると北側の区画に名残りが見られるか。
今日は雲行きが怪しく午後からは雨になるようだ。前を行く人はもう傘をさしている。

寝太郎橋(桜川)、石丸橋(大正川)を渡って緩やかに上って行く。

Img_7038大師堂(左)

このあたりに一里塚があったのか?

Img_7040道標(分岐点) 《地図

「右吉田道」・「左はぶ道」で右に進む。左は埴生への道で中世の山陽道という。山陽本線に埴生駅もある。

Img_7046山野井八幡宮

Img_7047何か行事があるようだ。

県道225号を横切って北西に進む。

Img_7057山陽本線沿いとなる。

金錆第2踏切を渡り、線路の北側を進み、石炭跨線橋を渡って南側に出てしばらく行く。

Img_7062石炭隧道(正面)の上を越え、線路の北側に出る。

もう一度線路を越えて南側を進み、境国第2踏切を渡る。

Img_7067福田八幡宮の前に出た。《地図

Img_7068分岐点に道標(電柱の左) 《地図

「右吉田 左埴生 道」右に進とすぐに標識が立つ。

Img_7071「左 吉田」の標識(正面)

左に入って蓮台寺峠へ向かう。ここで道筋を確認したかったのだが、誰もいなくて聞けなかった。この先で標識や案内板などはなかった。 《地図》にははっきりと道の標示があるが。

Img_7073ここを左に入る。

Img_7074道はしっかり続いている。

Img_7077ぬかるみ防止の砂?

このあたりは農作業用の車が通るようだ。

Img_7078正面に送電の鉄柱が見える。

Img_7079ずっとこんな道ならいいのだが。

Img_7080このあたりから草深くなり道筋がはっきりしなくなる。

右方向に上るような道らしきのもあり、コンパスで方向を確認したが進む方向がはっきりせず不安となる。一度分岐まで引き返し少し待って、民家から出て来たおばさんに道を確認する。道は間違っていなかった。道は緩やかで急な上りはないとのことだった。再度ここまで来て、ここは草の中を直進した。この間、30分以上のロスタイムとなったが、雨が降ってこなくてよかった。

Img_7081ぬかるみ道

靴を覆うビニール袋を持ってきたが、たいしたこともなさそうで除けながら草の上を進んだが、バランスを崩して片足がはまってしまった。

Img_7084少し荒れているがはっきりした道となる。

Img_7086鉄柱が近づいて来た。

ここは左から右へカーブして進んで行く。

Img_7088庚申塔・開作記念碑(右)

Img_7092蓮台寺峠あたりか?

峠を越えて山陽小野田市から下関市に入った所に駕篭立場があったという。

途中で右に入り蓮台寺へ寄る。

Img_7095蓮台寺への急坂の「哲学の道」 《地図

Img_7099蓮台寺

背後は葉の裏に文字が書ける「タラヨウ」(多羅葉)の木。

Img_7104説明板

Img_7102「哲学の道」の石畳を下って山陽道に戻る。

Img_7106のどかな道を行く。

Img_7107道標「右 蓮台寺」・「左 川久保」 《地図

吉田方面から蓮台寺への道標

左に下って吉田宿へ向かう。

Img_7113庚申塔・猿田彦塔(右)

この先の突き当りで左折すれば吉田宿だ。

Img_7118吉田宿入口 《地図

右に「吉田旧街道跡」碑・道標「右上方道」・「左萩道」、正面の恵比須堂が高札場跡。

Img_7121説明板

Img_7123長慶寺

奇兵隊屯所の一つ。

Img_7124説明板

Img_7125末富家(左)

奇兵隊の本営となった庄屋家

Img_7126説明板

Img_7129吉田一里塚跡 《地図

説明板には「萩唐樋札場を基点」とある。『萩往還①』 山陽道の一里塚ではなかったようだ。左は三界万霊地蔵。

Img_7132説明板

Img_7131説明板(吉田町)

ここを左折し勘場跡から東行(とうぎょう)庵に寄る。

Img_7138勘場(代官所)跡・御茶屋(本陣)跡の土塀

Img_7136説明板

Img_7139吉田小学校

Img_7140晋作橋

すぐ先に「晋作の湯」で、高杉晋作だらけだ。来年のNHK大河ドラマで賑わって一儲けだろう。

Img_7144東行庵

「東行」は晋作の号名

Img_7148高杉晋作の墓 《地図

Img_7149説明板

街道に戻る。 Img_7155吉田大橋(木屋川)を渡る。《地図

昔は夏秋は舟渡しで冬場は木橋を架けて渡っていた。

Img_7157木屋川沿いの県道33号を行く。

味気ない道で、蓮台寺峠への道で苦労した疲れが出て来た。

Img_7159大師の祠で右に旧道入る。《地図

Img_7163廃屋の前を通る。

Img_7165雑草をかき分けて進む。

Img_7166ここはもはや道とは呼べないだろう。旧道はもっと右上を通っていたようだが分からず。

民家の間をすり抜けてなんとか県道に出た。

Img_7171山陽新幹線をくぐって右に旧道に入る。

Img_7176京泊池沿いを行く。《地図

水鳥たちを見ていると疲れも和らぐ。

Img_7182旧国道碑(小月小学校前)

参勤交代などが往来していた山陽道のこと。昭和初期に国道2号の開通により旧国道と呼ばれるようになった。

Img_7186小月神社 《地図

Img_7185説明板

国道491号を横切って行く。

Img_7190庚申塚

庚申の2文字の凹みに米粒を入れると2斗入るそうだ。

Img_7189説明板

庚申橋(浜田川)を渡って小月宿に入って行く。

Img_7194小月一里塚跡(左に石碑) 《地図

これも萩の唐樋札場が基点の一里塚跡で山陽道の一里塚跡ではないようだ。

Img_7195説明板

Img_7198道標「右かみがた」・「左とよた道」

Img_7200説明板

「とよた」がどこなのか書いて欲しいね。

この先で右折して行く。

Img_7202見廻り通り(正面右に標柱) 《地図

標柱には「下市から茶屋入口までの山陽道の一部で、下市は宿場街、茶屋町は歓楽街で栄えた。このため武士が庶民の暮らしや治安を見て廻った」だが、武士がいるから治安が悪くなったのかも。

Img_7210小月駅(JR山陽本線)

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2014年11月20日 (木)

山陽道(嘉川駅→厚狭駅)

2014年10月30日

嘉川駅(JR山陽本線)・・・幸の橋(幸之江川)・・白松道道標・・・幸の橋交差点・・熊野神社・・・嘉川霊場第46番・・・(県道6号)・・(山陽新幹線)・・・今坂交差点・国道2号・・旧道・・・国道2号・・・割木松峠・食事処おいはぎ峠・・周防長門国境碑・(宇部市)・・旧道・・割木松地区・・庚申塔・・・国道2号・・・旧道・甲山川沿い・・・上山中交差点・国道2号・・旧道・・山中宿・・上山中(上市)地区・・熊野神社・・三界地蔵祠・甲山川沿い・・・国道2号・・・つるや食堂・・旧道・・・庚申塔・三界万霊塔・・国道2号・・下山中(下市)地区・・山中宿本陣跡・・旧道・・・国道2号・・・与助の首塚跡標柱・・・猿王子橋(甲山川)・・・車地交差点・旧道・・・駒の頭・・・二俣瀬の渡し跡・・永山本家酒造場・・・木田橋(厚東川)・・・二俣瀬交差点(国道2号)・旧道・・薬師堂地区・・秋葉神社・・庚申塔・・・国道2号・・・旧道・殿様道(どんだけ道・玉木坂)・・大歳神社・・(県道37号)・・(大坪川)・・旧山陽道標柱・・・国道2号・・正覚寺・・・旧道・・吉見小学校跡・・国道2号・・・吉見勘場跡・・・下岡交差点・・旧道・・(山陽新幹線)・・・国道2号・・(山陽新幹線)・・旧道・・・国道2号・・・吉見峠(90m)・・・旧道・・・六地蔵・・(宇部興産専用道路ガード)・・・船木宿・・一里塚跡・・船木宰判高札場跡・・岡崎八幡宮・・願正寺(寺小屋松下園跡)・・船木御茶屋跡・船木宰判代官所跡・船木宰判勘場跡(船木ふれあいセンター)・・旅人荷付場跡・・大木森住吉宮・・・茶屋交差点・国道2号・・・船木大橋(有帆川)・・・(小野川)・・新川交差点・旧道・・台ケ坂・・長谷川玄道寺小屋跡・・国道2号・・伏附峠・・・銭ヶ原交差点・・・逢坂バス停・旧道・・逢坂・・逢坂観音堂・・・国道2号・・逢坂交差点・県道225号・・・西見峠(57m)・(山陽小野田市)・・旧道・道標・・・埴生田堤・・・鴨神社鳥居・・・鴨神社・・厚狭宿・・祐念寺・・鴨橋(厚狭川)・・菅原神社・・千町踏切(JR美祢線)・・・寝太郎像・厚狭駅(JR山陽本線)

  割木松峠の周防長門国境碑で、山口市から宇部市に入った。国道に分断された山中宿を通り、厚東川を渡り、旧道の玉木坂(殿様道・どんだけ道)を通って国道に出て吉見峠に上り、旧道を船木宿に下った。一里塚跡があり赤間関(下関)まで9里で、山陽道も残りわずかとなった。逢坂の旧道を通り西見峠で山陽小野田市に入り、厚狭宿へ下り寝太郎像が立つ厚狭駅まで行った。

  【ル-ト地図】(嘉川駅(110.2km)→厚狭駅(136.5km)地点)

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Img_6773幸の橋 《地図

渡ったすぐ先の左手に道標と、「山陽道と白松道の道しるべ」の標柱が立つ。

Img_6778道標

「あじす とこなみ 中の村」(阿知須 床波 中の村)で、阿知須を経て宇部に向かう海岸通りの道との追分道標。JR宇部線に阿知須駅・床波駅がある。

幸の橋交差点で県道335号と合流し、すぐに右斜めに入って行く。

Img_6781熊野神社

Img_6784高根地区を行く。

嘉川霊場第46番の祠・天満宮道標・石灯籠などが道沿いにある。

県道6号(山口宇部線)をくぐり、

Img_6792山陽新幹線をくぐって行く。《地図

一里塚跡はどのあたりか?

