山陽道(嘉川駅→厚狭駅)
2014年10月30日
嘉川駅(JR山陽本線)・・・幸の橋(幸之江川)・・白松道道標・・・幸の橋交差点・・熊野神社・・・嘉川霊場第46番・・・(県道6号)・・(山陽新幹線)・・・今坂交差点・国道2号・・旧道・・・国道2号・・・割木松峠・食事処おいはぎ峠・・周防長門国境碑・(宇部市)・・旧道・・割木松地区・・庚申塔・・・国道2号・・・旧道・甲山川沿い・・・上山中交差点・国道2号・・旧道・・山中宿・・上山中(上市)地区・・熊野神社・・三界地蔵祠・甲山川沿い・・・国道2号・・・つるや食堂・・旧道・・・庚申塔・三界万霊塔・・国道2号・・下山中(下市)地区・・山中宿本陣跡・・旧道・・・国道2号・・・与助の首塚跡標柱・・・猿王子橋(甲山川)・・・車地交差点・旧道・・・駒の頭・・・二俣瀬の渡し跡・・永山本家酒造場・・・木田橋(厚東川)・・・二俣瀬交差点(国道2号)・旧道・・薬師堂地区・・秋葉神社・・庚申塔・・・国道2号・・・旧道・殿様道(どんだけ道・玉木坂)・・大歳神社・・(県道37号)・・(大坪川)・・旧山陽道標柱・・・国道2号・・正覚寺・・・旧道・・吉見小学校跡・・国道2号・・・吉見勘場跡・・・下岡交差点・・旧道・・(山陽新幹線)・・・国道2号・・(山陽新幹線)・・旧道・・・国道2号・・・吉見峠(90m)・・・旧道・・・六地蔵・・(宇部興産専用道路ガード)・・・船木宿・・一里塚跡・・船木宰判高札場跡・・岡崎八幡宮・・願正寺(寺小屋松下園跡)・・船木御茶屋跡・船木宰判代官所跡・船木宰判勘場跡(船木ふれあいセンター)・・旅人荷付場跡・・大木森住吉宮・・・茶屋交差点・国道2号・・・船木大橋(有帆川)・・・(小野川)・・新川交差点・旧道・・台ケ坂・・長谷川玄道寺小屋跡・・国道2号・・伏附峠・・・銭ヶ原交差点・・・逢坂バス停・旧道・・逢坂・・逢坂観音堂・・・国道2号・・逢坂交差点・県道225号・・・西見峠(57m)・(山陽小野田市)・・旧道・道標・・・埴生田堤・・・鴨神社鳥居・・・鴨神社・・厚狭宿・・祐念寺・・鴨橋(厚狭川)・・菅原神社・・千町踏切(JR美祢線)・・・寝太郎像・厚狭駅(JR山陽本線)
割木松峠の周防長門国境碑で、山口市から宇部市に入った。国道に分断された山中宿を通り、厚東川を渡り、旧道の玉木坂(殿様道・どんだけ道)を通って国道に出て吉見峠に上り、旧道を船木宿に下った。一里塚跡があり赤間関(下関)まで9里で、山陽道も残りわずかとなった。逢坂の旧道を通り西見峠で山陽小野田市に入り、厚狭宿へ下り寝太郎像が立つ厚狭駅まで行った。
【ル-ト地図】(嘉川駅(110.2km)→厚狭駅(136.5km)地点)
写真をクリックすると拡大します。
幸の橋 《地図》
渡ったすぐ先の左手に道標と、「山陽道と白松道の道しるべ」の標柱が立つ。
道標
「あじす とこなみ 中の村」(阿知須 床波 中の村)で、阿知須を経て宇部に向かう海岸通りの道との追分道標。JR宇部線に阿知須駅・床波駅がある。
幸の橋交差点で県道335号と合流し、すぐに右斜めに入って行く。
嘉川霊場第46番の祠・天満宮道標・石灯籠などが道沿いにある。
県道6号(山口宇部線)をくぐり、
山陽新幹線をくぐって行く。《地図》
一里塚跡はどのあたりか?
