山陽道(柱野駅→高水駅)
2014年10月26日
柱野駅(JR岩徳線)・・・西氏橋(御庄川)・・・(JR岩徳線)・・・下市橋(御庄川)・・柱野市地区・・教法寺・・上市橋(御庄川)・・地蔵祠・・千体仏堂・・(県道15号)・・・(JR岩徳線)・・・(県道15号ガード)・・・中峠・・・(県道15号)・・・欽明路峠・・・欽明路橋(山陽自動車道)・・・欽明路坂・・・欽明寺・・・周防源氏武田家屋敷跡・・・東部コミュニティセンター・・・(欽明路駅)・・・上野宮神社・・・上野口第2踏切(JR岩徳線)・・・丈六第5踏切(JR岩徳線)・・・(岩徳線ガード)・・・義民田坂市良右衛門碑・・玖珂本郷宿・・蓮光寺・・祥雲寺・・岩国藩御茶屋(本陣)跡・代官所跡あたり・・(柳井小路)・・浄光寺・・高村酒店・・水無川橋(水無川)・・萬久寺・・藤川醤油醸造・・菅原神社・・・千束畷・・・東川橋(東川)・・高森宿・・椙杜八幡宮・泉山・・受光寺(脇本陣跡)・・道標・・本陣跡・・吉田松陰常宿の地碑・・明専寺・・報明寺・・宇野千代文学碑・・浄泉寺・・・高森天満宮・・・掛ノ坂・・孝行塚・・・(米川駅)・・・旧道・・・県道144号・・・隅名橋(長野川)・・・天王社・・・差川十字路・県道142号・・・新旧丸子坂入口・(宗泉寺跡)・・旧道・・馬の瀉血場跡あたり・・新道・・・旧道合流地点・・・中山峠・駕籠立場跡・(周南市)・・郡境碑・・・中山道踏切(JR岩徳線)・・・中山橋(清屋川)・・・今市宿・・高水村塾之址碑・正覚寺(脇本陣跡)・・今市橋(石光川)・・道標・・荒神社・・・跨線橋(岩徳線)・・・高水駅(JR岩徳線)
月末の週は天気が良さそうで、絶好の街道歩き日和となるだろう。今日は中峠から欽明路峠を越えて、玖珂本郷宿から高森宿へと進み、島田川沿いに掛ノ坂を上って、丸子坂を上った郡境碑の立つ中山峠で岩国市から周南市に入り、今市宿まで行った。
【ル-ト地図】(高水駅(24.8km)まで)
写真をクリックすると拡大します。
下市地区→上市地区→古宿地区と通って行く。
柱野中学校のレトロな校舎 《地図》
校舎の屋根はギャンブレル屋根というらしい。平成11年から休校中のようだ。
施錠してあり小さな千体仏は拝めず。事前に連絡すれば開扉してくれるようだ。
古宿地区を抜け、県道15号を横切って行く。
この先でJR岩徳線をくぐる。
左は欽明路道路(県道15号)の欽明路隧道。欽明路峠よりきつい上りだ。この手前に二軒屋一里塚があったのか?
駕籠立場があったという。何の標示も見晴らしもない。
欽明路峠だろう。《地図》
「周防なる磐国山を超えむ日は手向けよくせよ荒しその道」と万葉集にも詠まれた難所だったが、今は何てことはないただの車道だ。車の往来の少ない静かな道なので気分はいい。中峠と欽明路峠を合わせて磐国山と呼んだという。
欽明天皇が御幸の際に休息したことからの寺号という。欽明天皇が腰掛けたと伝えられる石もあるそうだが探さなかった。
周防源氏の祖、武田宗慶(小三郎)ほか歴代の墓もある。今は無住で雑草がはびこり荒れてきているのが何ともいい感じだ。
もとは玖珂小学校分校の校舎。今日は岩国市議会議員選挙の投票所になっている。
上野宮神社を過ぎ、上野口第2踏切を渡って岩徳線沿いを行く。野口一里塚はどのあたりか? 古代の山陽道の野口には駅家が置かれていた。丈六第5踏切を渡り返し、八幡下交差点から岩徳線ガードをくぐって行く。
本郷市、新市、阿山市と市場町から成り、玖珂三市と呼ばれた。本郷市の玖珂町支所と玖珂小学校の間の駐車場あたりが岩国藩の御茶屋(本陣)と代官所跡というが、案内板などはなかった。
祥雲寺 《地図》
後方は鞍掛山城の鞍掛山か。玖珂駅の北には鞍掛合戦の戦死者を埋葬した千人塚がある。
鞍掛合戦で毛利元就に敗れた鞍掛(懸)城主の杉隆泰・父・貞泰墓所。
「Kid Museum」の横を南に向かう道はかつての柳井小路で、新市には高札場があった。
高村酒店 《地図》
このあたりは阿山地区だ。
ポスターの「天神まつり」の玖珂天満宮。鳥居の右にイチョウと後ろにモミ、左にモミとクスノキが並ぶ。
千束畷 《地図》
真っ直ぐな畷(なわて・縄手)道だが、今は道幅が広く普通の車道のようにしか見えない。「周東千束」バス停がある。