今坂交差点で国道2号に合流して割木松峠へ上って行く。

Img_6798割木松峠 《地図

「食事処おいはぎ峠」だが、今は追剥の出そうな雰囲気ではない。

Img_6800周防長門国境碑

「東 周防国吉敷郡」・「西 長門国厚狭郡」で、山口市から宇部市に入る。

Img_6801すぐ先のホテルZOOの脇から右斜めに旧道に入り、割木松地区へ進む。防長の国境あった松を両国の農民が争って切り取ったための地名という。

再び国道2号に合流して行く。

Img_6809右に旧道に入り、甲山川沿いを進む。《地図

Img_6810すぐに小動物除けのフェンスだ。

紐をほどいて通り抜ける。この先にもフェンスがある。

Img_6811甲山川沿いの道

上山中交差点の手前で国道2号に出て、また右に入ると山中宿となる。上市では入口の専念寺が本陣だったが移転してしまった。

Img_6814山中宿の上山中(上市)地区 《地図

山中市は永和4年(1378)伊豆の住人伊藤彦四郎が開いたという。

Img_6817熊野神社

伊藤彦四郎が応永元年(1394)に紀伊の熊野権現を勧請したという。ツルマンリョウの自生地で社殿の東西の傾斜面に多いらしい。

Img_6816説明板

Img_6820上市を抜けて行く。

Img_6821上山中下之橋の手前の三界地蔵の祠

ここを右折し、甲山川沿いを進む。《地図

Img_6824甲山川は国道を横切って国道の南側を流れて行く。

国道2号に出て、つるや食堂から左に旧道に入り、山中下市へと進む。

Img_6830庚申塔・三界万霊塔 《地図

下市は国道に分断されている。

この先で国道に出る。

Img_6835山中本陣跡 《地図

国道を横切った北側にある。右に標柱のみで遺構は残らず。このあたりに宿場の面影はない。
このあたりが山中一里塚跡か。

この先で左に旧道が残る。

Img_6840旧道だがすぐに国道に出て味気ない車道歩きとなる。

Img_6842与助の首塚(国道の北側に標柱のみ)

天保2年(1831)の約一万人が加わった大規模な百姓一揆の首謀者の一人で、斬首されてここに梟首されたという。昔は立派な松の木が立っていて目印になっていたそうだ。

車地交差点で左折して、厚東(ことう)川沿いを進む。《地図

Img_6847駒の頭

正平年間(1346~69)に島津家の家臣「藤本五左衛門が甲山川から木田平野に噴水式による灌漑サイホン式設備」とは恐れ入る。
厚東川西岸の木田村は川より位置が高く水が利用できない。厚東川の東を流れる甲山川の水位は木田地区より数m高いので、甲山川から水を引き、厚東川の左岸(車地側)で地下5mの深さまで水を落とし、川底に敷設した木管を通じて、右岸の木田地区の用水路に噴出させる方式をとった。川底の木管は松の木→土管(明治36年)→コンクリート管(昭和30年代)と変わるがサイフォンの原理は今も利用されていて、木田地区に立派な美田が作られているそうだ。
昔、筧(懸け樋)の先に付けて噴射式に物を冷やす道具を「駒の頭」と呼んでいて、これに似ているのでその名がついたという。

Img_6851二俣瀬の渡し跡

今は前方の木田川で厚東川を渡る。

Img_6852永山本家酒造場 《地図

「男山」の醸造元

木田橋を渡って行く。

Img_6856二俣瀬交差点で国道2号を斜めに横切り薬師堂地区に入る。《地図

Img_6860庚申塔

この先で再び国道2号に出る。

Img_6862国道2号と分かれ右に入る。《地図

Img_6864「殿様道(山陽道往還跡)」の標柱で右に入り玉木坂を上る。「玉木」はこの道を改修しだ船木宰判代官の玉木太郎左衛門による。

Img_6869よく整備された道だ。

地元では「どんだけ道」とも呼んでいた。 

Img_6870大歳神社 

ここで舗装道を横切る。 

Img_6876傾斜は緩く快適な道だ。

Img_6880樹木の間を抜けて行く。

Img_6881下って県道37号と大坪川を渡る。

大坪川を渡ったあたりに一里塚があったようだ。《地図

Img_6887ここでまた山道に入る。

Img_6890ここも整備された林間コースで気持ち良く歩ける。

国道2号に出て西進する。《地図 

Img_6895右に旧道が少し残る。 

上って下ると右の民家前に「史跡 吉見小学校跡」の標柱が立つ。 

Img_6899吉見勘場 跡 《地図 

左上に標柱 

下岡交差点の先で左斜めに入る。うっかりして交差点から県道215号をかなり進んでしまった。 

Img_6902新幹線の高架下を通る。

Img_6904萱曲(かやまがり?)古墳(右の藪の中)をU字形に迂回する道で萱曲道と呼ぶそうだ。《地図 

直径11.5mの円墳で、横穴式石室が開口しているようだ。写真は『大和國古墳墓取調室 』で。

Img_6905迂回して北に向かい左に進み国道2号に合流する。

Img_6907山陽新幹線をくぐった先で右に旧道が残る。

Img_6908旧道を上る。《地図》(道の標示はない)

Img_6909「電気柵使用中」の立札 

この先で道は途切れて左の国道の出た。 

Img_6913このあたりは歩道がなくやりきれない道だ。

Img_6917吉見峠(標高90m) 

船木宿への下りとなる。

Img_6920左に旧道に入りやれやれだ。《地図

Img_6921六地蔵 《地図 

宇部興産専用道路ガードをくぐると船木宿となる。 

Img_6923(船木)一里塚跡の標柱 

ここに「安芸境小瀬川より二十七里 赤間関より九里」の木標が立っていた。赤間関(下関)までついに十里をきった。

Img_6926左に「船木宰判 御高札場跡」標柱

Img_6929岡崎八幡宮 《地図 

推定樹齢700~800年というクスノキがそびえる。 

Img_6932説明板

Img_6933願正寺

境内に「史跡松下園(寺子屋)跡」標柱が立つ。嘉永元年(1848)から明治5年まで寺小屋が開かれた。境内にはギャンギャン吠える犬がいて興ざめだ。

Img_6936船木宿の家並み

Img_6946船木宿御茶屋跡(本陣)・「木宰判代官所跡」・「木宰判勘場跡」(船木ふれあいセンター) 《地図

左に標柱や碑が立つ。「宰判代官所」と「宰判勘場」は同じことだが、船木では萩本藩から出郡する代官以下の居る役所を「代官所」といい、大庄屋以下の役人が出仕する役所を「勘場」と称したそうだ。同じ建物内で部屋が違っていたのだろうか。

Img_6940旅人荷付場跡 《地図

Img_6941説明板

Img_6944船木宿の家並み

静かな通りだ。

Img_6953大木森住吉宮

神功皇后が軍船を作るために境内の大楠を切ったという伝承から「船木」の由来となったという。

Img_6956説明板

船木大橋(有帆川)を渡り、小野川を渡り新川交差点から左に台ヶ坂の旧道に入る。

Img_6968台ヶ坂(左)を伏附峠へ上る。《地図

途中に「長谷川玄道寺小屋跡」標柱が立つ。長谷川家は厚狭毛利家の儒医だった。今は標柱のみで屋敷は残っていなかったと思う。

Img_6970国道2号に合流する。

Img_6971伏附峠から下りとなる。

Img_6976逢坂の旧道(右)へ入る。《地図

Img_6977説明板

Img_6979千林尼(観音堂の堂主)の石畳路の一部分

Img_6981逢坂観音堂

十一面観音像とは対面できず。

Img_6980説明板

Img_6983(残存)山陽道へと進む。

Img_6985歩行困難な道でもない。

この先で国道2号に出る。

Img_6990逢坂交差点から国道と別れ県道225号を西見峠へ上る。

Img_6991西見峠(標高57m) 《地図

宇部市から山陽小野田市に入る。

Img_6995左に旧道を下る。《地図

小さな道標「左 旧山陽道」が立つ。このあたりが一里塚跡か。

Img_6999埴生田堤を右に見ながら厚狭(あさ)宿へと向かう。

Img_7004鴨神社鳥居 《地図

このあたりに高札場があったようだ。

Img_7007鴨神社

延暦7年(788)に久津(沓)に百済の聖明王妃を祀ったのがその起源とされ、大同3年(808)に、京都の下鴨・上賀茂神社から分霊を勧請したと伝える。今でも鴨庄という地名が残る。

Img_7010厚狭宿へ入る。《地図

架け替え工事中の鴨橋(厚狭川)を渡る。

Img_7014菅原神社(厚狭天満宮) 《地図

鴨神社の御旅所

Img_7016説明板

Img_7017ちょっと古めいた家並みか。

Img_7019旧家

Img_7021ダイナマイト羊羹

口に入れると爆発しそうな名前だが、廃業してしまったようだ。日本化薬厚狭工場に由来する小字の「火薬町」からつけられた商品名だろうか。今もバス停「火薬町」がある。かつては「セメント町」とか「硫酸町」もあったそうだ。
今も小野田セメントにちなんだ銘菓「セメンダル」という最中もある。

Img_7027寝太郎像(厚狭(あさ)駅前)