今坂交差点で国道2号に合流して割木松峠へ上って行く。
割木松峠 《地図》
「食事処おいはぎ峠」だが、今は追剥の出そうな雰囲気ではない。
「東 周防国吉敷郡」・「西 長門国厚狭郡」で、山口市から宇部市に入る。
すぐ先のホテルZOOの脇から右斜めに旧道に入り、割木松地区へ進む。防長の国境あった松を両国の農民が争って切り取ったための地名という。
再び国道2号に合流して行く。
右に旧道に入り、甲山川沿いを進む。《地図》
紐をほどいて通り抜ける。この先にもフェンスがある。
上山中交差点の手前で国道2号に出て、また右に入ると山中宿となる。上市では入口の専念寺が本陣だったが移転してしまった。
山中宿の上山中(上市)地区 《地図》
山中市は永和4年(1378)伊豆の住人伊藤彦四郎が開いたという。
伊藤彦四郎が応永元年(1394)に紀伊の熊野権現を勧請したという。ツルマンリョウの自生地で社殿の東西の傾斜面に多いらしい。
ここを右折し、甲山川沿いを進む。《地図》
国道2号に出て、つるや食堂から左に旧道に入り、山中下市へと進む。
庚申塔・三界万霊塔 《地図》
下市は国道に分断されている。
この先で国道に出る。
山中本陣跡 《地図》
国道を横切った北側にある。右に標柱のみで遺構は残らず。このあたりに宿場の面影はない。
このあたりが山中一里塚跡か。
この先で左に旧道が残る。
天保2年(1831)の約一万人が加わった大規模な百姓一揆の首謀者の一人で、斬首されてここに梟首されたという。昔は立派な松の木が立っていて目印になっていたそうだ。
車地交差点で左折して、厚東(ことう)川沿いを進む。《地図》
正平年間(1346~69)に島津家の家臣「藤本五左衛門が甲山川から木田平野に噴水式による灌漑サイホン式設備」とは恐れ入る。
厚東川西岸の木田村は川より位置が高く水が利用できない。厚東川の東を流れる甲山川の水位は木田地区より数m高いので、甲山川から水を引き、厚東川の左岸(車地側)で地下5mの深さまで水を落とし、川底に敷設した木管を通じて、右岸の木田地区の用水路に噴出させる方式をとった。川底の木管は松の木→土管(明治36年)→コンクリート管(昭和30年代)と変わるがサイフォンの原理は今も利用されていて、木田地区に立派な美田が作られているそうだ。
昔、筧(懸け樋)の先に付けて噴射式に物を冷やす道具を「駒の頭」と呼んでいて、これに似ているのでその名がついたという。
今は前方の木田川で厚東川を渡る。
「男山」の醸造元
木田橋を渡って行く。
二俣瀬交差点で国道2号を斜めに横切り薬師堂地区に入る。《地図》
この先で再び国道2号に出る。
国道2号と分かれ右に入る。《地図》
「殿様道(山陽道往還跡)」の標柱で右に入り玉木坂を上る。「玉木」はこの道を改修しだ船木宰判代官の玉木太郎左衛門による。
地元では「どんだけ道」とも呼んでいた。
ここで舗装道を横切る。
大坪川を渡ったあたりに一里塚があったようだ。《地図》
ここでまた山道に入る。
国道2号に出て西進する。《地図》
上って下ると右の民家前に「史跡 吉見小学校跡」の標柱が立つ。
左上に標柱
下岡交差点の先で左斜めに入る。うっかりして交差点から県道215号をかなり進んでしまった。
萱曲(かやまがり?)古墳(右の藪の中)をU字形に迂回する道で萱曲道と呼ぶそうだ。《地図》
直径11.5mの円墳で、横穴式石室が開口しているようだ。写真は『大和國古墳墓取調室 』で。