東川橋(東川)を渡って高森宿に入る。東川の300mほど下流の河原は享保一揆(享保2年(1717))の参加者に処分の申し渡しがあった高森裁許場跡だそうだ。
町の東を市頭、西側を市尻と呼び、その間が上市・中市・下市に分けられていた。
椙杜八幡宮参道 《地図》
種々の樹木の混成並木道だ。参道の入口あたりに椙杜一里塚があったようだ。
ここは泉山で朝鮮出兵時名護屋城に向かった秀吉の陣営が布(し)かれた所という。
鞍掛合戦で敗死した杉氏家老宇野筑後守景政の嫡子、宇野筑後教賢が出家、開基した寺院で、藩政時代には28の末寺を持つ大寺であったという。この先の山本家とともに脇本陣を勤めた。
この先の寺の角に「妙見道」の道標が立つ。
吉田松陰常宿の地碑 《地図》
「その高森の 廣い往還を 思ひ出すたびに なぜあの山奥に ふいにあんな美しい 町並みがあったのか 不思議に思ふ」
島田川通船発着場があり、通船は島田川河口の浅江まで通じていて穀類、紙、塩などを運送し、幕末まで流域の産業開発に貢献していたそうだ。
高森天満宮 《地図》
遠石八幡宮、防府天満宮と並ぶ周防国三大天神の一つ。毎年11月下旬に行われる秋の大祭は大勢の参詣者で賑わうという。
米川橋あたりで土手を下り、島田川と岩徳線の間の県道144号を進む。
掛ノ坂を上って行く。《地図》
このあたりは岩盤が川に向かって突き出て、道は岩盤を越えて行く急坂の難所だった。JR岩徳線の敷設のため岩盤が破砕されて平坦な道が整備された。掛ノ坂遺跡とはどういう遺跡なのか?右は孝行塚。
蛍橋バス停あたりから左に旧道に入る。そのあたりが差川一里塚跡か? 再び県道144号に出て差川(さすかわ)十字路で県道142号へ入り、丸子坂から中山峠へ向かう。
新旧丸子坂入口 《地図》
右が新道で廃寺の宗泉寺の参道入口。石仏は淡海和尚が島田川沿いに差川から弘末地区までの新道(淡海道)を開拓した事を記念して寄進された西国三十三観音の4体、観音正寺、松尾寺、華厳寺、宝厳寺の観音像石仏。
下調べでは①旧道は整備されて通れる。②荒れていて通るのは困難。ということだったが果たして?
旧道は左に下って行く。ちょうどこのあたりで急に大粒の雨が降り出した。
「旧山陽道 丸子坂」の標柱が立っているはずだが撤去されたのか見当たらず。このあたりが急坂にあえぐ馬の粗暴を防ぐため、3ℓから6ℓの血を抜いたという「馬の瀉血場跡」か?
すぐにフェンスがある。《地図》(道の標示はない)
通行止なのか猪などの動物除けなのか分からず、草深いようで雨も降っているし引き返し、新道に戻る。
県道だがこの道も旧道の雰囲気がある。左から来るだろう旧道を意識しながら上る。
ちょうど地元のおじさんが二人いたので聞いてみる。やはり旧道で間違いなしだが、途中から草ぼうぼうの道という。
右の石ころは道のように見えるが、小さな流れで水に入らねばならない。というわけで丸子坂の旧道は整備されたが再び荒れてしまい、今では通るのは困難だが、通ろうと思えば通れないこともない道と、結論づけた。
中山峠に着いた。《地図》
駕籠建場跡で少し先に郡境碑が立つ。もう雨は上がった。
「従是東玖珂郡」「従是西熊毛郡」で、岩国市から周南市に入る。合併してできた市名だが、どうもなじめない。「徳山市」のままでよかったと思うが。
中山峠から下って行くと、バイクの爆音が聞こえ始めた。バイク集団がこの道を走り上って来るのかと思って、嫌な気分になったが北側の「はだし天国サーキット」からの爆音で、ほっとした。でも近くの民家はうるさいだろう。
中山道(なかやまどう)踏切を渡って今市宿へと向かう。
高水村塾之址碑 《地図》
正覚寺は天明年間より今市宿の脇本陣を勤めていた。このあたりに今市一里塚があったようだ。
左端の石垣前が芭蕉句碑で、「ほろほろと山吹き散るか滝の音」
「北 米川 川越 桑根村約四丁 上り西 八代 中須村道」
荒神社を過ぎ、跨線橋で岩徳線を越え、高水駅に着いた。
北西の八代(やしろ)の湿原は本州では唯一のナベヅルの越冬地だったそうだ。今でもツルは来るのだろうか? 『ツルの里』
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