いつも寝てばかりいる寝太郎が大量のわらじを船に積んで佐渡に渡り、古わらじと交換し、それに付着した砂金を桶で洗い集め、その資金で厚狭川を堰止め、大井手を築いて灌漑用水路を作り、荒れ地を豊かな水田にした」という『厚狭の寝太郎』伝説の人物。信濃の『物くさ太郎伝説』にも通じる話だ。「善光寺西街道」の会田宿の先の中峠には「物種太郎塚」がある。

寝太郎公園』・『寝太郎神社』もある。
寝太郎伝説の深層構造』は、妙見信仰・タタラ製鉄・鴨神社や、昨日寄った「艫綱の森」ゆかりの琳聖太子(聖明王の第3子で、大内氏の祖ともされる)などとの関連にも言及されていて興味深い。

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2014年11月17日 (月)

山陽道(大道駅→嘉川駅)

2014年10月29日

大道駅(JR山陽本線)・・・繁枝神社・・大道市地区・・諸光寺・・明顕寺・・元庄屋上田家・・厳島六社大明神・・・国道2号・・・旧道・・・(国道2号)・旧道・・津山神社・・国道2号・・・長沢池・・・(山口市)・・旧道・・・札場踏切(山陽本線)・・・中山池・・・誓安寺・・・住吉第1踏切(山陽本線)・・・丁石地蔵・・国道2号・長沢池・赤川晩翠の詩碑・・・今宿東交差点・旧道・・・尺田橋(尺田川)・・・(四辻駅)・・・(高橋川)・・・(国道2号)・・・周防鋳銭司跡・・・(綾木川)・・・建石・・・東陶交差点(国道2号)・旧道・・・円覚寺・・陶上市地区・・恵比須社・・橋本橋(百谷川)・・陶下市地区・・恵比須社・・艫綱の森・寄舟神社・小郡検問所跡・・・日吉神社・・・県道335号・西陶バス停・・・旧道・・・真菰池・・・(山陽新幹線)・・・大聖院・・・小郡一里塚跡・・・東津橋(椹野川)・・小郡宿・・藩米津出蔵跡・・・新丁地区・・新丁踏切(JR山口線)・・御茶屋・勘場跡・・道標・・唐樋橋交差点・三原屋本陣跡・・・粟島神社・・・国道9号ガード・・・県道335号・・・(山陽新幹線)・・・柏崎交差点・旧道・・・大道付第1踏切・・・(千見折川)・・・荒神峠・・(JR宇部線)・・・嘉川霊場第21番・・・34番大師堂・・上嘉川踏切(山陽本線)・・・嘉川市地区・・恵比須神社・・・(嘉川市交差点)・・・(嘉川福岡交差点)・・・嘉川霊場第34番・中野三仏・道標・・・嘉川駅(JR山陽本線)

  今日は急な坂も高い峠もなく距離も短く、好天の下をのんびりと山口市に入り小郡宿を通り嘉川駅まで進んだ。

  【ル-ト地図】(大道駅(90.4km)→嘉川駅(110.2km)まで)

  写真をクリックすると拡大します。

Img_6567繁枝神社 《地図

祭神に長沢池などの灌漑用の池を築いた小郡宰判の代官・東條九郎右衛門(津山神社の祭神で明治41年ここへ合祀)が名を連ねている。境内に維新の志士大楽源太郎の碑がある。

Img_6568説明板(大楽源太郎)

Img_6574大道(だいどう)地区 《地図

大道(台道)市は馬10疋を備えた半宿だった。

Img_6582元庄屋上田家

大田南畝を始め村田清風、頼山陽など多くの文人、墨客が訪れたという旧家で井戸が残る。

Img_6583厳島六社大明神

上田家が建立した神社。このあたりに一里塚があったのか?

Img_6584六社明神の祠か

この先で国道2号に出る。

Img_6587左に旧道に入る。

Img_6589国道を横切り右に入って行く。

Img_6590柿が成る旧道を進む。

Img_6593津山神社 《地図

祭神は東條九郎右衛門で、今は繁枝神社に合祀されている。

Img_6598長沢池

慶安4年(1651年)頃、代官東条九郎右衛門の在役中に築かれた灌漑用池。天保年間(1830~43)には鋳銭司村、名田島村、台道村の田畑に堤水を供給し、他村が干ばつにみまわれても、長沢堤を利用する村々は干ばつを免れた。
防府市と山口市にまたがる周囲約6Kmの大池で、冬は渡り鳥の楽園になるという。

山口市に入ってすぐのGSの手前から左に旧道に入る。《地図

Img_6601旧道は南に迂回して行く。

長沢池が出来て、それまで真直ぐ西に進んでいた(現国道2号の道筋)山陽道は水中に没してしまい池の南側を廻るようになったという。長沢池はもっと大きかったということか。

札場踏切を渡って行く。高札場があったのだろう。

Img_6605中山池沿いを行く。 《地図

Img_6609誓安寺

古びた鐘楼門がいいね。

住吉第1踏切を渡る。

Img_6616石地蔵の先で国道2号、長沢池に出る。

西方の陶が岳(252m)の山頂にあった観音堂(明治時代に黒山の顕考院(黒山八幡宮の南側)に移された)参道の丁石地蔵で、「岩屋寺八丁 明和四亥十二月日」と刻むらしい。
池畔に赤川晩翠詩碑が立つ。

Img_6618赤川晩翠詩碑(文久2年(1862)) 《地図

晩翠は萩藩士で後に山ロ明倫館の教授となったという。池中の鳥居は西北部にあった弁天社(黒山八幡宮に合祀)の一の鳥居だそうだ。
詩碑のそばに北方にある大村神社大村益次郎の墓鋳銭司(すぜんじ)郷土館への案内板があるが寄らなかった。

今宿東交差点で左に旧道に入る。四辻駅の北側で地元のおばさんから木造の駅舎は写真スポットだと教えられ行ってみた。

Img_6629四辻駅

それほどのことはないように思うが。駅の西南に大村益次郎の生家跡がある。

高橋川を渡る所あたりに古代山陽道の八千の駅家があったという。ここから街道から離れ二股を右に行き、四辻交差点を横切り周防鋳銭司跡に向かう。

Img_6637周防鋳銭司(じゅぜんじ)跡地図

このあたりの地名は鋳銭司「すぜんじ」

Img_6638説明板

街道に戻る。綾木川を渡るあたりに陶(立石)一里塚があったようだ。

Img_6642建石(立石交差点の南側) 《地図

このあたりの地名は立石で、鳥居は春日神社への参道。東京葛飾区立石の古代東海道の立石を思い出した。『東京散歩(奥戸街道)』に記載。

Img_6641説明板

東陶交差点で国道2号を横切って行く。

Img_6647円覚寺 《地図

この先で右から左に枡形に曲がって行く。「陶(すえ)上市」で御用物などの継場だった。

Img_6657陶地区案内図

Img_6648恵比須社(左・陶の市えびす)

Img_6649説明板

Img_6651陶上市の家並み 《地図

橋本橋(百谷川)を渡ると「陶下市」となる。

Img_6656恵比須社(左・陶下市えびす)

Img_6662寄舟神社(艫綱(ともづな)の森)

大内氏の祖という百済からの琳聖太子の着岸地という。「琳聖太子旧蹟碑」が立つ。以前は200m南の国道の傍らにあったが、国道工事のため、この地に移設された。
太子は焼物の作り方を伝え、以来この地で焼物が盛んに作られるようになったといい、「陶」の地名ともなっている。中世にこの地を領した大内氏の一族の右田弘賢は陶氏を称し、陶晴賢は下剋上で大内氏を倒した。

Img_6661説明板

案内図によれば向い側が小郡検問所跡

Img_6667日吉神社鳥居 《地図

少し離れているが時間に余裕があるので行って見る。

Img_6668畑の間の参道

Img_6672日吉神社

Img_6670説明板

さらに北方に「陶陶窯跡」(すえのすえのかまあと)がある。《地図

街道に戻る。

Img_6674茅葺きの家

廃屋のようで正面は荒れていた。

西陶バス停で県道335号と合流し、しばらく進んでから右に入って行く。

Img_6680真菰(まこも)池沿いを行く。《地図

池面に生えているのは真菰ではないようだ。

Img_6683ホテイアオイの花だろう。

山陽新幹線の高架の下をくぐり、大聖院にも寄った。

Img_6688小郡一里塚跡

「従安芸境小瀬川二十二里 従赤間関十四里」、山陽道の終点は近くなりけりだ。

Img_6691東津橋(椹野(ふしの)川)を渡って小郡宿に入る。

明治5年に東津橋が完成するまではここに渡し場があった。前方は山陽新幹線

Img_6693藩米津出蔵跡 《地図

並んで川口番所があった。

Img_6694説明板

Img_6695概念図(明治前半期)

「米及び雑貨輸出所」と名前が変わっている。

新丁踏切(JR山口線)を渡る。

Img_6696新丁地区

Img_6702御茶屋、勘場跡(新丁公民館) 《地図

Img_6700説明板

Img_6701配置図

Img_6703藤本金物店

Img_6704道標(右の植込みの中) 《地図

ここは山陽道と山口道との追分で、道標には「右 京江戸」・「左 萩山口石見」・「牛馬繋事無用」
小郡宿は山陽道と山口や萩、石見国へ通じる街道が交わる交通の要衝地で栄えた。

Img_6706説明板

Img_6709津市通りを南下して行く。

ちょうど昼頃だが、人も車も見当たらないこの静かさは何だ。小郡駅も新山口駅になってしまった。

Img_6708虫籠窓の旧商店

Img_6714三原屋本陣跡(左の駐車場) 《地図

長州藩の下関で外国船砲撃事件(下関事件)を詰問するための幕府の使者中根市之丞ら一行が、長州の諸隊によって襲撃され従者3名が殺害された三原屋襲撃事件があった所。中根らも藩が手配した船で江戸へ戻ろうとしたが、中関沖で暗殺された。

Img_6715粟島神社

この先で国道9号ガードをくぐり県道335号に出て、山陽新幹線をくぐって柏崎交差点で左に旧道に入る。

Img_6724しばらく山陽本線・宇部線(左)沿いの道を行く。《地図

大道付第1踏切を渡る。

Img_6729雨乞山(正面・標高160m)

狼煙場があったという。

Img_6731千見折川を渡ると緩やかな荒神峠への上りとなる。

宇部線を高架で越えて、宇部線と山陽本線の間の嘉川地区を行く。このあたりに嘉川一里塚があったようだ。

Img_6734嘉川八十八ヶ所霊場第21番大師堂(右)

県道335沿いの浄福寺が第1番

Img_6739上嘉川駅

ここで一休み。無人駅で屋根もないと思ったら右の方のベンチの上に小さな屋根があった。

上嘉川踏切(山陽本線)を渡る。

Img_6740嘉川市の家並み 《地図

嘉川市は半宿で、古代には山陽道の「賀宝(かがほ)駅家」が置かれた。

Img_6744恵比須社

Img_6748レトロ建物は何か?