旧道を上る。《地図》(道の標示はない)
この先で道は途切れて左の国道の出た。
船木宿への下りとなる。
左に旧道に入りやれやれだ。《地図》
六地蔵 《地図》
宇部興産専用道路ガードをくぐると船木宿となる。
ここに「安芸境小瀬川より二十七里 赤間関より九里」の木標が立っていた。赤間関(下関)までついに十里をきった。
左に「船木宰判 御高札場跡」標柱
岡崎八幡宮 《地図》
推定樹齢700~800年というクスノキがそびえる。
境内に「史跡松下園(寺子屋)跡」標柱が立つ。嘉永元年(1848)から明治5年まで寺小屋が開かれた。境内にはギャンギャン吠える犬がいて興ざめだ。
船木宿御茶屋跡(本陣)・「舩木宰判代官所跡」・「舩木宰判勘場跡」(船木ふれあいセンター) 《地図》
左に標柱や碑が立つ。「宰判代官所」と「宰判勘場」は同じことだが、船木では萩本藩から出郡する代官以下の居る役所を「代官所」といい、大庄屋以下の役人が出仕する役所を「勘場」と称したそうだ。同じ建物内で部屋が違っていたのだろうか。
旅人荷付場跡 《地図》
静かな通りだ。
神功皇后が軍船を作るために境内の大楠を切ったという伝承から「船木」の由来となったという。
船木大橋(有帆川)を渡り、小野川を渡り新川交差点から左に台ヶ坂の旧道に入る。
台ヶ坂(左)を伏附峠へ上る。《地図》
途中に「長谷川玄道寺小屋跡」標柱が立つ。長谷川家は厚狭毛利家の儒医だった。今は標柱のみで屋敷は残っていなかったと思う。
逢坂の旧道(右)へ入る。《地図》
十一面観音像とは対面できず。
この先で国道2号に出る。
西見峠(標高57m) 《地図》
宇部市から山陽小野田市に入る。
左に旧道を下る。《地図》
小さな道標「左 旧山陽道」が立つ。このあたりが一里塚跡か。
鴨神社鳥居 《地図》
このあたりに高札場があったようだ。
延暦7年(788)に久津(沓)に百済の聖明王妃を祀ったのがその起源とされ、大同3年(808)に、京都の下鴨・上賀茂神社から分霊を勧請したと伝える。今でも鴨庄という地名が残る。
厚狭宿へ入る。《地図》
架け替え工事中の鴨橋(厚狭川)を渡る。
菅原神社(厚狭天満宮) 《地図》
鴨神社の御旅所
口に入れると爆発しそうな名前だが、廃業してしまったようだ。日本化薬厚狭工場に由来する小字の「火薬町」からつけられた商品名だろうか。今もバス停「火薬町」がある。かつては「セメント町」とか「硫酸町」もあったそうだ。
今も小野田セメントにちなんだ銘菓「セメンダル」という最中もある。
いつも寝てばかりいる寝太郎が大量のわらじを船に積んで佐渡に渡り、古わらじと交換し、それに付着した砂金を桶で洗い集め、その資金で厚狭川を堰止め、大井手を築いて灌漑用水路を作り、荒れ地を豊かな水田にした」という『厚狭の寝太郎』伝説の人物。信濃の『物くさ太郎伝説』にも通じる話だ。「善光寺西街道」の会田宿の先の中峠には「物種太郎塚」がある。
『寝太郎公園』・寝太郎神社・寝太郎堰もある。(『寝太郎のおはなし)』
『寝太郎伝説の深層構造』は、妙見信仰・タタラ製鉄・鴨神社や、昨日寄った「艫綱の森」ゆかりの琳聖太子(聖明王の第3子で、大内氏の祖ともされる)などとの関連にも言及されていて興味深い。
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