嘉川市交差点で県道335号を横切り右に入り、嘉川福岡交差点で再び県道を横切り左に入る。《地図

Img_6759嘉川霊場第34番(左)・中野三仏(中)・道標(電柱の右後ろ)

中野三仏は、右から正徳3年(1713)、寛政8年(1796)、天明9年(1789)の建立という。

Img_6761道標(明治40年)

「左吉敷郡 阿知須床波 右厚狭郡山中舩木」で、右の山中宿、船(舩)木宿がこれからの進む方向だ。

Img_6769嘉川駅

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2014年11月14日 (金)

山陽道(福川駅→大道駅)

2014年10月28日

福川駅(JR山陽本線)・・・福川宿・・辰尾神社参道・・真福寺・・本陣跡・・・西町第2踏切(山陽本線)・・・夜市川土手・・・(山陽自動車道)・・・原踏切(山陽本線)・・(国道2号)・・夜市地区・・・赤坂峠・・・船山神社・・・光西寺・・・桜田八幡宮鳥居・宮島様・戌辰戦争凱旋記念碑・・・戸田市観音(心光寺)・・・辻地蔵・・やなぎ橋(夜市川)・・・国道2号・・山田家本屋跡・・・(山陽自動車道)・・旧道・・・魚切橋(苔谷川)・・・ドライブイン天野屋利兵衛・国道2号・・旧道・・椿峠・郡境碑・(防府市)・・・国道2号・・・旧道・・・国道2号ガード・・・地蔵祠・・・円通寺橋(新川)・・・円通寺・・・(国道2号)・・・富海宿・・富海小学校・・脇本陣跡・・本陣跡・・中町踏切(山陽本線)・・・橘坂第1踏切(山陽本線)・・・橘坂・・手懸岩・・茶臼山古戦場跡・・浮野峠改修碑・・浮野峠・・・(国道2号)・・・浮野駕籠立場跡・・又兵衛屋敷(茶屋)跡・・・浮野地区・・阿弥陀境界石・・徳地屋敷跡・道標・・春日燈籠・・春日神社御旅所・・昭和橋(柳川)・・・三の坪橋(馬刀川)・・・道標・・・県道54号・・・国衙跡交差点・・東林寺・・周防国衙跡・・・多々良大仏・・・長池・・毛利邸(毛利氏庭園・毛利博物館)・・・獅子殿御旅所・・佐波神社・・周防国衙跡標柱(西北隅)・・三方荒神宮・・周防国分寺・・武光家屋敷跡・・萬行寺・・・萩往還合流地点・宮市宿・・本陣跡・・宮市観音・・脇本陣跡・・・山頭火生家跡・・・萩往還分岐地点・・・土橋(土橋川)・・・(県道54号)・・・佐波川土手・・・大崎橋(佐波川)・・山陽自動車道・防府バイパスガード・・・玉祖神社・・・明照寺・・・玉祖神社石灯籠・・・佐野一里塚跡・・・西ヶ原下池・・・佐野峠・駕籠建場跡・・・山陽自動車道ガード・・・岩淵観音寺・・・孝婦石川阿石の碑・・・岩淵地区・・・瀬十郎の墓・・・新大橋(横曽根川)・・・国道2号ガード・・旧国道・・・大道小学校・・・大道駅(JR山陽本線)

  福川宿を抜け夜市川沿いを進み、赤坂峠から戸田市に下り、椿峠へ上って郡境碑で防府市に入った。国道2号の車列から逃れ、周防灘を眺めながら富海宿へ下って行った。
 よく整備された橘坂を上って浮野峠を越え、周防国の国衙跡の防府の市街地へ入り、毛利庭園で一休みして見覚えある萩往還との合流地点に出て宮市宿を進んだ。
 萩往還と別れ、佐波川の土手に出て大崎橋を渡って玉祖神社で黒柏鶏を見て、正面からの眩しい西日を受けながら佐野峠へ向かう。駕籠建場跡からの眺めを楽しみながら小休止して、峠から下って岩淵観音へ寄り、岩淵地区から大道駅に向かった。

  【ル-ト地図】(福川駅(58.1km)→大道駅(90.4km)まで) 

  写真をクリックすると拡大します。

Img_6166福川宿に入る。《地図

東町・中町・中市・西町から成り、伝馬14疋を常備。将軍家へ輿入れする篤姫一行が宿泊している。

Img_6167辰尾神社参道

鳥居の横が脇本陣跡という。

Img_6169真福寺

脇本陣としても使用され、周防三福寺の一つ。あとの2寺はどこか?

本陣町に進む。

Img_6180本陣跡福田家の門

Img_6179説明板

西町第2踏切(山陽本線)を渡り、御姫町の夜市(やじ)川の御姫橋のたもとに出る。寛永12年(1672)に夜市川の南の(御姫)開作が行われた。徳山藩主の直営の開作で、その資金お姫様の内証金(へそくり)だったとか。「姫君のへそくり」とは愉快な話だ。

Img_6187夜市川沿いを行く。《地図

Img_6188若山城跡方向 《地図

陶氏の本城で、陶隆房(後の晴賢)はここから出陣し、山口の主君の大内義隆を攻め滅ぼした。

山陽自動車道をくぐった先の夜市川と的場川が合流するあたりが夜市一里塚跡というが、何の痕跡も標示もない。《地図

夜市川から離れ、原踏切(山陽本線)を渡る。

Img_6201国道2号を横断して夜市地区へと入る。《地図

正面の細い道

Img_6203この突き当りで左に曲がって行く。

かつては矢地で栄えた所だ。

Img_6204赤坂峠への上り。

Img_6207赤坂峠 《地図

給水塔が立ち、西徳山総合グラウンドになっていて駕籠建場があった峠という感じはない。

西へ下って戸田(へた)市地区に入る。

Img_6215船山神社 《地図

戸田の地名由来という神社。戸田駅・戸田小学校がある。手前は碇(いかり)石で素盞鳴尊が、船形の山を船山と名づけたという。山を船に見立てたので周囲に碇石を配置したという。碇石はいくつもあり(5つ?)、この先で会った地元の人はそのいくつかを探し当てたと言っていた。

Img_6213説明板

Img_6216光西寺

Img_6217説明板

享保の大飢饉の餓死者を弔う石納塔は境内でなく、県道27号沿いにあるようだ。

Img_6219右に桜田八幡宮参道の鳥居・宮島様の祠・戌辰戦争凱旋記念碑 《地図

Img_6220宮島様

安芸の宮島(厳島神社)の大鳥居のように水の中にあるからこう呼ばれているだろう。

Img_6222説明板

Img_6226戌辰戦争凱旋記念碑

このそばにも碇石が1つある。

Img_6225説明板

Img_6227心光寺(戸田市観音)

Img_6230南無阿弥陀仏石塔婆(天明3年(1783)建立)

宝暦12年(1762)の飢饉供養塔

Img_6229説明板

Img_6232戸田市の家並み

Img_6233辻地蔵堂(右) 《地図

Img_6234汗をかいて凶事を知らせる「汗かき地蔵」

汗かき地蔵は、高野山大王町(三重県)にもあり、日光街道の宇都宮宿の一向寺には「汗かき阿弥陀」が鎮座する。

Img_6235説明板

やなぎ橋(夜市川)を渡り、国道2号に出る。

Img_6238山田家本屋跡 《地図

江戸時代に湯野・戸田地区の領主であった堅田氏の家臣の山田氏の屋敷跡。幕末には萩(長州)藩主の毛利敬親村田清風、昨日通った善宗寺に墓がある女流歌人中山三屋などが立ち寄ったそうだ。

山陽自動車道をくぐって、すぐ右に旧道に入り椿峠へ向かう。

Img_6244椿峠への上り。《地図

この手前の苔谷川の魚切橋あたりに戸田一里塚があったようだ。

Img_6248ドライブイン天野屋利兵衛(左)で国道2号に出る。《地図

右に旧道のような道が続いているが、途中で荒れて来て歩行困難となる。

Img_6249忠臣蔵や歌舞伎で有名な天野屋利兵衛は、四郎谷の出身で父は徳山藩家老の神村将監という伝説があり、四郎谷の海が見える小高い山の上に、天野屋利兵衛生誕地碑があるそうだ。《地図》(四郎谷はこのあたり)
今は営業していないようだが?忠臣蔵の陣太鼓はもう鳴らないか。

信号はなくひっきりなしに車が通る国道2号を、なんとか渡って郡境碑の立つ旧道に向かう。

Img_6253左に旧道に入る。《地図

Img_6252これは案内板で郡境碑はここを上った所にある。

Img_6254草ぼうぼうの道を進む。

Img_6255郡境碑(嘉永6年(1853)・右下は国道2号)

「従是東都濃郡」・「従是西佐波郡」で、都濃郡戸田村と佐波郡富海村の境だった。今は周南市から周防の国衙のあった防府市に入る。

ここを直進して右へ国道に下りる。

Img_6259しばらく歩道のない国道歩きとなる。

Img_6262左に旧道に入ってほっとする。《地図

右にカーブして国道2号のガード下をくぐって反対側に出る。

Img_6265気分のいい道をどんどんと富海(とのみ)へ下る。《地図

Img_6266周防灘が見える。

昔は険しく暗く寂しい椿峠を越えた旅人は、海が見える明るい景色と、富海宿が近づいたことにほっとしただろう。今は国道2号の車の列から逃れてやれやれだ。

Img_6270地蔵の石祠

地蔵には明和2年(1765))の銘があるそうだ。後ろの新川のゲンジボタルの幼虫は育ったのだろうか。

Img_6274円通寺 《地図

慶応2年(1866)に設置された徳山藩軍西衛団三小隊の陣屋になった。

富海交差点(国道2号)を渡り富海宿に入る。

Img_6281脇本陣跡入江家(富海小学校の先の左)

東町、中町、新町から成り、漁業と船運で栄えた。中町の中央に高札場、本陣、天下御物送り番所が置かれた。

Img_6285本陣石川家跡の門

門前の説明板と門扉のポスターが目障りだ。薩摩から江戸に向かう篤姫も休憩した家。
この向いが天下御物送り番所跡(公用の荷物、文書などの輸送の継場)

Img_6287説明板

Img_6289飛船(とびふね)問屋大和屋政助の船蔵

ここを入った海沿いか?道は続いていないようで引き返してしまったが船蔵は現存している。惜しいことをした。飛ぶように速く航行したことから「飛船」と呼ばれるようになったそうだ。詳しくは『故郷の幕末史』で。

Img_6294飛船問屋跡の石垣

この先の墓地の西端あたりに富海一里塚があったという。中町踏切(山陽本線)を渡り、富海駅の南側を通って行く。

Img_6302富海の海

砂浜は海水浴場になっている。

橘坂(きつさか)第1踏切(山陽本線)を渡ると橘坂(たちばなざか)の上りとなる。

Img_6308県道58号の手前を旧道に入る。《地図

左の石垣に「旧山陽道入口」の案内板。

Img_6312橘坂の急な上り。

Img_6315東海道の薩埵(さった)峠から眺めに似ている?

Img_6323手懸岩から

Img_6322説明板

「・・・其様東海道の薩埵峠によく似たり・・・」とある。

Img_6327茶臼山・県道58号・茶臼山トンネル・山陽本線方向の眺め

見る方向は違うが、こちらの方が今の薩埵峠からの眺めに似ているだろう。

Img_6326説明板

Img_6329茶臼山古戦場跡

Img_6330説明板

Img_6331大内輝弘の祠

Img_6339浮野峠改修碑(明治4年)

ここは平坦地になっているが浮野峠はこの先だ。

Img_6341説明板

Img_6346石畳道の名残り

樹木には名札がついていて勉強になる。

Img_6347浮野峠へ着く。 《地図

Img_6349竹林の間を下って行く。

Img_6351国道2号の上を越える。

Img_6354駕籠立場跡 《地図

斜め向かい側が又兵衛屋敷(茶屋)跡

Img_6355説明板

浮野地区に入って行く。浮野は富海宿と宮市宿の中継地で半宿だった。

Img_6359阿弥陀境界石

3kmほど北方の重源の創建という阿弥陀寺への道標とも、阿弥陀寺の四至の境界石の一つだという説もある。

Img_6370説明板

Img_6372地図(明治末~大正初期)

今も春日燈籠はあるが、往還松はない。

Img_6365徳地屋敷跡(大名休憩所)

道標は金比羅社と阿品社へのもので、ここに移設されたのだろう。

Img_6364説明板

Img_6366春日燈籠

Img_6376春日神社御旅所(柳川土手) 《地図

春日神社は山陽自動車道の先のかなり北方にある。

昭和橋(柳川)を渡って今宿地区に入る。三の坪橋(馬刀川・橋の銘板は「馬刃川」となっている)の手前に今宿一里塚跡があったようだ。

Img_6385道標(文政6年(1823)・正面右の民家の石塀前)

「不許葷酒入山」で、周防国観音霊場21番大光寺、22番現観寺への道標で、共に廃寺になって極楽寺《地図》に合併されているという。

県道54号と合流するあたりが、古代山陽道の勝間の駅家跡のようだ。
国衙(こくが)跡交差点で右折し北上し、周防国衙跡の間を通って行く。

Img_6392周防国衙跡(左右一帯) 《地図

Img_6397説明板

Img_6401多々良大仏 《地図

東大寺再建の立役者、重源の作と伝える。

Img_6402説明板

重源は周防の国司だった?

Img_6405長池

毛利邸(毛利氏庭園と毛利博物館)の外堀か。

Img_6406毛利邸の門

Img_6413紅葉

Img_6412毛利博物館

今日の行程は防府駅か大道駅までだ。ちょうど2時頃で中途半端な時間だ。ここから大道駅までは10km以上はある。佐野峠もあるし、ここでゆっくりして防府駅までにしようかと迷うが、天気もいいし、歩くのが本業だし本道駅まで行くことにした。

Img_6421佐波(さば)神社 《地図

合祀した四社の金切神社が周防国の惣社だった。

Img_6422由来

Img_6427三方荒神

台所や竈(かまど)の神が一般的だが、ここのはペットの守護神だと。

Img_6428由来

Img_6430_2周防国分寺仁王門

Img_6433金堂

安永8年(1779)に上棟、天明8年(1788)頃に再建完成。

Img_6434説明板

Img_6441武光家屋敷跡(防府天満宮大宮司・右) 《地図

この先で左に右に枡形に曲がって行く。

Img_6445萩往還合流地点 《地図

左から来る萩往還と合流し、宮市宿を西進する。右折すれば防府天満宮の参道だ。
防府天満宮・宮市宿の本陣跡・宮市観音などは『萩往還④』に記載。

Img_6454山頭火生家跡 《地図

終(つい)の棲家は香川県松山市の「一草庵」(四国遍路道(愛媛県⑧))に記載。

Img_6453説明板

Img_6455萩往還分岐地点 《地図

山陽道は直進、萩往還は右折。

Img_6461竹内酒造(創業明治10年)

仕込み水は佐波川の伏流水だそうだ。

県道54号と交差するあたりに「千日町一里塚」があったという。県道54号を渡り北西から南西に進み、佐波川に向かう。

Img_6468佐波川土手を行き、正面の大崎橋を渡る。《地図

かつては「大崎の渡し」があった。土手下の植松八幡宮には寄らなかった。

Img_6482玉祖(たまのおや)神社 (周防国の一宮 ) 《地図

この地を「魏志倭人伝」が、邪馬台国に次ぐ大国であるとする投馬国に比定する説もあるというが、その根拠は何なのか?
「南至投馬國、水行二十曰。官曰彌彌、副曰彌彌那利。可五萬餘戸」

Img_6479由緒

Img_6489黒柏鶏

Img_6480説明板

明照寺、玉祖神社石灯籠を過ぎて行く。

Img_6498佐野一里塚跡(ガードの内側に標柱)

標柱には「一里塚跡 小瀬川より十九里 赤間関迄十七里」で、小瀬川を渡って周防国(山口県)に入って、早や19里で、山陽道の終点の赤間関(下関)までは残り17里となった。なんとなく寂しい感じだ。

もう4時近くで強い西日の逆光を受けながら行く。

Img_6504西ヶ原下池沿いを進む。

Img_6506佐野峠と佐野墓地への分岐の標識(正面)で左に山道に入る。

Img_6509道筋ははっきりしていて迷うこともない。《地図

Img_6510気分のいい道だ。

少し時間が気になるが、日の入りにはまだ余裕があるだろう。

Img_6517佐野峠から佐波川、大海湾方向

その向こうは秋穂の山並みか? ここは駕籠建場跡で、大田南畝が「山陽道第一の佳景」と書いている眺めだ。

Img_6512説明板

Img_6524下りの方がやっかいな道だった。

道はぬかるんでいる。

Img_6527しばし雑草をかき分けて進めば車道に出る。《地図

山陽自動車道をくぐり、左に入り岩淵観音寺に寄る。

Img_6536梵鐘(寛永19年(1642)) 《地図

後ろのイチョウの黄葉の方が見事だ。境内に磨崖仏の案内標識があった。時間も気になるが、もう大道駅に向かうだけだし行こうと思ったら、「登り口 (所要時間30分)」であっさりと引き返した。

Img_6534由緒

Img_6533説明板(梵鐘)

Img_6540「孝婦 石川阿石の碑」(右端)・「近藤芳樹先生生誕之地碑」

阿石(おいし)は周防三孝女の一人。昨日は徳山で阿米の像を見た。もう一人の下関の小月のお政にもいずれ出会うだろう。

Img_6544説明板

Img_6545岩淵地区に入る。

宿馬十匹の半宿だった。

Img_6549瀬十郎の墓(新大橋(横曽根川)の手前) 《地図

このあたりが入り海だった頃、瀬十郎という若者が蛤を食べて中毒死したという。墓を粗末にすると祟りがあると言い伝えられているとか。「触らぬ神に祟りなし」でずっとこのままか。

新大橋を渡り、国道2号ガードをくぐる。

Img_6561旧国道跡を進み、ここから左に入る。《地図

大道(だいどう)小学校の先で左折して大道駅に向かった。

Img_6565大道駅(JR山陽本線)

ちょうど5時だ。今日も延べ9時間以上よく歩いた。

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2014年11月11日 (火)

山陽道(高水駅→福川駅)

2014年10月27日

高水駅(JR岩徳線)・・・橿原神社・呼坂宿・・本陣跡・・呼坂橋(中村川)・・吉田松陰・寺嶋忠三郎訣別の地碑・・西善寺(脇本陣跡)・・・古市坂・・地蔵祠・・・大江踏切(岩徳線)・・・国道2号・・・勝間歩道橋・旧道・・・勝間地区(間の宿)・・(勝間駅)・・国道2号・・・跨線橋(岩徳線)・・・遠見交差点・旧道・・・国道2号・・・(岩徳線ガード)・・・(山陽自動車道)・・・垰交差点・・・旧道・・・郡境碑・(下松市)・・・(周防久保駅)・・・(岩徳線)・・・二ノ瀬橋(切戸川)・・切山交差点・・久保市宿・・由加社・久保市橋(切戸川)・・本陣跡あたり・・恵比須社・・里程標・・・塩売垰・石灯籠・恵比須社・・・生野屋交差点(国道2号)・・生野屋踏切(岩徳線)・・・教応寺・・・花岡宿・・花岡勘場跡・御茶屋(本陣)跡(花岡ふるさと花だん)・・法静寺・出世福徳稲荷大明神社・・閼伽井坊・花岡八幡宮・・・(周防花岡駅)・・・(山陽新幹線)・・・(国道2号)・・・和田橋(末武川)・・・(周南市)・・見上ケ坂・・・順正寺・・・西光橋(西光川)・・・山縣本店・・・(山陽新幹線)・・・桜木交差点(県道347号)・・白見ケ森と伏見稲荷社跡・・旧道・・早乙女坂・・・遠石の宮水・・県道347号・・旧藩舟方跡(御船蔵跡)・・旧道・遠石地区・・遠石八幡宮・・・梅花橋・・・影向石・・宝性寺・一畑薬師道標・念仏坂・・遠石一里塚跡・一畑薬師道標・・県道347号・・・青山町交差点・さすり仏・旧道・・・孝女阿米像・・・楊柳橋(東川)・徳山宿・徳山城下・・桜馬場交差点・・益田親施幽閉地・・花畠練兵場跡・・徳山藩作事方跡・・藩武方跡・・徳山藩館邸跡・・祐綏神社・・・福原元們幽閉地・・・山陽道・・・相生橋(山田川)・・・(山陽新幹線)・・・浦山交差点(県道347号)・・旧道・・・道標・・・国道2号ガード・・川崎観音・・・音羽橋(富田川)・・・大安寺・・・道源休屋跡・・・善宗寺・・・華厳寺・・・道標・・・道標・・山崎八幡宮・・富田宿・・浄真寺・・浄真寺橋・・・祥雲寺・・・(県道347号)・・・温田峠・萩御水茶屋所跡・温田観音堂・温田一里塚跡・駕籠立場跡・・・県道347号・・・旧道・・・福川駅(JR山陽本線)

  今日の行程は峠越えなどもない起伏の少ない道で、好天に恵まれて徳山の中心街を通り、福川駅まで進んだ。

  【ル-ト地図】(高水駅(24.8km)→福川駅(58.1km)地点) 

  写真をクリックすると拡大します。

Img_5818呼坂宿へと進む。《地図

応安4年(1371)の今川了俊の旅日記「道ゆきぶり」に 「えび坂と言う里の寺の侍りしに泊まりぬ」とあり、えび坂が転じてよび坂となったとか、宿の地形がえびに似ていることから転じて呼坂になったともいう。

Img_5824本陣跡河内家

Img_5826説明板

Img_5829呼坂宿の家並み

呼坂橋(中村川)を渡る。中村川を挟んで東を新町、西を西町と呼んだ。

Img_5833吉田松陰・寺嶋忠三郎訣別の地碑(右) 《地図

向い側あたりが木戸孝允の祖父で町医者の藤本玄盛旧宅跡という。

Img_5835碑文

Img_5836説明板

Img_5837宿場風情の残る家並みが続く。

Img_5839半田ミシン商会

Img_5844旧家

Img_5845西善寺 《地図

脇本陣跡を勤めていた。参道あたりに高札場があった。

呼坂宿を抜けて行く。

Img_5847古市坂を上る。《地図

欽明寺坂(欽明路峠)、丸子坂(中山峠)とともに交通の難所の一つだったというが距離は短い。途中の左から右へ大きくカーブして行く。コックリ曲がりというそうだ。坂上あたりに地蔵の祠がある。

Img_5849坂上近くは急坂だ。

Img_5852岩徳線・国道2号の方へ下って行く。

国道2号の手前で左折して行く。

Img_5856岩徳線沿いを行く。《地図

車道のガードをくぐり大江踏切を渡り、岩徳線沿いを進み国道2号に合流する。周南市勝馬の歩道橋から左に旧道に入ると勝間地区だ。

Img_5866勝間地区 《地図

間の宿だったというが、宿場を偲ばせるものはない。

勝間駅を左に見て再び国道2号に出て、跨線橋で岩徳線を越え、遠見交差点で旧道に入る。そのあたりに遠見の一里塚があったようだ。

Img_5874やっぱり旧道はいいね。《地図

Img_5877トンネルのような所だ。

Img_5878樹木の覆い被される道だった。

このあたりは《地図》に道筋の標示はない。

国道2号に出て岩徳線のガードをくぐったあたりに茶屋と御駕篭立場があったらしい。山陽自動車道をくぐり、垰(たお)交差点の先で左に旧道に入る。郡境碑から周南市から下松(くだまつ)下松市に入る。

Img_5893郡境碑 《地図

「東 周防之国 熊毛郡」・「西 周防の国 都農郡

大田南畝(蜀山人)の九州から京都に上る道中記「小春紀行」(文化2年(1805))に、「松原をゆけば道の左に従是東熊毛郡、従是都濃郡といえる杭なり、わびしき人家あり、たお(垰)市といふ」。同じ年に大田南畝は長崎の浦山街道(時津街道)の「鯖くさらかし岩」で狂歌を詠んでいる。

下松(市)の由来話:「推古天皇の頃、鷲頭庄青柳浦の松に大星(北辰星ともいう)が降り、七日七夜光輝き「百済の皇子がこの地へやって来る」とのお告げがあった。それから3年後に百済から琳聖太子がやって来た。人々は社を建て大星を祀った。このことから「星が降った松」が「降り松」となり後に「下松」となった」

岩徳線をくぐり、二ノ瀬橋(切戸川)を渡って切山交差点の先で久保市宿に入る。

Img_5908久保市宿の家並み 《地図

Img_5912由加神社(久保市橋の手前左側)

Img_5913由来

久保市橋(切戸川)を渡った先に本陣跡(空地?)があるらしいが表示などはないようで分からず。

Img_5916旧家

久保市宿にはあまり見どころはなかった。

Img_5924塩売垰(しおりがたお)へ上って行く。《地図

右側には恵比須社の祠がある。

Img_5922西蓮寺

左は明治時代に米の品種改良に尽力した篤農家の「小林武作君之碑」

Img_5923里程標

「距都農郡役所二里八合八丁」?

Img_5926急坂となる。

Img_5930塩売垰 《地図

このあたりは高台の平坦地になっている。右側(北側)を岩徳線と国道2号が通っている。「汐入峠」とも言われ、かつてはこの辺りまで海が入り込んでいたのではないかという。
岡市一里塚があったのもこのあたりか。

Img_5931北側の岩徳線・国道2号方向の眺め

下って生野屋交差点(国道2号)を横切り、生野屋踏切(岩徳線)を渡って左折して花岡宿へと進む。生野屋には古代山陽道の生屋の駅家(えきか・うまや)が置かれた。

Img_5942教応寺 《地図

山陽道筋で徳山藩の代々の藩主が立ち寄った記録が残っているそうだ。

Img_5945花岡宿の家並み

花岡八幡宮の門前町で、本陣(御茶屋)、天下物送り番所、勘場(代官所)などが置かれた。豊臣秀吉の朝鮮出兵の際には、名護屋城への往復道中で花岡に泊まっている。

Img_5959花岡勘場跡・本陣(御茶屋)跡 《地図

萩本藩の役所(代官所)跡で、今は「花岡ふるさと花だん」になっている。正面の槇柏の木の下に、江戸に向かう途中で病になった長州(萩)藩の13代藩主毛利敬親の心をなぐさめたという「春雨桜」の碑がある。(「春雨」は敬親の雅号) 長州戦争で使われた?大砲の砲身も置かれていた。

Img_5956説明板

Img_5953勘場・御茶屋・御番所図

Img_5968法静寺境内から

門前に堂々と出世福徳稲荷大明神社の鳥居が立っている。法静寺は白狐伝説に由来する寺なのだ。

Img_5966出世福徳稲荷大明神社(法静寺内)

代官所(勘場)で書物がなくなり、白狐の墓に願を掛けたところ見つかったお礼に代官所が建てたという稲荷社。「きつねの嫁入り」舞台の作成中か。

Img_5965きつねの嫁入り(稲穂祭)

11月3日に行われる。

Img_5970金分銅酒造

Img_5973閼伽井坊 《地図

花岡八幡宮の別当寺だった。

Img_5983花岡八幡宮楼門

Img_5974説明板

Img_5980山陽道を歩き始めたのが去年の11月16日で、打出天神社は七五三の参詣者で賑わっていた。早いもので1年が過ぎようとしている。「少年老い易く学成り難し」か?

Img_5978多宝塔(国重文)

閼伽井坊塔婆だからまさに神仏習合・一体だ。

Img_5977説明板

Img_5984センダン(栴檀)

隣の花岡小学校の生徒は今は皆、「栴檀は双葉より芳し」だろうが、いずれ・・・

周防花岡駅を過ぎ、山陽新幹線をくぐったあたりに広石一里塚があったようだ。国道2号をくぐって岩徳線の手前で和田橋(末武川)を渡って行くと再び周南市に入る。

Img_5993見上ケ坂を上る。《地図

この坂は明治時代に作られた新道で旧道の坂はもっと急で、今は私有地となり廃道になったそうだ。カーブしない直線的な坂だったのだろう。《地図》(このあたりか)
坂上の久米市は交通の要衝で高札場があったという。

Img_5996旧商店

Img_6008山縣本店地図

明治8年創業の酒造

この先で山陽新幹線をくぐり桜木交差点(県道347号)に出て、すぐ先の右の旧道に入る。

Img_6013白見ケ森と伏見稲荷社跡 《地図

花岡の福徳稲荷大明神社の「狐の嫁入り」行列はここ(福徳稲荷の分社)まで来たそうだ。

Img_6012説明板

Img_6020早乙女坂を下る。《地図

Img_6022説明板

文化の違いがもたらした悲劇か。何も殺さなくてもよかろうに。遠石千日寺(跡)に移されている「早乙女之碑」。千日寺は遠石(といし)八幡宮の参道の東側にあったそうだ。別当寺だったのだろう。

Img_6028遠石宮水

10ℓ・100円だと。ペットボトル分だけなら10円で買ってもよいのだが。

Img_6027能書

Img_6036旧藩舟方(御船蔵)跡 《地図

当時はこのあたりまで海が来ていたのだろう。今はJR線路とその後ろは工場地帯だ。

Img_6034説明板

Img_6048遠石八幡宮

Img_6039説明板

Img_6042洪鐘

元應2年(1320)鋳造

梅花川を渡る。

Img_6057影向石(えいこういわ)

宇佐八幡大神がこのの上に降り、「・・・嗚呼遠し」と言ったのが「遠石」(といし)の地名由来とか。「ようごう」とも読まれ、東京江戸川区の善養寺には「影向の松」・影向寺(神奈川県川崎市)などがある。

Img_6056説明板

Img_6058遠足地区の町並み

Img_6051説明板

Img_6059宝性寺(右)・念仏坂(正面)・道標(電柱の右)

念仏坂は宝性寺に由来する坂名ではなく、坂上にあった一畑薬師堂に由来する。
道標には「出雲国いつばたやくしかんじょうの地」と刻む。この坂に遠石一里塚があったという。

Img_6061説明板

Img_6063念仏坂を上る。《地図》(道筋の標示はない)

民家の間の細く短い坂。

Img_6064下って県道に出る。

網ネットの向う側に一畑薬師の道標で、「古のうへ丹いちば多たやくしあり」と刻むそうだ。

Img_6068青山町交差点で県道と分かれ左に進む。

分岐点に「さすり仏」が鎮座する。

Img_6071さすり仏 《地図

江戸時代に毛利氏を探っていた隠密を藩士が見つけて殺したので、村人がその祟りを恐れて作った墓とか、行き倒れ人の墓だともいわれる。その後、通りかかった旅人が石をさすったら、脚の疲れが治って評判になり、難病を避ける力があるとの噂が流れ、大勢が訪れたため、徳山藩は昼夜番人を置いて警備したとか。
左に「さすり仏奉賛会」の碑が立っている。そばで見ると随分とさすられ、撫でられたのか艶がよく光っているように見えた。

Img_6082徳山市街地に入る。

Img_6076孝女阿米像 《地図

Img_6078説明板

これは「孝女阿米顕彰会」が設置したもの。

Img_6080楊柳橋(東川)を渡れば徳山宿、徳山城下だ。《地図

徳山駅周辺に御茶屋(本陣)や目代所、高札場があったというが、遺構や案内板などはないようだ。

徳山駅手前で山陽道から離れ、桜馬場交差点から徳山館邸跡に向かう。

Img_5525徳山館邸跡への並木道 《地図

この道沿いの左右にいくつかの史跡がある。

Img_5520益田親施幽閉地

Img_5519説明板

Img_5524花畠練兵場跡

Img_5522説明板

Img_5527徳山藩作事方跡

後ろは周南市美術博物館

Img_5526説明板

向い側が武方跡

Img_5528説明板

Img_5548徳山藩館邸跡(周南市文化会館) 《地図

萩(長州)藩の支藩の「御城」

Img_5532説明板

Img_5543前庭

左は大坂城築城の残石。四国の小豆島には大坂城残石記念公園がある。

Img_5541説明板

Img_5540祐綏(ゆうすい)神社

左端が徳山改称「二百五十年記念碑」

Img_5537説明板

Img_5555福原元們幽閉地 《地図

Img_5554説明板

山陽道に戻り、浦山交差点で右斜め道に入る。浦山地区に浦山一里塚があったらしいが場所は特定できていないようだ。

Img_6093道標(文政11年(1828)) 《地図

「當国十八番 景清護身観音」

ここを右折し、国道2号をくぐり川崎観音に寄る。

Img_6098川崎観音堂

徳山藩三代藩主元次以降の藩主はこの観音の前を通過する時は駕篭を降り、帆船がこの沖を航行する時には帆を降ろし、漁夫も鉢巻きを外して拝礼したという。

Img_6099説明板

Img_6105景清目洗い井戸

目病になるから賽銭は入れるなと書いてあるのに、凝りない面々が多い。
落語『景清

Img_6103説明板

山陽道に戻る。

Img_6115音羽橋下の富田川(とんだがわ)

色とりどりの大きな鯉がうようよと泳いでいる。放流したようだ。
この橋は徳山城下への入口として重要地点で、富田川も城(館邸)の外濠的な役割を果たしていて、東詰めに関門があり番所を置いていた。このあたりまで海が入り込み、海上航行の船もここの常夜燈を目標にしていた。

Img_6117大安寺 《地図

このあたりは「政所」(まんどころ)という地名だ。中世には富田市と呼ばれ、近隣の物資集散の中心地で、当時は富田川は今より西よりを流れ、上方へ荷を積み出す古市の港に達していた。東大寺の年貢米もこの富田の津から船で運ばれた。年貢米銭を管理する役所が置かれ、政所と呼ばれていたそうだ。

Img_6119道源休屋跡(右) 《地図

道源家の屋敷で、道中休息所として広場が設けられていたそうだ。

Img_6121中山三屋(みや)の墓(善宗寺)

幕末から明治の歌人。尼姿で関西・中国地方の豪商・勤王家らと交際し、各地の情報を集めたそうだ。

Img_6124道標

「是より左上かたみち」・「是より 右下のせきみち」でもとは手前の県道3号との交差点にあったものか。

Img_6123説明板

Img_6132山崎八幡宮(正面)

ここにも道標で、「右上かたみち 左下のせきみち」。ここを枡形のように曲がって富田宿に入る。

Img_6136説明板

Img_6138亀趺(きふ)

亀は龍の子供と考えられていて、先人の偉業を讃えるために碑を龍の子である亀の背に載せるという形式が作り出されたとか。
右に「毛利元就公ゆかりの石碑」の立札。

Img_6139「亀趺」の碑文の一部なのか?

Img_6142富田宿の家並み 《地図

新町・平野・古市から成り、山崎八幡宮の門前町として賑わった。新南陽富田郵便局あたりが本陣跡。

平野地区にはには古代山陽道の周防国の5番目の駅家が置かれ、生屋駅と勝間駅(防府市)の中間だった。

Img_6145浄真寺

本堂前に「原田謙介(南谷)先生碑」がある。嘉永4年(1851)から読み書きそろばんなどを教え、特に歌や書に堪能であったとある。
山崎隊がつけたという本堂の柱の刀の傷跡は見損なった。

Img_6146説明板

この先で左折して南下して県道347号を横切って右折して行く。

Img_6152祥雲寺(奥) 《地図

天保の頃、道源家が開作した潮止め工事完成のために人柱となった娘おまつの墓が道源家の墓地にあるそうだ。これらの事は祥雲寺のHPには載っていない。この寺の開基が道源家で都合が悪いからだろうか。

再び県道347号を横切って温田峠へ向かう。

Img_6161温田観音 《地図

今では峠らしくもないが、このあたりに萩御水茶屋所・温田一里塚・御駕籠立場があったという。「雨乞い観音」の温田観音堂も今は寂れている感じだ。

県道347号に下り、右に旧道に入り、山口銀行の所を左折し福川駅に向かった。

Img_6165福川駅

今日もけっこう歩いたが快調だ。

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2014年11月 4日 (火)

山陽道(柱野駅→高水駅)

2014年10月26日

柱野駅(JR岩徳線)・・・西氏橋(御庄川)・・・(JR岩徳線)・・・下市橋(御庄川)・・柱野市地区・・教法寺・・上市橋(御庄川)・・地蔵祠・・千体仏堂・・(県道15号)・・・(JR岩徳線)・・・(県道15号ガード)・・・中峠・・・(県道15号)・・・欽明路峠・・・欽明路橋(山陽自動車道)・・・欽明路坂・・・欽明寺・・・周防源氏武田家屋敷跡・・・東部コミュニティセンター・・・(欽明路駅)・・・上野宮神社・・・上野口第2踏切(JR岩徳線)・・・丈六第5踏切(JR岩徳線)・・・(岩徳線ガード)・・・義民田坂市良右衛門碑・・玖珂本郷宿・・蓮光寺・・祥雲寺・・岩国藩御茶屋(本陣)跡・代官所跡あたり・・(柳井小路)・・浄光寺・・高村酒店・・水無川橋(水無川)・・萬久寺・・藤川醤油醸造・・菅原神社・・・千束畷・・・東川橋(東川)・・高森宿・・椙杜八幡宮・泉山・・受光寺(脇本陣跡)・・道標・・本陣跡・・吉田松陰常宿の地碑・・明専寺・・報明寺・・宇野千代文学碑・・浄泉寺・・・高森天満宮・・・掛ノ坂・・孝行塚・・・(米川駅)・・・旧道・・・県道144号・・・隅名橋(長野川)・・・天王社・・・差川十字路・県道142号・・・新旧丸子坂入口・(宗泉寺跡)・・旧道・・馬の瀉血場跡あたり・・新道・・・旧道合流地点・・・中山峠・駕籠立場跡・(周南市)・・郡境碑・・・中山道踏切(JR岩徳線)・・・中山橋(清屋川)・・・今市宿・・高水村塾之址碑・正覚寺(脇本陣跡)・・今市橋(石光川)・・道標・・荒神社・・・跨線橋(岩徳線)・・・高水駅(JR岩徳線)

  月末の週は天気が良さそうで、絶好の街道歩き日和となるだろう。今日は中峠から欽明路峠を越えて、玖珂本郷宿から高森宿へと進み、島田川沿いに掛ノ坂を上って、丸子坂を上った郡境碑の立つ中山峠で岩国市から周南市に入り、今市宿まで行った。

  【ル-ト地図】(高水駅(24.8km)まで)

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Img_5562柱野市(いち)に入る。

下市地区→上市地区→古宿地区と通って行く。

Img_5569柱野中学校のレトロな校舎 《地図

校舎の屋根はギャンブレル屋根というらしい。平成11年から休校中のようだ。

Img_5574千体仏堂

施錠してあり小さな千体仏は拝めず。事前に連絡すれば開扉してくれるようだ。

Img_5575説明板

古宿地区を抜け、県道15号を横切って行く。

Img_5579古宿川沿いを進む。

この先でJR岩徳線をくぐる。

Img_5592中峠への上り

左は欽明路道路(県道15号)の欽明路隧道。欽明路峠よりきつい上りだ。この手前に二軒屋一里塚があったのか?

Img_5594中峠

駕籠立場があったという。何の標示も見晴らしもない。

Img_5595下って緩やかに上って欽明路峠へ向かう。

Img_5599欽明路峠だろう。《地図

「周防なる磐国山を超えむ日は手向けよくせよ荒しその道」と万葉集にも詠まれた難所だったが、今は何てことはないただの車道だ。車の往来の少ない静かな道なので気分はいい。中峠と欽明路峠を合わせて磐国山と呼んだという。

Img_5605欽明路坂を欽明寺へ下って行く。(右に説明板)

Img_5606説明板

Img_5609欽明寺地図

欽明天皇が御幸の際に休息したことからの寺号という。欽明天皇が腰掛けたと伝えられる石もあるそうだが探さなかった。

Img_5610欽明路地区の家並み

Img_5616周防源氏武田家屋敷跡

周防源氏の祖、武田宗慶(小三郎)ほか歴代の墓もある。今は無住で雑草がはびこり荒れてきているのが何ともいい感じだ。

Img_5615説明板

Img_5624東部コミニティセンター

もとは玖珂小学校分校の校舎。今日は岩国市議会議員選挙の投票所になっている。

上野宮神社を過ぎ、上野口第2踏切を渡って岩徳線沿いを行く。野口一里塚はどのあたりか? 古代の山陽道の野口には駅家が置かれていた。丈六第5踏切を渡り返し、八幡下交差点から岩徳線ガードをくぐって行く。

Img_5637義民田坂市良右衛門碑

Img_5636説明板

Img_5639玖珂(くが)本郷宿に入る。

本郷市、新市、阿山市と市場町から成り、玖珂三市と呼ばれた。本郷市の玖珂町支所と玖珂小学校の間の駐車場あたりが岩国藩の御茶屋(本陣)と代官所跡というが、案内板などはなかった。

Img_5644祥雲寺地図

後方は鞍掛山城の鞍掛山か。玖珂駅の北には鞍掛合戦の戦死者を埋葬した千人塚がある。

Img_5647鞍掛合戦で毛利元就に敗れた鞍掛(懸)城主の杉隆泰・父宗珊墓所。

Img_5659祭りも近い

「Kid Museum」の横を南に向かう道はかつての柳井小路で、新市には高札場があった。

Img_5664高村酒店 《地図

このあたりは阿山地区だ。

Img_5671藤川醤油醸造店

Img_5675菅原神社

ポスターの「天神まつり」の玖珂天満宮。鳥居の右にイチョウと後ろにモミ、左にモミとクスノキが並ぶ。

Img_5673説明板

Img_5680岩徳線沿いを進む。

Img_5683千束畷 《地図

真っ直ぐな畷(なわて・縄手)道だが、今は道幅が広く普通の車道のようにしか見えない。「周東千束」バス停がある。

東川橋(東川)を渡って高森宿に入る。東川の300mほど下流の河原は享保一揆(享保2年(1717))の参加者に処分の申し渡しがあった高森裁許場跡だそうだ。

Img_5689高森宿

町の東を市頭、西側を市尻と呼び、その間が上市・中市・下市に分けられていた。

Img_5691椙杜八幡宮参道 《地図

種々の樹木の混成並木道だ。参道の入口あたりに椙杜一里塚があったようだ。

Img_5692椙杜八幡宮

ここは泉山で朝鮮出兵時名護屋城に向かった秀吉の陣営が布(し)かれた所という。

Img_5701高森宿の家並み

Img_5702大庭書店

Img_5704受光寺

鞍掛合戦で敗死した杉氏家老宇野筑後守景政の嫡子、宇野筑後教賢が出家、開基した寺院で、藩政時代には28の末寺を持つ大寺であったという。この先の山本家とともに脇本陣を勤めた。
この先の寺の角に「妙見道」の道標が立つ。

Img_5711旧家

Img_5714本陣跡

Img_5715吉田松陰常宿の地碑 《地図

Img_5721宇野千代文学碑 《地図

「その高森の 廣い往還を 思ひ出すたびに なぜあの山奥に ふいにあんな美しい 町並みがあったのか 不思議に思ふ」

Img_5731島田川に突き当たり土手上を行く。(正面は天神橋)

島田川通船発着場があり、通船は島田川河口の浅江まで通じていて穀類、紙、塩などを運送し、幕末まで流域の産業開発に貢献していたそうだ。

Img_5730高森天満宮 《地図

遠石八幡宮、防府天満宮と並ぶ周防国三大天神の一つ。毎年11月下旬に行われる秋の大祭は大勢の参詣者で賑わうという。

米川橋あたりで土手を下り、島田川と岩徳線の間の県道144号を進む。

Img_5740掛ノ坂を上って行く。《地図

このあたりは岩盤が川に向かって突き出て、道は岩盤を越えて行く急坂の難所だった。JR岩徳線の敷設のため岩盤が破砕されて平坦な道が整備された。掛ノ坂遺跡とはどういう遺跡なのか?右は孝行塚。

Img_5739説明板

蛍橋バス停あたりから左に旧道に入る。そのあたりが差川一里塚跡か? 再び県道144号に出て差川(さすかわ)十字路で県道142号へ入り、丸子坂から中山峠へ向かう。

Img_5750新旧丸子坂入口 《地図

右が新道で廃寺の宗泉寺の参道入口。石仏は淡海和尚が島田川沿いに差川から弘末地区までの新道(淡海道)を開拓した事を記念して寄進された西国三十三観音の4体、観音正寺、松尾寺、華厳寺、宝厳寺の観音像石仏。
下調べでは①旧道は整備されて通れる。②荒れていて通るのは困難。ということだったが果たして?

旧道は左に下って行く。ちょうどこのあたりで急に大粒の雨が降り出した。

Img_5755ここから正面方向に上るのだろう。

「旧山陽道 丸子坂」の標柱が立っているはずだが撤去されたのか見当たらず。このあたりが急坂にあえぐ馬の粗暴を防ぐため、3ℓから6ℓの血を抜いたという「馬の瀉血場跡」か?

Img_5756すぐにフェンスがある。《地図》(道の標示はない)

通行止なのか猪などの動物除けなのか分からず、草深いようで雨も降っているし引き返し、新道に戻る。

Img_5758新道を上る。

県道だがこの道も旧道の雰囲気がある。左から来るだろう旧道を意識しながら上る。

Img_5767左からの道が旧道か?

ちょうど地元のおじさんが二人いたので聞いてみる。やはり旧道で間違いなしだが、途中から草ぼうぼうの道という。

Img_5768旧道を下ってみる。

Img_5762この先は雑草と藪が行く手を阻み道筋は分からず。

右の石ころは道のように見えるが、小さな流れで水に入らねばならない。というわけで丸子坂の旧道は整備されたが再び荒れてしまい、今では通るのは困難だが、通ろうと思えば通れないこともない道と、結論づけた。

Img_5770中山峠に着いた。《地図

駕籠建場跡で少し先に郡境碑が立つ。もう雨は上がった。

Img_5772説明板

Img_5774郡境碑

「従是東玖珂郡」「従是西熊毛郡」で、岩国市から周南市に入る。合併してできた市名だが、どうもなじめない。「徳山市」のままでよかったと思うが。

中山峠から下って行くと、バイクの爆音が聞こえ始めた。バイク集団がこの道を走り上って来るのかと思って、嫌な気分になったが北側の「はだし天国サーキット」からの爆音で、ほっとした。でも近くの民家はうるさいだろう。
中山道(なかやまどう)踏切を渡って今市宿へと向かう。

Img_5792高水村塾之址碑 《地図

正覚寺は天明年間より今市宿の脇本陣を勤めていた。このあたりに今市一里塚があったようだ。
左端の石垣前が芭蕉句碑で、「ほろほろと山吹き散るか滝の音」

Img_5799今市宿の家並み

Img_5801竹本本店

Img_5802道標(右の民家脇)

「北 米川 川越 桑根村約四丁 上り西 八代 中須村道」

荒神社を過ぎ、跨線橋で岩徳線を越え、高水駅に着いた。

Img_5811高水駅(JR岩徳線)

北西の八代(やしろ)の湿原は本州では唯一のナベヅルの越冬地だったそうだ。今でもツルは来るのだろうか? 『ツルの里』

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